第9話

 バイクに跨ってもまだ動悸が収まらない。肺に詰った泥を掻き出すように、短い空咳を何度も吐くと、灰色だった視界にやっと色が着き始めた。これならなんとかなる、智之が思い切ってエンジンをかけようとすると、由奈が智之のヘルメットを叩いた。


「ねえ、行ってみない?」


 振り向いた智之にそう言って、由奈は海がある方を見た。

 

「いま行った方がいいと思う、区切りにしたほうがいいと思うの」


 口調は遠慮がちだが、力のこもった目を向けて由奈は言った。その目はたぶん、こう言っている。


 あのお婆さんがいなくなった子供たちをずっと待っているように、あなたもあの日を引き摺っている――。


 由奈の目が智之を離れ空を見た。空には先週見たものにそっくりな、大きくて白い雲がいくつか浮かんでいた。由奈はそれを一つずつ数えるように見渡してから、決心したように言った。


「いままで黙っていたけど、私あなたと寝ているとき、時々怖くなるの」

「怖い? 僕が、なんで……」

「時々、あなたはまるで何かを振り払うように私を抱いてる。そんなときは愛されている気がしないの、犯されてるみたい」


 辺りが暗い、見上げると雲の一つが太陽を隠していた。ひんやりと涼しくなった空気に、智之は微かな潮の香りを感じた。


 この先に海がある、家族が死んだ、あの海が。

 殺した男に責任をとらせる事は出来なかった。

 恋焦がれた女にも会えなくなって、女は他の男に抱かれた。

 親代わりになってくれた親戚には金を使い込まれた。

 大学に行けなくなって、生きるために今の会社に入るしかなくなった。


 毎日、玄関で靴を脱いだらそのまま風呂場に向かう、体を洗う事さえ気力を振り絞らないと、まともにできない。生乾きの髪のまま布団に入ると、まばたきをしたつもりなのに朝になっている。


 世間が週休二日になっても作業員が休めるのは日曜だけだ。他に月に一日か二日の休みは取れるが、それは使いすぎた機械が壊れて動かなくなるのと変わらない。だいたいは修理もされずにただ天井を一日眺めているだけだから、もしかしたら機械よりも扱いはぞんざいなのかもしれない。


 仕事を、世の中を甘く見ていた。擦り切れた心と体を休めるのに精いっぱいで、受験勉強をする暇なんてどこにもない。あの日、一年後に辞めるかもしれない男を社長がすぐに雇った理由が分かった。この仕事をやりながら受験勉強なんて、どうせ続かないと思ったのだ。確かにそうだった。


 一年目の受験に失敗したとき他の仕事を探した、だがろくな資格も持っていない高卒者が、たった一年も我慢できずに会社を辞めようというのだ。そんな奴を雇おうと思うのは今と変わらないかもっと酷い会社ばかりだった。

 ある会社の人がこっそり耳打ちしてくれた、「君は若いし大学に行く夢もある、でももし転職するなら最低あと一年は我慢したほうがいい、今辞めると職歴に傷がつくから、もし大学に行かなかった時は、今より良い会社にはまず入れなくなる」と。


 あと一年待つと本格的な勉強を始められるのはその後になる。本気の受験は早くて二年後、それまでこの仕事を続けて今の気持ちがもつだろうか。智之は自問した、今の棲家は会社のものだ、ただ息をして寝るためにも、とにかく働かなければならない。答えが出ないまま一旦転職を諦めた。


 壊れるときは不思議と前日に分かる、一日の仕事終わりに同僚に何か言いたげな素振りを見せて黙って目を伏せれば、翌朝欠勤の電話を入れても会社は何も言ってこない。

 月に二日までならそれで済む、だが三日を過ぎる月が続くと居づらくなる。そうして毎年何人かが辞めていく。


 二年目の夏の初め頃、目覚めると頭が重くて、鏡を見たら顔が赤かった。会社にその月三度目の電話をいれて敷きっぱなしの布団に戻ると、リモコンのスイッチを入れた。


 古いクーラーはうんともすんとも言わない、諦めて目をつぶると忘れた頃になって大げさな音を立てながら息を吐きはじめる。

 十か月ぶりに吐き出された空気は酷く黴臭いうえに生暖かった。そのとき智之の中で何かが爆ぜた。


 次の日、それまでずっと断ってきた先輩たちの誘いに乗って、酒を飲んだ。金で苦労しているからギャンブルは気が進まなかったが、誘われれば付き合い程度の僅かな金をかけるようになった。流れで女を抱ける店にも誘われたが、それは断った。


 由奈が恋しかった、とっくに諦めたはずなのに。いま他の女を抱いたら、由奈を思い続けた日々がすべて嘘になってしまう気がして、それだけはどうしてもできなかった。

 愛も、夢も、何もかも無くした智之は、まるで動く死体のようだった。


 それがあの日変わった、夢でも幻でもない本物の由奈の中に分け入って、智之は生まれて初めて生きていて良かったと思った。

 だが由奈の体はすでに喜びに溢れていた、特に何もする必要はなかった、ただやみくもに突き動かせば由奈はよがってくれた。智之があれほど望み欲した若鮎のつたないヌメリは、探してももうどこにも見つからなかった。その事実が智之の細く擦り切れた心を、今もなお追い詰めている。


 どうして僕ばかり、どうしてこんな。

 こんな人生に何の意味がある?


 居酒屋のあの店員を思い出した、若い女にも、職人にも、気難しい年寄りにさえ好かれる男。あの男ならきっと同じ目にあっても腐ったりはしないのだろう、愛した女が他の男と寝ていたからといって、昔の事だから気にしないとでも爽やかな笑顔で言ってのけるだろう。今からそんな男になれるか? なれっこない。


 忘れたかった、全部無かった事にしたかった、無理だと分かっていても、智之には他に出来る事がなかった。由奈を裸に剝いて後ろ手に押さえ、憎い裏切者をいたぶるように執拗に突き回し、濁った澱を掻き出そうとした。


 あのとき君さえいてくれたら、僕はたとえ家族に何があってもあの頃の僕でいられた。

 何で、どうして僕じゃなかった、何であんな男と。

 僕はあいつとは違う、僕ならけして君を悲しませたりはしなかった――。


 暇さえあれば炎の洞窟に分け入った、そこは由奈の中だが由奈はいない。嫉妬と憎悪と悲しみが、肉のうねりの僅かなズレから生じる小火ボヤを業火に変える。そうなれば炎がすべてを焼き尽くし灰が熱風のはざまに消えるまで、智之は疲れた体を動かし続けるしかない。


「ごめん由奈、嫌な思いをさせていたんだね。まだ時々、会えなかった間の事を思い出すんだ。悲しくて、どうしてもやるせなくて、泣きたくなって、『どうしてこうなったんだろう』て、どうにもならない事なのに思うんだ。でもいつかは忘れられる、だって僕はあの頃からずっと君が好きで、それは何があっても一度も変わらなかった。だからきっと出来る、それまで僕を嫌いにならないで欲しい」


「私もあなたが好き、でも心配なの」


 由奈はそう言って、智之の背中を抱きしめた。


 背中に感じる弾力、甘い香り。これを他の男が知っている。だがそれでも僕は、この幸せを失いたくない。

 いままで僕の人生は何もかも思ったようには運ばなかった。

 でもこれは違う、これは自分で決められる――。


 智之は言った、「あご紐は絞めたね、じゃあ行くよ」


 大きな雲が春の風に流されていく、二人の上に再び温かい日の光が降り注ぐ。智之はグリップの下にあるボタンを押した、セルが勢いよく回り、黄色いDRは息を吹き返した。



 灯台の駐車場は観光バスとおばさんたちで相変わらずごった返していた。その前を素通りして、バイクは細い山道に入った。潮の香りが消えないまま小さな山を一つ越えると、道はまた海沿いに戻る。そこからしばらく走ったところに、智之たち家族が事故にあったカーブがある。


 あと少しという時、智之の体は小さく震えていた。由奈に後ろから強く抱きしめられて、智之はそれに気がついた。

 三十メートルほど先のガードレールの色が少し違っている、白いレールの真中には矢印をデザインした黄色と赤色の反射テープが貼られていて、手前にはこんな看板が置かれていた。


 ”死亡事故発生地点”


 だから何だと言うのだ、いくら注意したってあの事故は避けられなかったのに――。ご丁寧に血しぶきのようなものまで書かれた看板を見て、智之はそう思う。


 少し手前の路肩にバイクを停めた、智之が降りられないでいると、股の辺りが急に温かくなった。細い指を揃えた手がそこを掴んでいる、そうされると落ち着くと昨日智之が言ったからだろう。

 由奈は小さな手でそれを懸命に包み込んでいた、今にも壊れて散らばってしまいそうな恋人の心を、少しもこぼさないように。


 ヘルメットを脱ぐと、さっきまでよりはっきりと潮の香りがした。由奈が脱ぐと、智之は首を思い切りまげて、真後ろにいる彼女にキスをした。

 バイクを降りて二人でゆっくりとそこに近づいていく、五メートルほど手前で智之の足が止まった、それきり動かない。


 由奈が前に回って、夏祭りで見たひょっとこのお面みたいに唇を突き出した。あっけにとられている智之の唇を、由奈が強引に奪う。由奈は一人で駆けだした。


 白く光る海を背に、彼女はそこに立った。智之に向かって手招きをしながら言う。


「大丈夫! 大丈夫だよ!」


 犬太郎に似た丸くて優しい目、鼻筋が軽く反っているところまでよく似ている。父も母も姉も、犬太郎ももういない、でも――


 ――僕には君がいる。


 由奈の笑顔を頼りに、見えない蜘蛛の糸を手繰り寄せるようにして、智之は少しづつその場所に近づいていった。


 潮の香りが鼻をくすぐる、ウミネコの鳴き声が聞こえる。

 覚えがある、うっすらと漂う油の匂いとともに――。



「ほうら」


 父の声だ。


「大した事なかったろう」


 勝ち誇ったように自慢げだ。

 母は黙っている、姉も、犬太郎も。


 パチッ、パチッ。タイヤが砂利を踏む音が聞こえる、時々小石がはぜて車の底に跳ねる。母の声がした。


「ちょっと速いわよ、スピード落として!」

「なあに、あんなのどうって事ねぇんだよ」


 柄にもなく父がはしゃいでいる、よほど自慢したいのだろう。でも何を?

 車が大きく上下してタイヤが激しく動いているのが分かった、大き目の石がいくつか底に当たった後、車が左右に大きく揺れはじめた、カーブだ。


 その時、母が叫んだ。


「ちょっと! 前、前!」

「なんだよ、こんなとこ誰も……」


 ドンッ!

〈ギャ!〉


「何、今の? 今、端に何かうずくまって」

「し、しらねえ、いねえよ、なんもいねえ!」

「じゃあなんだったのよ! いまそっちに、なんか落ちたじゃない!」

「だ、だから何もなかったって、うっせえな。あ!」


〈てめえええ! この野郎おおお!〉

 ドンッ!


「きゃー!」

「わ、わざとじゃねえ、わざとじゃねよ!」

「うそっ、あんた今アクセル踏んだでしょ!」

「知らねえ、知らねえって、わざとじゃねえよお! 飛び出して来るからだよお! あんな怖い顔してよお!」

「ママ、今の」――姉の声。

「い、いいの、いいのよ、何でもない。いいの、あなたは見ないで。ああ大丈夫、大丈夫よ。あれ? ああ猪、猪よ」

「でも声が……」

「そ、それは釣りの人、近くにいたの。ああ行っちゃったわ、歩いてあっちに」

「そうなの?」

「そう、あなたは気にしない、猪よ、猪とぶつかっただけだから、何もなかった、何も」


 犬太郎が小さく呻いた。


 そうだ。

 僕は何も見ていない、見ていなかった。

 でも聞いていたんだ。

 あの日、あのきょうだいは消えた。



 僕らが殺したから――。




 あの日、僕らの車は黄色い帯を越えていたんだ、諦めて引き返したわけではなかったんだ。

 僕らの車は、神社を護っていたきょうだいをはねて、谷底に落とした。

 龍神様はそれをけして見逃してはくれなかった。

 帰り道、殺人者たちは死んだ。

 僕一人を残して。

 

 運が悪いと思っていた、なんで僕たちが、どうして僕ばかり……。

 でも違った、必然だったのだ。そうだ、僕らは報いを受けた。


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