1


 ことの発端は本日午前一時、我が無遠慮な姉が部屋に入ってきたときに遡る。


「あんた今週末ヒマでしょ?」

「ノックしろよ」

 姉の玲子はもう社会人になったというのに僕の部屋に入るときノックをしようとしない。このために僕は自室で過ごすという安らかなはずの時間の大半において姉を警戒し続けなければならない。迷惑な癖だ。だからそのうち何か大変気まずい状況の場にうっかりノックをせずに入室して大変気まずい感じになればいい、と自室のドアをいきなり開けられるたびにささやかに姉を呪っている。

「あんたこんな夜中まで起きて、朝起きれんの?」

「用は?」

 こんな夜中に人の部屋に入ってくるお前もどうなんだと思うがそこは無視。できるだけはやく姉を部屋から追い出すべく用を聞くと、姉はポケットから手を出しひらひらと振った。見ると、その手には薄紫色の紙切れが二枚握られていた。

「あげる。対バンのチケット。同期に貰ったんだけど知らないバンドばっかだし。なんか甥っ子のバンドが出るんだって。女の子でも誘って行ったら?」

 女の子でも誘って行ったら?簡単そうに言うな。クラスでちょっとライトノベルを読んでいただけでいわれの無いオタク差別を受けてるが故に部員としかまともに会話していない僕にそんな妙技があるわけないだろ。

 僕が姉にかけるささやかな呪いリストを更新しようとしている間に姉はチケットを机に置いて去ろうとしていた。僕は立ち上がってチケットを突き返す。

「ありがとう。お礼に返してあげる」

 姉はすかさず僕の手の平の上からチケットを握らせた。

「純ちゃん、ばあばからのほんの気持ちです。達者でなあ」

「俺は上京する孫かよ」

「あ、あとその同期に感想求められてるからよろしく」

「なおさらお前が行けよ」

「いいじゃん。私その日大切な用事なの」

 言いながら姉はスタスタと部屋を出て行く。

「どんな」

 抵抗することすら面倒になった僕が尋ねると姉は一言こう言って思い切りドアを閉めた。

「休養‼︎ 」




 というわけで名も知らぬライブハウスで行われるというライブのチケットは僕の手元にある。それを知った後輩がこうして僕にライブに連れて行けと言っているのだ。

 彼女の名前は飯島理紗。ボブヘアにツリ目気味の目元が印象的な女子生徒だ。僕と同じ文芸部の一つ下の後輩だが、全く交流がない。普段から同級生たちとも少し離れた位置で活動しているし、あまり人と群れるタイプじゃないのかもしれない。とにかく、僕には彼女があの瞳の奥で何を考えているかがわからない。僕が彼女について知っていることはほとんど無いと言っていい。

 飯島がチケットの存在を知っているのは、僕が部活で話していたからだ。

 不本意なことに僕の姉の無遠慮エピソードの数々は文芸部のオタク連中から一定の人気がある。それは恐らく僕が一度姉の写真を見せてしまったからというのもあるのだろう。これもまた不本意なことなのだが、姉は僕よりはるかに整った容姿をしている。もちろん化粧をしてるからというのもあるし、僕自身姉が顔面に白いパックを貼り付けた下着同然の装備でリビングをうろついてる不気味な姿とたびたび遭遇しているのだが、そんなことを知る由もない奴らの目には姉は大層魅力的に映るらしい。お前らだって実際に僕の立場になったら嫌になるぞといつも言っているのだが、かなしいかな、どんな脅し文句にも奴らの他人の姉に対する勝手な憧れを止める効力はないようだ。

 そんな奴らでも誰かしら引き取ってくれる相手がいないものかと思って話したが、やはり全く知らないアマチュアバンドのライブに行ってやろうなんていう猛者はいるはずもなかったので、僕はチケットを持て余していた。期待するだけバカというものだ。今日は金曜日だ。下校しながらよくわからないライブに行く意義とやらを考えてみようか、いや考えるまでもない。僕の頭の中の天秤は学校の敷地を出るまでのこの数歩のうちに、いや数歩もかからず多忙な高校生の休日の重さに傾くだろう。見てろよ、本当にそうなるから。僕が実際に頭の中の天秤の皿にチケットと土日を乗せようとしていた、まさにそのとき、後ろから声をかけられた。

「綾瀬先輩」

 綾瀬というのは僕の名前だ。フルネームは綾瀬純平。名前を呼ばれて僕は振り向いた。

「私をコンサートに連れて行ってくれませんか」

 飯島理紗だった。心臓が心臓が口から飛び出るかと思った。脳が反射的に "Would you take me to the concert ? " の文字列を生成する。飯島から話しかけられたのは初めてだし、しかも後輩とはいえど女子だ。後輩の女子生徒だ。結果、話しかけられただけでテンパった僕の口からは心臓ではなく簡単な一言が飛び出た。

「い、いいよ」

 声がうわずる。最悪だ。

 飯島はそんな僕の様子は気にしないようでさらに続けた。

「じゃあ待ち合わせは土曜五時に、駅北口でいいですか」

「え、はい」

「ありがとうございます」

 それだけ言うと彼女は一礼して校門を出て行った。わけもわからず突っ立っている僕の頭の中では、飯島が無表情で天秤を破壊するイメージが延々と流れていた。




 どっと疲れた。帰りながらいろいろ考えていたがもう忘れてしまった。半ば呆然としたまま家に着き靴を脱いで二階に上がり自室のベッドに体を投げ出す。

 正直言って、驚いた。どうして部活中に言ってくれなかったのか。どうして僕に頼んでまでライブに行きたいのか。自分でチケットを調達できなかったのか。知ってるバンドとかなのだろうか。それともただそういう音楽に興味があるだけなのだろうか。サブカル系的な? ていうか連れて行ってって言ってなかったか? 全然かまわないけど、いや全然かまわなくないけど、連れて行くってことは僕も行かなきゃいけないのか?

 チケットはまだ二枚とも僕の手元にある。つまり、いずれにせよ僕が明日の五時に駅北口に行って飯島にこれを渡さなければならないということだ。全く想定していなかったがこのままいくと姉の言う通り、女子と行くことになりそうだ。

 なぜ、どうして、どうしよう。ぼんやりチケットを眺めていたが、どうしようもない。一番上に書かれているバンドはSから始まる、見たこともないような横文字の名前だった。苦手科目が英語である僕には当然ながら読めるはずもない。調べようという気力すら湧かない。

 まあ一人で行くわけじゃないなら行ってみるのも悪くないかもしれない。一周回ってのんきな考えにたどり着きながら目を閉じると僕の意識は簡単に眠りへと落ちて行った。




 土曜日、午後五時に駅前に着くと飯島はすでに待ち合わせ場所に立っていた。当たり前だが制服ではなかった。僕もそうだ。五分前には到着して余裕な顔をしていたかったのにそうもいかなくなってしまった理由もそうだ。

「ごめん、待った?」

 時間ぴったりだが一応尋ねると

「はい。待ちました」

と斬新な答えが返ってきた。

 ライブのこととかは全然知らないが、会場についてはさすがに調べた。電車で三駅先にある隣市のライブハウスだ。

 改札を通る前に念のため僕が同行する必要性を確認したところ、一応あるとのことだったので腹をくくって着いて行くことにした。行くからには着く前に聞きたいことは山ほどあったのだが、あまり話したことのない後輩、しかも女子生徒を前にしてこの陰キャの喉壁は完全に張り付き、視線の先をスマホをいじる飯島と車窓とに行き来させるだけであわれな質疑応答タイムを終えた。

 目的の駅に着くとライブが始まるまでにはまだ四十分以上あった。あまり早く着きすぎても時間を持て余すだけなので、僕らは駅近くのファストフード店で少しの間暇を潰すことになった。

「チケット、貰ってもいいですか」

 窓際の二人席に座ってから思い出したように飯島が言った。

 そういえば忘れていた。ポテトをつまんでいた指を拭いてチケットを取り出したとき、ふと気になっていたことが口をついて出た。

「これなんて読むんだろう、スツ……」

「シュトルムウントドランクです」

「え、なんて?」

「シュトルム・ウント・ドランク、日本語で疾風怒濤という意味です」

 チケットを渡しながら僕は続けて尋ねた。

「知ってるバンド? 」

「知らなかったら来たいなんて言いますか? 」

 それもそうか。それにしてもどこでこういうバンドのことを知るんだろう。紙面のアルファベットを見つめながらそれを聞こうとしたとき飯島が独り言のように呟いた。

「中学の時の先輩がいるんです。軽音部の」

 なるほど、なんて軽く口には出せなかった。顔を上げると彼女はシェイクに刺さっているストローを噛みながらぼうっと窓の外を見つめていた。




 ライブハウスは歩いて十分もかからない場所にあった。来たこともなかったので想像通りも何もないが、薄汚れてこぢんまりとしたビルの地下へ続く階段、そこを降りたところにあるドアが入り口だった。両サイドの壁には所狭しとポスターやステッカーが貼られ、なんだか目がチカチカする。こんなことで僕は大丈夫だろうか。

 入口でチケットを渡すとドリンク代ということで500円徴収された。飯島は最初から準備してきたようだが僕はといえば小銭の持ち合わせがなく、両替してもらったりと大分もたついてしまった。穴があったら入りたい。後ろに誰も並んでいなかったのが幸いだった。そう、僕らが到着したのは開始ギリギリの時間だったのだ。

「先輩、」

 なんとかショバ代を納めた僕は飯島に呼ばれるまま人混みとは逆側、会場の後方に向かった。僕にはわからないが多分ここは割かし規模の小さいほうのライブハウスなのだろう。後ろの方でもステージが遠くに感じない。

 壇上では既に黒っぽい服装のバンドメンバーが出揃い、ボーカルらしき人物が前口上を述べているようだ。多分こういうのは前口上とは言わないのだろうけど。

 僕は飯島の隣に立った。

「前にも来たことが? 」

 来るまでといい明らかに経験者だろう、などと考えながら尋ねると飯島は予想外の答えを返した。

「ありません。ライブ自体初めてです」

「えっ」

「ネットで調べてきました。先輩、もしかして本当に何の準備もなしに来たんですか」

「……その通りです」

 はあ、とため息をつく飯島。ため息はさすがにひどいんじゃないか? というか彼女の言うことはちょくちょく刺さる。はい待ちましたとか。

「いや、俺だって自分で取ったチケットじゃないしそもそもライブとか行くようなタチでもないし……」

「それは知ってます」

 どうやら僕に弁解の余地はないようだ。

 そうこうしているうちに演奏が始まり互いの声も聞き取りづらくなってきたおかげで僕もこれ以上墓穴を掘る必要がなくなった。

 最初のバンドは――というか、僕らは結局最初のバンドだけ見てハコを出た。あれがシュトルム・ウント・ドランクだったのだろうか。僕とそう歳も変わらない四人組だった。楽曲はいかにもアマチュアバンドらしい、パッとしないロックだった。


 だが実際には、曲の大部分は耳に入ってこなかった。それは、多分、僕が別の光景に目を奪われていたからだろう。




「よかったの? まだあるみたいだけど……」

 一番手のボーカルが最後の曲の紹介をすると飯島はさっさとライブハウスを出てしまった。慌てて後を追うと彼女は入口の階段を上がってすぐの路上に立っていた。

「いいんです」

 静かな声だった。

「最後のは、知らない曲だったので」




 帰りの電車、僕らは一言も交わすことなく隣の席に座っていた。飯島はスマートフォンを膝に乗せたまま、向かいの窓の外を眺めているようだった。




 ライブハウスで、飯島は泣いていた。

 最前列の熱気から少し離れた会場の後方で。僕以外誰も気付いていなかったけど、確かに泣いていた。僕は横目に、ステージから漏れた光が彼女の涙に映っていたのを見ていた。唇が微かに動いて、僕の知らない歌詞をなぞっていたのも。

 ファンタジーが好きです。

 仮入部のときに聞いた自己紹介だ。

 それから、詩も書こうと思っています。前にも書いてたので。

 PC室の明るすぎる照明と、暗く澄んだ瞳を思い出していた。

 僕はあの瞳の奥で飯島が何を考えているのかわからない。

 それはこれからもきっとよくわからないままで、だけど彼女の瞳を見るとき、僕は今日のことを思い出すのだろう。




 見慣れた駅のホームに着いて改札を出て、飯島は僕に頭を下げ

「今日はありがとうございました」

 とだけ言った。何か言ってやろうと思ったけど、僕の口から出たのは簡単な一言だった。

「また月曜」

 声はうわずらない。

 歩き始めていた彼女は振り向いて、柄にもなく微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コンサート 小出真利 @CrazyTikuwaGame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る