釣瓶落としの後始末

新巻へもん

ここは何処か?

 惨敗だった。

 元々敵の方が兵が多いところに、囮に吊り出されて、気が付けば重囲の中。いくら百人力と称される俺でも如何ともしがたい。必死になって囲みを突破して山中に逃げ込んだ。

 手にしていた槍はとっくに失って、ささらのようになった打刀を手にけもの道をやみくもに進む。

 辛くも生き残った味方は散り散りになってどこにいるかも分からない。

 足を止めれば助からない事だけは間違いなかった。

 これを機会にせん滅するつもりなのだろう。時おり後方から呼び交わす敵の声が響いていた。実にしつこい。

 竹筒に入れておいた水は飲み干してしまい、喉の渇きが耐えがたいほどになっている。

 水を求めて沢に降りることを考えたのは、ほんの刹那のことだった。

 疲労も激しく、一度下ったら、再び上ることは難しい。きっと追手に追いつかれてしまうだろう。

 尾根沿いに逃げ続ける方がまだ助かる可能性は高かった。

 また陽が登らないことにははっきりとしたことは分からないが、恐らく西に向かって進んでいるはずだ。戦場から離れていると信じたい。

 雲間から時おり顔を見せる月明かりを頼りに先へ先へと進んだ。

 暦はすでに霜月。山の気温は低かった。風が吹くと足元で枯れ葉がかさこそと音を立てていた。

 ぶるりと身震いする。

 先ほどから何かにずっと見られているような気がしてならなかった。いづう山には化け物がでる。

 里人がうわさをしているのは聞いたことがあった。木の上からどさりといきなり人首が落ちてきて不幸な旅人を喰らうのだという。釣瓶落としと呼ばれていた。

 俺は伊達に戦に出ているわけじゃない。

 いつもなら、物の怪の一体や二体は斬り伏せられるという自信があった。だが、今は手負いの身であり、飢えてもいる。

 夜通し歩いていると東の空が白み始めた。夜が明けるらしい。

 追手をまけていればいいが、さもなければ最期を覚悟しなければならないだろう。

 気が付けば、朝もやがたなびく先に朽ち果てた家が数軒立っている集落が見えた。

 明らかに人が住んでいるようには見えないが、水が入手できるかもしれない。

 慎重に近づいていった。

 集落の中ほどに井戸を発見する。我を忘れて駆け寄った。

 しめた。

 陽の光の中で井戸の底の方に水があるのが見える。石造りの井戸のふちの上の釣瓶を手に取った。井戸の屋根の梁にくくりつけられた荒縄の先端が釣瓶に結び付けられている。

 俺は井戸の中に釣瓶を放った。水音を期待するが何も聞こえてこない。

 覗き込むと水面から三尺ほどの位置で釣瓶が揺れていた。

 干上がりこそしないものの水位が下がっているようだ。

 荒縄を梁から切り離せば十分届くだろう。

 石積みの上に立って打刀で荒縄を切ったところまでは良かった。

 荒縄が手から滑り落ちる。

「しまった」

 慌てていたせいで打刀も取り落とす。

 縄付きの釣瓶に続いて、打刀もぽちゃんと井戸の中に消えてしまった。

 俺は力尽きて井戸の石積みを背に座り込む。

 絶望に打ちひしがれる俺の背後から光があふれた。

「あなたが落としたのは、この金の釣瓶ですか?」

 驚いて振り返る俺の目の前には、稲穂のような色の髪の天女のように美しい女が微笑んでいる。

「いや、違う」

 女はすっと消えたと思うとすぐに井戸から顔を出した。

「では、この銀の釣瓶ですか?」

「違う」

「では、この鶴瓶ですか?」

 女は髪が短くにやにや笑いを張り付けた男の首をつかんでいる。

「んなわけあるか」

「ですよね」

 三度消えると俺の落とした釣瓶を持って現われる。並々と水が入っていた。

「それだ」

 俺が手を伸ばすとさっと引っ込められる。

「伴天連から聞いたが、こういうときは正直に答えるのが正解じゃないのか?」

 俺の抗議に女は笑みを浮かべた。

「ここまで運び上げた労賃を頂きます。銭一千貫文約一億円

「払えるわけないだろ」

「では、私の頼みごとを代わりに聞いていただけますか?」

「承知した。武士に二言は無い」

 釣瓶を受け取って思うさま水を飲む。どんな甘露にも勝る美味だった。

「生き返った」

 俺は女に問う。

「早速礼をせねば。何事でも言いつけられよ」

「では、あれを退治てください」

 女の指が指す方を振り返ると大きな首だけの物の怪がぼよんぼよんと跳ねて近づいてくるところだった。

「あ、刀が……」

 女はにこやかに銀色の打刀を取り出す。

「この白銀作りの……」

 物の怪はあと十歩のところに迫っていた。

「俺の刀を返してくれ!」

 女は不満そうな顔をしたがすぐに俺の打刀を返してくれる。

 俺は打刀で釣瓶落としに斬りかかった。しかし、全く物の怪には通じていない。逆に大きな口で噛みつかれそうになってざっと後ろに跳び退った。

 再び斬りかかると鋭い音と共に打刀が折れてしまう。

 昨夜からの疲労の割には良く動けているとは思うが、いかんせん打刀が無くてはどうしようもなかった。

 女のもとに駆け戻ると頭を下げる。

「すまぬ。約定を果たすためにも一時の間、先ほどの刀をお貸し願いたい」

 女は、ほらご覧なさいと言わんばかりの顔をしたが、素直に銀の打刀を差し出した。手にすると以上に重い。半貫2キロほどはありそうだった。刃紋が日を浴びて浮かび上がる。

 白銀造りだとすると鋼よりも脆いことが案ぜられたが、裂ぱくの気合と共に物の怪に振り下ろした。

 確かな手ごたえと共に釣瓶落としは真二つになる。地に落ちると腐臭を放ちながら、たちまちの溶けてしまった。

「さすが私が見こんだだけのことはあります。あの魔物を一太刀で倒すとはお見事!」

 女は手を叩いて誉めそやす。俺も悪い気はしなかった。

「いや。まあ、この刀のお陰もあると思う。このような業物をお貸しいただきかたじけない」

 俺は刀についた汚れを手拭いでふき取ると柄を先にして女に差し出す。女は受け取らずにほほ笑んだ。

「そういえば、お名前をまだお伺いしていませんでした。私はナーイアース。この井戸を治める土地神です」

 なるほど。確かにこの神々しいともいえる美しさはこの世のものとは思えなかった。俺は膝をついて首を垂れ、腕を高く掲げて刀を差し出す。

「拙者、赤井庄左エ門と申します。知らぬとはいえ、無礼の段、ご容赦願いたい」

「あー、そんなに畏まらなくても。あの魔物のせいで村も寂れて祀ってくれる者もいない身ですし」

 名合明日と名乗る女神はパンと手を打ち合わせる。

「でも。アカイ様のお蔭で魔物も滅びましたし、再び村人も戻ってくるでしょう。豊かで実りも多い土地ですし」

「とりあえず、この刀はお納めを」

「アカイ様に差し上げます。私が持っていても重りにしかなりませんから」

「よろしいのですか?」

「ぜひぜひ」

 内心、鋭い切れ味に感心していた俺は小躍りせんばかりだった。刀は俺の鞘にするりと収まる。

「それとこちらもどうぞ」

 金と銀の釣瓶を差し出してきた。

「名合様。それでは余りに」

「いえ。アカイ様もこれから色々と入用でしょう。この村の再建にご尽力いただく報酬とお考え下さい」

「いや。拙者、主家のため戻らねばなりませぬ」

 名合様は物悲しそうな笑みを浮かべた。

「アカイ様。ここがどこかお分かりでは無いのですね」

 促されて振り返る。朝もやが晴れ木々の間から見える景色は、とても丹波とは思えない。はるか遠くに細長い塔のようなものが見えた。東寺の五重塔よりはるかに高い。

「ここは一体?」

 俺の問いには答えず、名合様は俺をじっと見つめてくる。

「あの魔物が倒されたと知られたら、また新たなものが魔王から送られてくるかもしれません。アカイ様は、か弱き乙女を捨て置かれるような薄情な方ではありませんでしょう?」

「なに? ここにも魔王右大臣が居るのか? それは捨て置けぬ」

 変わった色の髪の毛をしているが、見目麗しいおなごに哀願されれば心は動いた。

 それに故郷への帰り道も分からない。

 こうして俺は鶴瓶落としを倒した後始末をこの地ですることになった。

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