猫は秋に眠る

もちもちおさる

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 初めて猫を触った。触らせてもらった。私は二十年と少し生きてきて、先程まで猫という生き物に触れたことがなかった。アレルギーとかではなくて、飼う余裕がある程でもなく、ペットカフェに行く勇気がある程でもなく、数少ない友達の中に猫を飼っている誰かがいる程でもなく、見ず知らずの私に触ることを許す猫がいる程でもなかったからだ。ちょっと珍しいのかもしれない。でもそれで人生に支障が出るわけではないし、単に運が無いだけとも言えるし、雀を触ったことのある人は同様に少ないだろうし、その珍しさをついさっき捨てたところだ。


 渋谷にも猫がいることを、私は大学で知った。そりゃあどこにでもいるのかもしれないけれど、流石に人の方が多すぎるので、猫の存在なんてすっかり掻き消えてしまっていた。でも確かにいるのだ。私の学校に。大学のキャンパスに。その茂みの中に。

 授業開始のチャイムと競う学生達を、その猫は眺めていた。すりガラスみたいな灰色の目で、そのぜんぶを塗りつぶしていた。なんでいつも、みんな急いでるんだろう、みたいな顔で地べたに腰をおろしていたので、私はいつもよりゆっくり歩いて、その猫に視線だけをやった。夏が鼻をかすめるくらいの季節だった。だから私は、嫌いな先生の授業へのせめてもの反抗として、今日くらいは行かなくていいかも、と思えたのだ。嫌い、は少し言い過ぎかもしれない。相性の良くない先生の顔をわざわざ見に行くより、やっと外でも過ごせるようになった、この一瞬に限りなく近い季節にひたるべきではないかと思った。


 そうだ、私は猫を触ったのだ。近づいても逃げなかったので、むしろ私に寄りたそうな目を向けていて、でもわざわざ腰を上げるほどではない目で、これは私の思い込みとか妄想とか、そういう都合のいいものなんだろうけど、猫が私を認めてくれた気がしたのだ。たぶんこの世には、見えない序列とかヒエラルキーみたいなものがあるけれど、猫はそのてっぺんに座っているのだと思う。みんな気づいてないけれど。でも、だからといって私たちを奴隷のようにこき使うわけでもなく、そこに君臨してるふうに生きていないから、私たちはなんとなく救われているのだと思う。猫に。猫はそういうふうな目をしているのだ。私達には一生できない目だ。


 スニーカーを履いてきてよかった。しゃがんでも疲れないし、ブーツやパンプスと違って猫を威嚇して食べたりしないので。背中を触るのが良いと聞いたから、友達の家のカーペットみたいなそこにゆっくり手を置いた。それから、自分の手が羽になったつもりで、触れているのか触れていないかもわからないくらいに撫でた。するとその猫は微動だにせず、私になんて気づいていないかのように学生を眺めていたので、私はもう少しその毛皮の奥にいきたいと思った。授業開始のチャイムが鳴った。私の三限が死ぬ音がした。

 猫の毛というのは思っていた以上にふわふわしてごわごわして、さらさらでざらざらで、これは本当に生き物の毛なんだろうかという気になる。でも、その奥には確かに骨と肉の筋が押し返してくる手応えがあって、私はいま命を触っているのだ、これは確かに猫なんだ、と私の手のひらがそれでいっぱいになる。そうだ、私は猫を触ったのだ。


 そのまま少しぼうっとしながら猫を撫でていると、背後から柔らかめの声がした。

「うわ、猫じゃん」

 その子を、私はちーちゃんと呼んでいる。誰が最初にそう呼び始めたのかはわからないけど、私が呼ぶちーちゃんといえば彼女なのだ。スナイデルのニットワンピースがよく似合う彼女なのだ。ちーちゃんの大学は御茶ノ水にあるのだけれど、彼女はインカレサークルに所属しているので、私の大学に堂々と入ることができる。そして猫に夢中な私の背中を見つけて、あたかも約束したかのように、昨日の続きのように声をかけることができる。


「学校で面倒見てるんだっけ」

 なんか、あったよね、そういう同好会的な、ボランティアサークル的なの。警備員さんとかも協力してるやつ。そんなことをちーちゃんは言った。私の知らないことを私に確認するかのように言った。不思議なことだと思った。渋谷にいる猫を私は初めて知ったのに、ちーちゃんは前から知っていて、私よりずっと渋谷に生きているように思えた。

 大学の敷地内に住み着いている猫を、大学猫と呼ぶらしい。大学生の猫バージョンみたいでかわいい。でも大学生は猫ほどに美しくはないし、孤高でもないのだ。


 みてー、スタバー、と彼女がクリームがこれでもかと盛られたそれを見せびらかしているとき、私は彼女の履いているドクターマーチンの8ホールブーツが、今にも牙を剥き出して猫を襲いやしないか心配で、でもなんとなく眩しくて、猫には長靴も服もないのに、その柔くて硬い毛のままでそこにいるのに、私たちはどうしてそんなに武装したがるのだろう。猫になれないからかもしれない。なんて考えていた。

「でもさ、なんかかわいそうだよね」

 ちーちゃんは唐突に言った。この子には家も決まった飼い主もいないんでしょ、これからどんどん寒くなるのに、ちゃんと生きていけるのかな、みんなで面倒見てたって、そのみんなが誰かに任せるようになったら、結局誰もいなくなっちゃうんじゃないの。みんな、そこまで他の命に必死になれないでしょ。だからかわいそう。そういうふうなことを言った。じゃあ、ちーちゃんが飼ってあげたら。うち犬いるよ、無理、そっちはどうなの。犬いることが、猫を飼わない決定的な理由にはならないよね。理屈っぽいなぁ、言ったでしょ、あたしだってそこまで必死になれないよ。

 それはそうだし、私の方だっておんなじなのだ。ちーちゃんがフラペチーノに再び口をつけたので、私はこう返すしかなくなってしまった。

「うち、ハリネズミいるから」

「えーそうなんだ。かわいいけどさ、チクチクしそう」

「痛いかもね、最初は」

「今は?」

「案外痛くないよ。そういうもんだよ」

「ふーん。あとさ、虫とか食べるんでしょ? 無理くね?」

「モグラの仲間だからね」

「じゃあ猫はなんの仲間なの」

「……猫は猫の仲間だよ」

「へー」

 あたしもなにかの仲間だったらいいのに。ちーちゃんは小さく呟いて、私はそれになにか応えようとした。でもそういう哲学的なことを唐突に言われてしまうと、私はもうなにも返せなくなってしまう。だからずるいなと思う。私達は少しだけ黙って、私は猫を撫で続けていたけれど、ちーちゃんは猫に指のひとつも伸ばさなかった。甘すぎる飲み物を飲んでいるからかもしれない。でも、たぶん本当の理由はそれじゃない。猫に視線を向けたままフラペチーノをすすって、それから口を開いた。

「猫ってさ、引っ掻くよね」

「たぶんね」

「あたし聞いたことあるよ、引っ掻かれたところからバイ菌がはいって、皮膚が壊死しちゃうんだって。そしたら、手を切り落とすとか、なんかそういう、もう二度と取り返しのつかないことになっちゃうんだって。犬もそうだけど、」

 ちーちゃんはそれとなしに自分の指先を眺めて、爪に乗った淡いピンク色を、指の腹で撫ぜた。

「なんかさ、命っていうのはそういうことだよね」

 甘いブラウンに色づいたまつ毛が、重たい蕾のように伏せていた。期待に膨らみ過ぎて、こてりと傾いてしまったみたいに。

「たぶんもう、取り返しがつかないんだよ、あたし達」


「だからさ、冬眠しちゃえばいいと思う」

「冬眠?」

「この猫も、あたし達も、眠ってぜんぶ放り出しちゃえばいいんだよ。寒い冬に頑張んなきゃいけないなんて、憂鬱以外のなにものでもないでしょ」

「……猫は、冬眠、しないよ」

「あたしね、考えてたの。もしかしたらあたし達は、眠っている状態がデフォルトで、普段は頑張って起きてるだけじゃないかって。そうならどんなに楽だろうって」

 猫はその灰色の目を閉じて、いつの間にか眠っていた。ぴすぴす、と気の抜けた音がする。この猫はちゃんと冬を越せるだろうか。でも、誰かに保護されなければ、と思うことは私達の傲慢で、もしそうなってしまったら、この孤高さと美しさはなくなってしまうのだろうか。猫とはそういうもので、なら、私達は、一体どうすればいいんだろう。


 私は、彼女の期間限定フラペチーノがズゴゴと音を立てて減っていく様をぼうっと眺めていた。カップを持つ手先の、色付いた爪の裏、指の腹が赤く染まっている。もう片方の手でスマホをいじっているから、フラペチーノを持つ指は交代することなくどんどん冷えていくしかないのだ。ああもう涼しくなってしまうんだなと思った。過ごしやすいのはいいことだけど、もう私たちの夏は完璧に終わってしまったんだなと思った。こういうことを思ってしまうと、どうしようもなく寂しくなって死にたくなって、未来からやってきた就職とかいう魔物に首をぎちぎちと絞められている感覚がするのだけど、ちーちゃんは今更、三限行かないの、それだけのために登校したんじゃないの、とか意地悪な顔をして聞いてくる。それになんとなく返事をしながら、ちーちゃんはスマホを見ているとき、ストローを少しだけ噛む癖がある。それがまだ治ってないのに気づいて、そうだ今年はアイスクリームケーキを買ってみようかなと思えた。寒くなったら買って、二人で食べよう。そうしないと次の夏まで生きられないのだ、私たちは。そういうことにしている。全く誕生日じゃないけれど、バースデープレートに自分たちの名前を書いて、割って食べよう。生まれ直さなきゃもうやってらんないのだ。私の夢が一つ増えた。増えてしまったのだから、とりあえずは生き延びなければならない。


 私の手がいい加減にしつこかったのだろうか、眠っていた猫はぶるっと身を震わせて、起きてしまった。それから私の手のひらをすり抜けて、茂みの中にひっこんでしまった。ちらちら見えるその身体を目で追ってみても、あんな目は私には一生できないだろうし、多すぎる人を追うことだって難しいのだ、猫を捉えることなんて、私達には到底できやしないし、その姿は小さくなって消えてしまった。それから、びゅうっと一陣の風が吹いて、ちーちゃんが小さく声をあげた。立ち上がって、表参道寄って帰ろうと言ってくる。服買いたいんだよね、もう秋だし。そう、もう秋なのだ。瞬きしてしまえば冬なのだ。


 あの猫はちゃんと眠ったのだろうか。眠って、春になったら目覚めてくれるのだろうか。そんなことを考えながら、スタバのおどろおどろしい新作フラペチーノを眺めている。そんなこと、私たちのこれからに比べれば、本当にくだらないことで、ちょっとしたことに過ぎないのだ。私達はちゃんと目覚められるのだろうか。

 本当に、ちょっとしたこと。

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猫は秋に眠る もちもちおさる @Nukosan_nerune

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