セリヌンティウス

@naofumi_toda

第1話

 セリヌンティウスは無言で頷いた。必ず、この純潔清浄な友が戻って来るものと信じた。セリヌンティウスは友を疑うことを知らぬ。セリヌンティウスは、街の石工である。鑿と金槌を握り、昼間は埃っぽい工房に篭っていた。寡黙に石と向き合い、シラクスの都で石材を卸し、師匠の工房を継いで、今では女房を娶って弟子も取っていた。王城の石細工を仰せつかったのもセリヌンティウスである。それが今日の今日、質素な家で女房と床に就こうかという時、唐突にやって来た衛士に乱暴な手つきで王城へと連れられた。

 やがて王城の広間を歩かされ、辿り着いた先では、かの王が待ち構えていたばかりか、傍には友がいた。友はメロスといい、遠く十里ほど離れた村の羊飼いである。二年ほど前に会ったきりではあるが、セリヌンティウスは鮮明に覚えている。日に焼けた肌と、希望に満ちた瞳の色は変わっていない。友の顔を見た途端に安堵を覚えたのも束の間、心の内に疑問が湧いた。さても何故に、王とこの友が一緒に居るのであろうか。王はこのごろ、人を殺す。工房に籠りきりで、市井の噂に疎いセリヌンティウスでも知っている。王は王族の幾らかを縄にかけ、街の有力なものを気まぐれにひっ捉えている。王は、人が信じられぬと言う。人々が言うに、王は疑心に病んでいる。対してメロスだ。彼は疑いを知らぬ。陽気で歌を好み、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。と、酒に酔えば口癖に言う。彼のような男は、セリヌンティウスの知る限り他に居ない。メロスは清廉潔白な男だ。それが疑心の王と並んでいるのが、信じられぬ。

 しかしすぐに全てわかった。メロスは、衛士に連れられた友に駆け寄って腕を回し、セリヌンティウスもメロスと同様にした。二年ぶりの抱擁もねんごろに、セリヌンティウスは言う。

「メロス、来ていたのか。工房に来てくれればよかったものを、何故このようなところで」

 メロスは噛み潰すように顰めた顔で答える。

「私は死ぬ。王の卑しき疑心によって死なねばならぬ」

 セリヌンティウスは目を見張った。彼の友はそのような悪い冗談を言う男ではない。であるから、メロスの言葉は真実なのだと思い、わけを知りたかった。

「なぜだメロス。なぜ死なねばならぬ」

「王を正すためだ。暗鬼に流され暴虐に奔る王を正そうとしたからだ」

 メロスの瞳は、誠実の色をしていた。セリヌンティウスは友の信念を慮り、慎んで言葉を述べた。

「なんと、お前には、お前以外に身寄りのない妹が居ると言うでは無いか。彼女はどうなる」

「そうだ、彼女だ。妹は近々、花婿を迎える。私はそれを祝福し、見届けたいのだ。それでセリヌンティウス、お前は私の代わりに三日、どうか妹を祝福しにゆく私の代わりに、縄にかけられてはくれまいか。三日の後に、私はきっと必ず戻って来る。そうすれば君は縄を解かれ、このメロスが縄にかかるのだ。だから三日、君の三日を私のために、棒に振ってはくれまいか」

 セリヌンティウスは何も言うまいと、今一度きつく、しばらくして打たれるであろう縄よりきつく、メロスを抱擁した。メロスも応えるように腕を締めた。セリヌンティウスには、全てそれで十分であった。セリヌンティウスは無言で頷いた。メロスは、すぐに出ていった。湿気の蒸す、石造りの王城で友の帰りを待った。星の下、虫の声と風の涼しい夏の初めのことである。

 セリヌンティウスはその夜、自らの腕をきつく締め付ける縄も何ぞと、出された食事にありついた。たかが三日、友を思えばなんということは無いと言わんばかりに、高くいびきをあげて檻の中、眠りに就いた。目を覚ましたのはあくる日の午前、自らが作った石の牢の片隅である。

 セリヌンティウスは疑うことをしなかった。そればかりか、メロスは無事、村に帰りついているのだろうかと想いを馳せていた。メロスの妹については、メロスからつぶさに聞いていた。内気な妹であると言う。メロスは女房を持たない。セリヌンティウスがよい女を紹介しようとしても、内気で細々こまごましい妹が一人になるのは忍びないと言って花嫁を貰おうとはしない。メロスのような男であれば、妻を娶るのに苦労はしないだろうが、やはりメロスは妹思いの男であるのだ。そんな男が唯一の妹の結婚を祝福したいと言ったのだ。送り出すことになんの気後れがあろうか。セリヌンティウスは、メロスの友として誇り高く思っていた。きっと今頃は祝宴を挙げ、新婦と肩を組んでいることであろう。それを思えばこそ、冷たい石の牢獄も、華々しい宴の席と違いなどないのだ。セリヌンティウスは友を信じている。

 日が暮れる頃、セリヌンティウスは食事を持ってきた衛兵に笑いながら告げた。

「友は今頃、綺麗な衣裳の花嫁に祝辞を送りつつ酒に酔っているのだろうな」

 それを衛兵は嘲笑し、呆れて言う。

「お前はそのために死ぬのだ。帰ってくるはずがない。考えてもみるがいい、あの蛮漢にも家がある。遠く離れた村で友の命と引き換えに祝宴を開くような男だ。新たに家族が増える。自らの命を身代わりになるような愚かな者がいるのだ。命も惜しくなるに違いない」

「愚かなことだ。王も王であればこそ。あの男は必ず戻って来る。戻って来た暁に、私はきっとこう言う。片時すら疑うことなどしなかった。妹の旦那は良き夫であったか、お前のように誠実な男か。お前は少し、他人に気を置きすぎる嫌いがあるから、新郎に煙たがられてはいないか、そればかりが気掛かりでしょうがなかった。その他に気苦労はこれっぽっちも無かった。縄打たれても、食事が摂りにくいだけでなんともなかった。私は、戻って来たメロスにそう言ってやるのだ」

「は、はは、約束の刻限になっても来ない友に絶望して、夕暮れに照らされた顔がどれほどのものか、楽しみだ」

 衛兵は食事を置いて、鎧をかたかたと言わせながら立ち去った。セリヌンティウスは縄にきつく結ばれた両腕で、時間をかけて食事を摂った。

 雨音に意識をたれ、目を覚ました。鉄格子の窓は深夜である。セリヌンティウスは心の内で嘆いた。友の祝すべき日は大雨であった。地を穿つほどの豪雨だ。友よ、どうか雨音に負けぬほどの、騒がしい宴に酔っていてくれ。今は心の底から、私のことなど少しも気にかけず、上機嫌に歌など歌って、夫婦の門出を祝っていてくれ。そうして歌い疲れて、しばしの眠りに、どうか深く穏やかに就いていてはくれないだろうか。私はお前の事など待っていない。待たずとも、お前は再び姿を見せて晴れ晴れとした笑顔で、このセリヌンティウスに笑いかけるのだ。セリヌンティウスは、石の枕に再び目を閉じた。

 薄明の頃、衛兵に起こされたセリヌンティウスは、都の大路へと連れられた。往来の市井に磔にされ、晒し者にされた。しかしセリヌンティウスは誇らしく思っていた。今日この日、人の誠実さが証明されるのだ。それも我が友、メロスが証明してみせるのだ。王はきっと今頃、悲しげな表情を浮かべ、反面、うちには下卑た笑いをしているに違いない。王は、メロスという男が、友人ですら身代わりにしてのうのうと生き延びる男であったのだと言い放つことを確信しているのであろう。そして呆れと諦観をよそおって腕を振り上げ、処刑の命を下し、私を絞め殺すことを夢想しているに違いない。

 セリヌンティウスの内には、炎が凛と燃えている。必ず、必ず友は戻り、縄を解かれた暁には、肩を抱き合い、涙を交わした挙句に、もしメロスが処されるのであらば、共に縄に就いてもよいという覚悟の炎である。大路を行き交う人々は、好奇の目でセリヌンティウスを見つめるが、十字架につけられた姿は堂々としており、往来にはやがて、石工の行く末を見届けようと多くの人がたかっていた。

 人々もまた、証明を待っていた。人とは方正に生きることが出来るのであると、かの友が証明してくれることを待っていた。この、命なんぞと言わんばかりの十字架に、人々は期待を寄せていた。この場で皆が待っているのは、誠実の証明である。ただ一人、王を除いて。

「やはりあのメロスとかいう男は来ぬか」

 王はわざとらしく言い放つ。さも信じていたかのような口振りで、汚泥のような深い悲しみの顔をこしらえている。

「いえ、来ます。必ず来ます」

 セリヌンティウスは強く答える。夕暮れの群衆に、大路に湧く雑踏に、市井に言い放つ。

「メロスは、必ず来ます」

 王は涙を浮かべんばかりの表情で言う。

「おお、この期に及んでまだ信じるというのか。見よ、夕日は既に地平の端に掛かっておる。あれがすっかり見えなくなった時、ああ、悲しくも私はお前を吊るさねばならぬ。最期の最期まで友を信じた誠実の人を、愚かな不誠実者のせいで吊るさねばならぬのだ。信じた者が処刑され、不誠実が長らえる。世の理に嘆き、無情の人を今に問いただすのだ。そうしてすっかり沈んだ夕日の後に、ほうほうと辿り着いたあの若者の辛苦を労って、放免するのだ」

「言うがいい。今に来る。夕日の沈まぬうちに必ず来る」

 王は不機嫌に皺を眉間に寄せ、黙り込んだ。王もセリヌンティウスも、今に分かると言わんばかりに、ただじっと夕日に目を細めている。

 つどった民衆の最中、やがて怒号が飛び交う。あの若造は姿を現さないでは無いか。それ見た事か、真に清い誠実などまやかしに過ぎない。命が惜しくなったに違いない。いや、そもそも最初から戻って来るつもりなど無かったのだ。大路の民衆は、口汚く友を罵る。

「もし、もしあの者が来なかったならば」

 王がセリヌンティウスに囁いた。ほかの者には決して聞こえぬ囁きである。

「メロスとかいう男の住処すみかを私は知らない」

 王は蛇のように囁く。

「だからなんだと言うのですか」

 セリヌンティウス、友を信じてやまない男は敢然と応える。

「もしあの夕日が沈みきってしまうまでに、お前があの男の住処を明らかにするのであれば、私はメロスを探し出しひっ捕らえ、お前を放免するつもりである。もとよりお前には何の疑いもない。あの男の言葉に踊らされ、この王の試練に巻き込まれた、憐れな石工なのだ」

「何を言うのですか、あの男は、メロスは、赤誠まことの人は、必ず来ます」

「ああ、ああ、そうだろうとも。しかし、もし、万が一にも来なかったのであれば、私は健気にも待ち続けたお前を処刑せねばならぬ。それは心苦しい。であればあの男を探し出し、お前の代わりに、見せしめに吊るすのが道理であろう」

「何を、私は命を、友に預けたのです。彼は来ます。であれば私がメロスの素性をつぶさに明かす必要など、どこにありましょうか」

「なに、私も信じているさ。あの男は来る。しかし万が一ということもあろう」

「いえ、ありません」

 セリヌンティウスの声は力強く、迷いを感じさせない。夕日の彼方に、未だ見ぬメロスの影を真っ直ぐ見ている。身を焼く西日もなんのそのと、大路の彼方をじっと見据えている。

 無情な夕日は、半分も姿を隠した。メロスはまだ来ない。刻一刻と沈む夕日を見て、セリヌンティウスの中に不安が生じた。メロスがここに向かっているのは疑うべきこともないが、十里程度、あの健男なメロスであれば今頃、姿を見せていてもおかしくない。まさか道中に、来るに来られぬなにかがあったのではないか。そういえば昨晩は大雨であった。押し寄せる土砂に、友の健脚がさらわれてしまったのではないか。あるいは、賊の群れに襲われ、身ぐるみを剥がれて、亡骸を打ち捨てられているのでは無いか。セリヌンティウスは、メロスの身を案じるばかりである。

 陽のほとんどが沈んだ時、セリヌンティウスは死を覚悟した。覚悟は既にしていたつもりであったが、いざとなると身に迫る処遇に、いっそう強く覚悟をせざるおえなかった。覚悟を腹に決め、死を迎え入れるのだと心に据えてようやく、未だ来ぬメロスを思った。ああ、メロスは今もきっと、シラクスに縛り上げられている私を目指して、奮闘していることであろう。しかし、しかし万が一にも、唯一の家族である妹と、その夫の行く末を案じて、メロスが彼の村に留まっているのであれば、私はそれでも構わない。このセリヌンティウスは、今に絶命する。遠く十里も離れた友のために、彼の幸せな生涯と引き換えに、この命を終えるのだ。少なくとも彼は家族思いの青年であり、私は無二の友人であるその青年のために命を捧げるのだ。誠実とはまさにこのことを言うのだ。王よ、神々よ、私は幸せであった。誠実のために生き、誠実によって死ぬのだ。人はこのように生きることができるのである。

 いよいよ地平では、夕日の残滓が眩く揺らぐばかりとなった。そろそろだ。いよいよだ。メロス、君がこの先、幸せであるならば惜しくはない。ああ、だがしかし、私には妻がいる!せめて最期に、彼女の頬に手を添えて、別れの言葉と共に口付けを交わせたならば。寡黙な職人に付き添った妻と逢うために、ほんのひとときだけ縄を解かれ、彼女の涙をひと目見れたのなら、その後であればなんの心残りもない。この王にメロスの素性を明かして、少しの間だけ縄を離れ、また戻ってくれば、それで友は穏やかに明日を迎えられるというのであれば。あの沈みゆく陽炎に君の姿がないとしても、一切を恨まずに逝けるだろう。

 民衆の怒号に揺れる地の果てに、最期のきらめきがさっと沈むであろう時、セリヌンティウスは口を開いた。

「王よ、慈悲深い王よ」

 王は突然の呼び掛けに、十字架に打たれたセリヌンティウスを見つめたが、すぐににんまりと笑みを浮かべた。

「なんだ、いや、言ってくれるな。お前はただ、あの嘘つきの住処を述べればよい」

「メロスは、あの男は」

 言葉を喉元で押しとどめ、今一度目を閉じて、地平線の彼方、もう幾ばくもない夕日を睨んだ。王は怪訝な顔になり、死に臨む石工を急かす。

「早く言わないか。ほら見ろ、あとほんの少し、瞬きの合間にも沈んでしまう夕日だ」

「メロスは、メロスは」

 セリヌンティウスはそれ以上の言葉を言えずにいる。メロスは今も、この十字架を目掛けて進んでいるに違いない。そうであるのに、友である私がどうして彼を疑うことがあろうか。彼は今も懸命に向かっている。疑うべきもない事実である。私はそう信じたまま死ぬのだ。なんと恥ずべきことであろうか。私は今しがた、メロスが来ないものと、心の底で認めてしまった。どうか友よ、私を責めないでくれ、己を責めずにいてくれ。私は悪魔のごとき王の囁きに、唆されたのだ。しかし跳ね除けてみせた。私は今から、友を疑った罰として死ぬのでは無い。友に裏切られたからでもない。友を信じているからこそ、最期まで十字架に甘んじているのだ。なんと幸せなことであろうか。君は必ず来る。であれば友にできる最上の報いは、ただ帰りを待つことだ。

「メロスは来ます。私は命の絶える瞬間まで、信じます。そう言い続けます」

 王は笑い飛ばし、右手を高く挙げた。徐々に、徐々に、セリヌンティウスを縛り付けた十字架は高く揚がっていく。民衆に見せつけるように高く。民衆は悲しみに暮れ、怒り、嘆き、憐れな石工を降ろしてやるように懇願するものまで居る。ああ都に住まい、友に恵まれた男の、やがて来たりし良きこの日、愛する妻を遺して、友を待って一人、誠実の元に息絶えるのだ。群衆を見下ろすほどに掲げられたセリヌンティウスは、清々しい表情だ。その最中である。セリヌンティウスは黒い風を見た。人の群れを縫って駆ける風だ。やがて群がる人々を、押し寄せる濁流を掻き分けて進むように、彼が来る。行く手を阻む観衆を、賊の追い払うが如くに雄々しく押しのけて、彼が来る。見間違うはずもない、メロスである。メロスは来た。セリヌンティウスが死ぬ前に、来たのだ。

 セリヌンティウスは感激に喉を締められた想いで、声すら発することができない。友は、清い人は、やはり来た。私が息絶える前にその姿を見せてくれた。さあ、いよいよ私を絞め殺せ!彼のためであれば、なんぞ命の惜しいことがあろうか。彼は来たのだ。我々の誠実が、王の疑心に打ち勝ったのだ。それでよい。残る思いは何も無い。ここにセリヌンティウスは、友の姿を夕日とともに目に焼き付けて逝くのだ。私はなんと光栄な男か。メロス、メロスは来たのだ。

 返り見れば王は唖然としている。きっとその見開いた目には、あの英雄の姿が映っているのだ。それを信じられず、身動きすら取れないのであろう。セリヌンティウスは思わず笑みを浮かべる。さあ殺せ、と言いかけた時、確かに聞いた。群衆のどよめきを。磔台によじ昇って両足に縋り付くメロスの言葉を。

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