最期

 佐間の妹の声が屋上に響く。文化祭の喧騒がとても遠くに聞こえる。

「はーい。あんまり近づかないで」

 そう言って佐間の妹は包丁を遠山の首元に当てる。黒野は仕方なく、その場に止まり、両手を上げた。

「あんたさ、お兄ちゃんあっさり殺しといて、よくあんな嘘つけたね」

「嘘?」

「この男の家で、ついた嘘だよ。泣き言を垂れてるような演技してたけど、私は騙されないよ。本当は人を殺したくてたまらないんだろ。人殺しを辞める気なんてないんだろ?」

 黒野は佐間の妹の煽りには乗らず、冷静に状況を観察しようと努める。

「田辺はどうしたの?」

 妹は、遠山の家での二人の会話を聞いていた。つまり、田辺と佐間の妹が手を組んでいるということだ。

「あぁー、あの陰キャなら死んだよ」

「死んだ?」

「あいつ、この男に相当嫉妬してたぞ。そんで、こいつを苦しめようって言ったら、あっさり協力してくれたぜ」

 そう言って、妹がさらに包丁を突き立てる。

「でも、黒野愛を敵に回した。もう終わりだ、とかなんとか言って、自殺してたよ」

 佐間の妹は大声をあげて、笑った。腹を抱え込むような仕草もする。人工的な笑い声が、楽しそうな文化祭のBGMと不協和音を奏でた。

「よし、じゃっ、おしゃべり終わりねー」

 そう言うと、妹は遠山の首に当てた包丁をわずかに引く。その跡を追うように、首から血の筋ができ赤い滴がこぼれ始める。

「気分はどう?」

 妹が黒野をまっすぐに見る。その妹の顔には引き攣った笑みが浮かんでいた。

 午後の太陽が、背中から照りつけている。風はなく、頭上には皮肉なほどの青空が広がっていた。

 屋上の光景が目に焼き付けられる。鉄柵の錆、コンクリートの汚れ、見下ろす街の景色。遠くには海も見えた。

 次の瞬間。佐間の妹がわずかによろめく。両手両足を縛られていた遠山が、上半身を懸命に振り、妹に頭突きをしたのだ。

 それにより、一瞬の隙が生じた。

 黒野にとってはそれで十分である。

 すかさず黒野は小型ナイフを抜き、佐間の妹へ襲い掛かった。慌ててかわそうとした妹だったが、黒野は彼女の手から包丁を弾き飛ばし、さらに腹のあたりを思いっきり蹴り飛ばす。

 そして、呻きながら尻餅をついた佐間の妹をさらに突き倒し、馬乗りになった。そのままナイフを両手で抱き、天高く振りかざす。

 そこまでは、あっという間だった。しかしそこで黒野は、躊躇する。

「駄目っ!」

 自力で口のガムテープを外した遠山が、黒野の目を見て訴える。

「殺せよ」

 そこに、佐間の妹の声が割って入った。

「お兄ちゃんは、なんの躊躇いもなく殺したんだろ?私もやれよ。今やらなくても、どうせお前は人を殺す。そしてそれは、私じゃなくてこの男かも知れないぜ。お前だって本当は分かってるんだろ?なら、私を殺しておけよ。殺してみろよ」

 胸の中が熱い。全身から力が漲ってくる感覚。全能感。万能感。視界が滲み、何が何だか分からなくなる。自分はどこにいるのか。何をしているのか。そもそも自分は何者か。分からない。でも、このナイフを振り下ろせば快感を得られることを本能が教えてくれる。

 そんないつもの黒い衝動が全身を駆け巡った。

 呼吸が荒くなる。だが、自然と口角が上がってしまう。

 ずっと苦しかったのだ。人を殺すたび後悔してきた。

(私、何やってるんだろう)

 って。それでもまた、人を殺したくなった。でも今回は違う。人を殺さないという約束がある。頭では分かっていた。もし佐間の妹を殺せば、同時に遠山を裏切ることになると。でも心には響いてくれない。いくら理屈を並べても、黒い気持ちは変わらなかった。

 もう、どうにでもなれ。

 風が吹いた。分け隔てなく、全ての命へ。

 気づけば、手に返り血が着いていた。確かにナイフが何かを貫いた感触がある。しかし、鮮明になっていく視界の中で、黒野は自らの罪を自覚した。

 黒野が刺したのは、遠山の胸部である。

 遠山は黒野がナイフを振り下ろす瞬間、佐間の妹と黒野の間に身を投げ出したのだ。黒野は何が起きたか理解できなかった。

 ただ一つだけわかることがある。それは、全然気持ち良くないことだ。いつも人を殺した後にくるはずのものが、やってこない。

 それどころか、深い後悔が胸に押し寄せる。そんな感情に気づいて初めて、手に浴びた返り血が遠山のものであると分かった。

 遠山が、空を見上げるように倒れ込む。

「お、お前。マジでやるのかよ」

 佐間の妹が震えた声で言う。その顔は恐怖でいっぱいだった。

「わ、私は、ただお兄ちゃんを殺したやつの苦しむ顔が見たかっただけなのに。この男が止めなかったら、わ、私は死んでたのか」

 その声は誰に向けられたものでもなかった。そして彼女は、ふらつく足を懸命に動かし、逃げるように屋上を去っていく。

 そうして二人きりになった。

 黒野はナイフを抜き、遠山の服を脱がせて応急処置をする。幸いなことに急所は外れていて、命は助かりそうだ。

 それが分かって、ほっと胸を撫で下ろすと、涙がこぼれ落ちそうになる。

 そのとき、黒野の手から何かがヒラヒラと落ちた。ミサンガだ。

「あっ」

 二人の声が重なり、少し空気が和む。そして、二人はお互いの顔を見つめ合った。遠山が黒野を促すように微笑む。

「私は、遠山さんが長生きできますように、とお願いしました」

 黒野も遠山もお互いの瞳から視線を外さない。

「僕は、黒野さんが自由になれるように、って願った」

 ミサンガが切れたと言うことは、願いが叶うということなのか。確かに、遠山さんに刺さったナイフは急所を外れていた。彼は、長生きできるのか。そう思うと、ほっとすると同時に、自分は自由になるのだろうかと思う。

 人を殺してはいけない。分かっているのに、人を殺したくなってしまう。

 普通の人のように振る舞えば、そんな葛藤も消えると思った。恋人と幸せな時間を過ごせば、衝動はなくなると。でも、黒野はついさっき、殺意を持ってナイフを振り下ろした。

 遠山は黒野も普通の人だと言った。確かにそうかも知れない。でも、黒野は本能的に分かっていた。今まで目を背けてきたけれど、ある想いが胸の中に燻り消えなかったのだ。

(このままではいつか、遠山さんを殺してしまう)

 黒野は屋上の鉄柵まで歩いていく。遠山さんは驚いていたが、すぐに何をしようとしているかに気づき、立ち上がろうとする。だが、痛みでまだ動けないようだ。

「遠山さん。あなたと重ねた時間はどの殺人よりも幸せでした」

 柵を跨ぐ。文化祭を楽しむみんなは、目の前のことに夢中で誰も上を向かない。だから、誰も黒野に気づかなかった。

 ただ、遠山だけが黒野を見つめている。

 黒野は自分の頬に涙が伝わるのを感じた。死が目の前に迫る。とても晴れやかな気持ちだ。今までたくさんの人を殺してきた。彼らはこんな気持ちで死を受け入れることができなかっただろう。地獄で謝ろうと思った。

 人を殺してはいけない。分かっているのに、殺したくなる。やっとそんな絶望的な苦しみから解放されるのだ。  

 黒野は、心の底からの笑みを遠山に向けた。

 最後に、黒野は今までの日々を思い返す。光のない、ただの暗闇だった真っ黒の心が白一色に染まってく。

 遠山が手を伸ばすのを見て、黒野は首を横に振る。

(もうこれ以上、遠山さんと一緒にはいられません)

 形容することができないほど大切な物をたくさんくれたことへの感謝。そして、少しの謝罪の意味を込めた、言の葉。

 それが黒野が放った、最後の一言だった。

「ありがとう」

 涙が地面に落ちた。それと同時に、黒野は身を後ろに投げかける。手を広げ、宙を舞った。太陽の光を目一杯、全身で受け止める。死ぬ直前の一瞬の煌めき。その輝きを遠山が忘れることはないだろう。

「ぅぅぅウォァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー‼︎」

 遠山は言葉にならない叫び声をあげて、自らの血がついた黒野の小型ナイフを叩き割った。

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「ありがとう」 譜久村 火山 @kazan-hukumura

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