本文
プロローグ
人々が静まり返る暗闇の時刻。足元も見えないほどの暗い裏路地に、目が眩むような一条の熱線が奔った。一瞬で地面を赤く溶解させ、視界を歪めるほどの熱波をまき散らしながら襲い掛かる先はただ一人の男。
人に向けられたものとしては明らかな過剰と思えるその赤い熱線に対し、男は避ける素振りもなく泰然として手を前に突きだした。まるで、前からやってくる通行人を止めようとでもするかのように、何の躊躇も怯みもなく。
「――
直後、熱線が男に直撃し、手の平に阻まれて傘のように弾け広がった。拡散された熱の波濤がビルの壁面を焼き焦がして煙を立ち上がらせる。
しかし、それほどの熱量を受けたはずだというのに、彼の身体はもちろん手にも一切の火傷の痕はない。オールバックの髪が熱風で乱れたことぐらいの影響しかなかった。
「……」
男は乱れたオールバックを手櫛で整えると、窪んだ眼に嵌った冷徹な瞳を煙の向こう側へと向けた。その瞳には暗褐色の円文様が怪しく浮かび上がっている。
不意に火煙が揺らいで中から白皙の少女が飛び出してきた。腰元で束ねた長い青灰の髪、気の強そうな切れ長の眦とやはり青灰の瞳。そして、ブラウスをまくった右手には血のように鮮やかな焔が纏わりついている。
「
右手に纏わりつくように逆巻いていた火炎が、少女の手の平に収斂していく。急速に圧縮された炎は熱量を増し、紅から明るい黄白色の炎の球体へと姿を変える。それはまるで小さな太陽のようだった。
少女の表情が苦痛に歪む。それまで炎を纏っていてもなんともなかった白皙の右手が、真っ赤に腫れ上がっていく。それにもかかわらず少女は火球を手放すどころか、より一層強く握りしめたかと思うと、
「――
強く一歩を踏み出しながら目の前に立つ男に向けて腕を振り抜いた。
「……
男が彼女の動きに合わせるように手を前に翳して再度呟いた。そうして男の手が少女の火球に触れると同時、収斂されていた炎が傘状に弾け飛んだ。
どんなものでも焼き尽くしてしまいそうだった彼女の灼熱は、ちゃちな花火のようにビル壁に焦げ跡をつけるだけに終わってしまう。
少女は苦々しい表情を浮かべながら男から距離を取ろうと手を引くが、しかし引ききるよりも先に男が少女の腕をがっしりと掴んだ、
「くっ……!!」
全力で男の腕を振り払おうと藻掻く少女だったが、男はビクともしない。それならばと腕に火炎を纏わせて対抗するが――『
それでも少女は観念せず、それどころか自由な左手の拳を男の頬に向けて放った。
「……このっ!!」
がしかし、彼女の悪あがきは容易に躱され、それどころか左手までも掴まれてそのまま地面に引き倒される。
「魔女〝青灰のカエシア〟……
男は淡々と言いなれた口調でそう言うと、幾何学文様の刻まれた黒い手枷を取り出し、少女の手を腰の後ろに回して取り付けた。
途端、少女の身体が急速に虚脱しだした。抵抗しようと歯を食いしばるものの、それも虚しく僅か数秒で体がほとんど動かなくなってしまう。まるで限界まで筋肉を酷使した直後のように、まったくといっていいほど力が入らないようだった。
少女はもう一度手に火を灯すことを試みるが、火の勢いさえも体の状態と比例したように弱弱しいものに成り下がってしまっていた。せいぜいが蝋燭の火先ほどだろうか。先ほどの熱量でもどうにでもならなかった相手に、こんな火力でどうにかなるわけがない。
それでも、どうにかこの状況の打開策を見つけようと思考を凝らすが、そんな都合の良いものは見つからなかった。
少女は諦観と悔恨を表情に滲ませて舌先に歯を当てた。封印されて魔術期間のモルモットになるぐらいならば、舌を噛み切って死ぬほうがまだマシだ。
せめて苦しまずに死ねるよう、ひと思いに噛み切ろうと大きく口を開け、
「――やめておいた方がいい。舌を噛んで死ねるのは三文小説の中だけだぜ」
直後、不意に聞こえてきた誰とも知れない声の横槍に、思わず噛むのを止めて顔を上げた。
時刻は街に静けさが訪れる夜中。ビルの隙間から見える僅かな星明りしか頼りのない暗闇の向こう側――そこに溶け込むように彼は立っていた。
それは全身黒尽くめの青年。いや、少年といった方が近いだろうか。年の頃は少女と同じぐらい。中高生ほどだ。黒いロングコートに黒いズボンと靴。髪の毛も瞳も黒い。
しかし、異様なのは出で立ちだけではない。何よりも目を引くのは彼の両手と口元を覆う黒い影だ。まるで炎のように揺らめき、暗い影を背後に落としている。
「何者だ」
男が闇に向けて鋭く誰何する。しかし、少年は物言わずゆらりとこちらに向かって歩み寄ってくる。
「答えないというのであれば敵とみなす」
言うやいなや、男は腰のホルダーから素早く拳銃を抜くと、一息で少年に向けて発砲した。一秒にも満たない短い間だったが、放たれた弾丸は寸分たがわず少年の額に真っ直ぐ飛び――、
「…………」
がしかし、着弾するかに思われた瞬間、地面から噴き上がった黒い炎のベールに阻まれ、一瞬で蒸発した。
少年は驚いて目を瞠ることさえしなかった。まるで、そうなることが当然で、全く脅威だと思っていないかのように。
男が警戒するように立ち上がって距離を置く。
「――それを待っていた」
少年がそう言うのと同時に少女の身体が地面に沈みこんだ。暗い影へと落ちていく。
「何ッ!?」
男は目を見開くと、慌てて少女に向けて手を伸ばす。しかし、その手は彼女の周囲から立ち上がった黒炎のベールに阻まれる。
「
慌てて唱えて黒炎のベールを弾き消すが、その僅かな間に少女の姿は完全に影の中に消えていた。
男は眉間に深い皺を刻みながら事を為した少年に視線を戻す。
しかし、そこにはもう少年の姿はなかった。
***
少女は唖然と空を仰いでいた。
裏路地の狭い空ではない。遮るもののない広大な夜空が広がっている。訳も分からぬまま身を起こすと、そこはどことも知れぬ高層ビルの屋上だった。眼下に広がる東京の夜景を見て、今の一瞬の間に場所を移動したのだと少女は悟った。
「――怪我は?」
不意にザーザーと吹き荒ぶビル風に混じって少年の声が横から聞こえてきた。少女がハッとして振り向くと、そこには先ほど見た黒尽くめの少年が眼下の街並みに目を落としていた。
「……貴方……何者?」
「何者か知りたいのなら、まずは自分から名乗ったらどうだ?」
少女の問いかけに対し、黒尽くめの少年は一瞥もせずに淡々と言い返した。
「聞かなくても知ってるでしょう?」
「自意識過剰だな。お前のことなど、俺は知らない」
少年がそう返すと、少女は釈然としない表情を浮かべながら答える。
「……
「そうか。俺は黑淵アギト。魔術師だ。好きに呼べ」
「……分かったわ。それで、貴方は、その……私を助けてくれたと思っていいの?」
「まぁな」
「何故? 魔女狩りは
「関係ないな。俺はただ、俺がしたいようにするだけだ」
「それが……私を助けることだった、と?」
「そうだ」
アギトが何でもないことのように頷くと、カエシアは眉をひそめた。
「……けれど、まさかお人好しで魔術機関に敵対してまで私を助けたとか言わないわよね? 当然、それ相応の理由があるはず。もう一度、尋ねるわ――貴方は何故私を助けたの?」
「俺がお前を助けたのは、ただ――……」
アギトはそこまで言い掛けて言い淀んだ。
「『お前を助けたのは、ただ』何? 何が目的なの?」
もったいぶるなとばかりに、カエシアが目に力を入れながら続きを促した。
そこで初めてアギトは彼女に目を向けた。少年の表情は葛藤に歪んでいるようにカエシアには見えた。
数秒の沈黙。そして、カエシアが緊張の汗を流して唾を飲み込んだのと同時――ついに少年はどこか諦観を思わせる顔でぶっきらぼうに答えた。
「俺は世界が欲しい。そのためにお前という駒が欲しかった。ただ……それだけのことだ」
***
静寂の漂う夜の公園。その一角にある公衆トイレの一室で一人の少年が頭を抱えている。
(……何でこうなった?)
黒い外套を羽織り、ジャラジャラと用途も分からない金具やら金属筒やらを腰にぶら下げた出で立ち。
ある筋の人間が見れば、痛々しくて直視できないようなその格好の主は、もちろん黑淵アギトその人――だが、つい先ほどまでのニヒリスティックな表情もハードボイルドな雰囲気もそこにはない。
顔を真っ赤にし、目をぐるぐるさせ、口を戦慄かせて便器に座り、ただただ声なき嘆きを叫び続けるただの十六歳の少年の姿がそこにはあった。
(僕は
頭の中はつい先ほどまで自分が行っていた言動について、後悔と羞恥が浮かんでは消えていく。
そうかと思えば、今度は恐怖を思い出して身が竦む。
(け、拳銃……マジもんだった。弾見えなかったけど、多分頭に直撃コースだった。死んだと思った……ありえねぇ、ありえねぇよ。何で僕がこんなヤバイことに首突っ込まなくちゃならないんだよ。止めたい……もう、こんなこと止めたい……)
そんなことを思うアギト――もとい、明人だったが、それは叶わないことだとも理解している。あくまでこれは心を守るための愚痴に過ぎなかった。
本当は思いっきり大声で愚痴りたいぐらいだが、口に出すことは出来ない。そんなことをすれば、今度こそ奴に殺されてしまうかもしれないから。
「はぁぁぁー……」
深々と嘆息を漏らした明人は外套の内側に手を挿し入れ、中から一冊の本を取り出すと、忌々しそうにそれを見下ろす。
古めかしい革の表紙で綴じられた大きな本だ。全体にファンタジーチックな幾何学文様が描かれている。
この何の変哲もない痛々しい中二病溢れる本こそが、明人が今このような状況に置かれることになった元凶――中学時代に作成した魔導書〝
内容は深淵魔術と呼称する魔術体系が記載されているが、当然全くのでたらめ。中二病に罹患した思春期脳が紡ぎ出した妄想の産物に過ぎない。使われている本もネットで購入したただのアンティーク風ノートだ。
いわば、思春期の青少年の多くが作りがちな〝黒歴史ノート〟でしかない――はず、だった。
不意に表紙に描かれた文様がぐにゃりと歪み、シンボリックなデザインの目とギザギザの口が浮かび上がった。
『楽しかったデスね、ご主人! あの女、間違いなくご主人に惚れましたデスよ! デススススッ!』
奇怪な笑い声をあげる、かつてはただの痛々しい黒歴史ノートだったモノ。
しかし、今やそれは〝本物〟だった。
(あぁ……マジで……何でこうなったんだ)
明人は本日何度目かになる嘆きを心の中でリフレインさせながら溜息まじりに目を瞑った。
この非日常が始まることになった数日前のことを思い出しながら――。
第一章 「さよなら日常、ようこそ中二病」
この世のすべての人間には、必ず何かしらの黒歴史がある。それは、たとえば青春のリビドーに任せて書いたお色気ハーレム小説だったり、勝手に勘違いして告白して見事玉砕し勘違い野郎として学校中の噂になった過去だったり。
とにもかくにも、人には必ず黒歴史が存在する。どんなに頑張って忘れようとしても、ふとしたときに脳裏に過ぎり、ベッドの枕に顔を埋めて叫びたくなる発作を発生させる恐ろしい過去が、存在するのだ。
かく言う僕にも黒歴史が存在する。ダークマターよりも黒い黒歴史が。
――中二病――。
それは、十四歳前後の少年が罹患すると言われる恐ろしい病。物語の主人公と自分を重ね合わせ、自分は特別な存在であるのだと思い込み、魔法だとか魔術だとかを使える気になって恥ずかしい言動を周囲に披露する病だ。
ちなみに、発症すると死ぬ。社会的に。
事実、僕の中学生活は終わっていた。
突拍子もない奇行を校舎内で披露し、親を呼び出されること十数回。遠回しに転校を促されること数回。当然のごとくクラスメイトからも教師陣からも腫物扱いを受け、友達はゼロ。もちろん彼女も無し。
林間学校、校外学習、修学旅行、体育祭、文化祭……ありとあらゆるイベントで居ない者扱いされた。
今考えれば滑稽で憐れなボッチでしかないが、当時の僕はそれを孤高と表現してむしろ格好良いとさえ思っていた。いつの世も優れた人間は理解されないものだ――とかなんとか。
あー、馬鹿馬鹿しい! もー、恥ずかしい! うー、キモ過ぎる!
「……ぐがが……ががが……」
黒歴史を思い出して、自分が教室にいることも忘れて発狂しそうになる。ギリギリで絶叫を呑み込み、バッグに顔面を突っ込んで我慢したが、もしかしたら変な奴だと思われたかもしれない。最悪だ。
高校生となって中二病から卒業した今となっても、中二病の後遺症に僕は悩まされ続けている。
こうしてふとした瞬間に黒歴史を思い出すと心臓がバクバクして、叫びたい衝動に駆られてしまうのだ。
今でこそ、突然叫ばないように抑えるぐらいのコントロールできるようになったが、中二病から卒業したばっかりの頃なんて、それはもう酷かった。傍から見れば、突然叫び出す狂人にしか見えなかっただろう。
「……消えろ……消えろ……消えろ……消えろ……」
ぐるぐる走馬灯のように巡る過去の黒歴史に向けて訴えかける。もちろん、忘れることなどできやしないんだけども、こうすると少しだけ気が楽になる。一種の自己暗示だ。
「あ、あのー……黒地君?」
三十秒ほどそうやって机に突っ伏していると、不意に委員長の声が聞こえてきた。頭をもたげると、何とも言えない困り顔の委員長が立っていた。今時珍しい三つ編みメガネ。
距離はちょうど2メートル。僕が顔を上げたらビクッとしてさらに一歩後ずさり、その距離2メートル50センチほど。話しかけるには微妙に遠い距離。あんまり近寄りたくない、そんな距離感。
先ほどの発作を見られて変なやつだとでも思われたのかもしれない。今後の高校生活を普通に過ごすためにも、ちゃんと誤解を解いておかなくては。
「委員長。言っとくけど、僕は普通だよ。いたって普通だ」
「……う、うん。そうだね、普通だね……」
委員長が曖昧な笑みを浮かべて言った。
分かってもらえたようで何よりだ。普通じゃないやつ扱いされることだけは避けなくては。もう、中学時代のような腫れ物扱いはこりごりだ
「ところで、普通の僕に何の用?」
「あー、えっと……部活動の入部届のことなんだけど。黒地君からまだもらってないから」
中学時代、僕は部活に所属していなかった。部活で慣れ合うのを小馬鹿にしていたからだ。
もちろん、今ではそんなことは思っていない。むしろ、部活には憧れのようなものすら抱いている。
青春といえば友情・努力・勝利。部活にはそれらすべてがある。女子部員や女子マネがいればここに恋愛要素も入ってくるかもしれない。
部活を制するものは青春を制するといっても過言ではないのだ。
だからこそ、部活選びは慎重に行わなければならない。下手な部を選んでしまえば、理想の青春から遠のいてしまう。
「委員長、悪い。まだ決まっていないんだ」
一応、いくつか候補はピックアップしているが、まだ決心できていなかった。
「そう、なんだ。なら、悪いけど選び終わったら、自分で先生の所に持って行ってくれるかな。すでに集めた分は先生に提出しちゃうから」
「了解。迷惑かけてごめん」
「……う、ううん、別に。じゃあ、そういうことで」
委員長はブンブンと首を振ってそう言ったかと思うと、まるで逃げるかのように遠巻きに見ていた友達らしき女子グループの元へ戻っていった。
何だか僕の方を見てひそひそ話をしているように見えるが、きっと気のせいだろう。僕と目が合った途端にそそくさと教室を出て行ったような気がするけど、これだって気のせいに違いない。
何の変哲もないただのクラスメイトAに注目するほど女子高生は暇じゃないはずだ。
「ふぅ……今日もなんとか普通に過ごせた……」
ああ、普通最高!
***
「……中学時代の友達が……部屋で僕を待ってる?」
帰宅早々に母親から告げられたその言葉に僕は訝しんだ。
中学時代ずっと重度の中二病に罹患していた僕は、教師からも生徒からも居ないもの扱いされていた。どう頭を捻っても友達と呼べるような同級生の顔を思い出せなかった。ましてや、家に尋ねてくるような親しい間柄などは。
「母さんもよく分からないのよねぇ。なんていうか……中学の時のアンタみたいな、あんな感じで会話にならなくて。世界征服がどうたらとか、魔術がどうたらとか……」
「あ、ああ……そ、そういう感じか……」
瞬間、頬が引きつった。
これ以上言及すると黒歴史を思い出しそうだ。母さんにも過去の僕を思い出してはもらいたくない。
僕はそそくさとリビングを脱出した。
それにしても、同じ中二病患者とは。今更、僕にいったい何の用があるってんだろう――て、いや、待て待て。違うだろ、黒地明人。同じなんかじゃない……今の僕は中二病患者なんかじゃないんだろうが。
僕はブンブンを頭を振って気を取り直す。
「せっかく黒歴史を忘れようとしてるってのに……誰なんだよ、迷惑な」
中学時代、学生生活に影響を及ぼすレベルの重症患者は自分以外にはいなかった。いたのなら意気投合して友達になっていたはずだ。ということは高校生になってから発病したのだろうか。
中二病という言葉の由来となった中学生ですら、中二病患者は白い目で見られる。高校生にもなって中二病を患っていれば周りからどんな目で見られるかは想像に容易い。
おおかた、孤独に耐えられなくなって、中学時代中二病患者として有名だった僕の所に仲間を求めてやって来たってところだろう。
「フッ……中二病患者は孤独だからな……」
虚無的に笑いながらそんなことを口走り――直後、ハッとして口を塞ぐ。
三年もの間、重度の中二病に罹患していたことによる後遺症は重い。卒業すると決意していても、心と体に染みついた中二病的言動がふとした拍子に出てしまう。
薬を断って十年、二十年が経ち、薬物依存から完全に抜け出したつもりでも、ふとした拍子に他人から誘惑されてまた薬に手を出してしまう薬物中毒者は多いという。
中二病も同じようなものだ。気を強く持たないと、闇に飲み込まれてしまう。
「……僕は普通……僕は普通……僕は普通……」
自分に言い聞かせるようにぶつぶつと唱えながら、僕は自室のドアを開けた。
その、瞬間。
「ごっしゅじーん! 会いたかったデース!」
「がほぉぁ!?」
部屋から飛び出してきた小柄な人影に鳩尾へタックルされ、僕は胃液を逆流させながら仰向けにぶっ倒れた。ついでに受け身を取り損ねて後頭部を壁に打ってしまう。
「ぐぅ、痛ぇ……な、何なんだ?」
チカチカする頭をさすりながら自身の胸元に視線を落とす。
最初に見えたのは胸板にぐりぐりと押し付けられる頭。黒髪のショートボブ。そして、一見すると側頭部に突き刺さっているように見える短剣の柄。
オーバーサイズのモノトーンパーカーから覗く肌は褐色。体つきは小柄で華奢。線の細さを見るに中学生ぐらいの少女に思えた。それこそ中学二年生ほどだろうか。思い返せば声も明らかに女の子のものだった。
頭に短剣の柄を装備するという前衛的中二病ファッションセンスに少し拒絶反応が出てしまうが、それでも間違いなく異性――そう、僕は今、女の子に抱きつかれていた。
「ぁう、あ……うあー……」
女子と触れ合ってきた経験のない僕が、女の子に抱き着かれた上に、おでこでぐりぐりされるなどというのは許容限界を超えている。
何かを言おうとして口を開き、しかしただ鯉のようにパクパクと開閉することしかできない。
――だ、誰ぇぇぇええ!?
仕方なしに心の中で叫んでいると、それが聞こえたかのように少女がピタッと動きを止めて顔を上げた。
幼さを残す丸っこい輪郭に小ぶりな鼻と口、そしてそれとは対照的に大きな黒目がちの眼。誰が見ても可愛らしいと感じるような整った容姿の少女だった。
「あ……え?」
だがしかし、彼女の瞳に見つめられた瞬間に僕が感じたのは照れではなく――猛烈な違和感。まるで、中途半端に精巧な人形を見た時に感じるような気持ちの悪い違和感だった。
その人形じみた不気味な少女が、顔面にニンマリと満面の笑みを貼り付けて言った。
「デススススッ! ご主人のアルシエルがただいま帰りましたデスよ!」
***
ゾゾッと鳥肌が立って固まる僕に、アルシエルと名乗った少女がカクンと首を傾げる。その様がまた人形的で気味が悪い。
「……ッ!」
反射的に僕は彼女を突き飛ばしてしまった。
突き飛ばされたアルシエルは壁に後頭部を思いきりぶつけたが、しかし痛がるそぶりも見せず不気味な笑みを携えたまま不思議そうにただ僕を見つ続けている。ほとんどホラーだった。
「な、何なんだよお前……!」
いよいよ恐怖を感じてきて声が震える。
アルシエルは少し悩んだそぶりを見せてからポンと手の平を拳で叩くと、
「なるほど、そういうことデスか。この姿でお会いするのは初めてだったデスね。この体はそこらで拾ってきた魔術師のメスガキの死体デス。便利なのでアルシエルが使ってやってるデス」
「は……? し、死体……?」
そうだとしたら、雰囲気作りは完璧だ。これは自分以上の重症患者かもしれない――と、そう思うのと同時、光の感じられない暗い穴のような彼女の瞳を見ると、どうしても自分の考えに自信が持てなくなる。
中二病とはいわば行き過ぎた〝ごっこ遊び〟だ。子供が戦争ごっこをしても兵士の雰囲気を出せないように、本物を知らない人間のごっこ遊びでは本物の雰囲気は出ない。ごっこ遊びで醸し出されるものと言えば滑稽さぐらいのものだ。
だというのに、この子の異様な雰囲気はどうしたことだろう。
自分よりも年下にしか見えない彼女が纏う不気味な雰囲気は、それこそ本物の死者のような生気のなさを思わせる。
もしかして本当に――いや、何を考えているんだ僕は。馬鹿馬鹿しい。いい加減中二病を卒業しろってんだ。
〝もしかして〟という思考を追い出すように頭を振ると、忌々しい仇敵を見るつもりで彼女を睨みつけた。そうでもしなければ、中二病思考に負けてしまいそうだった。
「……悪いけど、そういう痛々しいのはやめてくれ。僕はもう中二病は卒業したんだ……もううんざりなんだよ」
「チュウニビョー? 何デスか、それ?」
アルシエルは音もなく立ち上がりながら首を傾げる。
「とぼけんな! マジで中二病の妄想はもうたくさんなんだよ!」
「妄想?」
「何だよ、妄想じゃないってか? だったら証明してみろよ! お前が死体だっていう証明を! できるもんだったらな!」
「いいデスよ」
「ほら見ろ、やっぱりできな――……え? いいですよ?」
「アルシエルはご主人が何に怒っているのか分かりませんデスが、とにかくこのメスガキが死んでることを証明すればいいのデスね? それなら簡単なことデス」
アルシエルは何を考えているのか分からない虚無的な表情でそう言うと、パーカーの胸元に付いたファスナーをジジジッとゆっくり下ろしながら僕に歩み寄ってくる。
そして、反射的に後退ろうとした僕の腕を取ると自分に引き寄せ、そしてそのままぱっくりと開いたパーカーの胸元へ挿し入れた。
「ちょ、え!? 何して――…………え?」
最初の驚きはもちろん彼女の突拍子もない行為そのものに対するもの。しかし、その驚きは続いてやってきた〝驚くほど冷たい体温〟に対する驚きで塗り替えられてしまった。
体温が低いという次元ではなかった。まるで、つい先ほどまで氷水にでも浸かっていたのではないかと疑うほどに、彼女の肌からは温もりが感じられなかった。
その衝撃に硬直している間に、アルシエルは「ほら、ちゃんとここに手を当ててくださいデス」と言って左胸へ僕の手の平を移動させる。
「……そんな……馬鹿、な……」
異性の胸に触れているとか、そんなことがどうでも良くなるぐらいの衝撃に身を凍らせる。
彼女の胸の大きさは歳相応。拍動が手で感じられなくなるほどの厚みなどないというのに、僕の手の平は何のリズムも感じ取ることができなかった。
「……心臓が……動いてない……」
呆然として彼女の顔を見る。そして、そこで初めて彼女に対して抱いた〝違和感〟の正体に気が付いた。
瞳孔が開いているのだ。夕暮れ時とはいえ、夕日が差し込み十分に明るいこの場所で、彼女の瞳は完全に散大していた。
氷のように冷たい体温。鼓動の感じられない胸。散大する瞳孔――まさしくそれは、死人であることの証明だった。
「……嘘、だろ……? お前は……一体何なんだ……」
目眩を感じた。ふらふらと蹈鞴を踏んだ直後、足がもつれてその場にへたり込む。
「何って、だからさっきからアルシエルだと言ってるじゃないデスか」
「いや、それだけじゃ何も分からな――」
と、そこまで言い掛けてふと引っ掛かりを覚える。アルシエルという言葉は中二病時代の僕にとって、とても身近な言葉だった。彼女の名前がアレと同じなのは果たして偶然だろうか。
荒唐無稽すぎる考えに思い至って固まる僕に、彼女はどこからか取り出した革張りの本を差し出してきた。
瞬間、僕は自分の考えが間違っていなかったことを確信した。
幾何学文様が描かれた古めかしいブラウンレザーの表紙。それは僕がこの世で最も忌み嫌う黒歴史の象徴。
――中二病時代に捨てた黒歴史ノートォォォォ!?
中二病から卒業するため、涙を呑んで海に投げ捨てた自作の魔導書〝
と、不意に。本当に突然、僕の虚を突いて、表紙が歪んでシンボリックな目と口の絵が浮かび上がった。目がギョロリと僕を見上げたかと思うと、そのギザギザ口が少女の代わりに『デススススッ!』と奇怪な笑い声を上げる。
『アルシエルは
――黒歴史ノートが喋ったぁぁあああ!?
あまりの衝撃に僕は馬鹿みたいに口を開けて〝黒歴史ノート〟だったはずのそれを見つめること以外、しばらくの間できなかった。
***
数分のフリーズを経て少しして冷静さを取り戻してきた僕は、改めてこれが現実かどうか、真実かどうかについて考え始めた。
べたに頬をつねったみたが、残念ながらしっかりと痛かったのでどうやら夢ではないらしい。
となると、問題は彼女たちの話が事実かどうかだが、やはり嘘と言い張れないほどにはリアリティがある。
もう一度彼女の肌に触れてみたが、腕を触っても頬を触ってもお腹を触っても、どこもかしこもしっかりと冷たい。瞳孔だって見直したらやっぱり散大している。胸をまさぐって心臓の鼓動を再確認する勇気はなかったが、そこまでする必要もないぐらいにどう見ても彼女は生きていなかった。
何より決定的なのは、〝黒歴史ノート〟もとい深淵ノ理の存在だ。絵の目、絵の口が有機的に動いている。明らかに部品もパーツもない二次元上に描かれた線画が、自由自在に形を変形させて生物的に表情を変えながら喋るさまは、いくら何でも常軌を逸している。これはトリックでどうこうできる範疇を越えていた。
それでもやはり、一度こういった存在を否定して中二病を卒業した身としてはにわかに受け入れるのは難しかった。
納得するにしても否定するにしても、もっと彼女――なのか彼なのか分からないが、とにかくこの
「それで、その……君はどうしてここに来たんだ?」
「〝君〟なんて他人行儀はやめてくださいデス! 昔のようにアルシエルと呼んでくださいデス!」
「あ、ああ……そう。それで、何故ここに?」
本の代わりに
「何故って、アルシエルはご主人のものデス。ご主人のもとに帰ってくるのは当たり前のことではないデスか。今度こそご主人と世界征服を成し遂げるのデス!」
アルシエルはそう言ってぐっとこぶしを握る。
「せ、世界征服ぅ?」
ぎょっとしてオウム返しすると、アルシエルは懐古するように遠くの方を見ながら言う。
「ご主人はよくアルシエルに仰ってくださいましたデスよね……『俺は世界を征服し、混沌をもたらす者。世界唯一の支配者として君臨するのだ』って。あの頃のアルシエルはまだひよっこで力もありませんでしたが、気持ちはご主人と同じでしたデス。アルシエルもご主人と一緒に世界征服を夢見ていたのデス。だから、今こそもう一度、世界征服に乗り出すのデスよ、ご主人!」
確かにそんなようなことを言っていた気がするが、もちろんそんなものはただの妄言。本気で世界征服など目指していなかったし、出来るとも思っていなかった。
世界征服という言葉にだって別に大したこだわりはなく、ただなんとなく悪のカリスマって感じで格好良いから口走っただけ。今、アルシエルに言われて『そういえば言ってたな』と思い出す程度の安っぽい目標だ。
中二病時代にこの状況になれば飛び跳ねて喜んだだろうが、今は魔術にも世界征服にも全く興味がない。親にも色々迷惑かけたし、むしろ今の僕はとにかく〝普通の人〟になることが目標だ。
だから、今更こんなことを言われても困るというのが正直なところだった。
「えっと……アルシエルさん、ごめん。悪いけど……世界征服は、その、勘弁してくれ」
僕はアルシエルに向かって頭を下げた。
「なんつーかさ……僕はもういい加減に普通の人になりたいっていうか。親にも散々迷惑かけたし……友達や彼女を作って平凡に暮らしたいんだよ。だから――」
そこまで言ったところで、アルシエルの様子がおかしいことに気が付いて口を止める。
「……………………」
先ほどまで浮かんでいた微笑が消えていた。それこそ、人形のように虚無的な表情と瞳でこちらを見据えている。
なんだかとてつもなく嫌な予感がして、心臓の鼓動がバクバクと早くなっていく。
「アルシエル、さん……?」
刺激してはならない。そう思って僕はおずおずと呼びかけた。
がしかし、それが裏目に出てしまった。
「お前――誰デス?」
感情の欠落した冷たい声音が
こめかみに指先がめり込んで頭蓋骨が軋む音がする。頭を潰される自分を幻視するほどの人間離れした凄まじい力だった。
「ぅあ……がぁあっ!?」
やめろと言い返す余裕もなく、必死に彼女の手を自身の頭から外そうと藻掻く。しかし、まるで鉄のオブジェではないかと疑いたくなるほどに彼女の体はビクともしない。
「ご主人は他人にへりくだらないデス。ご主人はアルシエルに〝さん〟を付けて呼ばないデス。ご主人は〝僕〟なんていう軟弱な言葉を使わないデス。つまり、お前はご主人ではないということデス。しかし――」
苦しみ足掻く僕を冷たく見上げながら、アルシエルがカクンと首を傾げた。
「体は間違いなくご主人のものデス。どう考えても偽物なのに……どういうことデス?」
アルシエルはそう言って静かに考え込む。
少ししてハッと目を見開くと、納得した表情で小さく頷いた。
「なるほどデス。つまり、ご主人は――何者かに体を乗っ取られているデスね?」
「え!? ち、違っ――」
「安心してくださいデス、ご主人。すぐにこの不敬な人格を消し飛ばし、本物のご主人を助けだしてみせるデス!」
慌てて否定しようとしたが、アルシエルの耳にはまるで入っていないようだ。
彼女の漆黒の瞳に、暗い炎を思わせる円文様が浮かび上がる。と同時に僕の顔面を掴む手から触手のような黒い靄が無数に飛び出してきて僕の頭に絡みついた。
頭の中がざわざわする。痒いような痛いような気味の悪い感覚。
こんな化け物じみた膂力を見せられれば、さすがの僕も〝ごっこ遊び〟などではないと信じざるを得ない。
つまり、彼女が〝やる〟と言ったことは〝出来る〟ということ。このままでは本当に僕という人格が消されてしまう。
全身から冷や汗がぶわっと噴き出してきて、生存本能が激しく危険信号を脳内に撒き散らしだした。
「も、もういいっ……十分だ……っ! 俺だ……アギトだっ!」
気がつくと、僕は生存本能に任せてそんなことを口走っていた。
かつての自分の口調の猿真似。正直、本当にかつての自分らしい口調似できているかも微妙なところだったが、触手の動きはピタリと止まった。
一筋の光明を見つけた気がした。
中二病を演じて僕が本物であると思い込ませることさえできれば、助かるかもしれない――。
「……今まで、組織のエージェントに植え付けられた
「…………」
「よくぞ、体が別人格に乗っ取られると看破したな。褒めてやる、さすがは俺のアルシエルだ」
僕の言葉にアルシエルは無言を返す。その暗い眼でジッと見極めるように。
思わずごめんなさいと謝りたくなるのをぐっとこらえる。ここを逃せばあとはない。数秒後には廃人確定だ。
ここは人生の分水嶺。
思い出せ。過去の僕の姿を。僕の言葉を。僕の表情を。
「どうした? 主人がせっかく褒めてやってるんだ。喜んだらどうだ?」
なるべく尊大に。
自信に満ちた態度で。
ニヒルな笑みと共に。
目指す姿はかつて憧れたアニメに出てくる悪のカリスマ。
今の僕は――いや、俺は黑淵アギトだ。
「久しぶりだなアルシエル――我が創造物」
黒靄の触手が消える。
俺の頭を鷲掴みにする手から力が抜けた。
アルシエルはその虚無的な表情に僅かばかりの感嘆を滲ませ、その場で恭しく跪いた。
「おかえりなさいませ、我が創造主――」
①中二病時代に捨てた〝黒歴史ノート〟が本物になって帰ってきた。 法螺依存 @horaison
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