小鳥たちの宴はまだ先で
あじさし
小鳥たちの宴はまだ先で
世の中がなんとなく外出をしない雰囲気だったこともあり、かなえの部屋へ入ってしまうまではちょっとした緊張感があった。思ってたよりも気温の高かった日中と比べて夜が冷え込んだせいかもしれない。でも逆にそれがまるで、世を忍ぶ仲である私たちのために作られた夜空であり、空気でもあるような気にさせた。彼女の部屋の玄関口でネックウォーマーを取ってしまうとそのように思った。首元がすうすうする。
「いらっしゃい、
私は短い髪を指で整えながら言った。
「うん。今朝は温かかったから手袋忘れて。これがあってよかった」
私がポケットにしまいかけたネックウォーマーを彼女に見せると、彼女が手ごと一緒にそれを握る。
「わ、冷たい。あ、でもネックウォーマーすっごくもこもこしてる。いいねえ。どこで買ったの?」
「近所のGUで。なんか目に留まっていいなあと思ってさ」
「ふうん。温かそうだし、かわいくていいね。」
もともと出不精の私には家デートの方がはっきり言ってうれしかったが、かなえはそうではないようで、出迎えて軽く私の近況を聞いた後に、外出自粛が続く間に溜まったものを口から言葉にして次々と吐き出していった。それに私はうんうん、と頷いたり時々合いの手を入れたりしながらジャケットを脱ぎ、手を洗って買ってきた食材をいくつか冷蔵庫に仕舞い、残りのものと冷蔵庫にあった食材を取り出して、軽く濯いだまな板の横に置いた。
「あ、とりあえずお茶でも飲まない?仕事帰りで疲れてるでしょう?」
「いや、一度椅子に座ったら立ちたくなくなるから、逆にすぐに作り始めた方が楽なんだ。ありがとう」
「じゃ、せめて何かコップに入れて置いとくよ。アセロラジュースと牛乳あるけどどっちがいい?」
「アセロラジュース」
かなえが入れてくれたジュースを一口飲むと流しの一段高くなっている所の調味料の横にコップを置いて調理にとりかかる。白菜に人参、生姜、葱、春菊、椎茸を刻んでバットに入れると、まな板を洗って裏返し、鱈を切る。
一連の流れをかなえは台所のカウンター越しに身を乗り出してみていたので、長い髪が肩からさらさらと滑り落ちていった。
「やっぱすごいね、
「これくらいどうってことないよ。包丁使う仕事してるし。」
私はスーパーの鮮魚部門で働き始めてもう3年になる。
「私もできるようになりたいけれど。」
「まあ、すこしづつやっていけばいいと思うよ。」
現在は、私が泊りに来るときも主にご飯を作るのは私がやるようになっていた。前に一度一緒に料理を作った時、料理はあまりやったことがないというので、これは大丈夫だろうと思って皮むきで野菜の皮をむいてもらっておいたら、掌の横を切ってしまったことがあったからだ。
「あ、ご飯炊く?」
「冷蔵庫に冷やご飯あったでしょ。足りなかったらそれでおじやにしない?」
「うん、いいかも。そうしよう」
鍋が出来上がるとどんぶりによそってテーブルに二人分持って行った。
テーブルをはさんで腰を掛けるかなえは、箸をつけ始めると何も喋らずに野菜を冷まして口に運んだり、黙々と鱈をほお張ったりする。頬や額が赤みを増しているのを見て、冷えていたのは私だけではなかったなと思った。テレビでは民放のニュース番組が放映されていたが、どんぶりだけを見つめてどんどん箸を進めていった。
「ごめん、今日ちょっと味薄いかも」
「うーん、たしかにいつもよりはそうね。でも、おいしいよ」私の目を見てかなえが微笑む。
やがて彼女はある程度食べ進んでしまうと、ぼつぼつとさっきの愚痴の続きを話し始める。私は持ってきた日本酒を人から貰ってさ、と言って彼女にも勧めると、自分も呑みながら彼女の話に頷き、そして、その合間にテレビのニュースに耳を傾けていた。
「なのに主査ってば、あからさまに迷惑そうな顔するんだよぉ。お互い様って精神がないんじゃないのって。こっちは何度も日にち代わってあげてるのに」彼女は湯呑をひっくり返さんとする勢いで鬱憤を晴らす。
私はマシンガンの射撃のように捲し立てる彼女を見ながら湯呑に入れた日本酒を一口ずつ傾ける。まだ最初に注いだ酒が半分以上残っているのにすでに顔と背中が暑くなっている。言葉と言葉とのつながりが緩み始め、前が後ろに後ろが前に、行列がだんだんとばらつき始めているのが分かる。アルコールを摂取するといつもこうだ。でも、今日はそうしたい気分だった。
「何笑ってんの」ひとしきり喋ってしまうと彼女は私の目を見据えた。焦げ茶色の虹彩のくりくりした可愛らしい眼に捉えられて思わず顔を斜に構え、頬杖をついていた手で口を覆った。小柄な彼女が捲し立てているとまるで賢い小型犬のような愛らしさがあった。
「悪い悪い。なんかかわいいなあってさ」
「何それ。馬鹿にしてんの」言い回しによってはとてもとげとげしくなる言葉でさえも、彼女が私に対して口にするときは一種のスパイスのようだ。
「へっへっ。かわいいねえ、お姉さあん」私はおもむろに湯呑を持っていない方の手で彼女の顎をそっとつまんで持ち上げ、それから頬をぷにぷにする。とても温かくて気持ちいい。
「や、やめなさいよ。もう出来上がってんの。本当にお酒弱いんだから」彼女は手を掴むけれど無理に跳ねのけようとはしない。
「誰が酔ってるって?」不意に真顔になって見せる。
「なによ」掴む手の力がゆるむ。
「私はね、酒じゃなくて、かなえに弱いんだよ。」と言ってしまうとふいに口の端を思い切り上げる。
「かなえに、溺れてばかりだよぉぉん」湯呑を置いてしまうと両手でかなえの髪と頬をもみくちゃにする。
「ちょ、やめ、やめてよ。
食卓に笑い声が響く。
素の自分はこんなに馬鹿な事も出来るんだ、そんなことを思い出させてくれる。
「あ、これ、綺麗だね」ふわっと私が顔をつかむ手をのける。
ニュース番組の後に始まったバラエティ番組で南ヨーロッパの教会が紹介されている。こじんまりとした石造りの建物で、周りの木々や山に同化しているように見える。それは数百年の歴史があり、わりに最近になって修繕の工事が行われ、歴史的建造物としてでだけでなく、聖職者が再び戻って地元の人の洗礼から葬儀まで執り行われているという。
「これすごいね。どうやって作ったんだろう」と彼女が感想を口にしたのは、こじんまりとしながらもきらびやかな内装についてだった。建物のことはよく分からないけれど、壁面の上の方に教会の中を囲むように聖書のお話が絵にされている。職人の技巧に彼女は心打たれているようだった。
海外旅行は面倒だ。
外に出るのが億劫な性質だし、そうでなくたって世界的な流行病のせいで出入国が制限されている。
それだけではない。私はパスポートがない。この国の国籍も持っていない。いわゆる特別永住者だ。私の特別永住者証明書には国籍・地域の欄には「朝鮮」とある。そのため国外へ出る前には再入国許可を申請しなくてはいけない。もう4代住んでいる国だというのに。
「行きたいねえ、ある程度収まったら」
「本当?出不精なのに?」
「う、本当だよ」本当だよ。かなえの行く所ならどんなとこだって行きたい。
「いいね。二人で旅行なんてこの前温泉行ったくらいだったもんね。あ、次はお城が映ってる」彼女は再びテレビに釘付けになる。テレビに向ける無防備な横顔も素敵だ。
心臓が固い音を立てて鼓動する。
どうする?今言う?
馬鹿たれ!来る前にさんざんシミュレーションしただろう?何食わぬ顔でいつも通りに部屋に入ったのになんで今になって及び腰になってるの?
すでにほぼ空になっている私の器と湯呑、かなえの空になっている器と半分酒が残っている湯呑を交互に眺めていた。
テレビの音声と換気扇の回転、時々かなえの喉が酒を呑み干す音だけがあって、自分自身がまるで井戸の底みたいなところに次第に深く深く下りていくような感覚に囚われる。
また瓶を傾けて湯呑に注ぎ、酒を煽る。
かなえは風光明媚なヨーロッパの山々やゆったりとした流れの大河に見入っている。最近買ったという大画面の液晶テレビは実家にあったテレビとは比べ物にならないほどごく自然な色使いを見せている。
風邪をひいたときみたいにおでこと肩が熱くて喉が痛い。それなのに視界に映るものはますます鮮明になって鋭さを増してゆく。
やがて、一旦あきらめて立ち上がると、食器を持って流しに持っていく。
「あ、食器私がやっとくから置いといて」普段、私が料理を作る役で彼女はあと片づけをやる役だった。料理が出来ない分せめて私がやるから、というので毎回そうしてもらっていた。
「いや、今日は洗うもの少ないし、かなえ、テレビ見たいでしょ」
「あぁ、うん。そしたらお願いするね、ごめん。ありがとう」
彼女から空になった器と湯呑を受け取って洗うと、流しに残っている食器類も一緒に洗って食器カゴに積んでいった。冷たい水が痛いほどだったが今はそれさえも気持ちいい。食器カゴにあるコップに水を汲むと一気に食道に流し込んだ。
それと同時にぼやっとした不安が鎌首をもたげる。
理由はどうであれ、一度拒んだのは私の方なのに、今更になってこちらから話を持ち出すのは虫が良すぎないか?
腰を掛けて私に向けている背中が、私の言動次第でどう応えるのか全く読めない。
せめて、場所を変えた方が良かっただろうか。例えばどっかのフレンチでも予約して。でも、もし他の人間がいるところで話して断られたら?
考えて考えて、「今夜」言おうとしたんじゃないか。しっかりしろ、私。
おもむろにテーブルに戻って椅子に腰かけるとテレビに映る異国の風景をかなえとともに眺めた。
私の部屋とは違ってテーブルと椅子があるせいで距離感を感じる気がする。でも、今はそれが逆に助かる気がする。無性に煙草が吸いたかったけれど、煙草を吸わない彼女の前で取り出して火を点けるわけにもいかなかった。
「ねえ」と彼女は画面の方を向いてテーブルに頬杖をついたまま云った。
「なんかあったでしょ」
咄嗟に言葉が出なかった。
彼女は立ち上がると私の目の前に歩み寄ってくる。二人で並んで立っていると頭一つ分近く下にある彼女の頭が、今は頭一つ分上の方にあって不思議な感じだ。
眩暈がする。
彼女は何かを調べるような手つきで私の火照っている顔を10本の指でそうっと包み込む。ほんの少しだけその柔らかくて冷たい手にもたれる。手に挟まれて見つめる彼女の目が据わっている。今日はあまり正面から顔を見ることはなかったから分からなかったけれど、彼女もかなり吞んでいたに違いない。
「大丈夫?じゃないよね」
何が?弱いのにお酒を多めに呑んだこと?それとも、これから言おうとすることに対する君の答えを受け止める準備が?
彼女の瞳が流しの蛍光灯に反射してブラウンの虹彩と黒檀のように黒い瞳孔がコントラストになってどんな宗教建築の装飾よりも綺麗だ。
頭がフェリーに乗っているときみたいにふわふわしている。彼女の話す言葉がもはや心地よい音だということ以外分からなくなっていた。
暗転。
さざ波が寄せては返し、砂をさらってゆく音がする。月も出ていない真っ暗闇でかろうじて星明りは瞬いている。海と空の境が分からないほどの闇の中に、赤い炎が燃えている。そこに胡坐をかいて私は座っていた。ポケットから煙草を取り出して、先っぽを火にくべて吸う。炎の周りには何人かいて、一人が火の中に流木をくべた。
誰だろう。火に照らされる顔とそれぞれの服が懐かしい。夏だろうか、何人かは半袖で残りはジャージやジャンパーを羽織っている。私はジャージを着ているようだった。
「これ、ギッて来た」薪をくべたやつとは別のやつが一升瓶を持って火の前に掲げる。ひゅう、と指笛を吹いたり歓声が上がったりする。
「お、やるじゃん。」私が言うと、照れたそぶりを見せながらも少し誇らしげにTシャツの男の子が鼻を擦る。
「誰かコップ持ってね?持ってねえか。」私と同じくジャージを着た体格の良い男の子が訊く。
「瓶、回して飲めば?」空のペットボトルを持った女の子が答える。
「えぇ、どうするべ?」
「いんでない?」私は答える。
他の仲間は何も云わなかったが別段異論はないようだった。
「じゃ、俺から」一升瓶を持ってきた男の子が半分まで傾けて一気に飲もうとする。浜辺の砂に酒がぼたぼた落ちる。
「きったねえな」
「うるせえ。やんねえぞ!」と云いつつ隣のジャージの男の子に回す。彼は口をつけないように慎重に酒を流し込む。
誰かがううぇぇい、とはやし立てる。
隣の女の子(瓶を回して飲む提案をした娘だ)は、私はいい、と断る。
「えぇ、なんで」
「だってあんたたちみたいにバカになりたくないもん」
「うわ、傷つくわー。な、どう思うこいつ、シウ」
「別にいいべや、私の呑む分増えるし」
「お、行く?」
「よこせ」私は左手に煙草を持ち替えて、瓶を持った右手を傾ける。
これまで味わったことのない甘ったるく、でも刺戟的な味覚が舌から喉の奥に、喉の奥から食道を伝って次第に熱を帯びてゆく。
「はははは。次はお前な、山崎」
「お、おう」この中で一番細い山崎はおずおずと瓶に手を差し出す。
「
「おいおい、大丈夫か?」ジャージの男の子が大声で笑う。酒を呑んだ連中は全員もう酔いが回って気分が昂ぶっているようだった。
と、肩が力を失ってふわふわと仰向けになって倒れる。
「おいおい、山崎じゃなくて金田が倒れんのかよ、ははっ」合いの手を入れた男の子が笑う。
「ほんと、バカでしょ」隣の女の子も呆れてる。
「急患だぁ、担架持ってこいや」
「あ、こっちにあるよ」
山崎は「遊泳禁止」と書かれた立て看板を引き抜いて持ってくると私の横に持ってくる。ジャージを着ている男の子と合いの手を入れた男の子はそれぞれ私の両手と両足を持ち上げると看板に私を載せて担架代わりにして運んだ。
「ふぅぅう。わっしょいわっしょい、」
「わっしょいわっしょい、わっしょーい」
お神輿でも担ぐみたいな掛け声と笑い声、そして潮騒だけが生暖かい夜闇にこだまする。
ミシミシ、看板が私の体重を支えきれなくなって不穏な悲鳴を上げる。
パキッ。
頭から砂浜にたたきつけられる。
再び暗転。
「あうっ。」
思わず頭に手をやるが砂浜のさらさらした感触の代わりに柔らかいベッドの上のシーツを手に感じる。
「いわんこっちゃない」
自分の声でそれがやっと夢だと気が付いた。涙で濡れた目を擦りながら開くと電灯のついていない寝室だと気が付いた。ベッドまでかなえが運んでくれたのか。重かったろうに。
10年近く前の友人たちの感触が熱を持って、タオルケットにくるまっている身体や頭にまとわりついていたが、やがて朝露が消えるように夢のイメージは徐々になくなっていった。
昔の夢なんて久しぶりに見た。
何者であるか、あるいはどこを背景にしておくかなんて考えもしなかったあの頃に戻りたいというのは嘘ではない。けれど、今は私の「言葉」とそれに対するかなえの「答え」の問題だ。
手探りをして彼女が隣にいないことが分かると、おもむろにベッドを抜け出す。スライドドアの隙間からダイニングの光が1本の線のように伸びている。かなえはまだ起きているようだ。
そっと開けるとまばゆい光が両目を射って、とたんに頭痛がする。少しの間、その場に中腰になったまま目を細くして目を慣らす。
再び目を見開くとそこには彼女はいなかった。
かなえ?
スライドドアを完全に開けきってよろよろと足を1歩ずつ踏み出す。テーブルに思わず手を突く。きれいに片づけられたテーブルと椅子、空になっている食器カゴを目の当たりにして、遠くに見つけた黒い雷雲が少しずつ近づいて来るように不安が襲って来る。
かなえ?
と、洗面所の方からドライヤーの音が聞こえてくる。
かなえ。
足音に注意しながらダイニングを横切り、玄関に続く廊下に出ると、暖色の光の帯が伸びる洗面所に入る。かなえは鏡越しに私を見つける。
「あ、起きれたんだ、どう?少しは調子
私の具合を気にかけてくれる彼女に両手を広げ、背中越しに抱きしめると彼女は小さく悲鳴を上げた。私の腕の中で狼に首元を噛まれたかわいそうな兎のように動きを止めると、明後日の方向に熱風を送り続けるドライヤーのスイッチをそっと切って私のなすがままになった。トリートメントの柑橘類と彼女の甘い匂いが頭の中から全身を駆け抜ける。ブラジャーだけを身に着けた鏡の中の彼女は夢見心地に瞼を閉じ、私が髪の匂いを嗅いだり、うなじや髪に隠れる耳たぶ、耳の上に唇を重ねるたびに少し開かれた口から泣いているときみたいな吐息を漏らし、震える。
「
彼女が私の名を呼ぶ。腕を緩めるとくるっと回って彼女の身体を反対側の壁に押し当て、両手をそれぞれ恋人つなぎさせると嬲るように彼女の唇を奪った。
手と唇からお風呂上がりのかなえの熱が3つの点のようにじわじわと伝わってくる。私を受け入れる彼女の唇を完全に塞いでしまうと吸い上げる舌が熱い。顎のひだと舌で優しく挟みこむと逃げてしまう。また吸い上げるとそれ自身が生き物のようにぬめぬめと動いて口や舌をくすぐる。その度にウィスキーを一口ずつ飲むときに似た口と喉の律動が直に口の中から頭のてっぺんに響き渡った。
「ごめん」
やがて唇から離れ、手を放してしまうとかなえに謝った。
「ううん」彼女はまんざらでもない様子で口元を押さえながら答えた。
「あのね。言いたくなったらでいいから、さっきのこと。どんなことでも聞くから。私は待つよ。でもね、あんまり何も云ってくれないとしたら私はとても辛いよ。だってそんなの、置き去りにされたような気分だから」
「分かったよ。少しだけ時間をちょうだい。」
そして、もう一度彼女に詫びた。ごめん。
私はズキズキする頭を抱えてシャワーを浴びてしまうと、かなえと一緒にベッドに入った。お互い明日も早いのでもっと深く絡み合うのはどちらから口にするともなくお預けになったけれど、かなえが手をつないで寝よう、と云ってくれたのでそうすることにした。
「思い出すなあ。出会った時のこと。」
「う。本当にあの時はごめん」
「責めてるんじゃないの。懐かしいなあって。あの噴水で横たわってて、部屋に担いできた女が、今私の隣でこうしてるなんて、人生わかんない。私、とても幸せだよ。」
「あまりお酒は吞まないようにするよ」
「別に。いいよ、また私がいつでも介抱するから。でも、毎日だと手料理食べれないしなあ」
「たまに。たまに、にする」
さっきまで彼女に向けていた爆発寸前の火薬のような感情はシャワーで頭を流しているうちにみるみる消えていった。その代わりに、今私の掌に指を絡めてつないでいる彼女の右手からは、穏やかで心が安らぐような熱がさざ波のように送られて、身体の奥の方に少しずつ溜まってゆくのが分かった。
もぞもぞ掛け布団が動いて肩にかなえの掌がそっと置かれ、かなえが顔の横にキスをした。
耳のくぼみにみずみずしい感触が残る。
「おやすみ、
「おやすみ」
くすぐったかったけれど、手を当ててしまうとそれも跡形もなく消えてしまいそうで、もったいなかった。
目が覚めても部屋の中は暗かった。
汗ばむ左手はまだ彼女の右手によって握られていた。寝返りを打って不自然な方へ曲げられている腕を横になっている身体にそっと乗せるとベッドから出た。
ズボンを穿き、ジャケットを羽織ってネックウォーマーを着こむとベランダに出た。点々とオレンジや白の街灯がついている他は、真っ暗な風景だ。風はほとんどなく、吐き出す息は白い。空にはカシオペア座が瞬いていて、水平線の向こう側がほんの少しだけ黒ではなく濃い藍色をしているような気がする。
煙草をポケットから取り出すとジッポーの蓋を持ち上げて1回転させて火を点けた。
やっぱり手袋をはめてけばよかった、とすでにかじかんでいる手をポケットに突っ込みながら思った。よく眠れたおかげか、頭はとてもすっきりしていて冴えわたっている気がする。
かなえが起きたら言おう。彼女は今日も仕事だし、朝はバタつくかもしれなかった。でも、彼女には悪いけれど、もう伝えなくてはならなかった。返事は後からでもいい。1年間待たせたのだ。あと数か月だって彼女も迷う権利があるし、たとえどんな返事が来たって受け止めなくてはならない。いや、私は彼女がくれるものはどんなものだって受け止めたい、そういう決意がすでに固まっていた。
大丈夫だ。
煙草をフカす
とん、ガチャッ。
思わず振り返るとカラカラとベランダのガラス戸が開けられた。
「あ、かなえ」
「ここにいたんだ。」
「ちょっとこれをね」
私は「PEACE」と書かれた煙草のソフトを見せる。
「え、なになに?暗くて見えない」
彼女は近づいて街灯の反射を利用して銘柄を読む。
「ピースか。おじいちゃんみたいなの吸うんだね、最近は」
「ふふっ。そうかも。亡くなったおじいちゃんもよく吸ってた」
「そうなんだ」
「今みたいにこうやってベランダでフカしてるところに近づいてったら、よく黙って頭を撫でてくれた。」
かなえの頭をそっと撫でる。
「なによ。子ども扱いして」そう口にはするけれど撫でられるがままで少しだけ頭を傾けただけだった。
「お小遣いくれることもあったなあ。それだけじゃなくていつも口数は少なかったけれど、可愛がってくれた。」
「おじいちゃんのこと、好きだったんだ」
「うん、そうだね。私の名前もおじいちゃんがくれたんだ」
「そうだったんだね。」
煙草をポケット灰皿に突っ込んで消してしまうと、彼女が私の腰に手を回す。そして、背中に鼻を押し当てる。
「どっか行っちゃったかと思った。目が覚めたらいないし、ジャケットもかかってなかったんだもん」
「ごめん、起こしちゃったね。」彼女の手の甲にそっと掌を重ねる。
「ううん。怒らせちゃったかと思った。」
「怒ってないよ。なんでさ」
「今日も仕事があるせいで、最後までできなかったから」
「そんなわけないよ」私は笑った。
そんなわけない。第一、来月から同棲するのに。
「そう?」
「ほんとだよ。なかなか自分のこと伝えるの、はっきり言って苦手だけどさ。嫌なことは嫌って言うし、好きなことは好きって素直に伝えるよ。そういうのも、かなえが教えてくれたんだもの」
「なにそれ、私はなにもしてないよ。ただ、シウが好きなだけ」
私は彼女の手を優しくほどくと、両掌で彼女の小さな手を握りながら言った。
「私も大好きだよ。世界中が敵になったって、私はかなえの背中を守る」
「
深呼吸をすると一瞬私たちの間に霧のように吐く息が立ち込めて、消えてゆく。
「かなえ。結婚しよう」
あれ、間違えた。違う。こんな順序で昨日シミュレーションしてなかったのに。
「
「や、そうじゃなくて。いや、結婚したいのは嘘じゃ、いや、でもその前に話したいことが」
「落ち着いて。大丈夫、君の言葉誰も盗ったりしないから。落ち着いてね」
彼女は私の背中をジャケット越しに何回も撫でる。
「あのね。結構前にさ。かなえがしてくれたことあったでしょ。プロポーズ」
「え、ああ。あああ。いや、あの時はほんと私ばっかり先走って
「いや、びっくりしたのはそうだけど、でも、ほんとにうれしかったんだよ!」握る手の力が思わず強くなる。
あの時はまだ今住んでいる所の契約の途中で違約金が発生する時期でもあった。だから同棲もちょっと待たなくてはいけなかった。
「私も、出不精だけどさ、でもかなえのいう通り、せめて海外で婚姻届け出せたら正式に夫婦ならぬ婦々になれたら。世界の一部だけかもしれないけれど、私たちが認められる気がするもの。」
「シウ」
「でも、これ、人にほとんど話したことないけれど、私は、この国の人間じゃないんだ。」
「え、どういうこと?」
「私、在日朝鮮人なんだ」
また深呼吸をする。歯の間から抜ける息が今度は彼女の背中の後ろに白く吹き付けられた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
「4代日本に住んでいて、特別永住者証明書っていういつも持ってるカードみたいなやつには国籍の欄があるんだけど、そこには『韓国』ではなくて『朝鮮』って書かれてる。」
サイレンの音が次第に低くなっていってやがてどこかへ消えた。
「あ、ていうことはみなし再入国ができない?」
思わぬ反応に一瞬彼女を撫でる手が止まる。
「そ、そうなんだよね」
「私大学でそういう講義も取ってたから少しは分かるんだ」
「あ、そうなんだ」
そういえば彼女は法学部出身だったな。
「海外旅行の話振るとめんどくさいとか云ってたのって、もしかしてそういうこと?」
「ああ、うん。実はそうなんだ。今流行ってる病気がないにしても、政権が変わるごとに許可の下りやすさも違うって話も聞くから」
「なんだ。どこかで一線を引かれている気がしてたのはそのせいか。」彼女はため息をついた。
「驚かない?」
「それは、驚いたよ。だって、今初めて知ったもん」
「私、外国人だよ。それに『地域・国籍』のせいで結構な人が北朝鮮人だと勘違いしてるし」
「でもたとえそうだとしても、それもシウの一部だもん。それに、ミサイルや拉致だって許せないけれど、国家方針と国民は別でしょ。」
「そうだね。まあ、そもそも親が北にも南にも在外国民の登録してないって云ってたし、なかば無国籍みたいなもんだね」
「あ、そうなんだ。」
「で、このままだといろいろ不便だしさ、私国籍を変える手続きをすることにしたんだ。今日、行ってくる」
「それって」
「最初の話に戻るね。」
すうっと息を吸う。
「安田さん。」と私は言った。
「安田かなえさん。国籍が変えられたら、私と海外で結婚してくれますか?」
一瞬顔がかあっと熱くなったかと思うと、次の瞬間背中と二の腕が氷のように冷たい。おそらく氷点下の空気がそうさせるんだろう。
「はい」
彼女はそう呟くと再び背中を抱きしめる。さっきよりも強く、息が詰まりそうなほど抱きしめて、ジャンパーに顔を埋める。胸からぬくもりと小さな震えが伝わってくる。ほどなくして胸から顔を離すと、頬が濡れて目が赤くなっている。
「嫌なんて言うわけないじゃん。しよう、結婚」声がうわずっている。
その言葉の意味が頭の中を1周してしまうと、ドライアイスが解けるみたいに肩の力が途端に抜けた。心臓が一瞬動きを止めてから、再びゆっくりと力強く脈打ち始めて苦しいくらいだ。気付いたら膝ががくがく笑ってる。目じりがきゅっと熱くなって思わず両手で顔を覆ってしまう。声にならない声が身体の奥底から口を通して抜けてゆく。
「手、すごく冷たいよ。中、入ろうよ」
彼女に手を引かれてベランダからダイニングに入る時、どこかで鳥の鳴き声が立て続けに聞こえた。空が暗闇みたいにみえても、もう夜明けが近いんだ。
小鳥たちの宴はまだ先で あじさし @matszawa
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