エリック・ユンは何を夢見たか?

夕影 巴絵(夕焼けこやけ)

エリック・ユンは何を夢見たか?

     1


「ボクは魔法が使えるんだ」


「えっ」




 驚いた時、僕はえっ、と声に出してしまうのか。


 途端に、自分のことなのに初めて知ったなあ、と小さな照れ笑いがこぼれた。


 あれ?


 さっきまでどうしていたんだっけ。


 そうだ。


 僕は泣いていたんだ。


 誰もいないはずだった放課後の屋上で、ブレザーの袖口を一心不乱に見つめながら。


 何かきっかけがあったわけではないと思う。うわべだけで面白くもない会話をして愛想笑いしている自分が、急に悔しくなって。忘れ物をしたからと言って、上靴を脱ぐ前にクラスメイトたちと別れ、急ぎ足で屋上へ向かった。それから風が吹くまで、先客がいるとはつゆも気づかず泣いたんだ。この場所で安寧を得るために、自分はどれだけ信念を曲げてきたのだろう、と。


 そして、僕が突風から顔を背けた時、初めて目が合った彼――無川はきまり悪そうに唇をきつく結んだあと、硬い表情のままで、魔法が使えると言った。


 魔法ってなんだろう。


 僕の涙を止める魔法ということ?




「びっくりした」僕は言った。


 この高校では浮くくらい成績優秀、鋭い目つき、いつも遠巻きに見られている彼がそんな素っ頓狂なことを言い出したら、僕じゃなくたって驚くだろう。


「いや、そっちのセリフか。急に来たと思えば泣き出したんだから」僕は言い直した。


 無川が、ぎこちなく頷いた。


 無口だし何考えてんのかわかんないよな。ボクは君たちとは違うって、お高くとまってるんじゃないの。無川に対する、悪口だという意識はないだろうが、確実に称賛ではないクラスメイトの評価が蘇る。その時の僕は否定も肯定もしなかったはずだ。


「もしかして……」僕は、無川の顔をじっと見た。「慰めようとしてくれた?」


 言ってみてから後悔した。見当外れだったら恥ずかしい。それに、さっきから僕ばかりが話している。


 何か言ってくれ、と願う。


「ありがとう」僕の願いが通じたのか、無川はまず一言だけ返してくれた。「わかってくれて」



     2



 あの日から無川が事故に遭うまで、僕たちは毎日つるんでいた。ブレーキ音、叫び声、歪んだ車。聞いたはずのない音が鼓膜を振動させて、見たはずのない風景は、今も変わらず網膜に焼きついている。


 最後に会話した日、無川が法学部を志望しており、将来は検察官になりたいのだと初めて知った。平々凡々な成績の僕とは志からして違うのだ、と感心したのを覚えている。高校三年生の夏だった。


 今は秋。


 放課後、決まり切った経路で部屋へ向かう。


 僕はいつも通り口角を上げてから扉を開き、部屋に入った。


「おはよう」僕は言った。


 もう、全然朝じゃないけれど。


 虚空に響いた声が消えるのを待つことなく、リュックサックを下ろし、折りたたみ式のテーブルを広げた。椅子に座って、リュックサックの中からノートと参考書を取り出し、テーブルの上に並べる。このテーブルは、僕がいつも膝の上で勉強をしているのを見かねた看護師が用意してくれたものだ。狭い部屋を占領してしまって申しわけないと断ったが、看護師も彼の母も問題ないと言った。


 シャープペンシルをカチカチと鳴らす。


 検察官になりたいと語った彼は、検察官のバッジにまつわる意味も教えてくれた。


 秋霜烈日。


 秋の冷たい霜と夏の厳しい日差し。


 刑罰や志操の厳しさ。


 平等と公正の正義。


 彼を襲ったのは、それを前にしては平等も公正もなす術のない理不尽だった。


 だからといって、それらの理念が無駄なものだとは思わない。


 彼はどうなりたかったのだろう?


 何を思って、僕に夢を語ったのだろう?


 僕に何を託したのだろう?


 違う!


 理解しているはずだ。


 彼は何も託してなんかいない。


 僕は彼から受け取った欠片一つ一つに、勝手になんとかして意味を見出そうとしているだけなのだ。意味なくされた行為であっても、誰かが少しの平穏を得るために、意味を求められる。『あなたの気持ち、わかってますよ』って? 一体、何様だろう。


 そうやって傲慢に、抗う機会はほんの僅かにも与えられず、意味が与えられていく。


 人格の侵害。


 それこそ理不尽で、不幸だ。


 そうわかっているのに、僕は。


 事故の数日後に震える指で〈検察官 なる方法〉と打ち込んだ検索ボックスが、またも脳裏をかすめる。


 違う。


 違う。


 違う。


 他の誰のためでもない。これは、僕の意思なんだ。


 ……とにかく。


 今は揺らぎながら、前に、あるいは後ろに、右に、左に。進んでいくしかない。


 シャープペンシルの芯を替えようとペンケースのファスナーを開けたところで、不意にガラガラと扉が開いた。


「こんばんは」入ってきた看護師が言った。「あと少しで面会時間終わるよ」


「あ、すみません。もう帰ります」僕は、慌てて筆記用具をペンケースへ仕舞った。


「集中していて、外が暗くなっているのにも気がつかなかったんでしょ」


「はい……。すみません」


「責めてるわけじゃないの」看護師は微笑んだ。「でも、そんな生活を続けていたら体調崩しちゃうわよ」


 僕は曖昧な笑みを浮かべながら、素早く荷物をまとめた。


「さようなら」


「さようなら」



     3



 今は冬。


 母に泣かれた翌日だというのに、僕は少しも揺るがず立っている。これからも毎日、彼の部屋へと通い続ける。信念は、もう曲げたくなかった。


 ドアを開けてすぐ、今日は先客がいるのだとわかる。予想していたことだ。


「こんにちは」僕は後ろ手にドアを閉めながら言った。


「こんにちは。今日は学校休み?」


「昨日から冬休みに入りました。今日は夕方から用事があるので、昼に来てみました」


「来てくれてありがとう。普段は時間が合わなくて会えないけれど、毎日来てくれてるって看護師さんから聞いてるわ。ごめんなさいね」


「いえ、いつもこの部屋で勉強させてもらっているので……」


「昨日、過労で倒れたんでしょう?」


「床で眠ってしまっただけです」


「だから、今日は流石に来ないと思ってた」無川の母は笑ってから、優しい声で穏やかに言った。「もう忘れてくれていいのよ」



 無川の母の隣で黙々と勉強をするわけにもいかず、僕は早々に部屋を出た。


 廊下を歩いていると、後ろからパタパタと足音が近づいてきて、僕の隣に並んだ。いつもの看護師だった。


「あれ、もう帰るの?」看護師がきいた。


「はい。明日また来ます」僕は、立ち止まって答えた。


「もうすぐ受験?」


「そうです」


「受けるのは日本の大学だけ?」


「はい。僕も家族も、日本を気に入っているので」


「そう」看護師は微笑んだ。「あっ、忘れてた。これ、差し入れ。来てたのが見えたから、さっき自販機で買ったの。ココアでも飲んで温まって」


 頑張ってね、とまでは言わないところが彼女らしい。


「いつもありがとうございます」僕は差し出された缶を受け取った。「帰りながら飲みます」


「体調はもう大丈夫? 親御さんは?」


「実は、昨日泣かれました。もう諦めてって」


「あら」看護師は気まずそうに口元を押さえた。


「無川のお母さんにも、もう忘れてくれていいって言われました」看護師の反応とは逆に、僕は淡々と言った。


「あらら……」


 諦めるものか。


 それは、胸の内にしまっておいた言葉だった。



     4



 まもなく春。


 僕は、今日も変わらずここにいる。いつでも変わり映えの無い道のりは、僕の人生を形作る。


「おはようございます」僕はリュックサックを下ろして、看護師に声をかけた。


「おはよう」看護師が振り向いた。


「少しずつ暖かくなってきましたね」


「もう春だもの。でも、まだ寒いな」


「春といえば、ここへ来る前コンビニに寄ったら、バナナが売り切れていて買えなかったんですよ。絶対、昨日のテレビでバナナダイエットなんか放送したからです」


「災難だったと思うけれど、それ、春は関係なくない?」


 この病院内で最も親しい彼女と他愛のない世間話に興じていると、慌ただしい足音が迫ってきた。振り返ると、それは新人の看護師だった。


 何か問題があったのだろうか。得体のしれない予感に、胸がざわつく。


 彼女は僕の目を見て、声を震わせた。


「大変です、無川さんが……」


 嘘だ。


 いや、


 ついにこの日が。


 僕はあの部屋へ駆け出して、半ば叫ぶように言った。


「お母さんに連絡してください」


 

 エリック・ユンは何を夢見たか?



 目覚めたばかりの無川の表情は、どこか訝しげに見えた。


(エリック、どうして白衣なんか着ているんだ?)


(なあ、無川。僕にも魔法が使えたんだよ)

 君がかけた魔法だろ。

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