解凍

 僕の親は、僕に関心を示さなかった。自分以外の人間に興味がなかったのだろう。当然、愛情を向けられていると感じたこともない。だが、それがあるように見せるのは上手く、おかげで厄介事に巻き込まれたことは一度もなかった。親は僕に愛情を注いでいるように見せ、周囲を安心させることに長けていた。そもそも、愛情なんてものが本当に存在するのか。錯覚ではないのか。いや、多くの人間が揃って錯覚しているのならば、ある、といっていいのではないか。そんな思考。


 今なら理解できる。錯覚だろうとなかろうと関係がない。自分の中に生まれた感情を信じるか信じないか、それだけなのだ。自分の感情を疑う必要も、疑うことを後ろめたく思う必要もない。そう確信している。



  * * *



 遊園地に行きたいと言い出したのは、彼女だった。


 遊園地というのは、彼女にしては少々子供っぽい提案に感じられた。しかし、どこに行きたいか、という問いに彼女が明確な答えを示したのは初めてだったので、僕は喜んでそれを受け入れた。


 彼女は無邪気にアトラクションを楽しんでいるようだった。もちろん、子どものようにはしゃいでいたという意味ではない。落ち着いた様子ではあるのだが、時折僕の方を見て「楽しい」と微笑むのだ。馬を模した座席に乗って上下しながらぐるぐると回っている彼女を眺めているだけで、僕は満たされた。


 観覧車には二人で乗り込んだ。


 ガラスを通して見える夕焼けは実に見事で、西日がほんのり中を照らしている。


「そういえば、あの日、どうしてあんなパーティにいたんですか?」僕はきいた。「あなたなら、普通に生活していてもそういうことには困らないのでは?」


「うーん、久々に色々な人と会話したくなったからかしら」彼女は答えた。「麻倉あさくらさんこそ、どうして? お見合いパーティに参加しなくたって、もてるでしょう」


「参加費を払ってでも、誰かと話したかったわけですか。変わった理由ですね」


 観覧車を降りた後、もう抑えられないと悟った。


 本当は、今夜予約してあるレストランで言うつもりだった。二泊三日の旅行の最後に計画していた、一世一代のイベントだ。その時彼女へ渡すつもりのプレゼント──指輪も、車に積んである。


 そこまで段取りをつけていたのに、なんだか胸がいっぱいで、夜まで耐えられないような気さえする。耐えられない、というのが我ながら可笑しい。彼女に出会ってから、僕の人生めちゃくちゃではないか。


 今、この場で言ってしまおう。そして、僕の罪も彼女に告白してしまおう。彼女の前では、僕の全てを曝け出していたい。僕に罰が下されるのならば、その決定権は彼女に委ねたい。僕の告白に、彼女は驚いてくれるだろうか。彼女に出会ったあとの僕のように、初めての感情を経験してくれるだろうか。やられっぱなしの僕は、あなたを少しくらい翻弄できるのだろうか。


 立ち止まった僕を、彼女は不思議そうに見つめた。


「あなたに伝えたいことがあります。僕の気持ちと、それから……」僕はもったいぶるように深く呼吸した。実のところは、自分の緊張を抑えるためだった。


 彼女は僕の言葉を待たずに、くすくすと笑いをこぼした。


 訳がわからず戸惑いの視線を向けると、彼女は唇の両端を美しく上げて首を傾げた。


「貴方は、詐欺師なんでしょう?」


 何でもないことのように発された言葉で、驚きのあまり僕の頬は熱くなった。


 少し遅れて、別の感情がせり上がってくる。


 目を見開いたまま口角が勝手に持ち上がって、顔がひきつる。


「あなたは最高の人です」僕はなんとかそう言った。


「ありがとう」彼女は微笑んだ。


「怒らないんですか?」


「どうして私が怒るの? 私は貴方に何も奪われていません」彼女は髪をはらった。「それよりも、自分が奪う側だと過信するのは危険。貴方は頭がいい。でも、油断は禁物です」


「どういうことですか?」僕は困惑して言った。彼女は一体、何を言っているのだろう。これまで感じたことのない恐怖と共に、喜びが湧き上がってくる。


「奪うのが得意な人は貴方だけじゃないってこと。例えば、盗むとか」


「え?」


 彼女は、身体の向きをくるりと変えて、首だけで僕の方を向いた。


「あのパーティに行った理由は、誰かとお喋りがしたかったから、というだけじゃないの」


 本気でパートナーを探していたから、という理由でもないことは流石にわかっていた。しかし、正解はさっぱりわからない。


「じゃあ、何のために?」僕は、降参して尋ねた。


「パーティ会場のホテルに新しく設置された、ある素晴らしい美術品の下見をする、ついで」彼女の顔はもう僕の方を向いていない。


 下見? 美術品を見るのに、下見も何もあるものか。つまり、単に鑑賞する以外の目的があったということだ。


「今日は楽しかった。それと、この前は、身体を張って守ろうとしてくれてありがとう。嬉しかった。だから、警察に突き出すのは勘弁してあげる。さようなら」


 待て、さっき彼女は何と言った?


「そういえば、麻倉も本当の名前じゃないのよね?」


 彼女は言っていた。


 盗む?


 彼女は美しい。


 彼女は。


 白い指がつまむ鍵。


 つまり、


 吸い込まれそうな瞳。


 盗みの下見。


 まさか!


かすみさん!」


 僕が彼女の名前を読んだとき、彼女の姿はすでになかった。なんて素早い。僕の方を向かずに会話を続けていたのは、人の流れや建物の位置を確認しながら、脳内で経路を組み立てていたからなのだろう。


 遊園地の中に一人取り残された僕は、どこか充実した気持ちで立ち尽くしている。


 涙が出たのは、多分、生まれて初めてのことだ。きっと、嘘偽りのない、感動だった。


 彼女を探す気にはなれなかった。もう、追いつくのは困難だろう。そう考えながら、僕の思考が冷静な状態に戻っていることを自覚する。


 そして今、混沌とした思考の外側で鼓膜を震わせていたメロディ、すなわち彼女が最後に発した声が、ようやく言葉の輪郭を持って浮かび上がってきた。


「少しショックを受けると思うわ。どうか、落ち込みすぎないでくださいね」



  * * *



 帰宅した僕の目に飛び込んできたのは、住人の痕跡すら盗まれてしまったかのような、空っぽの部屋だった。

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いつか解凍される痕跡 夕影 巴絵(夕焼けこやけ) @madder

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