いつか解凍される痕跡

夕影 巴絵(夕焼けこやけ)

邂逅

 ぼやけて、感覚は研ぎ澄まされた。


 流れていたクラシック音楽も、有象無象の笑い声も、話し声も、聴こえなくなった。精神が身体から乖離してしまったかのような、一瞬の浮遊感。口の中に残っていたワインの甘さだけが妙に印象に残っている。


 自分の感情が人よりも動きにくいのだと理解したのは、いつだっただろうか。


 大げさに笑い、泣き、驚く人間に囲まれていることが、昔は不気味で仕方がなかった。そのうち、大半の人々の目に不気味に映るのは、むしろ僕の方だろうと考えを改めた。


 かと言って、それによって苦労の多い人生を送ってきたというわけでもない。擬態する方法さえ理解してしまえば、何も問題はなかったからだ。ただその場で求められる表情、行動をしてみせればいい。人間は他の人間の内面を知りたがり、表情筋の伸縮、眼球の動き、手の動き、口から出る言葉、そんな表面的な情報が与えられるだけで安心する。それらの身体的な操作は感情の操作よりもずっと易しいから、簡単に欺くことができるというのに。そのような不確かな情報に頼ってまで、人間は他人の内面を知った気になりたいのだ。


 したがって、僕にとって感情は、単なる道具だった。相手を安心させるために、偽装するものだった。


 それなのに。


 僕は彼女を見た時、確かに心を動かされてしまったのだ。


 意思に反して呼吸が止まり、全ての器官が彼女を捉えようと必死に働きだした。


 初めての感覚。


 きっと、嘘偽りのない、――だった。



  * * *



 あの日から、僕と彼女は度々約束をして会うようになった。初めて見た時の印象と変わらず、彼女は純粋で理知的だ。しかし、浮世離れした天然な一面を見せることもあり、それがますます彼女を魅力的にした。彼女は二十七歳だと言っていた。僕より一つ年上という計算になるが、大学生だと言われても違和感がない。とにかく僕は彼女に夢中になった。


 希望、切なさ、期待、驚き。彼女といれば、新しいフィーリングが次々と湧き上がってくる。生きていればこんなにも素晴らしい体験ができるのか、と以前の僕が聞いたら鼻で笑いそうな考えすら、自然に浮かんできた。


 彼女と街を歩いていた時、ふと周囲が暗くなったことがあった。僕は咄嗟に彼女を抱きしめて地面に倒れこんだ。作業中の建物から、何か看板のようなものが降ってきたのだ。幸いにもそれはきわめて軽い素材であったため、二人ともに怪我はなかった。その時僕は、彼女に出会った時と同等の驚きを感じた。自分にも誰かを守ろうという意思があったのか、と。



  * * *



鈴木すずきさん」

 プレゼントを買って駐車場へ降りたとき、女の声に呼び止められた。その名前の指す人物が自分であると認識するのには、少し時間がかかった。


「……ああ」なんの感情もなく、振り返ったはずだった。少し遅れて、自然と声が低くなっていたことに気がついた。


「何? その態度」女は目を見開き、驚いた様子だった。「やっぱり騙していたのね」


 女は顔色を変え、激昂した。駐車場に声が響き渡る。


 以前の僕は、確かにこんな態度を取らなかった。


 以前の僕なら、怒りで顔を赤くした女のことも、適当な振る舞いで簡単に丸め込むことができただろう。


 だが、今の僕は口角を上げることすらできない。否、しないのだ。そんなことのために体力を使うのは、面倒だし無駄だと感じられた。


「優しくて、紳士で、笑った顔もかっこよくて……」女は声を震わせた。「それなのに」


「あまり大きな声を出さないでくれるかな。目立つから」


「うるさいうるさいうるさい」


 不快さに思わず眉をひそめる。こんな場所で感情を爆発させるなんて、全く愚かだ。彼女ならばこんなことはしない。まず、感情をコントロールする。最大の利益を得られるように、もしくは最小の損失で済むように、計算をする。それから、淡々と事を運ぶはずだ。


「何か言ったらどうなのよ」女は恨みがましく言った。


 僕は女に背を向けて車へ向かった。わめいている声を無視して運転席のドアを開け、車に乗り込む。彼女へのプレゼントは過剰なくらい丁重に扱って、そっと後部座席に置いた。

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