語物 第五章

トーマス先生と話してから私は私は悩んだのちに、近くの公立高校を受験した。進路の先を見据えることは見えなかったけれど、自分の中で今は時期ではないということにして、やりたいことも見つかっていないのだから、自分の現状を考えて公立で近い高校に進んだ。

 

 高校では中学とは環境が一変して色々な生徒がいた。

 

 近隣だけではなく遠くから通ってくる生徒がいて十人十色でとても面白い、そして心の距離を常に考えながら私は行動をしている。こう言う書き方をすると意地の悪い女と思われるかもしれないけれど、でも、あまり無理をしない分、心はほぼ穏やかであったと思う。そしてこれができるようになると、どことなくだけれど、昔よりは心が広くなったのではないかと思えることもあった。

 1年生から2年生になる頃の私は今だに進路を考えることができず、友人たちがアレになりたい、コレを目指すと言っている横で、私は何をしたいのかという自問自答を続けていた。

 やりたいことが全く見当たらず思い浮かぶこともないのだ。それは流れのない水面に浮かぶ落ち葉のように私という木の葉はその場で停滞をしたままだ。

 2年生に進級してその年の秋になってなお、相変わらず何も発見することも思い浮かぶこともない勉学だけの日々を送るそんなある日のこと、バス通学で秋の紅葉美しい山間道を抜けて、大東の診療所までもう少しのあたりというところで、外をぼんやりと眺めていた私の視界にシルバーの髪を秋風に靡かせた外国人の姿が入ってきた。

 一瞬のすれ違い、でも、その一瞬に目を奪われ、思わずバスの停車スイッチを力強く押した。


『次、止まります』


 機械音声がそう告げると、彼女の歩いているあたりからは少し離れたバス停に、少し古臭いバスがブレーキの音を鳴らしながら停車する。


「あれ、由実ちゃんここで降りるの?」


 市営バスの運転手で診療所のかかりつけの患者さんの熊本さんが降りる私に声をかけた。名は体を表すが正しく具現化したような色黒の筋肉質の巨体に優しそうな目が印象的だ。熊本のマスコットキャラクターを人間化するとこんな感じになるのではないだろうかと、生徒たちと職員の間では噂になっている。


「うん、先生見つけた気がするから追っかけてみようって思って」


「ああ、確かに銀髪先生が歩いていたよねぇ」


 熊本さんは特徴で人を呼ぶことがある。すれ違った先生も綺麗な銀色の髪をしている。


「うん、ミシャ先生だよ。熊本さん、明日もお願いします」


「はいはい、気をつけて帰ってね。寒いから風邪ひかないようにね」


 バスを降りて熊本さんへと手を振ると大きな爪の生え・・・てないけれど私よりは大きな手が振られた。

 ドアの閉まったバスがクラクションを一回鳴らしてバス停を後にするのを見送ってから、私はバスで来た道を戻るように全力で走った。


 声の届きそうな距離まで近づけると歩いている先生に向かって私は大声で名前を呼ぶ。

 

「ミシャ先生!」


 短い銀髪のサラサラの髪が靡き、笑みを浮かべてこちらに振り返ったミシャ先生が両手を振って答えてくれた。その場まで立ち止まりスマホを取り出して確認するように見たのちに、私を待つように立ち止まっていた。

 私が全力で走り抜くと、嬉しいそうに両手を広げて私を受け止めてくれた。


「どうしたの?私、呼ばれた?」


 そう言ってから再びスマホを取り出して確認した。ミシャ先生は呼び止められるとスマホを確認する癖が染み付いている。


「ありゃ、風来坊さね」


 よしゑがそう呆れながら言ったことがあった。

 彼女は診療が終わると散策、いや、もはや徘徊と言っても良いくらいに、ふらりと歩いて出かけてゆき、色々なところに顔を出す。なにぶん普段からどこにでも姿を見せている彼女を探し出すのは大変で、電話もマナーモードにしてしまうため、見つけて呼び止めた時には既に着信などが数十件溜まっている有様であった。


「呼び出しじゃないですから安心してください。たまたまバス乗っていて、見かけたので追いかけてきたんです。ちなみにどこに向かってたんですか?」


「そこの公園にお散歩に行くのよ」


 ミシャ先生が指し示した先には紅葉や銀杏が綺麗に色づく小さな公園が見えている。

 住宅地の外れにある小さな公園で少しの遊具と藤棚があって、その公園は彼女のお気に入りの一つだった。ベンチに座って景色を見るのがミシャ先生は大好きなようで、行方不明の時などは、ここにいることも多かった。


「私も一緒に行っても良いですか?」


「あら、いいわよ。大歓迎よ」


 笑いながらそう言ったミシャ先生は何かを思い出したように右のポケットから缶珈琲を取り出して私へと差し出した。


「これ、自販機で買ったら当たったの、同じもの2本になって困っていたから、あそこで飲みましょ」


「あ、ありがとうございます!」


 走ってきて話しているうちに指先が冷えてきていたが、その缶珈琲を受け取るとその熱で指先が温まってゆく。太平洋の海側で暖かいと思われがちだけれど、風は寒くて冷たい、私はマフラーをしているけど、ミシャ先生は全く寒くないようで秋物のコートを羽織り、ハイネックの黒色セーターとデニム姿だ。

 黒のセーターは一部がすごく盛り上がっていて私は自分と見比べて少し残念な気持ちになる。


「学校はどう?楽しい?」


 公園へと歩きながらミシャ先生がそんなことを訪ねてきた。


「ええ、とっても楽しいです。勉強もなんとか追いついていますし、親友とか友達もできましたから」


「親友がいることは素敵ね!大切にしたらいいわ。勉強は成績上位に常にいて凄いって田中先生が言ってたわよ」


 田中先生とは私の担任の先生だ。

 若い体育会系の先生だが持病があってその専門であるミシャ先生に毎月受診しては投薬を受けている患者さんでもある。そして、ミシャ先生に惚れ込んでいることも周知の事実で、私がくる前からアタックをし続けているらしく、ミシャ先生も段々と傾き始めているなんて噂話も食堂で小耳に挟んだこともある。


「え!田中先生そんなこと言ってたんですか!?」


「ええ、彼の自慢の生徒みたいね」


「恥ずかしいなぁ・・・」


「あら、恥ずかしがらないでいいのよ、誇りなさい、それは頑張りの成果よ」


 そう言って私の背中をポンポンと叩いて笑ったミシャ先生と藤棚下のベンチへ腰を下ろす。缶珈琲を開けて一口飲み、お互いに深く息を吐き出した。

 これがミシャ先生の座り方の流儀だ。


「綺麗ね」


「はい」


 葉の落ちた藤棚から右に遊具が見えるが子供は既に帰ったようで、秋の日差しに照らされた遊具たちが、少し禿げ落ちた素肌を見せながら秋の風に吹かれていた。正面の鉄棒は使い込まれた棒の部分で夕日を反射して綺麗な光を放っているし、左の庭園には、紅葉した色とりどりの木々が見えていた。

 紅くなった楓や紅葉、黄色に染まり上がった銀杏の木、染井吉野の葉やブナやハナミズキも、思い思いの色で染まってそれが夕日で神々しく輝いている。


「ミシャ先生はここによく居ますよね」


「そうね、ここは私の心風の場だから」


「心風の場ですか?」


 そんなことは初めて聞く言葉だった。


「そうよ、色々なことがあるとね、心に風を入れるためにくるのよ」


 そんなことを言ってふぅっと息を吐き出した先生の魅力的な唇に思わずドキリとする、それと同時に風を入れると言う言葉が気になった。


「風を入れるですか?」


「ええ、風を入れるよ、私の心には木々があるの。故郷の木々がね」


「ロシアの?」


「そうよ、生まれ故郷の景色は中々忘れられないのよ。そして、その木々は黒く染まる時があるの。ちょうどあの庭園のように心の中には木々があるのだけど、黒く染まってしまう時があるの」


「黒く染まる?」


「ええ、まぁ、嫌なことが続いた時とか、悩みがあった時とかね」


 そう言って再び魅力的な吐息が聞こえた。


「どんな風に風を入れるんですか?」


 私より長く生きているミシャ先生に話を聞きますよ、なんて失礼なことは言えないので、私は素直に気になった風を入れる方法を聞いてみることにした。


「そうね、私の心が真っ黒に染まって腐る前に風をいれるの。風を入れて、黒い葉を茂らせた木々たちの葉を吹き飛ばしてしまう。そして新芽を出すために整えるのよ。風の入れ方はそうね、まずは外に出ること」


「外にですか?」


「そうよ、外よ、風は外に出てみなければ吹いていないでしょ。素肌で風を感じて、そしてそれを吸い込む。これが初めかな。もちろん、おっくうなら窓をすべて開け放って風を入れてみるのもいいわね」


 風が私の髪を撫でて吹き去っていったので、それに合わせて深呼吸をしてみる。紅葉に染まる木々を見ながら吐き出していくと、気のせいかもしれないけれど安堵感が湧いてきた。


「そうそう、そんな感じよ」


 そう言ってミシャ先生が笑ったのちに珈琲を一口飲んだ。


「何気ない景色を見て、風を感じながら、ここに座って、珈琲を飲む。これが私の風の入れ方よ。ユーミも風の入れ方を見つけてみるといいわ、きっといいことがあるかもね」


「お気に入りの場所ってことでしょうか?」


「あら、そうとも言うかもね。でも、それだとロマンチックじゃないわ」


「ロマンチック?」


「ええ、言葉で端的に表すことが時には淋しいこともあるのよ。ちょっと言い回しを変えるだけで、魅力的になることもあるの、だからそれも見つけてみると良いわよ」


「なるほど・・・。そうしてみます」


「そんな難しく考えないで良いの。心のままに素直に、これも大事なことよ。誰に言うかは気をつけなければならないのだけどね」


「心のままに…」


「そう、心のままに、自分だけの、自分のための」


 お互いに顔を見合わせて笑い合い、私達は日が落ち切って夜闇が漂うまで景色を眺め続けたのだった。

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かたりもの 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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