語物 第四章


1ヶ月後、私たちはすべての手続きを済ませて正式に掛川市民となった。

吉川先生、いや、よしゑが方々に手を回してくれて、私たち家族を手元に置いて保護して見守ると言って東京や地元の行政や児童相談所と話をつけたそうだ。私はベットからずっと動けなかったけれど、よしゑの同級生というこれまた人の良さそうな顔をしたお爺ちゃん弁護士で仙人のような髭のある立花先生が、行政や警察、児童相談所と白刃で渡り合ってくれて、結果として私達親子は診療所の近くにある大きなマンションの様な寮で穏やかな生活を得ることができた。

 

よしゑの診療所の名前は「かたりもの診療所」というちょっと変わった名前の診療所だ。

 

長方形の箱のようなコンクリートでできた1階建の建物に、19床のベットと受付、診察室、レントゲンとCT・MRI室や処置室などがある。一般的な診療所よりは設備が整っていて救急車の受け入れもしていた。医師5人と薬剤師、ゆーちゃんを含めた看護師30人以上、放射線室に1日中引きこもっている放射線技師と何を飲むにもビーカーを使う臨床検査技師、常にコーヒーを持ってぼんやりしていることの多い、仕事をしているのか分からない鈴木事務長以下の事務職などの多くの人が働いていた。

 医師は5人いて、よしゑ以外は外国人の先生だった。

 イギリスから逃げてきたと言う元男性の金髪碧眼のトーマス先生(なにから逃げてきたのかはわからない)、実年齢とかけ離れた美貌をもつロシア人のミシャ先生、可愛らしい顔つきで屈んで人の顔を見上げる癖のあるイスラエル人のクリストバル先生、細目で見目麗しいが中国茶のことを語り出すと止まらなくなる恩先生、全員が女性医師ばかりである。

 トーマス先生は男性から女性に転換された方でもあるけれど、とても元が男性とは思えないほどに美しかった。

 

 この多くの先生達から私はさまざまなことを学んだ。


 体が回復してくると気力と体力を養うためだと5人の先生方から言われ、まずは全ての先生からサーフィンを仕込まれた。診療所の裏手には大きなプレハブ小屋が2つあって、ここに院長を除く(昔はやっていたらしい)すべての職員のサーフィン道具が収納されていた。鈴木事務長が従業員の駐車場は常に満車で溢れていて、仕事に来ているか、それとも波乗りにきているのか、分からなくなるとぼやいていたが、当の本人さえも、ウエアのままで事務室の窓から室内の電話を取りコードを伸ばして話をしていたりすることもある。

 見事に仕事と趣味が一体化した診療所である。

 そして私を外に連れ出して遊ぶためと称して、私をサーフィンの沼に沈めるために必要な用具一式を準備万端に買い揃えると、私の名前の刻まれた新しいロッカーに収納されていた。1から教えてもらい、自分でもしてみようと気力が沸いたことからのめり込んでいき、その甲斐もあって身も心も健やかになってゆき数ヶ月が経過した。

 母との生活も最初はお互いに戸惑いの連続だったけれど、1週間もすれば受験前の生活に戻ることができた。毎朝、元気よく出勤していく母を見るたびに私はほっと胸を撫で下ろした。そして、私もまた近隣の中学校へと通学を始めたのだった。


 あれから季節は巡りに巡って、私の中学生活は3年生を迎えた。そう、あの忌々しい受験という言葉が再び私へと迫ってきていた。母親もそれを微妙に感じ取っている様だったが、地元の方々の優しさや職場の人達や友人もできて、不安をある程度和らげることはできている様だった。

  

 初夏の終わり頃の日曜日、私は様々なことが不安に思てきた。高校は近隣の公立高校に受験しても受かるだろうと言われていたが、その先の進路で悩んだ。私には中学受験の時の失敗がいまだに根底に寝転んでいて、それがこの先もついて回るのではないかと不安になっていたのだ。

 そのことを一緒に海に出ていたトーマス先生に話して相談を持ちかけた。


「そうね、それは考え方次第よ」


 ウェットスーツに身を包んで浜辺に一緒に座っているトーマス先生は、夕陽を浴びた美しい横顔で海を見据えたままそう言った。


「考え方?」


「ええ、いや、心の持ちようかな」


「心ですか?」


「ええ、そうよ。きっと不安は受験が根底にはあると思うけれど、思春期でもあるのだし若い女の子は大変よね。でも、そうね、偉そうなことを言うわけじゃないけど、心は常に不安定ということを知っておいた方がいいと思うわ」


「不安定ですか?」


「そうよ、心が揺れ動くなんていうでしょ?」


 そう言ったトーマス先生が海指さした。

 ほどよい波が打ち寄せる海にはサーファーが多くいて、そのうちの半分くらいは診療所の職員で見知った顔が多かった。


「心の中は常に海なのよ。荒れることももあれば穏やかなこともある。それを先ずは知った上で心を落ち着かせる方法を知ることが大事なのかもね」


「落ち着かせる方法?」


 私が首を捻るとトーマス先生は再び素敵に笑った。


「ええ、難しく考えないでいいのよ。でも、落ち着かせても心はすぐに乱れるの、水を張った桶に水滴を垂らすように、常にどんなことからも揺れ動くのよ」


「それって弱いことなんじゃ・・・」


「違うわよ?それを弱いというなら、強いというのは、ただ単に無関心か感じていないか、どちらかよ。まずは揺れ動く事を理解しておくことね。些細なことでも動揺するのは悪いことではないの。不安になるのは当たり前なのよ。でも、その不安を減らすことはできるの」


「どうやって減らせるんですか?」


「そうね。例えだけど水たまりと海ならどっちが広い?」


「それは、海ですけど」


「そうよね。水たまりは踏めば舞って荒れてしまうけれど、海は踏んだところでびくともしないでしょ、要するに心を大きく持つことが肝心なのよ、そのためにまずは何をすべきか、人の心の大きさは違うという事を理解することが重要ね」


「大きさが違う?」


「そうそう、この人は心が狭いなんて日本人は言うじゃない、それと一緒よ、相手のことを自分と同じだと考えないこと、そして心もまた違うと言うこと、それをまずは考えてみて、どうして違うのかなんてことは気にしなくていいの、だって、常に一緒に育ってきていないんだもの、だから、相手を理解すること、そしてそこから距離を測ること」


「距離を測る?」


「そうよ、相手を大切にする距離じゃないわ、自分を守る距離よ」


「自分を守る距離?」


「ええ、だって、相手に合わせてたら疲れるじゃない、自分を犠牲にして相手に・・・と言うのは良いことでもあるし、しなければならないこともある。でも、それをずっと続けることはいいことではないの。理解を少しでも良いから相手の仕草を見て感じて、この距離なら自分は大丈夫と思える距離で付き合うこと。見極めには経験がいるけれど、考えているのと考えていないのでは全く違うわ」


両手を伸ばして背伸びをしたトーマス先生が深呼吸をした。


「適切な距離感を気付ける様になった時、心は常に落ち着いて話をできる。相手が無理にそれを矯正してきたり、強制してきたりするときは、大きなお世話だから離れていけばいいの」


「自己中心的って言われそう・・・」


「そんなことないわよ。だって、無理をして壊れた時に最後まで面倒を見てくれるわけじゃないでしょ?」


「それは・・・うん」


「まぁ、私の考えだから全てを受け入れる必要はないからね。でも、悩みがずっと続くのはよくないと思けどユーミは大丈夫だと思う」


「どうしてですか?」


「だって、いま、そうやって不安になって相談してきてるじゃない」


  長い金髪の髪を右肩に掛けて夕刻の金色の日差しを浴びているトーマス先生がそう言って笑みを見せる。


「それっていい事なんでしょうか」

 

「良いことよ。相談して話せるってことは自分の殻に閉じこもっていないということだもの。考えてばかりはよくないけれど、今ここで焦って判断するより、きちんと期限を決めて答えを出してみるのも良いと思うわ、私も医師になることにひどく悩んだけれど、この仕事を選べたことに悔いはないわよ」


「先生になるのを悩んだんですか?」


「ええ、悩んだわ。でもね、期限を決めてしまうと意外と決まるものなのよ。ああ、自分を信じて決めるとか、なんとか偉そうなことなんて言わないわ。そうね、コイントスのようなものよ」


「コイントス?あのコインの裏表で占うみたいなもの?」


「そうよ、突き詰めて考えるとね、やるか、やらないか、なのよ。それに理屈や屁理屈がついてくるから、迷うだけなの。コイントスは裏と表しかないでしょ、それでなんて考えてないって言う奴もいるけど、しっかり考えて実行しても、狂うときはあるのよ、何事にも挫折はあるし失敗はある。それを考慮に入れて考えてゆくと、大抵は何もできなくなるわ。しっかりと考えてこれでいけると思った時に迷う様なら、コイントスで良いのよ」


「でも、そんなことで今後のことを考えると・・・」


「何度も言うけど、今後のことは決まったことじゃないでしょ?」


「え?」


「計画を立てた、レールを敷いた、でも、それを走るのは人間よ。人間は間違える生き物なのよ。医者だってそうよ。野生の感が衰えた分、動物よりも間違えるかもしれない。道を走って行き、やがてそれが詰まることがあるかもしれない。その時に、その道をまっすぐ突き進むか、少し迂回して元に戻るか、諦めるのか、それを判断しながら生きていくしかないのよ。でも、無理やりはダメよ、しっかり立ち止まって考えてコイントスして答えを出すこと。これが重要ね。人生なんて、よしゑさんみたいな年齢になっても挑戦はできるのよ」


「はい・・・」


「今は分からなくても大丈夫、でも、時期を区切らなきゃダメよ」


「時期ですか?」


「ええ、時間は無限のようで有限だけど、時期はその時にしかないわ。だから、時期を逃さないように気をつけてね。時期を見失わなければ、神様は常に見ておられて、手助けをしてくださるものよ。それに運と言う言葉あるけれど、あながちバカにもできないものなのよ」


「そう言うものでしょうか・・・」


「あら、ちょっと難しくいいすぎちゃったかな。ごめんね。でも、時期を決めて考えてみればまとまるわよ、あ、でも、1つだけすぐに決めないとならないこともあるわ」


 トーマス先生は真剣な眼差しでこちらを見た。


「なんですか?」


「恋よ、これだけは待ってはダメ」


 そう言い終えるとトーマス先生は海へ顔を向けて海から上がり浜辺を歩いてこちらへ来る彼氏へと手を振った。素敵な笑顔の彼も同じように振り返して返事を返した。


「ユーミには、まだまだ、短いようで長い時間がある。でも、何を成すか、何を掴むか、考えながら進んでいけばいいのよ」


 そう言うと私にウインクしたトーマス先生は立ち上がって、消防署員の彼氏の元へと走っていった。

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