語物 第三章


視界に入ってきたのは白い天井だった。

 目を覚ましたは良いが、今一度意識のはっきりしない頭を持ち上げた途端に刺すような痛みの頭痛が駆け抜けてゆく。

 思わずぎゅっと目を瞑って全身が痛みに耐えようと強張らせる。

 やがて強張りをほぐすようにゆっくりと四肢を軽く動かしてしっかりと瞼を開いた。

 視界に入ってきたのは電気の消された白い天井だった。辺りには病院によく掛かっているピンク色のカーテンが私の寝ているベット周りを囲んでいた。室内は喧騒もなく静かであったが時より微かに波の音が漂うに聞こえてくる。

 病院なのだろうかと私は考えて、前に運動会で骨折した折に入院した病室を思い出すと、あるであろうナースコールを取ろう起きあがろうとしたが、体には力が入らず起き上がることもできず、首を動かして周りを見渡してみるものの、その様なもは見つけることができなかった。起きたことを知らせるために声を出そうとして、喉に激しい痛み走ると激しく咳き込んだ。母に首を絞められた事を思い出し、ゾッと背中に寒気が走る。それと同時に母はどうなってしまったのだろうかと心配にもなった。


『お母さん』


 不安からなのか私は心の中で母親を呼んだ。無論、答えてくれることもない、

 結局、思考を止めた私は点滴がぽとり、ぽとり、と滴下されて落ちる様をぼんやりと見ていた。やがて、どれくらい時間が経ったのか分からないが、妙に大きい点滴袋が半分くらいまで減ったあたりで不意にカーテンがゆっくりと開いた。


「目が覚めたかい?」


日焼けした綺麗な老婆が顔を覗かせて、そう声を掛けてきた。


「顔色はようさそうさね」

 

そう言って素敵な微笑みを浮かべた老婆は近くにあった丸椅子に腰を降ろした。

白絹糸のような美しい白髪に深い皺の刻まれた顔が年齢を物語るが、背筋はしっかりと伸びていて、ハキハキと物事を言いそうな口元が年齢を感じさせず、若葉のような力強く若々しい雰囲気を醸し出している。ピンクの派手なスクラブに糊のきいた純白の白衣を着た老婆の左胸ポケットには、まるでそっと添えられるかのような小さなプラスチックプレートが掛かっていて、そこには「医師 吉川よしゑ」とあった。


「私の言葉はわかるかい?ああ、頷くだけでいいよ、しばらくは声を出すことは難しいだろうからね」


私が頷くとよしゑもゆっくりと2回ほど首を縦に振り頷く。


「3日間ほど寝ていたからね。どうだい、少しは楽になったかい?」


 私は再び頷いた。殺される瀬戸際だったことを再び思い出して体が強張る。


「あんたのお母さんも無事だから安心しな。何があったかも話は聞いたよ」


 それを聞いて私は複雑な感情になったもののしばらくするとホッと安心することができた。

 ずっと母子2人で生きてきたのだ。もし、母が居なくなってしまえば私は1人になってしまう。それにこんなことがあっても母を責める気にはならなかった、悪いのは見たこともない父親だ。あいつが全てを狂わせたのだと引きこもっている内に目に見えない相手を憎むことにしていた。

 私も被害者であって母も被害者なのだ。


「お母さんもね、色々と追い詰められていたんだろうさ、でも、それをあんたに理解しろなんて言わないよ、あんたを手に掛けたことには変わりないんだからね。でも、落ち着いて話を聞いてみれば哀れなほどに自分を責めていたよ」


 老婆、いや、吉川先生は悲しそうな表情を浮かべて歯切れが悪そうにそう言って目を伏せると、ポケットから取り出したハンカチで目元を拭いた吉川先生は再び顔を上げた。


「ああ、自己紹介がまだだったね。私は院長の吉川、ここは私の診療所だよ」


 私が頷くと再び吉川が口を開こうとして、それをまるで止めるかのように彼女が座っている反対側のカーテンが勢いよく開いて甲高い声が響いた。


「ババァ!点滴の指示がねーぞ!」


 そんなことを言いながら入ってきたのは、同じようなピンクのスクラブに身を包んだ女性だった。

 金髪に小さめのピアスをして小悪魔顔のその女性は、妙に胸元が開いたスクラブを着て左ポケットに「看護師 ゆーちゃん」と手書きの名札がぶら下がっていた。


「黙りなクソガキ、診察中だよ」


 その看護師を睨みつけた吉川先生へは見向きもせずにゆーちゃん看護師は私をみると破顔して嬉しそうに笑う。


「お、起きたのか、元気か?」


 私は素直に頷くとゆーちゃんはとても嬉しそうに笑みを浮かべた。近寄ってくると頭に優しく手を当てて、やさしく、本当にやさしく撫でてくれた。心地よい撫で方が私の肩に不自然にかかっていた力を抜いてゆきほっとさせてくれる。やがて手を離して点滴を見たり脈や血圧を手早く測り終えて、彼女は問題なしっと小声で言いながら私を再び優しく撫でた。


「起きてよかったよ。でも、1番にババアの顔を見るとはショックだよな」


 そう言い切った直後に立ち上がった吉川先生にバシッと頭を叩かれたゆーちゃんはその場に蹲った。叩く音はかなり良い音が聞こえたので良いポイントにでも入ったのかもしれない。床でおそらく悶絶しているであろうゆーちゃんをそのままに吉川は白衣のポケットからスマホを取り出した。


「言葉の使い方には気をつけないとねぇ、痛い目みるよねぇ」


 妙に響きのある言い回しをして笑顔を浮かべている吉川がそう言うとスマホに視線を落として綺麗な指先で操作してゆく。


「気をつけろ、このババァは暴力的だぞ」


 蹲ったままでゆーちゃんはそんなことを痛みに耐えながら呟いた。


「次はスマホの角でやってみようかね、そろそろ買い替えどきだからねぇ・・・」


「ほら、すげぇこと言うだろ、おっかないんだよ、このババアは・・・。あ、バイタルは正常だよ」


 最初はケラケラと笑っていた吉川が末尾の言葉に反応して真面目な顔をした。そして、ゆーちゃんの頭を数回撫でてた。


「ありがとう、点滴の指示は出したよ、よろしく頼むさね」


 冷静な声で指示を伝えた吉川にゆーちゃんは蹲っているのをやめて立ち上がった。そしてポケットから同じようなスマホを取り出して確認してゆく、その表情からはいつの間にかさっきまでの笑みが消えて凛々しい顔つきに変わっていた。


「17号室の榊原さんの処方は変えてくれた?」


「ああ、変更しておいたよ。増量せざるを得ないから、夜に不穏になるかもしれないよ」


「しっかり見とく、夜勤者はアカリとたえさんだからきちんと引き継いでおくわ」


「15号室の立花さんはどうなんだい?」


「旦那さんが付き添ってたから、今日は落ち着いてたよ。あの夫婦ラブラブだかんな、ボケても愛しい旦那は忘れないんだな」


「歳老いたる愛は不偏さね、私は由実ちゃんと話をしていくから、なんかあったら他のを頼りな」


 頷きながらそう言ったゆーちゃんの肩を吉川先生はポンと手で叩いた。

  

「頼んださね」


「あいよ、あ、由実ちゃんもゆっくり休みなよ!」


  ゆーちゃんは現れた時と同じように疾風の如くその場を去っていき、室内が静かになると吉川先生が再び椅子に腰掛けて深いため息をついた。


「あれは看護師さね。あんななりだけど、優秀だよ」


私はすこし唖然としながらも頷くしかなかなかった。


「茶々が入ったね・・・。話を戻すけどね。あんたのお母さんと話をして、うちの診療所でやり直しで働いてもらう事になった。あんな事はないと思うけれど、私も心配だから、あんたの保護も含めてうちで面倒を見る事になったからね」


矢継ぎ早にそんなことを吉川先生は言うとさらに言葉を続ける。


「これは決まった事だから、あんたは文句を言わずにね」


そう厳しい口調で吉川先生は言うと、和かに笑みを浮かべて私の頭を撫でてから、カーテンの外へと出ていく。


 事態の急展開に思考が追いつかない私は呆然としたまま閉じられたカーテンを暫く見つめていた。

 徐々に考えが落ち着いてゆき納得のいかない思いなどなど、さまざまな心風が体内を吹き荒れてゆく。

 そして深夜に高熱を出して寝込んだ。

 でも後々考えればこの高熱は心配する事なく考えることができたことによる安堵感からの熱だと思う。

  それまでの生活は細い糸の上を、あるいは薄氷の上を歩くようなギリギリの生活だったのだから。



 

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