語物 第二章


中学受験に失敗した私、仁科由実にしなゆみは挫折感と絶望感の仄暗い中を漂っていた。

受験での一次学科試験の成績は全くと言っていいほどに問題なく通ったが、二次面接試験で私の評価は地の底へと落ちていった。

 母子家庭なのが災いした・・・。

 いや、正確に書くなら学校側が事前に調べた家庭調査の中で、幼い頃に母と離婚した父親と思われる人物が反社会勢力の構成員だった事が真の原因だった。

 生い立ちや入学して目指したいことを、考えてきた通りに、そして自分の夢に向かって進んでいく姿を明確に話していく途中で、面接官にその言葉が伝わっていないのではないかと違和感を感じていた。

 面接が終わったときのことだった。部屋を退室しようとした時に小声で面接官の会話が偶然耳に入った。


「あれはダメだな。親が悪すぎる」


「ああ、逮捕歴もあるんだろう、離婚しているとはいえ父親がそれでは我が校には難しだろうね」


 そう言っていたのが偶然に聞こえてきて、それは母の耳にも聞こえていたらしく、その場でしばらく立ち尽くし、そしての顔をからは血の気が引いて真っ青であった。暫くして届いた通知には『不合格』の文字が並んでいた。

 母親の真知子はその事を自分のせいだと悔やみ、そして次第に心が病んでいった。

 私の人並み以上と母が自負していた努力の結果が、あっけなくそんなことで、そんな形で奪われてしまったことに冷水を浴びるが如くのかなりのショックを受けて、まるで崖を転げ落ちるように体調を崩していき、仕事にいくことはもちろん、外へと出てゆくことすらできなくなっていった。


その後は絵に描いたような不幸が家の中を濁流のように流れ、そして暗がりに溜まる澱んだ水のように溢れていった。


母が働けなくなったことで生活は困窮し、一時期はご飯さえも食べることができず、私の命綱は学校で出る給食だけとなった。しかし、給食費さえ支払うことができていない有様に私自身も心が痛み、そして日増しに罪悪感が募っていく、やがて風呂や洗濯が数日おきになってきてしまうと、薄汚い容姿で学校生活を過ごしていなければならず、そして受験に失敗した噂も尾鰭がついて噂となり、やがてそれはいじめへと繋がった。


「風呂がわり!」


 トイレに入って隠れていればバケツの水をかけられて、階段や廊下で突き飛ばされる。6年生の1番ストレスがかかる思春期にちょうど良いサンドバックを手に入れたようなものだ。

 担任は見てみぬふりをして、我慢の限界から保健室へ逃げ込み、スクールカウンセラーに相談したことでいじめは発覚したが、受験に影響を与えたくないという学校側の加害者への配慮で、私へのいじめは一旦は治ったが暫くすると再開された。

 誰か1人が行為を始めてしまえば、後は右へ倣えと言うやつだ。

 誰も信用できなくなってしまった私は、学校に行かなければそんな思いもすることはないという考えから、ついに何かしら全てのことに理由をつけて登校を拒んだ。後々考えてもこれは良い事だと思う。人間が限界に対して挑んでいくのは、その先に幸福があるのなら行えば良いが、先に一寸の光も差し込まないのであれば、自己防衛を優先すべきだ。

 少しの間、正気に戻っていた母親に、通学したくない理由を涙ながらに話したことで、母はさらに体調を悪化させてしまった。

先生方やスクールカウンセラー、市役所職員や児童相談所の職員が自宅に来ては話を聞こうとするたびに、母は頑なに拒否して私に合わせようともせず、玄関の扉の前で必死に鍵かけて気狂いのように扉が開かないようにドアノブを握り続けてた。

 自宅にはゴミ袋が溢れて溜まってゆく、綺麗に整理されていた室内はみる影もなく荒れ果て、そして電気やガスも止められて1ヶ月が経過した頃だった。


「出かけるから起きなさい」


母がボロボロになって電源の入っていないスマホを握りしめて、汚れて皺の寄った服のまま私の部屋のドアを開けてそういうと、風邪を拗らせて栄養失調のためかうまく回復せず自室で寝込んでいた私を、ベッドから引き摺り起こすと無理矢理に手を引いて外へと連れ出した。

 時間は午前0時を過ぎており新月のため外は暗くて街路灯の仄かな光があるのみだった。あたりの様子を伺いながらまるで怯えた猫のように母はアパートの階段を降りていく。金属の階段に足が降りるたびにカツンカツンと音が鳴り、そしてその音にさえ母は怯えて体をこわばらせ、私は怠さの残る体を引きずるようにして無理矢理に階段を下った。

週末になれば母子2人でよく出かけた思い出の軽自動車は煤けて埃を被った姿で駐車場に止まっている。母の手で綺麗にされていたあの頃の姿は見る影もない有様で、夜中に買い物に出ては必要なものを買い漁って帰ってくるだけに使われていた車の助手席に乗るように促され椅子に崩れるように座る。

 母はエンジンをかけると車を走らせ始めたが、目的地を聞くことすら私はしんどい。

 お互いの体からは、長いこと風呂に入っていないせいと洗濯をほどんどしておらず着たままの服についた汗と垢の混じったすえた匂いが車内に立ち込めてくる。やがて鼻をつく匂いに耐えられなくなり、寒空の下で窓を開けて匂いを逃しながら車内は無言のままでエンジン音のみが響いていた。

 時折、交差点などで見える道路上の青看板は住んでいた東京の外れから徐々に遠ざかっていくのが読み取れる。1号線をただひたすらに車は走り続いていき、やがて静岡県の掛川市内へと入ると突然左折して曲がると、そこからは文字通りの暗い山道を走り抜けていく。

 明かりのない山道でふと空を見上げれば、星が綺麗に輝いている気がした。

 やがて車は太平洋に面した海岸にある駐車場へ入ると海を真正面に見ることのできる位置へと停車させた。

 フロントガラス越しに雄叫びを上げるような波音と、薄暗いヘッドライトに照らされた白波がこちらへと迫り来るかのように荒々しく打ち寄せたのが見えた。

 暗い中で打ち寄せては消えていく波はまるで手にようにも見えて、それが私達を海へと、おいで、おいで、と手招きをしているように思える。


「おばあちゃんと来たことのある海よ」


 海を見ながら母はそう言うと懐かしそうに目を細める。その表情を見た私は母が全くの別人のように感じてしまった。

 私の受験に失敗する前までは普通の会社員として毎朝、爽快な姿で出かけていく立派な母親だったのに、今やその姿は見る影もなく、ボサボサの髪の毛に荒れた素肌、薄汚れた服を着て、不気味な笑みを浮かべる気持ちの悪い女に見える。


「ねぇ、もう、嫌だよね」


 こちらへと振り返った母はそう言うと、両手を伸ばして私の首へと手をかけた。

 その目はもはや人の目をしておらず、濁ったガラス玉が入っているかのようで光を見つけることはできなかった。笑うとも泣くとも、なんとも言い難い表情を浮かべた母の表情は、死神が取り憑いているようにも見えて私は戦慄した。しかし、首を絞める両手を振り払い争うだけの力は私には残ってなどいない。体力がかなり落ちていて車に乗るのさえもやっとだったのに、長い時間冷気を浴びて芯まで冷えた体に、もう何も残ってなどいなかった。


「ひゅぅ・・・」


声を出そうとするが締め付けられた喉からは息を吐き出すことすら難しく、絞められた首のせいで血が昇らず意識が掠れてゆくのが分かる。母の顔が暗闇と共に徐々に徐々に霞んでくのが怖くなり、なんとか気力を振り絞って母の腕を握って振り払おうとするが、それをどうこうすることはできない。


「ごめんなさい、もう、もう・・・」

 

視界が暗闇へと堕ちこんでゆく、もう、これで最後のなのだろうと力の入らない両手を落として諦めかけたその時だった。


 助手席のドアが開き荒々しい雄叫びのような怒鳴り声が遠のいてゆく意識の中に響いた。


「何をやってんだい!」


薄れゆく意識の中で聞こえてきたのは老婆の激しい怒鳴り声で、その声を聞いたのち私の意識は地に落ちた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る