かたりもの

鈴ノ木 鈴ノ子

語物 第一章


友人が死んだ。

端的に書けばそうなるかもしれない。

故人との2人の時間が欲しくて、私はひっそりと焼香に出向くため喪服を着て葬儀会館の一室へと足を踏み入れた。線香の香りが漂う室内は薄暗く明かりが落とされてこじんまりとした祭壇があつらえてある。真ん中に置かれた遺影はスポットライトで照らされていて、写真の中で笑う彼女の表情は普段通りのとても素敵な笑顔だった。


「こんばんは」


彼女の遺影に視線を合わせながら生前と同じように話しかけて私は室内へと入るが、いつもの『よくきたね』と聞き慣れた返事はない。それが彼女が亡くなったと言うことをさらに際立たせた気がして、悲しみが心の奥底から迫り上がってきた。雫がそっと頬を流れて床に落ちてしまうと、俯いて唇をギュッと噛み締めると不意に彼女の声が聞こえてきた気がした。


『しょげるんじゃないよ、まったく』


 そう、考え込んだり気分が落ち込んだ時に、そういいながらケラケラと笑みを浮かべて背中を軽く叩く彼女の姿が思い浮かぶ、そう、しょげても良いことなど何もないのだ。涙の跡をハンカチで拭いてから姿勢を正すと顔を上げて遺影に微笑んだ。


『そう、それでいいんさね、笑みが1番だよ』


二言目の言葉が再び聞こえて気やような気がして私は軽く頷いて一歩、また一歩と祭壇へと歩みを進めた。

 華美なことがあまり好きではなかった故人の遺言もあってか、祭壇の周りはことのほか質素だった。

 白色で整えられた小さな供花が数基置かれて飾り付けられているだけで、あとはアルコールが飲めなくなって以降に愛飲していた炭酸水のペットボトルが数本ほど供えられているだけの祭壇であった。私もそこに炭酸水のペットボトルと大切に持ってきたボトルワインを一本備えた。

 そのワインはある約束を果たした際に2人で飲む事になっていたのだけど、結局、役目をを果たす事はできなかったものだ。


「栓、開ける?」


 置きながらそんな事を口走ってしまった。

 同居していた頃に御飯時にワインの栓を開けるのが私の役目であり、栓を開けるタイミングを聞くのも癖となっていた。もっとも飲めなくなって以降は久しく言っていなかったが、こういう場では唐突に思い出すのだろう。


『とっておき。こんなところで開けたら勿体無いさね』


 再び彼女の声が聞こえたような気がして、思わず私は軽く吹き出してしまった、その意味に頷きながらワイン瓶を置き終えると、祭壇の前に置かれた白いひつぎへと両手を合わせて合掌したのちに、白く純白で包まれた棺の開かれた小窓をゆっくりと覗くと、まるで眠っているような、そんな穏やかな表情をした顔が見えた。

 綺麗に整えられた絹糸のような長い白髪は普段と変わらず、うっすらと死化粧しにげしょうを施された彼女の顔に思わずどきりとしてしまった。死んでもなお美しいというのはこう言う顔をいうのだろうかと思えてくるほどだ。


 とても綺麗な死顔だった。


 それを見て私は安堵した。安らかな永眠顔ねがおは彼女の最後を飾るに相応しい。


「これ、立ち寄って摘んできたよ」


 2人で散歩ついでに立ち寄った海辺の近くの公園に咲いていたシロツメグサを数本ほど彼女の棺の上へと備えた。

 シロツメグサが咲き誇る公園のベンチでよく2人で色々なことを話していた。たわいもない話から彼女の生き様まで色々な事を聞いたり教えてもらったりしたことが懐かしく思い出される、そして、私の人生の歩む道の羅針盤もそこで針が定まった。


「寂しいけど、あとは任せてね」


 そう声をかけて私は彼女へ笑みを見せると棺の中の彼女もまた笑ったような気がした。でも、それに返事はなかった。最後まで彼女はこの選択を悩んでいたこともあるのかもしれない。

 焼香台で線香に火をつけて、立ち昇る煙を少し眺めてから、香炉へとそれを置くとしっかりと両手を合わせて合掌して祈り、そして、私は深く、本当に深々と、こうべを垂れた。しばらくの時間、かたりつくせぬほどの感謝を心の中で只ひたすらに紡いでゆく、そうしてしまうと今まで我慢していた感情が大粒の涙となって溢れ出して眼下に見える床を濡らしていき、固く結んだ唇で声を抑えて私はしばらくそのまま動くことができなかった。

やがて気持ちが少し整理できた私は近くにあった椅子に腰を下ろして、泣き腫らした目で遺影を見つめた。その視線は優しくて私に微笑んでくれていた。


 友人と言うにはあまりにも年齢が離れていて、何度も祖母と孫で勘違いをされた。その友人は没歳:90歳の老婆で名前を吉川よしゑという。


この人との出会いがなければ私の生は文字通り意味がなく、そして今へと繋がることもなかった。


そう言い切れるものだった。






 

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