酔狂な彼の理想と彼を理想とする酔狂な私の理想

 高校二年生の春、初めて人を好きになった。

 彼の名前は夏目くんである。クラス替えで同じ教室になった彼は、ミステリアスな雰囲気を纏った物静かな男の子だった。そんな大人びた憂いのある佇まいでありながら、顔は童顔でかわいらしいのだ。

 見つけた、と思った。

 私はそれから約三ヶ月、夏休みが始まる少し前まで、彼を観察した。


 夏目翔弥、十六歳。

 写真部所属だが、部室には殆ど姿を現さない幽霊部員。

 他人とつるむことを嫌い、他のバカ騒ぎをするクラスメイトとは距離を取り、ひとり別世界にいるかのように自ら切り取られている。

 一年のときには幼馴染みと仲が良かったそうだが、去年の夏、その幼馴染みは電車の事故で亡くなったのだという。夏目くんが人に心を開かないのはそのせいではないか、と話している人もいた。


 調べれば調べるほど魅力的である。なにを考えているのか分からない孤独な美青年だ、私は彼の独特の美しさに、完全に心を奪われてしまった。

 遠くから見ていたい気もした。だが、私は幼い頃からひとつの夢を持っていた。

 自分にとって最高に魅力的な人に出会って、愛し、愛されたい。

 それが私の理想であり、生涯の夢だった。

 この夢のため、私は勇気を出して彼に好意を告げる決心したのだった。

 放課後、夏目くんは部活に行かずに早く帰宅する。私は彼より早く教室を飛び出し、彼の通学路である学校裏の公園で待ち伏せした。

 夏目くんが公園に現れ、私は弾かれたように駆け出した。

「夏目くん」

 彼は周りに興味がない。だからクラスメイトである私を知らないのも、想定内だ。

「ずっとあなたを見ていました。好きです。付き合ってください」

 彼は周りに興味がない。だから、はっきりと分かりやすい言い方でないと逃げられる。そこまで考えて、私はシンプルな告白をしたのだ。

 夏目くんは、いきなり現れていきなり道を塞いだ女に、怪訝な顔をした。それから彼は、なんの高揚もない冷めた声で言った。

「付き合う付き合わないは別にどっちでもいいけど、俺は死体愛好家だよ」

 ストレートに言ってから、いやね、と続ける。

「君に嫌われるための口実とかじゃなくて、後で思ってたのと違ったとか言われたくないから」

 そうそう、これこれ。私の心臓はどきどき高鳴った。

「知ってた」

 呼吸が乱れるのを抑えたせいで、ちょっと声が震えた。

「……知ってた?」

 夏目くんが眉を寄せる。蔑むような目にぞくぞくする。

 知っているに決まっている。私はずっと、彼を見続けていたのだ。無表情の隙間に垣間見える、その心地よい気持ち悪さを、漠然と感じ取っていた。

「死体が好きかどうかまで、詳しく知ってたわけじゃないわ。でもあなたが普通じゃないことは分かってた。あなたが普通に振る舞っているだけで本当は異常な趣味とかあるんだって、想像して、だから好きになった」

 あと、単に顔が好みだった。

 夏目くんは相変わらず、死んだ魚の目で続けた。

「死体が好きなだけならまだしもさ、本当に人間がだめなんだよね。触れねえんだよ、あまりに汚くて」

 こんなにあっさり自白するとは、少し予想外だった。

「そう。死体の方が菌とか多くない?」

 私は驚くことなく尋ねた。夏目くんは鬱陶しそうにこたえた。

「潔癖ってわけじゃなくてさ。汚いのは内面……。まあ社会に出るにあたってそれじゃいろいろ不味いだろうから、いつかは克服しねえとなと思ってはいるんだけど」

 耳が気持ちいい。

 夏目くんがこんなに喋っているところなんて、見たことがない。涼やかで、低音で、だけれどちょっとだけ幼さのある甘い声だ。その優しい声質でつっけんどんな口調で、頭のおかしいことを言っている。

 なんて気持ちいいのだろう。

 ああ、やっぱり私、この人が好き。

「体に触れなくていい。触らない。約束する」

 見つけた、究極の理想の存在。彼を愛したい。愛されたい。

 夏目くんは無表情で私を見ていたが、やがてふっと目を細めた。

「なるほどね。それで付き合いたいと。なかなか面白いこと言うね」

 結局彼は、まあ俺はどっちでもいいけど、ともう一度言った。

 どっちでもいいならと、私は彼の彼女になった。


 彼女になったけれど、愛されてはいない。

 私が死んだとき、初めて愛してくれるのだろう。

 私の死体に接吻を落とす彼を想像するだけで胸が心地よくぞわぞわする。


「あのね夏目くん」

「んー」

 夏休み、私は夏目くんを強引に呼び出してデートをしていた。

 海辺のかわいいレトロ喫茶に連れてきたにも拘らず、彼はカメラの世話をしているばかりで店にも私にも興味を持たない。

 店のカウンターでは、気難しい顔をした初老のマスターがコーヒー豆を挽いている。コーヒーのいい匂いがする。私はうっとりと夏目くんの顔を見つめていた。

「私には夢があってね……。聞いてくれる?」

「喋ってりゃ聞こえるかもな」

 聞いていないであろう彼に、私は話し出した。

「自分にとって最高に魅力的な人に出会って、愛し、愛されたいの。最高に魅力的な人って、あなたのことよ」

「俺に愛されたいの? 死ぬしかないな」

 ちゃんと返事をしてくれた。私は胸の奥が溶けていくような心地良さに溺れていた。

「夏目くんのためなら死んでもいいな……って、最初は思ってたの。けど、私が死んだら私の意識はない。あなたを愛せなくなってしまうの」

 これはちょっとした悩みである。

「生きてる間にたくさん愛して、死んだら夏目くんが私を愛する番になればいいかなって、思ってたりもしたのよ。でもこれって、私の生涯の夢である『愛し愛される』は達成できないのよね。同時に愛がかよってるのが理想なの。それに『生涯の夢』だから、死ぬ前に叶えたいのよ」

「それはご苦労なことだな。生憎俺は死体にしか興味がないよ」

 夏目くんは視線を上げようともしない。

「あんたの理想は愛し愛されることだとしても、俺の理想は死体だから。叶えたいものが全然違う」

「生きてる私を好きになることは、有り得ないのね?」

「まず考えられない」

 そうなのだ。

 私の夢を叶える方法は、彼が見ている夢を犠牲にするしかない。

 だが私は、愛する彼から夢を奪いたくはない。すると、彼の夢を叶えるには、私が死ぬしかない。

 ふたりの夢が同時に叶うことはないのだ。

「それでも、私は夏目くんが好きよ」

 これだけ愛を囁いても、夏目くんは一切、私に靡かない。私という人間の一生分の夢が自分にかかっているのだと伝えられても、まるで関心を持たない。

 愛してくれないのは、寂しい。

 でも、そんなあなたが好き。

「分かってるよ、夏目くん」

 私は生気のない童顔をじっくり見つめた。

「分かってる。それでも愛してる。そのままのあなたが好き」

 そもそも、私の夢ひとつとっても、酷く矛盾しているのだ。

 このままのこの人が好きで、この人に愛されたい。だが、生きている私を愛する夏目くんは夏目くんとはいえない。

 夏目くんの手がコーヒーカップを取った。私に目を合わせないで、カメラばかり気にしてコーヒーを啜っている。その柔らかそうな細い指に触ることは許されない。

 触れたら、なにもかもが壊れてしまうから。


 その帰り道のことだ。

「……あのさ」

 夕暮れの帰り道、夏目くんが私を見据えた。

 黒い瞳に夕焼け空が反射して、美しくて、息が詰まりそうだ。

「君は僕のストーカーだから知ってると思うけど……僕はこのとおり、根っこから腐ってるから、人と関わらずに生きていこうと思ってた。人を好きになることも、好かれることも、あっちゃいけないと思ってた」

 さらさらの前髪が夏の風に吹かれる。蝉の鳴き声がして、夏目くんの危うい儚さが余計に脆さを増した気がした。

「でも、君の真っ直ぐな気持ちはちゃんと分かる。好きになれるか、分かんないけど……君の夢は、聞こえてたから」

 いつもはしれっと話す夏目くんが、こんなに言葉を詰まらせている。長い睫毛が下を向いて、黒目がちな目が潤む。夏目くんの細い手が、そろりとこちらに伸びた。

「だから、その夢を、僕に」


 生きている人間である私の手を、彼が握った。


「克服する。今までなにかと我慢させたかもしれないけど、少しずつなら慣れてくから」

 夏目くんの手は、ひんやりと冷たかった。人間の手ではないみたいだ。

 そんなことよりなにより、私の心臓は止まったようなものだった。


 夏目くんが手を握った。生きている人間を愛そうとしている。

 途端に彼への興味がなくなった。


 どうして。ほんの数秒前までは、儚くて美しい夏目くんだったのに。

 私に触れてしまったら、生きた私を愛そうとしたら、そんなのはもう私の好きな夏目くんではない。ただの男だ。心做しか話し方まで違う気がする。

 違う、私が愛していた夏目くんは、他人に興味がなくて自分を溺愛する女の夢すら踏みにじる冷徹で無慈悲な美青年だった。私に情が移ったなんて、そんなあなたを許せるはずがない。

 そんなの、夏目くんじゃない。


 ああ、どうして。

 私の夢はもうすぐで叶いそうだったのに。自分にとって最高に魅力的な人に出会って、愛し、愛されたいという夢の、「魅力的な人に出会う」、「愛する」まで叶ったのに、「愛される」に至る前に壊れてしまった。魅力的な人が魅力的でなくなり、私も愛せなくなってしまったのだ。

「……どうしたの」

 私好みの顔できょとんとして、夏目くんはこちらを覗き込んでくる。私は涙すら出なかった。ただ呼吸が乱れる。精神が乱れる。なにもかもが崩れていく。

「うん、そうね、そうね……」

 私は意味のない言葉を繰り返して、夏目くんの手を振り払った。

 そして道端で固まる彼を置いて、走って帰った。


 こうなった以上、前の彼は取り返せない。

 他にあんな人は、捜してもあまりいない。

 そしてなにより、大好きだった彼を、私が壊してしまった。悲しい。

 絶望した私は、家に着くなり一心不乱に丈夫な紐を探した。

 終わらせるしかない。愛する人の夢を壊して、愛する人を壊してしまった。自分の夢さえも無下にした。この先私の夢が叶うことはない。だって、この先ふたり目の夏目くんに出会うなんてありえない。私に触れる前の夏目くんこそが最高の存在だった。彼を超える人なんていない。だから、もう私の夢は叶わない。そんな人生に、なにを見出して生きていたらいいの。

 首を括って、なにもかもを終わらせるしかないのだ。

 押し入れの中から手頃なロープを見つけた。私はそれをもやい結びで輪っかを作り、自室の天井に括りつけた。吊り下げられたロープの下に椅子を置いて、輪っかに手をかける。

 ここまでに、なんの躊躇もなかった。命を絶つことに、恐怖などあるはずがない。

 夢の叶わない未来に、未練なんかない。

 輪の中に首を引っ掛けて、椅子を蹴飛ばした。ロープが喉にくい込む。息ができなくなって、反射的に脚がもがいた。

 そのときだ、部屋の扉が開いて、廊下の光が差し込む。

「どうしたの!?」

 歪んだ視界に映ったのは、下の階にいた母親だった。


 その直後のことは、あまり覚えていない。

 ただ私は折角吊ったロープから引き剥がされて、救急車を呼ばれてしまったらしい。

 私は衝動的に行動したばかりに、母の存在を忘れていた。椅子を倒した音で異変を感じて、この人が私を助けてしまったのだ。

 失敗した。

 一度未遂に終わったら、監視されてしまうだろう。生きていても意味がない未来を、なんの夢も希望もなく生きながらえなくてはならない。失敗した。母がなにか喋っているのも、ろくに耳に入ってこなかった。

 ただ、なにも知らない母が口走った名前だけは、耳に絡みつく。

「夏目くんに連絡しておいたからね。今から来るって」

「……っ!」

 私はロープの痣が残った首を掻いた。

 そんな人、知らない。私の夢を壊した人なんて、私が壊した人なんて、知らない。会いたくない。

 だけれど母は、そんなことも知らずに彼を呼んでしまった。結局、夏目くんは救急車より早く私の家に到着し、部屋まで駆けつけてきた。

「ごめん、僕が悪かったんだよね」

 夏目くんが私の手を握る。鳥肌が立った。

「僕が傷つけたんだろ。ほんとごめん、もうしないから……」

 幼い少年のような童顔で、今にも泣きそうな声を出す。私を抱きしめる彼は、恐ろしいほど体温が低い。

 救急車のサイレンが聞こえてきた。母が玄関に向かっていく。私は、自分の部屋に夏目くんとふたりきりで取り残された。

 抱きしめないで、触らないで。あなたは私の夢を叶えてはくれないんでしょう?

 そう口の中で呟いたときだった。


「惜しかったね、あとひと息だったのに」


 耳を擽った声は、聞き慣れた涼やかであどけない声だった。

 私は、えっ、と目を見開いた。夏目くんが抱きしめていた腕をそっと緩める。

 目に入った彼は、今まで見たことがないくらいに、ご機嫌な笑みを浮かべていた。

「でもね、首を吊るときはロープを頸動脈洞に入れてほしかったよ。そこに入れば脳に行く血が止まって、意識が消えるようにすっと死ねる。死体もきれいだよ。『俺』のためなら、そこまで丁寧にやってよ」

 死体になりかけた私を見た彼は、うっとりと頬を紅潮させている。私も、感染したみたいに頬が熱くなった。


 よかった、壊れていなかった。

 私を愛するために、死体にしようとしただけだった。私をわざと絶望させたのだ。

 よかった、私は愛されているらしい。

 あくまで彼の興味が私の死体でも、そんな「特別」なら心地いい。


「私の夢、叶えてくれる?」

「じゃあ俺の夢を叶えてね」


 私とあなたの、夢の叶え方。

 私が私の死を待つあなたを愛し、あなたは愛する私の死を待つ。


 私は今日も、私の死体に接吻を落とす彼を想像し高揚するのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

酔狂な彼の理想と彼を理想とする酔狂な私の理想 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ