ハルコ
植原翠/授賞&重版
ハルコ
物心づいた頃から、彼女は時々いる「誰か」だった。
「見て、晴子。まただ。掃除したばっかりなのに……」
子供部屋の窓を見る姉も、いちいち驚いたりしない。
窓ガラスにびっしり張り付いた、子供の手型。
小学校に上がったばかりの私は、三つ歳上の姉と同じ部屋で寝ていた。幼稚園を卒園したら、お母さんと同じベッドを卒業して子供部屋で寝る。これが私たち家族のルールだ。
私の三つ下には妹がいる。三つずつ離れた三姉妹だ。妹はまだ幼稚園児だから、お母さんと同じ部屋で寝ている。だから、窓の手型を知っているのは私と姉だけだった。
「何なんだろうね。寝惚けて触っちゃったのかな」
私がぼんやり窓の跡を見て言うと、姉は不思議そうに首を傾けた。
「こんなに上の方まで? 掃除するのだって大変なのに」
「そうだよね、届かないよね。でもさ、私たちのどっちかじゃなきゃ、誰なの?」
「お母さんかなあ……」
「手の大きさが子供の手だよ。私たちくらいの」
分かっていることは、手の大きさ。窓の上から下までビタビタあちこちについていて、真ん中あたりが特に多いこと。それから、跡は内側に付いているということだ。
「これさ、窓の手型に手を合わせてみようよ」
私は手のひらを広げて言った。
「跡にぴったり合わさったら、その人の手。お姉ちゃんとぴったりだったらお姉ちゃんが犯人で、私に合ったら私が犯人」
私と姉では、微妙に手の大きさが違う。私の提案を、姉は少し渋った。
「やめた方がいいよ、なんか気持ち悪いよ」
「どうして?」
「幽霊だったら、怖い」
姉はハラハラして私を止めようとする。この人はちょっと、心配性なところがある。
「そんなわけないって。それじゃ、重ねてみるよ?」
臆することなく、窓に手を添えた。ひやっと冷たいガラスの感触が手指を伝う。体温の篭った手のひらがすっと冷たくなって、なんだか気持ちいい。
窓に残っていた手型とは、少しだけ指の長さが違った。
「私じゃないみたい」
ちらと姉に目配せする。
「てことは、お姉ちゃんだ」
「私、こんなにベタベタ窓触らないよ」
「じゃあ幽霊?」
「怖いこと言わないでよ……」
自分ではないと言いながら、幽霊であるのも嫌だという。私は姉にあははと笑った。
「とりあえず、重ねてみたら? ぴったりだったら、寝惚けたお姉ちゃんだよ」
「う、うーん……」
姉は恐る恐る窓に手を近づけた。私は横で眺めながら呟く。
「お姉ちゃんとも手型が合わなかったら、どうする?」
「合わなかったら……誰なの」
姉が手型に手を重ねる、寸前だった。
「ご飯だよー!」
母の呼び声で、姉の手は止まった。姉はほっと胸を撫で下ろし、はあいと返事をした。
「行こ。窓は後で掃除しよう」
私を手招きして、姉は部屋を出ていった。静かな子供部屋に残された私は、窓の手型をまだ見つめていた。
内側ってことはさ、犯人はこの部屋の中の人なんだよ。
いや、ここは二階だから外側に付いていてもそれはそれで怖いか……。
「ご飯!」
母の声がもう一度響いた。私は大声ではあいと返し、食卓へと向かった。
多分、あれがきっかけだったのだ。
「あの子、ご機嫌だねえ」
姉の目線の先には、リビングで遊ぶ幼稚園児の妹がいた。姉からのお下がりのおままごとおもちゃで、キャッキャと遊んでいる。マジックテープの付いた野菜を半分に切り分けて、お皿に盛り付けている。
「一人で遊んで楽しいのかなあ」
私が言うと姉は、ランドセルから宿題を引っ張り出しながら宙を見上げた。
「晴子が遊んであげたら?」
「私も宿題あるもん!」
トン、トン、とおもちゃの野菜が半分にされる、小気味のいい音がする。妹はカラフルなおもちゃを全部半分にしてから、包丁を床に置いた。
「完成!」
お皿にたっぷり盛り付けたおもちゃを、妹は満足げに差し出す。
「どうぞ!」
しかし。彼女が差し出した相手は、私でも姉でもない。
彼女の真正面の、誰もいない空間だった。
掃除機をかけていた母が言う。
「ん? 何、晴子」
「えっ? 何も言ってないよ」
ソファに座って本を読んでいた私は顔を上げた。今度は母が、えっと声を上げる。
「あれっ、そこにいるの?」
「ずっとここにいたよ?」
「でも今、たしかに掃除機かけてる先に晴子っぽい足が見えたんだけど……」
食器を洗う父が言う。
「これはね、油汚れを落とす洗剤なんだよ」
父の声がして、廊下を歩いていた私は足を止める。
「緑色がきれいだろ?」
少し開いていた扉からキッチンを覗き込む。姉が妹が父に話しかけたのだとばかり思っていたが。
「晴子もお手伝いしてくれるか?」
父の背後には、誰もいない。
「……お父さん?」
廊下から話しかけると、父はびくっと振り向いた。
「あれ? 晴子、今、お父さんの後ろの椅子に……」
「いないよ」
「気のせいか。見てる感じがしたから、洗剤が気になるのかと思ったんだけど」
ゲームをしていた姉が言う。
「ちょっとトイレ行ってくるから、その間やってていいよ」
姉より少し遅く、学校から帰ってきた私を背中で察知したのだと思った。
でも、様子が違う。
「晴子さ、一時間も見てるだけじゃ楽しくないんじゃない? やりたいときは言ってくれればいつでも代わるから……」
そして振り向いて、やはり、あれ、と固まるのだ。
「晴子……今帰ってきたの?」
「うん、たった今」
「そっか、おかえり」
「ただいま」
気配がした。それは、晴子の気配だった。
だから晴子だと思って、話しかけた。
母も父も姉も、そう言った。
「はい、ハルコお姉ちゃん、どうぞ」
妹は私がいない方向に向かって名前を呼んで、おもちゃを虚空に差し出す。
「ねえ……」
そこに私はいないよ。
ねえ、君には誰が見えているの?
聞こうと思ったけれど、声にならなくて聞けなかった。
「あのね、晴子。いつ言おうか、迷ってたんだけど」
ある夜、姉が部屋の電気を消してから言った。
「きっとこの部屋には、私の妹で晴子のお姉ちゃんがいるんだと思う」
不思議な言葉は、まるで呪文みたいに聞こえた。
「……ん? お姉ちゃんの妹は私だし、私のお姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」
確認すると、姉が枕の上で首を振る、カサカサという布ずれの音がした。
「実はね、お母さん、私と晴子の間にもう一人、赤ちゃんがいたんだよ」
「え……」
「でもね、その子は生まれる前に死んじゃったんだって」
お母さんは、悲しくなるからってこの話をしたがらないんだけどね、と姉は小さな声で付け足した。
「晴子が生まれる、一年前。その子も女の子だったんだって」
「ふうん……」
真っ暗な部屋の中で、姉の声はやけに透明でそれでいて暗く沈んでいた。
「妹ができるって聞いて、私、まだ二歳だったけど。妹のお名前考えようって、お母さんが言った」
少し眠いのか、記憶を手繰り寄せているのか、記憶が曖昧なのか。姉はぷつぷつ切りながら、ゆっくり話した。
「名前、私が付けた。でも、妹は生まれてくることができなかったから……」
私はそれだけで、大体は察した。
生まれてくるはずだった姉の妹で私の姉だった人は、きっと「ハルコ」だったのだ。
彼女が生まれてこられなかったから、翌年生まれた私にその名前を付けた。お母さんがお姉ちゃんと一緒に考えた名前。お姉ちゃんがとびきりかわいいと思って提案した名前。
「そっか……私の二番目のお姉ちゃんは、生まれてたら私の一つ上だもんね。それなら……」
それなら、この部屋に一緒にいるのかもしれない。
小学校に上がったら、この部屋で寝るルールなのだ。私より一年早くここに来ていることになる。
気配が似ているのは、きっと歳が一つしか違わないから。
そして彼女も、“ハルコ”だから。
「晴子が手型を合わせたから、近くにいるよってアピールするようになったのかもしれないね」
姉は布団の中でもぞもぞ言った。
「眠いや。私、寝るね。おやすみ」
欠伸混じりの姉の声に、私も寝返りを打つ。
「夜中まで目を覚ましていたら、いつか会えるのかな」
「さあ……」
眠そうにむにゃむにゃと姉が相槌を打つ。
「そういえば、私はまだ気配を感じたことがないんだ。なんでだろう?」
ぽつんと問うたとき、姉の声がこたえた。
「だって、晴子が嫌いなんだもん……」
思わず、布団の中で目を見開いた。
「……お姉ちゃん?」
「お姉ちゃんを独り占めして、かわいい妹がいて。手があったかくって」
窓を触れたときの、あの感覚がした。
手のひらの体温が、じわりと盗まれるような。指先から手首の辺りまで、骨が凍るような。
「お姉ちゃ……」
もそ、と首を動かす。姉は寝息を立てていた。
嘘、でも、声が聞こえる。
だけどお姉ちゃんの声じゃないのかもしれない。
お姉ちゃんじゃなくて、二番目の……。
私はバッと飛び起きて、布団を蹴飛ばした。そして引き裂くような勢いで、夢中でカーテン開けた。
さっき掃除したばかりなのに。
月明かりに照らされた手型が、白くぼんやり、だけれどびっしり浮かび上がっている。
手型を付けることしか主張するすべを持たないのかもしれない。全力で私に何かをぶつけてきている。それが心臓を握り潰すみたいにギシギシと伝わってきて、背骨が痛くなってくる。
「お姉ちゃん……ハルコお姉ちゃん、ごめんなさい」
部屋の中でヒタヒタと窓に手を付ける“お姉ちゃん”に、私は泣きながら呟いた。
ハルコ 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
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