【おまけss】終章のあとのあと

「どうでもいいことかもしれませんが、ひとつお聞きしてもいいですか」


 顔が熱いのを手で隠しながら佐久田は言った。

 はい、何でしょうと気にした様子もない葵は瞬く。

 学生時代を思い起こした佐久田は長い前髪に隠れた眉を下げた。浅ましい考えだとわかっているが、勢いに乗った今しか訊ねられないような気がする。この機を逃したら、数年先になるかもしれない。そう自分に言い聞かせて、佐久田は怯む口を奮い立たせる。


「何で、僕のことは佐久田と呼ぶことにしたんですか。呼び間違えたらいけないからと、兄は名前で呼んでいたでしょう」


 いつになく弱気な声で訊かれた葵は口ごもる。呼び間違えることはありませんけど、と。指先を絡めたり、離したり、考えがまとまらない様子で続ける。


「……えーと、笑いません?」


 渋れば、教えてもらえないと骨に染みていた佐久田はすぐに頷いた。


「ぜったい、ぜーーーったいですよ?」

「はは、わかりました」

「……笑いましたね」


 声音から気恥ずかしさが汲み取れた佐久田は笑いを押し込めた。心がくすぐられただけだと言っても顔を赤くして怒るだろう。それも見てみたいが、優先事項ではない。困ったように笑えば折れると甘えた考えで葵に向きなおる。


「すみません。今から言うことは笑いませんから」


 佐久田はできうるだけ生真面目な表情と声になるように努めた。

 文句のありありと見える目で一瞥したであろう葵は時間をおいた後、観念したように話し始める。


「その、えーと、何と言いましょうか……佐久田さんは私の中でただ一人だけなので、お兄さんのことは佐久田さんと呼びたくなかったというか。佐久田さんは佐久田さんのままで残したかったというか」

「申し訳ないのですが、その感覚はよくわかりませんね……」


 眉を寄せる佐久田の言葉にえーあーうーううーんと唸りはじめた葵は何とかして伝えようと必死になる。


「愛着があるから――違う。呼びやすいから――違う。特別だから……?」


 言葉を並べていた葵は勢いよく顔を上げた。

 佐久田が体を引いてもお構いなしだ。


「そう、特別! 特別なんです! 佐久田さんは!」

「とくべつ?」

「私の中で大切な名前です」


 葵が無邪気な声で言うものだから、佐久田は手を伸ばしたくなった。兄が名前で呼ばれているのが羨ましかった。自分で線引きをしていながら、子供みたいな嫉妬心を抱えて口を開きかけたのは一度や二度ではない。そして、今なら言っても誰も咎めるものはいない。もちろん、自分自身もだ。

 自然と拳に力が入る。


「僕も名前で呼んでほしいです」

「……つかさ、さん?」


 その声で、音だけで心があたたかく満たされる。


「何でしょう、葵さん」


 ずっと呼びたかった名前を口にした詞は、自分の顔がどんな風になっているか想像できなかった。だらしない顔でないことを祈るばかりだ。

 呻いた葵が一歩たじろく。

 しばらく観察していた詞は唇を噛み締めた。異能に今ばかりは感謝した。俯いた表情が何となく読み取れるからだ。

 葵は襟元をかき合わせるように両手をあて、唸る。


「それは、胸にくるので、ちょっと控えていただければ、うれしいな、と」


 名前を呼び合うのにひと月はかかったのは別のお話。



***



 ひとまず、我慢し続けた詞へのご褒美のようなおまけもおしまいです。何か気になることがありましたら、お気軽に声をかけていただけると幸いです。


 最後に、『天と咲む』とクロスオーバーしている『紅に染む』をぺたりとしておきます。

https://kakuyomu.jp/works/16816700429354337759


 ちょっと残酷な描写も多いので、そういうのも大丈夫という方向けです。ほぼ無糖な幼馴染みですが、最終話は好評いただけてるので、よしなに。



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