【カクコン参加記念ss】三人揃えば、なんとやら
葵はどうしようもならないことで眠れない夜を幾日も過ごしていた。
明日は調理実習だから、早く寝なければならないのに目をつむってもあれこれと心配と不安がつのるだけ。気付けば朝が来ていた。
高等教育の教師を育てる高等師範学校といえども、『家事裁縫』の授業は避けては通れない。
「して、葵さん。今日の献立は」
「麦ご飯と肉じゃがと小松菜のおひたし、かぶの味噌汁です」
「一汁三菜ではないのね」
フミと葵の問答に、今日の天気は雨なのねと言うように恵子は言った。
ふーん、へぇと興味がなさそうに歩く二人をよそに、葵は静かにため息をつく。
「……一品作らないでいいので、非常に助かります」
そもそも、葵は家事全般がそこそこできる。
問題は、優秀な侍女を雇える豪商の娘フミと生粋の令嬢である恵子だ。他でもない葵の両脇に並ぶ二人が先月の縫い物の授業で話題と悲鳴をかっさらってくれた。
フミは指に針を何度も指し、消毒液と綿に格闘する葵の横で雑巾になるはずのものを切り刻んだ。要らなくなった布を折りたたんで縫い付けて、汚れを吸いやすく丈夫にするはずだったものがぺらっぺらの有り様だ。数があった方が便利じゃないか、という極論までついてきた。
かくいう恵子の縫い物も悲惨だった。葵にちくいち尋ね、やれ、玉結びができないに始まり、まっすぐに縫えないまではよかった。最後のとどめはあら一枚だけ縫えなかったわという事実をのたまう呑気な声だ。雑巾になるはずのものが本のように開いていた。
「ひとつぐらい
「そうね、周りを頼ることも大切よ。人間必ず、向き不向きがあるもの。努力で超えられない壁があるものよ」
「潔く開きなおってますね」
結論を言えば、葵はほとほと疲れた。
地獄を味わってから、調理実習の悪夢を何度も見たほどだ。全部、一人で調理するかとも考えたが、それでは勉強にならないと訴える自分もいる。
なので、葵は決心した。フミには刃物を持たさず火の番と調味料の計量を、できないことはなくはない恵子には肉じゃがを頼もう、と。
ありがたいことに、
「いいですか、恵子さん。包丁を持たない方の手は丸くして、誤って指先を切らないでください。人参は葉の部分と先を落とし、縦に切ります。そして、もう一度、縦に切って、ほら、切り口が銀杏みたいでしょう。これを薄切りにします。できますか」
「ねぇ、教本と違う切り方をしていない?」
「乱切りなんて物騒なことはやめましょう」
「葵さん、目が恐いわ」
「さ、始めてください」
葵は米をとぎ、フミによく観察するように言い含める。
「いいですか、フミさん。火が燃えるさまをどう表現するかよくよく考えてください。見聞きしたものから物語は生まれるのですから、よくよく勉強してください。それから、釜から湯気が出てきたら教えてくださいね」
「そんなに言わなくても火の番ぐらいできる」
「わかりました。信じましょう。見るだけですからね」
「それは信じてないと言わないか」
「湯気が出たら、必ず教えてくださいね」
恵子とフミがそれぞれの役目をこなす間に葵は急いだ。湯が沸き上がる内に小松菜を洗い、じゃがいもや玉ねぎ、かぶを刻み、肉じゃがを炒めるのを恵子に任せた。小松菜を茹でて、余分な水気をしぼり、食べやすい大きさに。フミが調味料を計るのを横目に出汁を取り、米の世話をした。
「葵さん、肉じゃがの味付けは?」
「和えたら、盛ってもいいのか?」
「恵子さんは一緒にやりましょう。少し待ってくださいね。フミさんはおひたしの味がしみるまで、そのままにしておいてくださいね」
ぴしりと言い渡され、二人はこくりと頷いた。
二人の動きが止まったことを確認した葵はぱちぱちと聞こえてきた釜を端に寄せ、かぶを出汁と一緒に煮る。肉じゃがの様子を見れば、火が入り表面にてりが出ていた。
「いい感じです。フミさん、味醂と醤油を教本通りに計ってください。前の項の……そう、それです。恵子さんは水をちょっと足しましょうか。……鍋ごと持っていかずに、お椀でやりましょ」
じゃがいもも小さく切ったので、肉に火が通り煮汁が沸騰し始めれば、釜から上げてしまえばいい。冷める頃には味が入るはずだ。
味噌汁も後は味噌を落とすだけ。葵がひと息ついていると、恵子とフミの口が同時に開く。
「なぁ、葵さん」
「ねぇ、葵さん」
「はい、何でしょう」
目を示しあわせた二人は、まぁ気にしないがという口ぶりで続ける。
「私達の組は玉子を使ってないよな」
「やっぱり一汁三菜を意識されたのかしら」
葵を気遣ってか、歯切れが悪い。
そろりと周りをうかがうと、玉子を焼く匂いが漂っていた。さらりと落ちていく黄色い液には、出汁が入っているに違いない。
葵達の出汁にはすでにかぶが入っている。かぶをいれる前に、出汁をだし巻きようと味噌汁ように分ける手順を踏むはずが――手遅れだった。
正しい献立は麦ご飯、かぶの味噌汁、肉じゃがに、小松菜のおひたし、だし巻き玉子の一汁一菜だったのだ。どこかの拍子で抜けていたらしい。
「や、やってしまいました」
震え声になる葵の両肩がぽんと叩かれる。
「かぶが入った出汁なんて新しいわ」
「胃の腑に落ちてしまえば変わらないだろう」
「なんか、もう、もうもうもう……ッ! 後は一人で作っていいですか」
目眩と頭痛が同時にやってきた葵は己の決心を覆した。両手で顔を覆い、項垂れる彼女を責めるものは誰もいない。
友人達を席につかせた葵は無心で一汁三菜を仕上げた。手を合わせていただくが、味がわからない。ちびちびと食べ進めていると、二人が手を合わした。
「お口に合いましたか」
力なく笑った葵に恵子は苦笑する。
「人様が作ってくださるから、ご馳走さま、なのよ。とってもおいしかったわ」
「馳走になったよ。給金をつむから、うちに来ないか」
「あら、三浦商事に引き抜いてもらえるなら、料理も頑張ろうかしら」
「うちは養成所ではないが」
「私だって、やる時はやるのよ」
「努力で越えられない壁があると言った口が言うことじゃないだろう」
まぁ、よく言えた口ですこと、と猫の縄張り争いのような小競り合いが始まった。
しゃーしゃー騒ぐ二人を待たせるわけにもいかない。葵は味や香りを感じるようになったご飯をせっせと食べた。
急に眠気が襲ってきた午後の授業をなんとか耐えきった葵は、はたりと気が付く。今日は間が悪いことに図書当番の日だ。肩を落として鍵をもらい、渡り廊下を進む足は重たい。
「こんにちは」
「こんにちは」
前から来た佐久田にも気付かずに、心臓が跳ねた。できるだけ平静を装って返したが、大分にあやしい。
通りすぎる寸前、佐久田が足を止めた。つられて葵も止める。
「当番、変わりましょうか」
全てを知っているかのように、佐久田は笑んだ。
「え、わ、悪いですよ。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
慌てる葵に対して、佐久田は目尻にしわを寄せる。
「僕が休みたくなったら、変わってください」
「……そんな日が来るんですか」
「来るかもしれませんし、来ないかもしかれませんね。どちらに賭けます?」
「……来ないほうです」
少し悩む素振りを見せた葵は結局、佐久田は休まない方に賭けた。損得で動くように見えて律儀だと知っていたからだ。
佐久田は大袈裟に驚く。
「僕、そんなに真面目じゃないですよ」
「知ってます」
葵は弧を描く顔をじとりと睨んだ。
なじられた本人はやわらかい笑みをくずさない。
「調理実習、お疲れさまでした。今度、ごちそうしてくださいね」
何でもお見通しのようだ。軽い口調は本気ではないと葵でもわかる。
どこ吹く風は、葵の手から鍵を取り、踵を返した。
「ありがとう、ございます」
小さく呟かれた礼に振り替えらずに、いえと返された。
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