流転
ノスタルジア
明日晴れたらいいね。これは遺言である。
窓越しに流れていく田園は若々しく、まだ背の低い稲、頭の垂れた未来を姿を思い浮かべる。
ここは列車の中。地方の片田舎から、僻地と呼ぶにふさわしい更なる田舎へ向かう二両の列車の中。
ボックス席に座るのは私だけ。さらに言えば、乗員も私だけ。
人口減少が原因か。高齢化社会が原因か。それともIT技術の向上か。
この辺鄙な列車は、数年前から全自動で運行されている。だから乗務員はおらず、そのついでと言わんばかりに、8つある停車駅は須らく無人駅となった。
始発駅から終点まで約2時間40分の過程を遂行するのに、人間の力は必要なくなった。時代の流れとは、文字通り瞬く間だ。
全自動で運行することが決まった際、念のため、とっていいのか分からないが、沿線沿いの住民には、鉄道会社からの説明が行われた。
車は一家に一台ではなく、一人一台が常識の環境。100メートル先の知人宅に行くのにさえ車を使う住民にとって、この列車は、言ってしまえば無用の長物。
その役割は噴水とほぼ変わらない。定期的に水が噴き出して、「あ、いま何時くらいなのか」と察する程度のもの。
有ろうが無かろうが生活に影響はない。誰も姿を見たことがないツチノコの方が、まだ夢も有用性もある。
しかし、ジジババというのは恐ろしい生き物だ。誰も使っていないくせに、いざ無人化するとなったら、やれ安全面だ、やれ人情だ、やれ魂込めろだと宣いやがったらしい。
私はその現場にいなかったから、詳しいことは知らないけど、それはそれは難航したそうな。
あー言えばこう言われ、リンゴと言えばゴリラと言われ、うんこと言えば汚いと言われる。
普段誰も利用していないくせして、一丁前に文句は言いたい。
自分達が社会から追い出そうとしてくるのが気にくわない。
人間がいないのは人情に欠けている。
人あってこその駅だろうが。
なんとも不毛な事である。ならば、お前たちはそこで働いている駅員の名前を一人でも知っているのか。そう言ってやりたい所なのだが、この問題は既に片が付いた物。散々騒いだ結果、地方新聞に小さく取り上げられることにはなったが、そこが関の山。
実際、私もこの件を知ったのは自宅のポストに入っていた、薄っぺらい地方新聞からだ。それ以外の場所でこの件を見たことは一度たりともない。
全国新聞でもテレビのニュースにも、該当する自治体をネットで調べてみても、今回の抗議についての情報は出なかった。
まぁ、言ってしまえば誰がこんな辺境の記事を書くんだ、ということではあるのだが。
固定電話以外の通信手段があるかさえ怪しい場所だ。
自分達が世間からどう見られてるかなんて、元より気にしていないだろうけれど、皮肉を込めて言ってやると、アンタらのことを見ているのは、説明に来た鉄道会社の人達だけだぞ。
いいじゃん、タイマンだ。やれやれ。殴り合いでとっとと黙ってひっこめ。おっと口が滑りすぎた。
さて……とまぁこのようなことが天網恢恢。紆余曲折、跳梁跋扈とウンヌンカンヌンありまして、この列車はめでたく無人で運行されるようになりましたと。
ジジババの言っていた安全面に一考の余地もないとは、私も思わない。けれど、乗り込む客が1人しかいないのに喧嘩が起こるわけはなく。片側は崖で、片側はだだっ広い田園であり、踏切も無いとなれば自動車は愚か、飛び出してくる人間もいるはずがないわけで。
そんなこんなで、一日一往復のこの列車は、今日も立派にお勤めを果たしているわけだ。私のような、誰もいない所でしか他者の悪口を言えない、ゴミクズ開放的自殺志願者を乗せながら。
列車の上部から空気が抜けるようなプシューという音が鳴ると、緑が車窓を通り過ぎる速度が、ゆっくり落ちていく。窓枠で切り取られた一つ一つの景色が、長く堪能できるようになっていく。
やがて錆びついた人工物がフレームインしてくると、列車はもう一度空気を抜いて、完全に停車した。
田舎の列車の扉は、都会と違って自動で開かないモノも多い。主要駅を除いて、乗降の際にドア横のボタンを押す必要がある。田舎の中の田舎を走るこの列車も、その例に漏れない。自動で開く可能性など否である。
削れ跡が目立つ扉の立て付けはすごぶる悪く、ガタガタと騒音をまき散らしながら、跳ねるようにしてその身を退かす。
この扉を跨ぐ瞬間。自分はこれから別の空間へ移動するんだ、という感覚がして、毎度のことながら、少しだけワクワクする。
きっと、初めてどこで〇ドアを使った人も、こんな気分だったんだろうなと、勝手な妄想が膨らむ。
もしこのまま生きていれば、今より技術が進んだ未来で、ど〇でもドアが完成がした現場に居合わせることができたやもしれない。
心残りは何も無いが、こういう仮定の未来のことを考えると、ちょっとばかし悔しいと感じる。
……あ、それが心残りか。
お化け屋敷くらい、古めかしく閑散とした無人駅を抜け、ホームへ降り立つ。頭上の三角屋根には、駅名の書かれた看板だったのだろうか。大きな白板が飾ってあるが、縁取りは錆びて赤黒く、肝心の駅名は、掠れてしまったのだろう。消しゴムのカスみたいなのが付いているだけで、文字の跡さえ残っていない。
周囲に民家はなく、何処までも平らな田んぼが広がっており、その奥に同じく平らな海が広がっている。
どんな場所か軽く調べてはいたが、そりゃ無人になるわな、という感じだ。
なぜ電車の無人化に反対していたのかが尚更分からない。アンタら此処に住んでないじゃん。民家一個もないし。
駅前の舗装された道は僅かしかなく、五分も歩けば砂利道となり、さらに五分進んだところで、完全な畦道に入った。
ここ数日は全国的に天気が良かった。風も穏やかで、乾いた地面を歩いていると、何処からともない緑と、潮の混ざった香りが鼻を掠める。
地元などではない、初めて来た土地だというのに、私はこの香りに懐かしい感情を思い出す。
靴底と地面が当たる音も。思わず眉をひそめてしまう陽光も。
人っ子一人いない、冥土のような景色も。青春くらい爽やかな風も。
思っている以上に、私は上機嫌らしい。無意識に鼻歌を歌ってしまっている。
真っ暗な自分の部屋で、好きな音楽を聴いている時のように。
誰にも見られない場所で、誰に聞かせるでもない音を奏でて。誰に魅せるわけでもない、見様見真似に舞ってみる。
土埃が跳ねて、服の裾がひらめいて、後ろで縛った髪が人生のような波形を打って、遠くから微かな水分を運んで来る。
帰るべき場所に帰ってきた。死に場所を選ぶというのは、こんな感覚なんだろうか。
息が上がって、苦しくなっても歌い続けながら、舞い続けながら、畦道を進んで行く。
途中、靴の隙間から小石が入ったのが気になって、面倒になった私はその場で靴下事脱ぎ去ってしまった。
多少違和感があって歩きにくいが、これから死ぬ私には大した問題ではないし、まぁいいだろう。
枯れ葉が棘みたいに刺さってこないか。心配になったけれど、幸運なことに土壌は私を、その大きな姿で、柔軟な剛で受け止めてくれた。
しばらくして、足裏の感触が変わる。
目の前には遠方にあったはずの海が広がっており、来た道を振り返ると、さっきまでいた無人駅が、遠くに方で霞んでいた。
目算では4、5キロ先だと思っていたのだが、そんなことすっかり忘れて歩いてしまったみたいだ。
乱れた呼吸を整え、全身の滾る熱を客観的に捉えられえるようになるのに連れて、意識は徐々に主観の沼の底から上がってくる。
局所を見ていた眼球はその範囲を広げ、私という事象から、私のいる場所という空間に視界を広げていく。我ではなく、要素として私を処理していく。
波の音は静かで、サーファーもいなければ、犬の散歩をする高飛車な主婦の姿もない。
自分の中で悪態が戻って来たことを確認した私は、細かな砂粒が足にへばりつくのを感じながら、誘われるように海の方へ歩いて行った。
夏というにはまだ寒い。しかし春と呼ぶには緑が多い。花粉の減った感じはあるけれど、まだ海に飛び込む勇気はない。あったところで飛び込まないけど。
汗ばむ腕に、まとわりつくカーディガンが鬱陶しい。袖を抜いて、風を待つ。
汗を拭いて肌寒さを感じたタイミングで、凧揚げの要領でカーディガン吹き飛ばす。
薄いノースリーブにストレッチのジーンズ。人生で初めてやった格好だ。
肌の露出が嫌いだから、年中袖の長い服をまとっていたけれど、此処でそのスタイルを突き通さなくてよかった。嫌いな格好に変わりはないけれど、それ以上に解放感と清涼感が心地いい。
十数羽のカモメが頭上を旋回し、その中にトンビが数匹混じっている。恐らくは餌でも狙っているのだろう。
だが残念なことに、私はあの電車の片道分の小銭しか持っていない。君たちの望むような食べ物は持っていない。何なら帰りの電車賃もない。靴と靴下も途中で捨て置いてしまった。
だからあるのは、この上下の服と、ネットで格安で買った、サイズの合わない下着だけ。靴と靴下は、遥か後方の畦道のどこかにあるけど、所在はもう知らない。何処きりとってもほぼ景色同じだし。
私が死んだあとなら、この身体を食べてもらって構わない。ただこちらも申し訳ないことに、お世辞にも肉付きが良いとは言い難い。
細い腕と細い脚。若干あばらの浮き出た胴体。
自分でもませていたと思う高校時代に唯一。年相応の膨らむことを願ったが、最終的にはフリスビーと比べても見劣りするほど、貧相なままの胸。
ごめんよ、鳥たち。もし人間を食す文化のある星だったら、《《ここ》はきっと高級食材になるんだろうけど、私のはそうはならなかったんだ。
そういう星に生まれてなくてよかったと思うよ。産まれてたら今頃殺処分されてた事だろう。
いや、別にそれはいいんだけどさ。生きる為には必要な行動だと私も思うから、いいんだけどさ。
死に様と死に時だけは、自分で選びたかったんだよ。
ずっと、小さい頃から。ずっと。
人生の絶頂。もし、命の途絶えるその瞬間まで意識があったとしても、走馬灯を見るより早く、幸福を思い出して死ぬ。
私の人生に於ける幸福のピークは、まさに死ぬその瞬間でした。そう自信をもって自伝を発行できるくらいの死に様。
私はその瞬間に出会うために生きてきた。俗な言い方をするなら、私の言う人間は、死ぬために産まれて来た。
使命なんて重たいものはいらない。理由なんて煩わしいものはいらない。
役目なんて押し付けがましいものはいらない。
運命なんて、割り切ってる想いなんていらない。
もっと、ずっとシンプルでいい。
何色にも光る照明は必要ない。
暖色とか明るさ調整みたいな機能もいらない。
オンかオフ。たったそれだけのシンプルな人生。
生きてるか死んでるか。
どちらかでしかない、無駄のない人生でありたい。
だから私は、過程から目的地まで人のいないであろう此処に来た。絶頂のまま、死ぬ準備が出来たから。その絶頂を保つには、此処がベストだった。
先ほどから、何度も言っているが、私は自分が人生で最も幸福だと思う瞬間に死にたいと、常々考えていた。
元々、生きることに前向きな人間ではなかった。青い春に赤い糸。何事にも大して興味を持てなかった私にとって、生きることはそういう作業のひとつだった。
友人と呼べる他人がいた時期はあった。けれどいつしか疎遠になった。
恋人と呼べる他人が居た時期もあった。けれどキスをしたいなんて欲もなく、隣を歩くことに快不快を感じることは、終ぞなかった。
せめて、嫌いとでも言ってやれれば良かったと、今になって思ったりもする。
そうすれば、かつて友だったあの子らも、恋人だった彼も、私を心から恨めたろうから。
海水が足首までを飲みこむ。最初は冷たくて歯が鳴りそうだったが、時間が経つに連れて、寒暖に体が馴染んできた。
一歩進むごとに、ジーンズが水を吸って重たくなる。まるで、次の一歩を踏み出すのを躊躇わせて、自死を引き留めているよう。
けれど、動けなくなったとして、どうしたいのか。誰もいないこの場所で、誰かが助けに来るまでの時間稼ぎか。
それとも、動けないまま日が暮れるのを待って、生殺しにしたいのか。
海は自然の宝庫ではあるが、同時に恐ろしい存在でもある。万物が持ち得る二面性。海に限っては、その幅が何処までも広く感じる。
コインのように人間の指でつまめる大きさではなく、牢獄のように人間一人では賄えず、視界には片側しか映らない。
圧倒的な現実がそこにあるだけ。ふてぶてしく、愚直。
生物は海からやってきた。そして私は、今からそこに帰っていく。
胸元まで沈んだと思ったのも束の間。海水は流動的に段差を作って、顎の下まで一気に上ってくる。
生物が死んだとき、土に還るという表現をする。しかしよくよく考えてみれば、人間、に続く最初の生命は海から来たとされている。とすると、海に還るの方が、忌みとしては適切かもしれない。
口に塩っ辛い水が入るようになってきた。水深は、つま先がギリギリ地面に掠るくらいまで深くなっていった。
ズボンの重さに同調するように、重たくなっていたノースリーブに引っ張られ、頭を沈める。
真っ暗闇の中、これから死ぬ人を包み込むような温度の海水が、全身を包む。
眼を閉じて、人生の最後を振り返る。
正直、死ぬのは40くらいになると思っていた。それまでは、何となくだらだら生きてしまいそうだなと、何となく予想していた。
それがまさか、24で達成できるとは、思いもよらなかった。死ぬのは早いに越したことはないと思ってはいたけど、正直びっくりした。
自分で言うのもなんだけれど、私は極めて前向きでポジティブな自殺志願者であると、自分のことを評価している。
人生が嫌になったとか、生きててもいいことないとかの逃避で死を選んだのではなく、「理想の死に方をしたい!」という想いが、結果として若いうちに自死に行きついただけだ。例えるなら、終活が人よりも早すぎただけだ。
そのような早すぎた終活をするにあたって。自死を敢行するにあたって、私は条件を付けた。
両親より先に死なない事。これをクリアしない限り、私は死なないことにしていた。
両親のことは、別に好きでも嫌いでもない。けれど産んだ後に、それなりの環境で育ててもらったことには感謝してるし、私の感情が、親の感情と同期しているとは限らない。
だからせめて、死ねとでも言われない限りは、死なないことにした。
でも、それではいつ死ねるか分からない。
だから、殺してきた。
だって邪魔だったから。
あの人たちが生きたかったかどうか。
それは今となっては知る由もない。
けれど両親の生きたいという意志が
私の死にたい意思を邪魔していいわけではない。
私の《《意志》に両親の想いは関係ない
私は、私の生きたいように生きる。
男に狂わない。仕事に飲まれない。
それと同じように私は。
私の命に縛られない。
例え親であろうと
私の命は縛らせない
手綱はない。
私の命は
私自身の手で
握り込んで、握りつぶす。
海中で足が完全に浮き始める。
ここから助かろうとするなら、もう泳ぐしかない。
しかし、そんなことはとっくに想定済み。
右手の人差し指と親指以外、切り落としておいてよかった。
お陰で、上手く泳げないでいられる。
自らにとどめを刺すように、私は思いっきり。
冷たくてしょっぱい海水を吸い込んだ。
丹精も込め方次第(短編集) はねかわ @haneTOtsubasa
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