腐り物の青

僕の青春はきっと気持ち悪かった

『僕に呪いを教えたのは他でもない君だった』

『君はそれを“ざまあみろ”と笑うだろうか』



 書いては消し、書いては消しを繰り返して。

 手早くしたためるつもりだった手紙の、たった一文が決まらなくて。


 急にタンスの奥から引っ張り出された便箋は、自分がピンとしていた頃のことなんて、もう忘れてしまったようにしわくちゃ。

 優柔不断のまま、ただ年を取っただけの私と、いい勝負だ。



 軽やかで、気持ちのいい風がカーテンを揺らす。窓の向こうで靡く葉は命輝いているような緑色。生命力がこれでもかと溢れている。

 この木陰で休む人がいたら、その人は、例えどんなに緊張していても、きっと転寝してしまう。そんな安らぎと憩いが肌に香ってくる。



 この木が纏う雰囲気に、肉体のような柔らかさはないけれど、何もかもを受け入れてくれそうな、無償の慈悲が溢れている。



 何処で生きていても、自然というのは、大変に美しい。

 年を取るほど、見えるようになった命の美しさ。


 嗚呼、どうやら私の人生は、私が思っている以上に情緒に溢れていたようだ。病院のベッドから動けず、ただ静かに手紙を書いているだけなのに、唐突に気付くことがあると、入院してみるまで知らなかった。



 これも、いつかいい経験になるだろうか。老い先若くない身空で、未来を見るなど、いかにも滑稽だ。けど、今の私にはいいかもしれない。

 老い先若くない身空のくせに、美しい青を、呪いと言ってしまうような、私には。


 受け入れて、閉まってしまえばいい物を、ずっと出しっぱなしのままにして、ひたすら眺めているだけの私には。



 ここからは少し……いいや、とっても気持ち悪い話をしようと思う。なに、吐瀉物とか糞の話じゃない。これはただ、僕という人間が、どれだけ気持ち悪い人間だったかっていう──




 単なる、自虐だ。




 僕に呪いを教えたその子は、中学の同級生だった。体育祭や文化祭など、イベントごとがとにかく好きな子で、いつ休んでいるんだって疑問に思うくらい、いつもはしゃいでいる子だった。



 地元の祭りの出店の手伝いを5つ掛け持ちしていたり、小学校の保護者リレーに、兄弟もいないのになぜか参加していたり、一年間の内、どちらかしかできないはずの体育祭実行委員と文化祭実行委員長を兼任していたりした。



 だから、一切の関係を持っていなかった僕ですら、彼女の存在は認知していた。というか、これだけ目立つ同級生。知らない方がおかしいというものだ。



 そんな子だったから、彼女の周りにはただでさえ人が集まる。その上、人が集まる所には躊躇なく飛び込んでいくのだから、僕たちの学年は、人だかりを見つける度に、彼女が中心にいるのではと思うようになってしまった。



 僕らは彼女から、呪いを一つ貰った。



 いま思い返すと、彼女は、周りに誰もいないと落ち着かないタイプだったのかもしれない。しかし、そんな彼女の行動を、当時の私は自律思考して動く台風の眼と表現していた。それくらい、彼女は何でも巻き込むし、何にでも巻き込まれに行く。



 きっと、彼女は死んだあと、棺桶に入りきらないいっぱいの花々の上に敷かれ、何百という人に語られながら、消えていくのだろう。そして消えてもなお、誰かの記憶の中で生き続け、世代を超えて紡がれていくのだろう。



 いま振り返ると、私は彼女を尊敬していたのだろう。尊敬して、憧れていて、敬愛していた。

 そんな彼女が、僕と同じ高校に行くと聞いた時は、少なからず驚いた。



 両親の海外勤務が決まっていた私は、高校からは県外にある祖父母の家から通えるところに進学することになっていた。特別会話する友人もいなかった私の進路を知っていたのは、担当時の担任と学年主任だけだった。



 同級生は誰一人として知る由もなかったことを、なぜ彼女は知っていたのだろうか。



 泣きも笑いもしなかった卒業式当日。



 温暖化の影響か、二月の末に開花した桜が、既に葉桜になっていたのをよく覚えている。教室や廊下ではしゃぐ声が校門まで響いてくる中、卒業証書の入った筒と、上履きを入れた袋を持ってそそくさと学校を出ようとしていた私に、後ろから声をかけてきたのは、他でもない、くだんの彼女だった。



「はっ…はっ…よかった、間に合った……。てか帰るの早すぎない!? 卒業式だよ今日?!」


 さすが、バイタリティに溢れた彼女。呼吸は上がっていても、その表情には余裕があった。



 手入れの行き届いたサラサラな髪。握りこぶしくらいしかなさそうな小さな顔に、ボブヘアが良く似合う。こうマジマジと見る機会は初めてだったが、この顔であの性格なら、そりゃあ人も寄ってくるだろうなという、ありきたりな感想が、真っ先に浮かんできた。



「卒業式なのは知ってるよ。僕もさっきまで卒業生として式に出てたし」


「あ、そうなんだ。実はねー、私も式に出てたんだよ~? しかも卒業生として!」



 どこかのハンサム劇団員のようなポーズを取った彼女は、恐らく僕の“ツッコミ”を待っていたのだろう。けど、当時──僕という人間の生涯に、そんなユーモアはなかった。




「……そうだね。それじゃ、高校でも頑張って。謝恩会楽しんで」


「うん! ありがとう! じゃあまたね……じゃなくて!!」



 彼女のノリツッコミに、僕は小さく肩を跳ねて驚いた。



「違うって! ツッコミ待ちだって! 乙女のボケを蔑ろにしたら来世でプラナリアになるんだよ!?」


 言っていることはいまいちわからないが、もしかしたら怒らせてしまったのかもしれない。不安になりながら、僕は慎重に言葉を選ぶ。


「ごめん、気付かなくて。…そういうお笑いみたいなの、好きなの?」


「いいや、別に。やってみたかっただけ」


「なんだコイツ」


「心の声漏れてるよ」



 正直言うと、この時の私は彼女と話すことが鬱陶しかった。別に思い入れもない三年間。残したい記録もない卒業式。至っていつも通り、式が終われば家に帰って、制服から私服に着替えて、犬の散歩に行く。

 波風の立たない穏やかな日であってほしかったのに、彼女との接触によって少なからず波が立った。そこには、僅かな不快感も感じていた。


「そうそう、私達って同じ高校に進学するじゃない? 引っ越しの日取りとかもう決めてるの?」


「明後日には向こうに行くつもり。いまのマンション、どうしても入居したいて人がいるみたいで。残っててもすることないし、早めに空けようかなって」


「ほへー、偉いなぁ、知らない人にも親切するなんて。君はホントにデキた男だよまったく」


「実行委員もやって祭りの露店の手伝い掛け持ちしてる人と比べたら、大したことしてないよ」


「私は違うよ。私は私が知っている人のことしか手伝わないから。ふふん」


「いつ僕が君のことだって言った?」


「その条件に当てはまる人が、君の交友関係の中に二人もいるとは思えないけど?」



 彼女の言っていることに寸分も狂いはないが、なんかムカつく。彼女に自分のことを話したことはないはずなのに、何故か知られていることが、ひどく癪に触る。


 いや、意固地になっては、会話を荒立ててはいけない。あくまでも穏便に。この人を敵に回したら、少なく見積もっても、この世の10分の1の人間が僕の敵になる。それだけは避けないといけない。



「参りました、ご明察通りです。それじゃ、今度こそ僕は帰るよ。そろそろみんな降りてきて、校門前ここも騒がしくなるだろうし」


「騒がしいのは、苦手?」


「とっても。だから謝恩会にも行かない」


「そっか、もったいない気もするけど、止める理由もないしね。じゃあ帰る前に連絡先だけ教えてよ!」


「…なんで?」


「“なんで”な事ある?」


 彼女は素っ頓狂な顔でそう言ったが、鏡が無くて見れなかっただけで、たぶん僕の方が素っ頓狂な顔をしていたと思う。



「別に話すことないし」

「私はあるよ」

「会うことないだろうし」

「同じ高校行くじゃん」

「夜は寝たいし」

「越した先に夜遊びするとこないってお父さんが言ってた」

「……なにがしたいの?」

「君を知りたい」



 押しても引いても終わらない問答。素直に教えて終わらせればいい物を、学校のスターに言い寄られている現状に、疑いを持てずにはいられなかった。


 しばらくの沈黙、連絡先を渡すことを選んだのは、遠くから彼女を探している複数に人影を見つけたことだった。



「わかった、教える。教えるからこの場は逃がして」


「あら、急に素直になったじゃん。もしかして私に惚れてほだされた?」


「あー、うん、もうそういうことでいいよ。ほら、早く携帯出して」


「そんな適当に言われたら私がみじめじゃん! 傷つくんですけど!」


「友達に言いなよ。アイツは碌でもないって」


「それが出来たら、苦労しないよ」


「……どういう意味?」


「ううん、こっちの話。お、交換で来た。うへへーやったー」



 スマホの画面の上で、スイスイと指を動かす彼女。その後ろから、何人かの男女がこっちに向かってきた。面倒になる前に、ここを去ろう。

 そう思い、僕はポケットに携帯を滑り込ませ、彼女と、その奥にいる彼女の友人たちに対して背中を向けた。



「もういいよね。じゃあ、僕は帰るから」


「うん! 気を付けて帰ってね! また後で連絡するから!」


「いいよしなくて。面白い返信も出来ないし」


「面白い返信をしようって考える、そういう優しさ、もっと表現していったら?」


「僕の優しさはサラリーマンの生涯年収より高くつくよ」


「それなら、頑張って働かないとだね」


「なに買うつもり?」


「君のヘイト」



 そんなやりとりをして、ぼくは彼女との初めての会話を終えた。

 帰ってる最中、校門の方から彼女が友人たちと話す声が聞こえてきた。



 さっきの人はいったい誰だったのか。そう聞いていた彼女の友人に、彼女が如何返したのかまでは、聞こえなかった。



 家に帰って犬の散歩に行き、二時間昼寝をして目を覚ますと、携帯に数十件通知が届いていた。一件は母からで、二件は通販サイトの広告。残りは全て、彼女が送ってきた、謝恩会の様子を映した写真だった。



 僕はそれを上から下に流し見て、既読だけをつけて返信しなかった。それ以降、彼女から連絡が来ることはなかった。




 再び僕の携帯に通知が届いたのは、高校の入学式の前夜。祖父母の家の二階に借りている一室で、入学式の準備をしている時だった。最初は既読もせず無視していた。



 そしたらめちゃくちゃ電話がかかってきた。ウザっと思いながら、それでも無視を続けた。そしたら今度は、呼び出し音が終了するたび、ミミズとかムカデとかの写真を大量に送りつけてきた。



 根負けした僕は、自ら電話を掛け直すことになった。



『ふふーん、ようやく掛け直してきたねぇ。ワタシのことが愛おしくなったかい?』


「ヒスみたいに鬼電して、クソガキみたいに虫の写真送りつけてくる時点で愛おしさの欠片もないから」


『ちなみに、切なさと心強さは持ってたりする?』


「用がないなら切っていい? 明日入学式だからもう寝たいんだけど」


『そうやって確認をちゃんと取る辺り真面目で優しいよねぇ。私なら何も言わずブッチしちゃう』



 額に青筋が通った。



「じゃあその通りにさせてもらうわ」


『待って待って待って。分かった、今回は私が悪かった。だから話を聞いて。女の子泣かせて楽しいか? 楽しくないよな? 君はそんな血も涙もおしっこもない男の子じゃないもんな!?』



 ツー、ツー。彼女の電話からは、そんな音が流れているだろう。

 ワンタッチで人との繋がりを切れる、現代の機械。控えめに言って縁切り神社より効率が良いのではないか。



 布団に入って、天井にぶら下がる電気の紐を引っ張る。常夜灯にして布団の掛け布団の位置を直していたところ、枕元に置いた携帯が再び震えはじめた。


 画面には、予想通り。彼女の名前とアイコンが表示されていた。溜息を吐きながら、通話ボタンをスワイプして、スピーカーモードに切り替える。耳に付けて話すより、こっちの方がもっと他人行儀で喋れそうだったから。


『あのー、うん。とりあえずごめんなさい。今後は虫の写真送らないようにします』


「鬼電もやめてください」


『……控えるように、します』


「やめてください」


『だってやめたら何かあったと思って心配になるじゃん! 察してくれよぉ~。誰も知ってる人がいない土地での生活ですごい寂しんだよぉ……』


「誰も知らないって、家族も一緒なんじゃないの?」


『一緒だよぉ。だけどさ、友達と家族だと話せることも違うじゃん? 友達君だけだからさぁ、頼ってしまうんだよ』


「あっ……そうですか」


『そうなの。だから明日から一緒に学校行こ』


「……何言ってんの?」


『寂しいから一緒に学校行こうって言った。明日から』


「え……やだ」


「ヤダは認めませーん」



 トドメに都合が悪いからって通話切っちゃうのも無しだよ、と言われてしまっては、もう切るに切れない。先手を取られた。電話を取らなければよかったと後悔した。



「理由を聞いてもいい?」


『一緒に行く理由? 一人で学校行くのつまんないじゃん、道もまだ不安だし。それに、こんなか弱い女の子、一人で学校に行かせるなんて危ないよ?』


「そうだね、イノシシに喰われて死ぬかもね」


『自然の力で自然に還るんだったらまだいいよ。けどよく分からない悪漢に襲われてとかだったら、創造するだけでゾッとするよ。だから守って欲しいな?』


「猟銃でも持てば?」


『イノシシから離れてよ!』



 軽く咳払いして、彼女はふー、と大きく息を吐く。僕は肩まで布団を被って、静かに目を閉じた。



『ともかく、明日君の家まで行くから、ちゃんと起きて、一緒に学校行こ!』


「僕の家知らないでしょ? 位置情報も送らないよ」


『ふふん、田舎のコミュニケーション能力を舐めちゃいけないよ? 明日の朝、ちゃんと玄関前にいるから、ちゃんと起きるんだよ?』


「はいはい、じゃあ僕は寝るから。電話もそのまま切っといて」


『はーい。ぐっなーい、優しい紳士様』


『おやすみ。昆虫博士』



 そうして、僕の携帯は打って変わって静まり返り、しばらくして画面を消した。



 翌朝。木漏れ日の気持ちいい春の日差しの中。僕はぶかぶかの制服に袖を通し、祖父母に見送られて玄関を出た。

 そして敷居の向こうにいた、同じ学校の制服を着た彼女に、目を奪われた。



「お、おはよう男子高校生。制服よく似合ってんじゃん!」


「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」


「えー、私国語苦手だから、ちゃんと言葉にしてくれないと意味わかんないなぁ」


「豚に真珠」


「ド失礼なやつ! それに豚は美味しくて栄養価も高い上に、人間より体脂肪率低いんだぞ! 悪口になるような動物じゃないんだぞ!」


「知ってる。だから豚に真珠って言った」


「……スタイルいいってこと?」


「あーうん、そういうことそういうこと」


「さすがに私でも分かるぞ。貴様何も考えていなかったな?」




 そう言って頬を彼女は頬を抓ってきた。



 それから三年間ずっと、登下校の時間を共にした。恋人でもない。兄弟でもない。夫婦でも、親友でもない。友人と知り合いの間くらいの距離感の僕らは、人生の中で最も濃い三年間のほぼ毎日を共有した。




 僕は彼女から、二つ目の呪いを貰った。





 田舎の高校だったが、生徒の数はそれなりに多く、地元の子達も知らない顔を見て緊張しているようだった。



 登校中、彼女はずっと一人も知り合いがいなくて寂しいと嘆いていた。彼女のことを、僕が少しでも心配しなかったかと聞かれれば、否定できない。一応僕も人並みに人間で、他人を慮る心は、風前の灯程度であったが持ち合わせていた。



 しかし、やっぱりというべきか。僕のはすべて杞憂だった。入学式という、人が大勢いる環境に調子を取り戻した彼女は、持ち前のバイタリティを遺憾なく発揮し、その後行われた、新歓にて全ての部活動の出し物に新入生として参加するという、偉業までは行かないけれど、すごくないとも言い切れない微妙な功績を得た。



 次の日には友人を作り、その翌日にはその数が二倍に増え、一週間後には生徒全員が彼女の存在を認知した。



 幸いなことに、僕と彼女が同じ中学出身であることに気付いた生徒はいなかったため、僕はその様子を遠くから眺める傍観者でいられた。



 常に誰かと関わり合うことを羨望する彼女と、一人での生き方が出来てしまう僕では、住む世界はそもそも違う。共有しようとすれば捻じれて取り返しのつかないことになる。



 クラス分けで一度も一緒にならなかったのは運が良かった。

 学校の敷地にいる間、僕はずっと彼女を避けていた。僕と彼女が接するのは、帰りの昇降口だけだった。



 そんな生活を送って、二年と少しが経った頃。高校生活最後の夏休みが始まる、終業式が行われた七月のとある日。

 帰りのバスの中、何気ない会話の中で、彼女は東京に行きたいという想いを打ち明けた。



「東京ねえ。別にいいんじゃない? あっちの方が生活もしやすいでしょ」


「そう! お洒落な洋服屋さんも多いし、流行のスイーツもブームの時に食べれるからね! 知ってる? 学校からバス停までの途中にあるコンビニ。今更“おにぎらず”売ってるんだよ」


「きっと店長か誰か、タイムトラベルが趣味の人がいるんでしょ。部屋がオーパーツでいっぱいみたいな」


「言いたいことは分かるけど“おにぎらず”にそこまでの古代感はないよ」


「言葉の綾だよ」


「誰それ? もしかして浮気?」


「僕たち付き合ってたっけ」


「互いにツキはあったと思うけどな」



 いつも通りのくだらない談笑だったけれど、今日のはいつもより真面目だった。



 勉強のスケジュールとか、何処の大学に行くかとか。そんな話をたくさんした。

 地方の片田舎では、大学見学も一日がかりだし、東京の大学に行くとなれば、現地に何日か宿泊して、短期間に幾つもはしごすることとなる。



 要は田舎の高校三年生には、大学が決まるまで暇はないということだ。



「君はどうするの? 東京の大学行くの?」


「行かないよ。近くの専門学校に行って、介護とか福祉のこと勉強しようと思ってる」


「おお、なんと志が高い若者だ。でも大丈夫? 介護の現場って、結構ハードだって聞くよ?」


「お祖母ちゃんの介護もしてたし、多分大丈夫だと思う。まったく同じよういくとは思ってないけど、特別勉強したいわけじゃないなら、出来る事でお金稼ごうって思う」


「いやぁ、この子は本当に良い子に育ちましたわぁ。育ての親の私も鼻が高いという物ですよぉ」


「育てられた覚えがないんですが」


「お? 反抗期か? やるってんのか? お?」



 タチの悪いチンピラか。それともお尻を丸出しにする幼稚園児か。終始楽しそうに話す彼女の肌は、綺麗な小麦色に焼けていた。きっと、夏が終わる頃には白くなっているだろう。僕たちは、これから何日も家に引きこもることになるから。



「あーあ、高校最後の夏なのに遊べそうにないなぁ。勉強しなきゃって思うと今から憂鬱」


「別に、一日二日くらい行ったらいいじゃんか。今年も地域のお祭りあるって言ってたよ」


「……なら一緒に行こうよ」


「……え?」


「なに、照れてんの?」


 

 などと言っているが、僕よりも彼女の方が高揚しているのは、目に見えて明らかだった。泣きじゃくる子どものように口をへの字に曲げて、耳を真っ赤にする。



 彼女の照れた顔を、僕は初めて見た。無意識に彼女の顔をじっと見ていた僕は、返事を忘れていた。

 


 そして終わらない沈黙に痺れを切らした彼女は、鞄を抱える僕の手を無理矢理ひっぺ返して、その小さな手に握り込んだまま、そっぽ向いて、窓の向こうの田園を眺めていた。



 同級生の女の子と手を握ったのは初めてのことだった。

 そのせいか、この時どんな言葉を話せばいいか、あの時の僕は分からなかった。



「友達いっぱいいるんだから、そっちを誘って行けばいいのに」

「……それも行く。でも、君とも行きたい」

「僕は集団で行動するの苦手だから、他の人誘うなら断るけど」

「だめ。二人で行くんだから絶対来て」

「僕の言ったことちゃんと聞こえてた?」

「煩くてよく聞こえない」

「5×3は?」

「……女の子、困らせんなよ」



 とても小さい声だった。僕にだけにしか、聞こえないような声だった。どこか噛み合わない、彼女との会話。このまま続けても、余計にこんがらがる。



「分かった、とりあえず後で連絡入れといて。予定だけは見ておくから」


「ん、じゃあ、お祭り行くときにまた連絡する」



 僕は彼女から、三つ目の呪いを貰った。




 その日は、珍しく道路が渋滞していた。どうやら熊が出てきてしまっていたらしい。



 お陰で、最寄りのバス停に着くのに二時間かかった。そしてその間、彼女は僕の方を一度も見なかった。そして、握り込んだ僕の手を、一度も離さなかった。



 漸く手を離したのは、彼女の自宅に着いてからだった。その時も、また小さい声で何かを言っていたが、上手く聞き取れなくて、適当な返事をして、僕は家路についた。







 そして、九月の始業式が始まるまで。彼女から、連絡が来ることは一度もなかった。




 理由が分かったのは、新学期始まって最初のホームルームの時。彼女は、この学校を去った。夏休み中も学校に通いつめ、単位を前倒しにして、学校を卒業した。




 そうして彼女は、に手紙を残して、東京へと消えていった。




 彼女が消えてから、毎朝。僕は彼女が家に来るのを待ち続けた。



 彼女が消えてから、いつも。人混みを見ると、その中心に彼女がいないかと探すようになった。


 彼女が消えてから、ずっと。約束していた祭りには行かなかった。誰とも、手を繋がなかった。




 そうして私はいまここにいる。



 彼女が消えてから、彩色の無い社会で。意味もなく働いて、貯まるだけの金に興味は無くて。



 引退しても、張り合いのない人生が続いた。唯一の楽しみなんてものもなくて、気付いた時には病を患っていて、ふと我に帰れば、誰も見舞いに来ない殺風景な病室で、宛先も分からない彼女に、届くはずのない便箋を窘めては、何度も書き直しては、何枚もゴミ箱に放り込むだけ日々を送っている。





 彼女のかけた呪いに、私は今も懸り続けている。

 私にかけた呪いを、彼女は解くことなく目の前から消えてしまった。





 私は、ずっと期待をしていたのだろう。いつか彼女が、あのあっけらかんと顔で、僕を迎えに来てくれることを。

 約束なんてないのに。僕と彼女の間には、なにも繋がっていなかったのに。





 手紙なんて、書くべきじゃなかった。彼女のことを想うだけで、言葉はどんどん気持ち悪い方向へ変化していく




 呪われるほど

 私は愛されていたのだろうか。

 私の匂いは、あなたが付けた。

 この匂いを付けたあなたからは

 今も同じ匂いがするだろうか。





 もし願いが叶うなら

 もしあの頃の君が来てくれるのなら。





 ベッドの上で、眠っている様に

 死んでいる私を前に

 小さなテーブルにクロスを引いて

 ナイフとフォークで丁寧に

 私の身体を喰いつくして

 皿の上で、骨がカランと踊るまで

 その美しい姿を見ていた誰かが嗚咽して

 お腹の中身を吐きだすまで。



 今頃になって、僕は君の中で大事な人間になりたいと思うようになった。もう手遅れのクセに、いまさら君を縛る呪いになりたくなってしまった。




 どれだけ忘れても

 どれだけ離れても。

 決して消えることのない

 傷みたいな呪いに。




 いい年して、気持ち悪い大人だなって、我ながら思う。

 しかも、それが僕の純愛の形でっていうのだから、尚のこと。




 嗚呼、ようやく、手紙が書けそうだ。




 残り三ページしか残っていない便箋。一番上を丁寧にめくりとり、再びペンを握る。




 拝啓 いつかの君へ──




『君から貰った子の呪いを』

『僕は、死ぬまで味わっていても、いいだろうか。』




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