髪愛始めた後半
「……うぶぉぅうおぇ、気持ちわる……」
「あっはっはっは! そりゃ、あんな飲み方したら気持ち悪くもなるさ」
チェーンの居酒屋から少し離れた所にある小さな公園。普段は子どもとその保護者で賑わうこの場所も、深夜となれば静かなもので、いるのは酒に飲まれた女と、その女を担いで来た謎の女の二人だけ。
「はい、とりあえずお水飲んどきな。少しは楽になるよ」
「うぐぅえ…ありがおう、ございます……」
えずきながらペットボトルの水を受け取った
「あの、こんだけ介抱してもらっといて申し訳ないんですが、お姉さん、誰なんですか?」
「わたし? わたしはねぇ……」
顎に指を当てて女性はわざとらしく考える。しばらくして、いたずらっ子のように微笑み、答えを呈す。
「通りすがりの優しいお姉さんとかはナシかな?」
「すいません、ボケか本気か分かんないですけど、今はどっちだろうが対応できないです…おえっ……」
「あっはっは! たしかにそれもそうだね! ごめんごめん、君が泥酔してたことすっかり忘れてたよ」
吐き気と戦っている時に目の前でふざけられると、無性に怒りが湧いてくる。こっちはいま必死なのに、くだらないことに体力を使わせんな。抑えるだけで一苦労なんだから。
「私は都内のBlack Pityって店で働いてる美容師。姓は
紫苑の言葉に、喫の吐き気が止まる。同業者という単語に無意識に反応してしまったからだ。
Black Pityという店の存在は知っていた。うちの学校からも何人かインターンに行っていたはずだ。けど専門学校生、いや、もう退学したから元か。元専門学校生と明かしているわけでもないし、金髪にしてるのだって、何も美容師だけじゃない。ならどうして……
「鋏を長く握ってるとね、手先もそれ専用に変化してくる。君は私とおんなじ手をしてる。何年も真剣に鋏を握ってる証拠だよ」
言われて、紫苑と自身の手を見比べてみるが共通点があるようには思えない。強いて言うなら他の人よりも長細く、鋏を持つ部分だけ皮膚が若干厚くなっていること。けどそれも、じーっと観察してようやく気付くかどうか。その程度の違いだ。紫苑はそこに気付いたというのか。怖さと恥ずかしさが相まって、喫は咄嗟に利き手を隠す。
「あの、お言葉ですけど。私べつに、美容師とかじゃないです」
「ありゃ? じゃあ専門学生とか?」
「いや、それも違います。ついこの間、退学になったんで」
まるで退学させられたように言っているが、喫の退学は自主的なものであって、学校は申請を受理しただけ。それでも退学したと言えないのは、搾りカスのようなプライドが、アルコールで浮いてきたから。
「ほーん、そうだったのねぇ。じゃあ、いま咄嗟に手を隠したのはそのせい?」
図星を突かれ、返答が滞る。言ってもいい物なのだろうか、いや、今更になって隠す必要のある事でもない。それに言ったところで、紫苑に損はなにもない。失った自尊心で笑ってくれるなら、そっちの方がいくらか得かもしれない。
「その、お姉さん……カヤさんにに言うのは失礼ですけど、わたし、小さい頃から、黒髪が嫌いなんです」
黒髪が嫌いな
「黒髪が嫌いで、小さい頃はそれが嫌で男の子より短かったんです。ほんとは染めたかったけど、両親が猛反対して。私が学校とか言ってる間とかに、染め材がないか勝手に部屋を探し回ったりしてて染めらんなくて。高校に入ってからめちゃくちゃ髪染めるようになって、そのままの流れで専門いったんですけど……」
「んー、聞いてる限りだと、
では何故、辞めてしまったのか。
「そうなんです。でも、私は髪色が嫌いだったから、それしか見てなかったんです。専門に入ってようやく好きなこと出来ると思ったのに…髪を切るセンスが全くなくて、どれだけやってもちゃんと髪型にならなくて、試験も、自分だけ受かんなくて」
「上手にならない自分も、周りに置いてかれるのも嫌になって、酒に飛び込んだらまんまと溺れたと」
「はい、ほんと、もう、その通りです…」
ぶり返してきた吐き気に口を抑え、一瞬引いた隙に水で押し戻す。二日酔いになったところで、もう行く学校も職場もない。かといって働かなくても済むような不労所得は無いし、貯金だってごくわずかだ。ギリギリまで切り詰めた所で、あと3ヶ月も持つかどうか。
嫌なことを思い出すと、不安になってくる。不安になってくると、また別の不安がここぞとばかりに押し寄せてくる。
ほんと、お酒ってこういう時に一番効果がある。死ぬほど飲んでも死なないし、嫌なこととか全部忘れられるし。こうやって、人って落ちぶれていくのかな……
「にしても、今日はよく冷えるね。深夜には雪でも降るかなぁ」
あーあー、はいはい。私が間違ってましたよ。そりゃ、店であっただけのアンタに私の苦労話聞かせたって何にも思わないでしょーね。せいぜい雪降る夜とやらを、彼氏でも誰でも一緒に楽しんだらいいんじゃないですか。その黒髪だったら簡単に……
え、ちょっ、ちょっとまって。
突然起きた事象に、
だって、さっきまで大らかな黒髪を携えていた
ㇵ、ハゲてるっ!!!?!?!?
先ほどまで腰まで伸びていた榧の黒髪は、故かベンチに置かれている。
そして榧の頭は肌色一色になっている。こういっては何だが、ちゃんとハゲてる。産毛の一本もないし、なんかツルツルしてるし、月の光が反射してちょっと光ってるし。
当の本人は至って落ち着いている。ハゲてるけど何かと、言わんばかりだった。
「な、なんで、急にハゲ…髪が無くなったんです、か……?」
震え声で
「ふふぅん、それはね、
そう説明されても、急に髪の無くなった頭と、遠心力で毛先が大きめの円を描いているのを視線が自主的に反復横跳びしているせいで頭に入ってこない。
急なハゲ、回る黒髪、急なハゲ、回る黒髪、急なハゲ、回る黒髪、急なハゲ、回る黒髪……
「このウィッグはね、数年前の私自身の髪で作ったんだ」
そういうと、榧はバスケットボールに見立てたウィッグをそのイメージ通りにパスを投げる。肩を跳ね上げながら喫がそれを受け取る。傍から見れば、生首を投げ渡してるサイコホラー映画のようだろう。
周りに子どもがいなくてよかった。しかし一つ言っておくと、一番怖がっているのは、ウィッグを受け取った喫本人だ。証拠に、指の先でしか触れていない。
「私も君と同じで、その黒髪が嫌いだった。海外の派手な金髪とか、東京の原宿とかのお菓子みたいな髪色に憧れてた。でも、私の髪はどれだけ伸ばしても黒かった。この世の何よりも嫌いだったから、お風呂でも雑に洗ってたし、ドライヤーさえかけなかった。それなのに人様に褒められる色艶をしていたから、心底憎かったよ」
遠い思い出を見やすくするように。
「けど両親は、私の黒髪が凄く好きで。染めたいなんて口にしようものなら、凄く悲しそうな顔をして悩んでだよ。意思を尊重したいけど、黒髪が消えちゃうのが嫌だって。二人とも自分達のわがままって気づいてたから、うまく言えなかったんだと思う。だからそのウィッグを作ったんだ」
「だから、作った?」
喫の疑問に、榧はバツが悪そうにはにかんで頷く。
「そ、『いつでもどこでもこの黒髪を見れるようにしたら文句も言われないだろ!』って思って、何年も嫌いな髪を伸ばして、手入れして、それを作った。それさえあればどんだけ自由にやっても許されるだろって思ってさ」
「なんか、随分と大胆なことしましたね」
「でしょ? でも、元々は作らずにそのまま切ってしまうつもりだったんだ」
「なら、どうして……」
「伸ばしてる時にね、手入れをするために通ってた美容室があったんだ。そこの店長さんが、『せっかくなら残してみない?』って、ほぼ強行みたいな感じで、薦めてくれたんだよ」
硬くなっていた
「『いつか好きになるかもしれないから。もし嫌いなままだったら、誰かにあげればいい』。そう言ってくれた人から貰った髪だからかな。美容師になって、いろんな人の髪や要望を聞いている内に、この黒髪が、どれだけ恵まれているかを知った」
喫と同じように、生まれ持った髪を嫌っていた同士。きっと持っていた、思っていた感情は喫と同等かそれ以上。そんな人が今、嫌い続ける喫の目の前で、黒髪を好きだと語っている。
「そんな、いいものですかね、黒髪って」
「それは、人次第じゃないかな」
思いがけない返答に、喫は面食らってポカンとする
「君の髪色も、私のウィッグも。みんなが自分の好きな髪になれるのが一番いい。でも、それはきっと難しいから。だからせめて、染めても染めなくても。切っても切らなくても、その髪を褒めてあげられれ人でいる。それが今の私の、個人として、美容師としての意見かな」
どんな髪も褒めてくれる人。そんな人の良い美容師に、喫は心当たりがあった。それは、行きつけだった美容室のホストみたいな男性ではなく。学校に指導してくれたカリスマなんちゃらでもない。喫の膝からウィッグを持ち上げ、子どもを撫でるように手櫛する榧紫苑と、私が泣かせた、一番身近にいた、あの素晴らしき美容師だった、両親。
「さて、そろそろ夜も更けてきた。お酒抜けちゃって冷えてきちゃった。今日はお開きにしようか」
コートを羽織るようにウィッグを回し、頭に重ねると、慣れた手つきでバランスを整える。一分もしない内に装着を終えた榧の表情は、誰にも負けない自信を得たような、勇者のようだった。
「よければ今度ウチのお店に遊びに来てよ。えーと、そう言えば名前を聞いてなかったね。聞いてもいい?」
「あ、えっと、
「キサキちゃんね。オッケー覚えとく。それから、ご両親にもよろしく言っておいて。ウィッグ今でも使ってますって」
「あ、はい、分かりました。伝えておきます……えっ!??」
消えゆく背中に声をかけるが、背中越しに手を振るだけで止まってはくれなかった。
追いかけようとも思ったが、立ち上がって走ろうとしたが、胃の中に残った酒と水が溢れかけて足が止まってしまった。
喉元に近づく流動物を塞き止め、再びベンチに戻る。
月夜の下で、改めて自分の髪を見つめてみる。色が抜けたうえに金色を入れたせいか、綺麗な金色ではなく、かなり白色に近い。白クマと同じ感じで、反射して金髪に見えているだけだと、見直して改めて気付く。
毛先も荒れ放題。子どもが噛んだ歯ブラシみたいにあっちこっちに荒れて、削れて細くなったり太いままだったりが混在している。
「私、ほんとに、髪に向き合ってこなかったんだぁ……」
ポケットからスマホを取り出し、電話帳アプリを開く。
生まれて初めて覚えた名前。生まれて初めて、手を繋いだ人。
生まれて初めて、私が泣かせて、それでも行先を見守ってくれた人。
緊張しつつ、震える指で通話ボタンを押す。時間はもう夜遅い。
寝ていてくれれば後回しにできるから、嬉しくもあるのだけれど。その思いとは裏腹に、2コール目には、数年ぶりに聞いた低音が流れてきた。
『もしもし』
「あ、もしもし、えっと、お父さん」
『そうだけど、どうかしたか?』
「いや、えっと、その、特別なにか用があるわけじゃないんだけど……」
しばらく沈黙が続き、気まずい時間が流れる。静寂を切ったのは喫。ここまでやって、何も言わずに終えるの嫌だという、強引に引き出した勇気が会話を進めた。
「今度、私の髪を切って欲しい」
また間が空き、沈黙が続く。続ける言葉を探して焦っていると、遠くから咽び泣く音が聞こえてきた。
「あ! あと、あの、自分の髪でウィッグ作るやつも教えて欲しい!! それからお店の経営の仕方とか、あとあと鋏の持ち方とかも……」
じっとしていると身体が冷めきってしまう。電話をつなげたまま、喫はベンチから立ち上がり歩み始めた。曇天の空から、雪がちらつき始める。金髪より、青より緑より。黒髪に一番よく似合う、真っ白な雪が降り始めた。
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