忘れられない一日

ヤン

第1話 忘れられない一日

 私は、バラ園に住む妖精。名前は、チッチ。このお屋敷の持ち主の太郎さんが、名前を付けてくれた。妖精の私が見えるのは、太郎さんだけだった。バラの手入れをしながら、私を見つけると、必ず笑顔で声を掛けてくれた。「やあ。チッチ」って。


 太郎さんの家には、いろんな人間がいたけれど、太郎さんは、お手伝いの子が好きだった。長い髪の毛を頭の上の方でおだんごにして、いつもにこにこしていたっけ。

 太郎さんに気に入られている、その一点で、私はあの子が嫌いだった。私の方が、ずっと前から太郎さんを好きなのに。


 太郎さんは、バラをすごく大事にしていて、品種改良までしていた。そして、そのやっと育ったバラに、あの子の名前を付けた。『千尋ちひろ』ってね。


「なんで、チッチじゃないの?」


 そんなこと言えないから、代わりに、


「なんで、『千尋』なの?」


 そう訊いたら、太郎さんは、この上もなく優しい顔をして言った。


「僕はね、千尋さんのことが、好きなんだよ。この花が完成したら、プロポーズしようって決めてたんだ」


 そんなこと、私に言う? そう思ったけど、もちろんそんなことは言えなかった。私は、その日は何も言わずに、その場所から去った。そんな所には、いたくなかった。


 そのバラは、形も香りもすごく良かった。本当は、そのバラのそばを、ひらひらと飛んでいたかった。でも、出来ない。悔しくて出来なかった。


 太郎さんは、それから少しして、千尋にプロポーズした。でも、千尋は消えてしまった。それからずっと、千尋のことなんか忘れていた。


 千尋がいなくなって、何十年経ったかしら。千尋は、お婆さんになっただろうけど、太郎さんもお爺さんになった。千尋のことがずっと好きで、誰とも結婚しなかった。


 年をとっても、太郎さんは変わらず優しく微笑んで、「やあ。チッチ」って声を掛けてくれた。その太郎さんが、ある日、バラ園の『千尋』の前で倒れた。私は最初に、「なんで、この場所?」って思ったけど、そんなこと思ってる場合じゃないって、すぐに気が付いた。でも、残念なことに、私が見えるのは太郎さんだけ。運よく、庭の手入れを手伝ってくれている男の人がすぐに気が付いてくれて、救急車で病院に運ばれて行って、そのまま入院。もう、あまり長くないって話しているのを、私は聞いてしまった。


 太郎さんが、うわごとで言うんだ。「千尋」って。まだ好きなんだ。悔しい。そう思うけど、あと何日も生きられないなら会わせてあげたい。だってね、私はずっと太郎さんを好きなんだから。好きな人の願いを叶えてあげたい。


 妖精だけど、『神様』に一生懸命お願いした。「千尋に会わせて」って。千尋に会って、太郎さんのことを伝えて……。


 悔しい。でも……。


 そこで、はたと気が付いた。千尋は私が見えないんだ。それでも、私は千尋に会わせてって、お願いし続けて、空を飛んでた。


 神様はいた。千尋が、道を歩いているのを見つけることが出来た。小さい女の子の手を引いて、時々顔を見合わせて笑い合ってる。裏切り者の、憎らしい千尋。でも、今はそんなことを言ってる場合じゃない。


「千尋。千尋」


 何度も呼んだ。そうしたら、千尋は何かを探しているみたいに、自分の周りを見回した。私はまた、「千尋」って呼んだ。千尋は首を傾げた。千尋と手をつないでる女の子が、千尋に、


「おばあちゃん。どうしたの?」

「ん-。何だか、誰かに呼ばれたような気がして」


 そうだよ。チッチが呼んでるんだよ。千尋。気が付いて。


 必死で何度も千尋を呼んだけど、その内千尋は諦めたみたい。


「やっぱり、気のせいね」


 二人で歩き出した。やっぱり神様はいないんだ。それか、妖精の言うことなんか、聞いてくれないんだ。私は絶望して、病院に戻った。太郎さんは、苦しそうな顔で「千尋」と言って、最期の呼吸をして、それから息を吸わなくなった。死んでしまった。私は、泣いた。ずっと、ずっと、泣いた。


 この日が、私にとって忘れられない一日。


 太郎さんは、親類もいなかったから、自分が死んだら屋敷を市に寄贈すると言っていたらしい。人間のことは、よくわからないけど、とにかくそんな事情で、今、ここは市の持ち物になって、入園料を払えば誰でもバラ園を見ることが出来るようになった。


 ある時、千尋があの女の子と二人で、ここに来た。千尋は、『千尋』の前で、その子にバラの名前の由来なんか話してる。わかるわけないじゃん、と思った。でも、千尋の顔が哀し気で、それを見ていたら、何だか千尋を許してあげようって言う気になった。                                (完)

 

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