大都会の地下には財宝が眠っている

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

大都会の地下には財宝が眠っている

「大都会の地下には財宝が眠ってるんだぞ」

 当時まだ五歳だった俺にそう言った父さんは、いい歳して無邪気に笑っていた。

「優輝が大きくなったら、一緒に宝探しに行こう」


 そんな子供の好奇心を擽るようなことを言っていた父さんが亡くなったのは、もう一週間も前のことだ。

 母さんには知らせが行っていたようだけれど、俺には何も教えてくれなかったから全然知らなかった。遺品を整理したいという電話を偶然俺が取って、そのとき初めて自分の父親の死を知ったのだ。あの人とはもう無関係だと言って行こうとしない母さんの代わりに、俺が親父の元を訪ねることになった。折角平日休みが偶然あったのに潰れるし、交通費はかかるし、何より面倒だ。

 帰りの地下鉄は覚悟していたより混んでいなかった。退勤時間より少し早い、夕方の比較的空いている時間だったからだろう。俺は膝に黒いナップサックを乗せて、磨かれた向かいの窓を睨んでいた。

 プラットホームを発車したばかりの電車の外は、夜中みたいに真っ暗だ。地下だから仕方ない。暗い窓に映るのは、大人になった俺の顔だ。二十五歳の、特徴のない男の顔。

 あれから二十年か、と、俺は窓に映る男に向かって口の中で呟いた。


 母さんが父さんと別れたのは、俺がまだ五歳だった頃だ。俺もガキだったから、なんで離婚することになったのか分からなかったし今も聞いていないから知らない。ただ、母さんが泣いていたから、悪いのは父さんだったのだろうと思っている。

 母さんは父さんのことを酷く怒っていた。父さんを東京に残して、俺を連れて徳島の実家に帰ってしまったほどだ。それっきり俺は一度たりとも父さんと顔を合わせていない。多分、母さんが会わせないようにしていたのだ。

 とはいえ、流石に死んだときくらいは顔を見るものだと思っていた。まさか知るのがもう焼かれた後で、抜け殻になったボロアパートしか残骸がないとは思わなかった。

 父さんの借りていたアパートでの、業者との会話を思い出す。


「本当に、何も残さなくていいんですか?」

 念を押した業者の壮年の男に、俺は淡々と頷いた。

「残すも何も、捨てるものしかありませんから……」

 ボロい小さな家電が数点と、一人用のちゃぶ台が一つ。箪笥の中には最低限の服が何着があるだけ。あまりにもがらんとしていて、ちょっと気味が悪いくらいだった。

 一応見には来たけれど、持って帰って形見にしようと思うようなものは何もなかった。これなら徳島で電話を受けたときに全部処分してもらうように言ってしまえばよかった。そうすれば、わざわざ東京まで出てくる必要もなかったのに。


 電車に揺られながら、黒い窓をじっと眺める。

 父さんの顔を思い出せない。最後に見たのは子供の頃だし、覚えていなくて当然だ。お陰様で死んだと聞いても涙一つ出なかった。

 たった一人の息子に泣いてもらえないというのも不憫な気がしてきた。何か一つでもあの人のことを思い出せないかと、窓を睨んでまばたきをする。

 ……そうだ、たしかあの人は、地下鉄の駅務員の仕事をしていた。

 よかった、一つ思い出せた。引き続き記憶の糸を辿る。

 駅務員をしていたのは、電車が好きだからだった気がする。そうだ、父さんの部屋に行くと電車の模型がたくさんあったのを覚えている。


 当時絵を描くのが好きだった俺に、父さんは模型を差し出していた。

「これを描いてよ」

 モデルとして渡される四角い電車を、俺が色鉛筆で描く。父さんは横でそれを眺めていた。

「上手上手。その電車はドイツの鉄道の……」

 聞いてもいないのに薀蓄を語り出すのが定番。俺は半分聞き流しつつ色鉛筆を走らせ続けていた。

「優輝は絵が好きだなあ」

 そういえばこういうとき、父さんは酒を飲んでいた気がする。

「好きなものは大事にしろよ。父さんだってな、電車が好きだから毎日電車をかわいがる仕事をしてるんだぞ」

 喋り続ける父さんのことを、俺は子供ながらに面倒くさい人だと感じていた。母さんが愛想を尽かしたのも、そういうところなのかもしれない。

「大都会の地下には財宝が眠ってるんだぞ」

 酔っ払って陽気になって、酒臭い息で笑う。

「優輝が大きくなったら、一緒に宝探しに行こう」

「宝探し!?」

 俺は色鉛筆を止めて父さんを見上げた。

「行きたい!」

「ははは、大きくなったらな?」

 俺の頭をぽんぽん撫でて、それから父さんは意識を失ったみたいに眠ってしまった。


 あのときは、冒険心を揺さぶるような言葉に興奮させられた。だが今なら分かる。あれは酔っ払いの戯言だ。大都会・東京の地下に財宝なんかあるわけがない。東京の地下にあったのは、疲れた会社員を詰め込んで走る地下鉄だ。

 窓の外の景色は変わらない。ただの灰色の壁が延々と続く。この路線は、まだしばらく地上に出ない。

 シングルマザーになった俺の母さんは、昼はスーパー、夜はコンビニでパートに出ていた。働き詰めの母さんを見ていた俺も自然と節約意識を持つようになり、無駄を省いたキチキチした生活を送るようになった。

 小学校を卒業する頃には、母さんを安心させたくて一流企業への就職を考えていた。

 中学に上がってからは、勉強に集中するために部活なんか入らなかった。勉学に励んで偏差値の高い高校に進学して、いい大学の推薦を貰い。それからは超一流とまでは行かなかったが、地元でそれなりに有名な大企業へと就職した。

 型に嵌めたみたいな半生だ。母さんも安心してくれた。

 何一つ間違えずに、ここまでやってきたと自負している。


 車内に駅名のアナウンスがかかる。ここで乗り換えだ。ナップサックを背負い、座席を立つ。窓の外は暗い灰色のままだった。地下内の移動だけで一旦電車を降りる。

 ホームに出ると、駅務員の制服のオッサンが立っているのが見えた。六十近いと思しき初老の男である。柱にもたれかかっているような背中はつけていないような、微妙な立ち姿でぼけっと電車を乗り降りする客を観察していた。

 ちょうど俺の父親世代か。とすると、同じ駅務員の仕事をしていたうちの父さんも、きっとあんな感じだったのだろう。

 オッサンの横をすっと通り過ぎようとしたとき、その男は目が覚めたように瞼を見開いた。

「杉田!?」

「えっ?」

 思わず立ち止まる。杉田というのは母さんが離婚する前の俺の名字だ。呼び止めたその駅務員は、ハッと息を止めた。

「失礼しました……」

「いえ……」

 きょとんとする俺に、彼は目をキョロキョロと忙しなく動かして言った。

「あの、もしかして杉田優輝さんですか? ……あ、今は名字違うのか……」

「え……なんで俺の名前を?」

 もう一度驚いた。追いついていない俺をよそに、駅務員のオッサンはぱあっと口角を上げた。

「やっぱり! 似てるから驚いたよ。あいつが若返って戻ってきたのかと……」

 それから大きな手をぽんと、俺の肩に置いた。

「私は、杉田幸作……あなたのお父さんの同僚です。入社当初からずっと切磋琢磨してきた同期です」

 それを聞いても、俺は開いた口が塞がらなかった。

 父さんが都会の地下鉄で働いていたのは聞いていたけれど、この鉄道のこの駅だったとは知らなかった。

「いやあ、本当に……本当にそっくりだ。まるで新入社員だった頃のあいつそのものだ……」

 彼はぽんぽんと繰り返し、俺の肩を叩いた。

「あれ、でも息子さんは今は徳島に住んでるって、あいつ言ってたけどな」

「はい、今日は父の遺品を整理しに来たんです」

「そうだったのか。どうだい、懐かしいものはあったか」

「いえ、何も」

 俺はしれっと、冷たすぎるくらい素っ気なく返した。勝手に盛り上がっていた駅務員のおじさんは、我に返ったように無表情になった。

「そうか……そうだよな、趣味の模型は全部、人に譲ってしまったと杉田から聞いてる。それに、君はお父さんと二十年会ってないんだもんな。君からすれば他人みたいなものだよなあ」

 それから彼は、ちらと腕時計を確認した。

「そろそろ交代の時間だ。一緒に来てくれないか」


 父さんの同僚だというおじさんに連れられ、駅内の事務所に連れてこられた。

「君がお父さんを覚えてないのは、本当に残念だ」

 おじさんがインスタントのコーヒーを入れて、俺の前にカップを置く。俺は固い丸椅子に座って、ごちゃごちゃしたデスクを目でなぞっていた。事務所内には、窓口に立つ若い男が一人いるだけで、あとは俺とこのおじさんだけだった。

 おじさんが俺の向かいに座る。

「お節介かもしれないが、私はあの人について君に話したくて仕方ないよ」

「そう……ですか」

 聞いたところで、もう死んでるし。だがまあ、話を聞いてやらないのも申し訳ないので、適当に会話を続ける。

「あの人、なんで死んだんですか?」

「それも聞いてないのか」

「はい。ああ、なんか不摂生な生活してた様子があったのは見ました。酒で体を壊したとか、ですか?」

 俺が色鉛筆で絵を描く横で、酒の匂いをさせていた父さんを思い浮かべる。駅務員のおじさんは、ははっと笑った。

「いや。心臓病だよ。奥さんと別れたばかりの頃は壊れたみたいに酒を浴びてたけど、健康診断で引っかかってからは酒は殆どやめていたよ。元々酒の好きな人だったんだがな。こんなことで体を壊したら息子に迷惑かけちまう! って、程々にするようになった」

 はあ、と間抜けな返事が出た。自分が倒れたら俺の養育費が払えなくなる、といったところか。

「ご迷惑を、おかけしました」

 酒の席でこの人を困らせていたに違いない。俺はぺこりと頭を下げた。だが、おじさんは顔の前で手をひらひらさせて首を横に振った。

「とんでもない。迷惑はお互い様だし、それにあいつはいい奴だったから、迷惑だなんて思ってない」

 それから彼は親しげに微笑んだ。

「上京したばかりで迷子になっていた青年を助けて感謝の手紙を貰ったり、荷物を持ったおばあちゃんの階段の上り下りを助けようとしたり。そうだ、線路に落ちた女の子を命懸けで救ったこともあった」

 自分の武勇伝みたいに自慢げに語る彼に、俺ははあ、とまたうだつの上がらない返事をした。

「父さんが、ですか」

「信じられないか?」

「そんな立派な人だったら、なんで母さんをあんなに泣かせたんだろうと思って」

 父さんには、いい印象がない。

 別れる直前の、大泣きする母さんと謝るしか能がない父さんの無駄な応酬ばかりが記憶に焼き付いているせいだ。母さんを泣かした悪い父さん、という刷り込みが今でも強く残っている。今更いい奴だったと告げられても、何の実感もないのである。

 俺はおじさんが淹れてくれたコーヒーを啜った。無糖の苦みと渋みが口に広がる。おじさんも、自分のカップを手に取った。

「……君のお母さんとお父さんは、価値観の違いですれ違って、関係が壊れてしまっただけなんだ」

 カップを傾け、口に含み、彼はまたデスクにカップを置いた。

「杉田から悩み相談を受けていたから、ちょっとは聞いてるんだけどね。この駅務員という仕事は、休みが少ない上に二十四時間勤務の日もあって、家庭の時間があまり充実しないんだよ。君のお母さんは、杉田が体調を壊さないか心配で仕方なかったんだね」

 言われて、少し納得した。父さんとの思い出がなかなか出てこないと思ったら、家にいる時間自体が少なかったのか。

「その勤務体制で、帰ってきたら泥のように眠って起きたら疲れを癒すように酒を飲む。お母さんは息子にそんな父親を見せたくなかったという気持ちもあったと思うよ」

 それからおじさんは、またコーヒーを啜った。

「でも杉田はこの仕事を辞めようとはしなかった」

 俺は黙って、コーヒーの黒い水面を見つめた。ゆらゆらと湯気が立ち上っている。おじさんは静かに続けた。

「あの人は鉄道が大好きだったからね。この過酷な業務もいつも笑顔で乗り切っていた」

 きれいごとのような言葉が、ぐちゃりと俺の心臓に刺さった。

「……結局、そうやって好きなものを優先して家庭を犠牲にしたんですね」

 思わず苦い本音が洩れた。

「言ってしまえば、そういうことになるね。でも彼はこの仕事を誇りに思っていたし、勤めている他の駅員からも慕われていた。好きなもののために一生懸命な姿に、たくさんの人が元気をもらっていた……それも現実だ」

 おじさんは深々と、低い声で噛み締めるように言った。

「それだけが理由ではないが、それを火種に夫婦間で意見が対立するようになったと聞いている。安定を大事にする奥さんと、やりたいことを優先したい杉田。些細な価値観の違いが溝を作って、いつの間にか修復できないところまで行ってしまったんだね」

 そしておじさんは、のっそりとデスクの下に頭を潜り込ませた。

「そうやって自分の妻をヒステリックにさせてまでこの仕事に執着したのはね……」

 おじさんの沈んだ頭が戻ってくる。手には、両手で抱えるほどの黒い箱が収まっていた。


 次のプラットホームに立ったとき、乗り換えの電車はちょうどやって来た。風がぶわっと全身を貫いて、髪の毛先がはらはらと舞い踊る。思わず、抱えていた黒い箱をぎゅっと抱きしめた。この風で飛ばされるわけがないのに、なぜだかこの箱ごとかき消されてしまうような気がしたのだ。

「この仕事に執着したのはね」

 駅務員のおじさんの言葉が、風に乗って蘇る。

「君がいつか、宝探しに来てくれると信じてたからなんだ」

 胸に抱えた、黒い箱。

 事務所で開いたとき、俺は目の前がまるで花畑だったことに気づいたかのように、呼吸も思考も停止した。

 真っ黒な箱からふわっと溢れた、百色の色鉛筆。

 箱の左奥から白、黄色と続き、赤や紫や青に展開して、箱の中にずらりとその彩りを広げる。

 圧倒的な色彩が、灰色の頭を極彩色に染め上げる。何も言葉が出ない。全ての語彙を奪われる。

 箱の隅っこに、薄緑色の付箋が挟まっている。そこには掠れたペンの汚い癖字が連なっていた。


『ゆうきへ。いろいろあるとは おもうけど、やりたいことをガマンしないで、ゆうきがやりたいことを、ぜんりょくでやりなさい。キミはきっと、すばらしいがかになれるよ。おとうさんはいつまでもおうえんしています。いまをいきろ!』


 おじさんは、これは父さんが俺の六歳の誕生日に贈ろうとして買ったものだったと、教えてくれた。

 誕生日に一緒に地下鉄に乗って父さんの職場に来て、この仕事がどんな仕事なのか話しながら宝探しをするつもりだったのだ。そして、この色鉛筆を探し当てた俺に、誕生日のお祝いをしたかったのだ。

 ただ、それが叶う前に離婚してしまって離ればなれになってしまったのだけれど。


 電車の座席に座って、ナップサックと色鉛筆の箱を膝の上で抱いた。真正面を見ると、黒く塗り潰された窓ガラスに視線がぶつかる。地下の壁は、暗くて厚い。がたん、と電車が動き出す。

 絵のことなんて、とっくに忘れていた。

 敷かれたレールの上を外れることなく進む人生の方が、不安なことは少なくて済む。やりたいことなんて、やらなくてもいい。そう思って、正しく生きてきたつもりだ。

 でも、俺はあの目が眩むほどの色鉛筆の束を見て、知ってしまった。

 今までの俺の生き方に、何の色もなかったことを。前方以外の周りの景色を寄り道したら、こんなにもカラフルな財宝を見つけられることを。

 それがとても、美しいものだったことを。

 ゴウ、と電車が風を切る。目の前がじわじわと明るくなっていく。線路を駆け、地下の壁を抜け、ぱあっと外気の世界へと放り出された。

 窓の外は青空が夕焼けへと変わろうとする、緩やかなマーブルを描いている。淡いブルーにオレンジや桃色が混ざって、薄い和紙のような雲は紫色に貼り付いている。大都会の高い建物は白く光り、黒い影を落とし、ときに夕日を受けて金色に窓ガラスを煌めかせる。

 大空を鳥が横切っていく。公園の緑が春めく。街路樹の下で赤紫の花が笑う。

 目に映る全てのものが、ドキッとするくらいに豊かな色彩を放つ。

 子供の頃に見た、カラフルな模型でいっぱいの父さんの部屋みたいだ。


 一度外から目を離して、手元でスマホの明かりをつける。

『母さん。俺、絵の勉強を始めたいと思う』

 メッセージを送信して、また窓の外を見上げた。

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