災厄の花束を君に

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

災厄の花束を君に

 どうやら私は呪われているらしい。

 いや、知らんけど。


「ごめん、もう無理だ。別れよう」

 一週間ぶりに会った恋人から真っ先にそう告げられた。言葉を受け、私はため息をつく。

「酷いよ。そっちから告白してきて、『俺はそんな迷信じみた話は信じない』って言ったくせに」

 怒りや衝撃より、ガッカリが強い。この人なら大丈夫そうだと思ってしまっていたばかりに。

 今ここにいる彼は、たしかに無残な姿だった。この公園で待つ私を見つけて駆け寄ってきた彼は、捉えてから辿り着くまでに靴紐が切れて転び、鳥の糞が落ちてきて、ぶつかってきた子供に鼻水を付けられたのだ。

「この間なんか、居眠り運転のトラックが突っ込んできたじゃねえか。迷信を信じない俺ですら、ヤバイと思うほどのレベルなんだよ、お前は」

 悲しいかな言い返せない。彼の言うとおり、私はどうも不幸を寄せ付ける体質らしく、好きになる人は皆、不幸になる。何故か家族や友人には影響がない。多分、恋愛感情がこの体質の発露になる。

「そういうことだから、ごめんな。俺も自分の身が大事なんだ」

 そっか。私は黙って俯いた。この前、事故に遭わせてしまったから、その償いのつもりでメイクに時間をかけて美容院も行ってきて、君が褒めてくれた白いワンピースを着てきたのに。

 私の「元・恋人」は、振り返りもせずに去っていった。こんな後ろ姿を見送ったのは、君で四人目だ。

 私の片想いも含めて、過去に三人の男性たちがこの不幸体質の犠牲者となった。一人は骨折し一人は川に落ち、一人は謎の高熱に倒れた。

 私だって、こんな非現実的な体質は偶然だと信じたい。だが偶然にしては百発百中だから、逆に信じない方が非現実的だ。

 振られたことより、また一人好きな人を傷つけてしまった事実がつらい。ため息をついて、ベンチに腰を下ろす。

 そこへ突然、背後から声がした。

「すっげーラッキー。めちゃ面白い瞬間見ちゃった」

 振り向くと、目が覚めるような赤いスウェットの男が植え込みの向こうからこちらを見ていた。彼はメロン味の棒アイスを咥えて、かじりながら続ける。

「まず今の男がここまで辿り着くまでの災難ぶりが笑えるし、君がめっちゃ気合い入った格好してるのに振られてるのも笑えるし、これ、しばらく笑うわ」

 どうやら私のことを言っているらしい。初対面で不愉快な奴だ。

 赤いスウェットから覗く手首は異様に細く、骨が浮き出ていた。髪は男にしてはもっさりと長く、前髪は目の下辺りまで伸びていた。何だか変わった風貌の男である。

「他人の不幸を喜ぶなんて、最低ね」

 私が睨みをきかせても、彼は少しも動じなかった。

「今の会話聞いてた感じだと、君、不幸を寄せ付ける超能力でもあるの?」

「知らない。何なのよ、馴れ馴れしい」

「そっちが素っ気ないんだよ。その体質? 能力? のこと、もっと詳しく知りたいんだけど」

 振られた直後に、面倒な奴に絡まれる。私自身も相当ついていない。

「本当に知らないんだって。ただ私が好きになる人は皆、不運になる傾向があるの。それで振られるから私も不運だし。じゃ、私もう帰るので」

 面倒なのでざっくり説明して足早に逃げようとしたのだが、それを察した赤スウェット男はがしっと私の手首を掴んだ。

 恐ろしく冷たくて、骨っぽい手だ。

「待って。それがマジなら俺と勝負してよ」

「勝負?」

 思わず振り向く。彼はニヤリと不敵に笑った。

「聞いて驚け、俺は自他ともに認める不死身のスーパーラッキーボーイなのだ」

「……はあ?」

 眉を顰めた私に、彼は咥えていたアイスの棒を差し出した。そしてその棒に刻まれた文字に、私は目を剥いた。

「あ、当たり……」

 生まれて初めて見た。アイスの当たり棒。あまりにも当たったことがないから、フィクションなのかと思っていた。

「こんなのは俺には当たり前だ。当たりだけに」

 スウェット男は自分で棒の文字を確認する前に、自信満々にこの棒を私に見せた。つまり、絶対に当たっている自信があったのだ。

「どう、勝負してみない? 君の不運と俺の幸運、どっちが勝つか」

 そう言って笑う彼の目は、やけに澄んでいた。私はまた顔を顰める。

「唐突すぎてよく分からないんだけど……何? 新手のナンパ?」

「えっ? ナンパ……もういいやそれで。ナンパです、ハイ」

 男は戸惑いつつも認め、私は尚更、気分を害した。

「お断りします。さよなら」

 冷たく突き放したが、それでも彼は手を離さなかった。

「君は人を不運にさせる力があるんでしょ。それなら俺を不運にさせてみて。そしたら君の勝ち」

 自分から不運にしてみろなんて言う人は初めて出会った。驚く私に、彼は更に続けた。

「俺は君を幸せにする。それができたら俺の勝ち」

 そんなプロポーズみたいな言葉が、私と彼の勝負の始まりだった。


 *


 こんな不躾な男は丁重にお断りしてさっさと帰るべきだと思っていたのに、私の腕を掴んで離さない彼が、私を強引に帰してくれなかった。

 並んでベンチに座らされてすぐ、彼は切り出した。

「君の件の体質……その厄病神みたいなスキルが発動するのは、恋をした相手限定なんだっけか?」

「知らないけど、多分」

「じゃ、まず君に俺を好きになってもらわないと勝負が始まらないな」

 しれっと無茶を言う。現時点であなたは、私にとって不快な奴でしかない。

「手っ取り早く意識してもらうために、いきなりチューでもしましょうか?」

「死ね」

「冗談だよ。それは俺だってそのくらいのモラルはある」

 笑えない冗談を言って、それから彼はうーんと宙を仰いだ。

「けど考えてみたら、俺が不運にならなくてもシロちゃんさえ幸せにできれば俺の勝ちなんだよね。むしろ不運になったら負けなんだから、シロちゃんに惚れられない方が得?」

「シロちゃん?」

 考察よりもそちらの方が気になった。彼は頷いた。

「『君』って呼ぶの不便だから、今から君を『シロちゃん』って呼ぶよ」

「何それ」

「白いワンピース着てるから。俺のことは『アカ』って呼んで。赤いスウェットだから」

「普通に名前で呼べばいいじゃない」

「名前はお互い、知らない方がいい。それにこれなら、赤組と白組に分かれてるっぽくて、勝負してる実感あるでしょ」

 そうでもないけど。

「分かってたけど変な人だね。ナンパなんでしょ? それなのに名前は知らない方がいいって、どういうことなの?」

 呆れる私を気にせずに、彼はぐいぐい話を続ける。

「シロちゃんは何歳?」

「十七歳」

「お、タメだ! どこの学校行ってるの」

 何を意図しているのかはやはり分からないし、不快なナンパに変わりはないが、振られて傷ついている私を慰めようとしているのかもしれない。一生懸命に会話を繋げようとしてくる。

「中央高校。あんた……ええと、アカは?」

 何となく、彼の話し方には悪意や下心みたいなものが感じられなくて、無下にするのも心苦しい。私からも質問してみた。だが、彼はへらっと笑って首を横に振った。

「俺は学校行ってない」

「あ、そ……そうなんだ」

 自然な流れのはずが、悪いことを聞いてしまったようだ。

 同い歳で学校に行っていないとなると、学校で何かあって不登校になってしまったとか。或いは経済的理由か。彼はやけに痩せているし、髪も少し伸びすぎている。その線が濃厚かな、と勝手に想定した。

「で、学校行ってないから、友達も彼女もできなくてさ」

 アカは大袈裟なため息をついた。

「ですんで、こうしてシロちゃんとばったり会えたのは超ラッキー。この機会を逃すわけにはいかない」

「そんなに強引な性格なら、私じゃなくてもいくらでも声かけそうじゃない」

 こうやって自由に出歩いて、自由に他人に話しかけているのだ。しかしそれでもアカは首を横に振った。

「でも、アンラッキーばらまき体質持ちのシロちゃんを偶然捕まえられたのはラッキーじゃない? 運命だぞこれは」

「何言ってるんだかよく分からないよ」

 話せば話すほど疲れる人だ。ちらと隣の顔を見ると、アカの表情は口元こそ笑っているものの、やや顔色が悪かった。そうか、こんなテンションの低い私と話す方も疲れるのか。だったら、私なんかやめればいいのに。そう思ったとき、アカの方から切り出してきた。

「すまんシロちゃん。引き止めといて申し訳ないけど、俺、もう時間だ」

 ほらね。もう飽きちゃったじゃない。

「うん、バイバイ」

 変な奴だった。もうちょっと絡まれてたら、危うくお巡りさんを呼んでいた。

 ベンチから立ち上がって去ろうとすると、アカは再び引き止めてきた。

「あー待って待って。どこ行くんだよ」

「解放されたんじゃないの?」

「シロちゃん、チョコレート好き?」

 唐突な問いだ。

「人並みに好きだけど、それがどうかした?」

「お勧めのショコラティエの店があるんだ。俺もまだ行ったことないんだけど、この前知り合いから貰ったその店のチョコがすげー美味しかったから、行ってみたくて」

 言いながらアカは、わたわたとスウェットのポケットを探った。そして小さなカードを取り出し、私に差し出す。贈答用のお菓子なんかの箱に入っている、店の紹介のカードのようだ。

 茶色いカードには金色の文字で、「Geranium rouge」と刻まれて、裏面に簡単な地図が描かれていた。

 店の名前らしきそれを、スマホでインターネットを開き、検索してみる。たしかにこの町にあるショコラティエがヒットした。この町に長年住んでいるが、この店は知らなかった。評判を見る限り、どうやら隠れ家的名店のようだ。

「実は今日も、この店探して歩いてたんだけど。見つけられなかったんだよね。地図が見づらくてさ」

「ネットでもっと見やすい地図出せばいいじゃない。スマホから見れば、確認しながら行けるでしょ」

「スマホは部屋に置いてきてるんだよ。追跡サービスに登録されちゃってるから、持って外に出ると捕まっちゃう」

 追跡、そして捕まるという不穏な言葉が並ぶ。ますますもって、この人の事情が分からない。

「所謂『携帯を携帯してない』ってやつ。あ、そうだ、このカード持ってると行こうとしてるのもばれちゃうから、これはシロちゃんが持っててよ」

 彼は手に持っていたカードをずいっと私に突き出した。私が無言でカードを摘むと、彼はにんまり笑った。

「ありがと。明日は日曜日だから、学校休みだよな。明日、またこの公園のベンチに来て」

 そう言って顔の横で手をひらひらと振っていた。


 *


 これは、複雑な境遇にありそうな彼への同情だったのか、はたまた振られたばかりの私自身が寂しさを埋めようとしていたのか。普段の私ならあんな変な奴にはもう関わらない方向で固めるはずなのだが、私はなぜか、約束どおり公園のベンチに向かっていた。

 きっと「幸せにする」という陳腐な口説き文句に、酔ってしまっていたのだ。

「おー、来た来た」

 待ち伏せていたアカは、キャラクターの維持のつもりなのか赤い上着を羽織っていた。示し合わせたわけではないが、私も白いパーカーを着てきた。

「嬉しいなあ、やっぱりシロちゃんは俺を見捨てなかった」

「別に、ネットで見たチョコレートの画像が美味しそうだったから行きたいだけ」

 こちらから相手に興味を持っているような素振りを見せるのは癪なので、素っ気なく返してやった。

 彼の言うとおりカードに記された地図はあまりにも簡易的すぎて分かりにくかったので、私のスマホで地図を開き、それを頼りに店まで歩いた。

「シロちゃんが初めて人に厄を振りまいたのは、いつ?」

 繁華街に並ぶたくさんの小洒落た店を見つつ、アカが問うた。

「自覚を持って『私のせいかな』って思ったのは小学生の頃好きだった人が骨折したとき。でも思い起こせば幼稚園の頃仲良くしてた男の子が遊具から落ちたっけ……」

 記憶の糸を手繰り寄せて、そんな懐かしいことを思い出す。アカは笑っていた。

「初恋早いね。もしかして惚れっぽいタイプ?」

「そうかもしれないけど、それでもあんたは有り得ないから安心して」

 それから私は、はあ、と短くため息を洩らした。

「ちらっと自覚したのが小学生の頃で、その後も続いたから徐々に確信に変わってきて。周りからも、『あいつと付き合うと呪われるんじゃないか』って噂されるようになったの」

 根拠なんかない超常現象だ。だが過去の事例という裏付けがあると、人は案外、迷信を信じる。

「だからもう、人を好きになるのやめようって思ってたんだけど……昨日のあの人が、『そんなの信じない』って言ってくれて。それで付き合ってみたんだけどね」

「それなのに、ああいう結果だったわけな」

 アカは先読みして、ふうんと鼻を鳴らした。

「人を好きになるのをやめる、か。それ難しくない? 好きなもんってどうしても好きじゃん?」

「必死に嫌いなとこ探すんだよ。自分のせいで好きな人に悪いことが起こるのって、つらいんだよ」

 ラッキーボーイの君には分からないでしょうけど。アカは難しい顔をして首を傾げた。

「根拠もないことで周りから怖がられるの? そんで本人は人を好きにならないように、嫌いになる努力をするのか。なんかそれって、シロちゃんがいちばん不運な境遇にあるよなあ」

「仕方ないじゃん。それが疫病神のさだめなの」

「ますます俺が幸せにしてあげないとね 」

 今度はニッと嬉しそうに笑う。表情豊かな人だ。私はまた、冷ややかにあしらった。

「そういうクサイ台詞、鬱陶しい」

 やがて地図が示すショコラティエの店が見えてきた。堂々とした佇まいではなく、小さなビルの中にテナントとして入って小ぢんまりした看板を掲げている。

 中に入ってみると、店内もやはり手狭かったが磨かれたショーケースの中の繊細なチョコレートはまるで宝石のように美しかった。イートインスペースもあり、チョコレートのお菓子やそれに合うコーヒーやココアを楽しめるようだった。

「わあ、きれい。美味しそう」

 アカがショーケースを眺めて目をきらきらさせている。子供みたいに無邪気な顔をする彼に、ついこちらも頬が綻んでしまう。

 本当に、きれいで美味しそうだ。だがどうやら大人の嗜みのお店らしい。一つ一つの価格を見てはぎょっとする。高校生には厳しい。

「私はこの、純ショコラっていうの買おうかな」

 ぽつんと呟いた矢先だった。

「端から端まで全部ください」

 子供みたいな顔をしたアカが、大人買いを決行したのだ。

「アカ! 大丈夫なの?」

 高いよ、とは店員さんの目の前では言いづらくて濁したが、アカにそんな経済力があるとは思えない。しかしアカは平然としている。

「こういうときは、贅沢するものだ」

 なんて思い切りがいいのだろう。

「飲み物どうする? 俺はホットチョコレート。シロちゃんは?」

「え、わ、私は、じゃあ同じもので」

 私が呆然としているうちに、アカは全額自分のポケットから出してニコニコしながら問いかけてきた。イートインスペースのテーブルについた。私も追いかけ、鞄を探った。

「私にも半額出させて」

「何言ってんだよ、初デートで俺が勝手に注文したのに出させるわけないだろ」

「そんなことされたら却って遠慮するでしょ!」

「そうかねえ?」

 アカがニヤリと笑う。そしてお盆に乗ってやってきたチョコレートの山とホットチョコレートを見て、もう一度にやけた。

「あれば食べるしかないでしょ?」

 豪快な行動の裏には、繊細な感情を察知した仕掛けがある。

 私は単純なのか、普段は食べられないような高級チョコレートを前に、頬が紅潮した。


 チョコレートは甘く、ほろ苦く、物によって僅かな違いがあって、全く食べ飽きなかった。アカがテーブルにあったペーパーを差し出して、細い指を乗せる。

「カカオの産地によって味が違うみたい。どれが好き?」

「エクアドルのが好きかなあ」

「甘いよね」

 産地を示した世界地図と、きらきらしたチョコレート、窓から見える欠けた空。アカの声。胸の奥で何かが溶けるような、頭がのぼせるような、そんな陶酔感が体を巡る。

「今のところ、俺が優勢だね」

 アカがニヤリと笑い、ホットチョコレートに唇を付ける。悔しいけれど、私は彼のおもてなしに満たされてしまっている。

「今のところ、っていうか、俺が絶対に勝つけどね」

 本当はここで「いや私が勝つ」とこたえるのがノリというものなのだろうが、この場合私が勝つというのは私が彼を好きになること、彼に厄災が降りかかることを意味するので言わなかった。

 いっそアカが勝ってくれればそれでいい。私の持つ全ての厄を、アカのラッキーで打ち消してくれれば。そんな変な期待を寄せる。

 アカが腕時計を一瞥した。

「時間だ。戻らないと」

 残っているお菓子を慌てて口に運ぶ。私もペースが速くなった。

「ねえ、その『時間』って?」

 興味がないふりを続けるつもりが、うっかり尋ねてしまった。が、アカはこたえなかった。

「申し訳ないねシロちゃん。折角デートしてるのにすぐ切り上げなくちゃならない。ほんとは一秒でも長く一緒にいたいのに」

 私なんかにそこまで言ってくれるのは何故なのだろう。出会って二日目だし、何も知らないくせに。

 でも、出会って二日目にも拘らず、私の方はこの人のポジティブな性格を知って、やけに親しい存在のような気がしていた。


 店を出て私は、まだお日様が高いのになあ、なんて青空を見て思った。アカの言っていたとおり、心のどこかにまだ切り上げたくない気持ちがあったのかもしれない。

「あのさ、アカ。昨日も今日も私のことばかり話してた気がするから、今度会うときはアカの話を聞かせてよ」

 まさか自分の方から会う約束を持ちかけてしまうなんて。これにはアカも驚いたようで目を丸くしていたが、やがてふふっと満足げに笑った。

「いいよ。俺の最高にラッキーな話を聞かせてあげる」

 普段からラッキーなアカの最高にラッキーな話ってどんなだろう。無意識に楽しみにしている、バカな私がいた。

「明日もこうして遊びたいけど、月曜日だから学校あるもんなあ」

 残念そうな口振りで喋っているときですら、アカの瞳はきらきらしている。

「市立病院のさ」

 アカが顔を背けた。彼の視線の先には、青空の中にちょこんと頭を突き出す、病院が見える。

「八階の八一五号室。向かって右の、いちばん窓際のベッド。学校終わったら、来て」

 え、と聞き返す前に、アカはまたにこっと笑って私に手を振った。じゃあねと走り去っていく彼を、私は追いかけることも忘れて見送っていた。


 *


 翌日月曜日、私はよく眠れなかった頭でぼんやり授業を受けていた。

 病院? 入院患者の部屋?

 どういうことだろう。アカには誰か入院中の知人がいるのだろうか。もしかして親とか。その親に、私を紹介する……とか。

 そこまで考えて、頬がぼっと熱くなった。くだらない妄想をしてしまった。

 放課後になり、私は真っ先に病院に向かった。少し小走りになって、気がついたら全力疾走になっていた。

 アカの明るくて楽しいポジティブな話を聞きたい。アカの最高にラッキーなエピソードを聞きたい。アカの声が聞きたい。

 なんでそんなに気持ちが埋め尽くされていたのか、私だってよく分からなかった。

 病院が見えてきて、エントランスに飛び込む。面会の手続きすら面倒に感じて、エレベーターが遅く感じて、いらつくほどだった。

 八、一、五。アカから聞いていた部屋を探し、プレートを見つけ、迷わず飛び込む。右側の、窓際。ベッドのカーテンは全開になっていた。

「アカ」

 呼んだ名前は、息が上がっていたせいで掠れていた。

 そして、その掠れた声までもが喉から出なくなった。


 チョコレートの空箱と、誰もいないベッド。


 私は肩で息をして、その空っぽの布団を眺めていた。

「あら」

 声がして振り向くと、黒い髪の清楚な女の人が立っていた。

「あなたもしかして……シロちゃん?」

 私は二度、まばたきをした。その呼び方を知っているのはアカだけのはず。戸惑いつつ頷くと、彼女は目を伏せて微笑んだ。

「本当に……あの子の言ってたとおりの女の子だわ」

「あの、あの人は……アカはどこですか? アカにここに来るように言われて来たんです」

 早口に問う。黒髪の女性は息を呑み、それから泣きそうな顔をして、私を抱きしめた。

「ごめんねシロちゃん。ごめんね……」

 何が起こっているのか全く分からない。彼女は私を解放し、それからベッドの脇にあった棚を開けた。

「あの子からこれを、シロちゃんに渡すように言われてる」

 手渡されたのは、白い便箋だった。刻まれていたのは、酷い癖字。


「シロちゃんへ。


 人生初のラブレターは、姉ちゃんに託しました。

 約束していた、俺の最高にラッキーな話を書きます。


 言ったら会えなくなると思ったから黙ってたけど、実は俺は何千万人に一人しかならない激レアな病気で、成功率がめちゃ低い手術を控えてました。

 すごいだろ、こんなレアケースに恵まれるなんてラッキーだろ。


 そんで病院があまりにも退屈だったから、検査が来るまでの間だけ、こっそり外に出て散歩してました。歩くだけでも日を浴びるだけでもしんどかったけど、病室にいるより楽しいから、止められてもやめなかった。

 そんなことを続けてたら、シロちゃんに会えたんだよ。


 本当のことを言うと、シロちゃんを初めて見かけて疫病神らしいと思ったとき、「こいつ使える」と思ったのが本音です。ごめんね。

 俺はただ病気で死ぬのが嫌だったから、何か他の理由が欲しくて、シロちゃんに近づきました。

 シロちゃんの持ってる厄を全部俺が受け止めて、シロちゃんから厄を全部吸い取って、女の子が一人幸せになれば、それで俺は死んだならカッコイイと思って。無理やり距離を縮めました。シロちゃんを利用しました。

 愛情じゃなくてごめん。


 でもシロちゃんに会えたから、無理やりとはいえ人生初のデートができたし、思いっきり食べてみたかったチョコレートを贅沢に楽しめたし、最後の最後で最高に楽しい時間を過ごせました。

 短い時間だったけどやりたいことは全部、君が叶えてくれた。

 今となっては本当にシロちゃんが好きです。

 本当に幸せになってほしいです。


 俺が君の呪いを全部受けた。君はもう呪われてないから、自由に人を好きになっていい。

 最高にラッキーな生き方をさせてくれてありがとう。

 幸せになってね。


 P,S

 勝負は俺の勝ちだね。


 アカ」



 ぱた、ぱた、と便箋に熱い水滴が落ちた。

 学校に行ってなくて、髪がぼさぼさだったのは入院していたから。

 度々口にしていた「時間」は、検査の時間と彼自身の体力の限界。

 チョコレートを貰ったのはお見舞い。

 名前を教えてくれなかったのは、これから先の私の未来で、自分の存在を思い出させないために。


「手術の後、急に容態が悪くなって……そのまま眠るように」

 お姉さんの声が聞こえた気がした。

 ずるい。手術が成功したらそれを「最高のラッキー」にするつもりで、もしものことがあったらこの手紙を私に渡すつもりだったのだ。

 絶対勝つ気だったのだ。ずるい、出来レースだ。

 私だって彼を好きにならないように意地悪して、自覚症状だって誤魔化して、努力してたのに。

 便箋の汚い字が私の涙で滲んでいく。



 私は呪われいるらしい。

 この先誰かを好きになっても、必ず君を思い出してしまう呪いだ。

 君以上に好きになれる人を見つけられない呪い。

 甘くて、苦くて、溶けだしちゃいそうな呪い。


「Geranium rouge」……赤いゼラニウム。

 花言葉は、「君ありて幸福」。

 空っぽのベッドは、真っ白だった。

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災厄の花束を君に 植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売 @sui-uehara

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