やがて虎になる

枢 公一

かみ成り虎

「おらー、ひょうのやつが通りやがるぞ」

「うわ、きったねえ、あいつこないだ小便飲んでたもんなあ」

「ありゃあおめが飲ませたんだろが。でも、きたねえには変わりねえ」


 草の茂るあぜ道で、ひとりの少年が複数の少年たちに心ない言葉を浴びせられていた。


「……おら、飲んでねえ」

「うっそこけ、おめ飲んでたでねか!」


 小さい声で反論してみても、ただからかいこづかれるだけ。遂には泣く少年。


「ア、ひょうが泣いたぞ!」

「まーた泣いたんか」

「うわ、ひょうが泣いた!」


 そこに、横から鋭い声が飛んできた。


「こらっ、この悪ガキどもっ、なにをしとるかっ」


「ゲェ、天狗の和尚だ!」

「生臭坊主っ!」

 

 いきなり現れた寺の和尚に、からかっていた少年たちがさっと身を退いた。この和尚、ふだんは優しいのに怒ると天狗みたくなるのは村の子供なら誰でも知っている。特に、いつも怒られてる子供らからは天狗和尚と恐れられていた。


 蜘蛛の子が散るようにして逃げていった子らの後ろ姿を見ながら、和尚はひとり残った少年に声をかけた。


「まったく。おい田助。お前もすこしくらい、いいかえしてやらんか」

「……だっておら、いいかえしてんだけんど、もっとやってくっから」


 この田助という少年は、村の連中からは〝ひょう〟と呼ばれている。体つきが細くひょろひょろしていたために、誰かがそう呼んだのがはじまりだ。

 覚えるのも苦手、しゃべるのも苦手、体を動かすのも苦手と、特に褒めるところが見当たらない。最近では彼の親までもが愛想をつかしてひょう、ひょうと呼ぶほどである。


「ふむ。では田助よ。ちょっと寺までこい。お前にいいものを見せてやろう」

「……いやだ。おら、うちに帰りたい」

「茶とまんじゅうくらいは出してやる。こい」


 和尚はいやがるひょうの手をとり、村の北の寺まで引っ張っていった。

 

 いったとおり、和尚はお茶とまんじゅうを出してくれた。ひょうは和尚の顔を窺いながら、びくびくとそれを口にする。


「田助よ。お前はちょっと、鍛えなおさねばならんな」

「え」


 唐突にいわれた一言に、ひょうは茶を噴き出しそうになった。


「ははは。そう怖がるでない。しかしなあ、田助。さっきの話じゃが、もっとやられるからと、いうのが怖いのは仕方ないが、心まで逃げておったらあかんぞ。心が逃げておると、人間簡単に折れてしまう。時には折れるのもかまわんが、お前の心、あんな連中に折らせてやるにはもったいないじゃろう?」


 ひょうは口もとを袖で拭い、上目遣いで和尚を睨んだ。


「そなこといったって、おっしょうはやられてねえからわかんねえんだ。あいつら、おらがなんかすりゃなんかいうし、なんもせんでもいってくる」

「そうじゃないよ、田助。人間ってのはな、ここんとこに芯があるんじゃ」


 和尚はこぶしで軽くひょうの胸を叩いた。


「……しん?」

「そうじゃ。まんなかのまんなかじゃ。木を切るとな、丸い輪がいくつも重なっとるのが見えるじゃろう? その中心が芯じゃ。いちばんつよい」

「お、おっしょうのいってるこた、おらわかんねえ。おらにそんなもんねえ」

「いや、ある。ちゃんとお前にもある。ただ、田助のは立っていない。ここんとこにある芯が、お前はまだ立っていない。田助。人間ってのはな、ここの芯を、一生かけて立てていくもんだ。ほれ、芯とはどう書くか知っとるか? こう書くんじゃ」


 和尚が墨をすり、紙に大きく書き出した。〝芯〟と〝心〟というふたつの文字。

 ひょうはしばらくその字をじぃっと見ていたが、やがてつぶやいた。


「おんなじ形がふたつある……」


 天狗の和尚は大きくうなずく。

「そうじゃ。これは〝しん〟とも読む。芯はこころを支えにして立てるんじゃ。――よいか、田助よ。お前は芯を立てるための心がよわい。だからあんな連中に好き勝手にいわれるのだ。そこでわしが、お前にいいものを見せてやろう。こっちへこい」


 そういって和尚はひょうを連れて奥の襖をあけた。


 ア、とひょうは目を剥いた。


 あったのは一枚の屏風。

 描かれていたのは、雄々しい虎と、一匹のひょう。ここでいうひょうとは、獣のほうだ。

 二匹とも体躯たいくをしならせ、じゃれあっているようにも争っているようにも見える。それを見たとき、ひょうの背中はぶるりと震え、思わずその場にへたりこんでしまった。


「お、おっしょう……これ、は……?」


 しかし怯えた声を出しながらも、ひょうはその屏風絵からなぜか目が離せなくなっていた。牙を剥きだした二匹の獣の絡み合う姿には、妙な色気と迫力がある。


「ふむ。この右の獣はな、虎というんじゃ。海のむこうにいる獣だ。そして、虎のめすはなんと呼ばれると思う? ――ひょう。ひょうというんじゃ。ほれ、左の獣がそうだ」

「ひょう……おらと、いっしょだ……」

「そうだ。ひょうとは本来、つよーいつよい獣なのだ。だから田助も泣いてばかりおらぬと、このひょうのようにつよくなれ。つよい芯を己のなかに立ててみよ」

「しんを……」


 いいながらもう、和尚の言葉はひょうの耳に入っていなかった。

 最初目にしたときは恐ろしさもあったが、そういわれるとその険しい二匹の獣が、途端に頼もしく見え、なんだか自分という人間が、屏風のなかに吸い込まれていくような気さえした。


 その夜、ひょうはなかなか眠ることができなかった。昼間に見た屏風絵が頭から離れない。

 瞼の裏に刻まれたように、二匹の獣が脳内に住み着いていた。どんな声で吠えるのかも知らないくせに、生き生きとひょうの頭のなかを獣たちが駆けまわる。


 それからというもの、ひょうはその二匹の獣に取り憑かれてしまった。

 相変わらず村の連中はひょう、ひょうとからかってくるが、頭のなかに虎を飼っているからか、前ほどいやとは思わなくなった。だからといって、やられることには変わりはないけれど。


 ひと月が流れた。ひょうの頭のなかにはすっかり二匹の獣が息づいている。ありありとうごめく姿を眼前に映すことができたし、じつはあれからもう一回だけ、和尚にお願いして屏風絵を見せてもらったりもしていた。


 だけど、和尚のいっていた〝芯〟の話だけはさっぱりだった。自分では和尚にいわれたように必死に胸のなかに立てているつもりなのに、いじめられれば相変わらず涙がでてくる。よわい自分に泣けてくるのだ。


 ある日、ひょうはゴロゴロと遠くでする音を聞いた。目をやると、空に分厚い黒の雲が重なっていた。空一面を覆い尽くすような雲。

 カッと一筋の閃光。すこし間をおいて、腹を叩くような轟音が空気を割る。


 このときひょうはなにを思ったか、その音がしたほうに足を出した。すこしずつ速度をあげ、だんだんと駆けだしてゆく。


 なぜだろう。いつもはかみなりさまがあれほど怖くて仕方ないのに、いまその姿を見た瞬間、脳の虎が吠えたように感じたのだ。


 黒い雲に向かって走るひょう。次第に雨が降りはじめ、またたく間に土を濡らしていった。


 雷は何度も落ちた。ゴロゴロというくぐもった音と、ピシャアッという炸裂音。閃光は数えきれないくらいあった。


 自分がどこに向かって、なにをしようとしているのか、ひょう自身もよくわかっていなかった。だけどあの雷の音は、ひょうの頭にひとつ、奇妙な考えを落としていた。


 ――あの屏風で見た絵。ひょうと虎。おっしょうは虎の雌がひょうだといったけんど、もしかしたらあの二匹は、べつの生き物なのではないか。

 虎の黄色の体に入っていた黒の線はきっと、雷を表しているんだ。だったら、ひょうは雷を食って虎になったのだ。ならばおらだって、雷を食えば虎になれる。


 なんということだろう。ひょうは脳内の獣たちと一緒に暮らすうちに、憧れ、それそのものになりたいと思うようになっていた。それになれば、自分はつよくなれる。


 山に入る。草木は繁り、道などない。しかし雷を追って音のつよいほうに足を動かす。小さいころから遊んでいる山だった。多少は方向感覚も利く。


 しかし、だんだんとつよくなる雨と雷が、ひょうの感覚を狂わせた。ひっきりなしに轟く雷音。ふと我に返り、恐怖の色が全身を襲った。


「あぁ……おっかぁ、おっとぉ、怖え、怖えよう」


 でてきた涙はすぐに雨で流されていった。

 ここまでくると、音は耳をつんざくほどだった。一瞬の光が周囲を照らし、瞬間にして消える。ひょうはその場にひざまずいた。


「わああああああぁぁぁぁぁぁぁ……」


 あまりの怖さに叫び声がでる。いままでずっと一緒にいたはずの脳内の獣も、いつの間にかどこかに消えていた。ここまで一心不乱に走ってきたが、自分はなんて馬鹿なことを考えたんだと、後悔の渦に巻き込まれた。


 ひたすら降り注ぐ雨。周りなんか見えやしない。雷の音とあわせて、ただ激しくなるばかり。それに負けないようにと声をだしても、自分がちっぽけに思えるだけだ。


 どれほどそうしていただろう。

 雨がやんだ。しかし体はびしょ濡れ。衣服も肌に貼りついて冷えてくる。もはや腰を抜かし、立つことすら適わない。


 そのまま俯いて、ぐずぐずと泣く。なぜ自分がこんな思いをせねばならぬのだ。自分から足を踏み入れたくせに、全てが理不尽に思えた。


 水気を含んだ山は、ひょうの知っているいつもの姿とはまるで様相が違っていた。父や母が、家に帰っていない自分を心配して迎えに来てくれないかと願った。しかしまだ夕刻にもなっておらず、おそらく自分に失望してるであろう親が、自分を探しているとも思えなかった。


 そんなおり、パチ、と、なにかがはじける音がした。


 ひょうは顔をあげた。おそるおそる周囲をうかがう。


 そして見た。前の三本の木の奥――その奥に、おそらく樫の木であろうが、赤い光を放つ木があった。太い幹が縦に裂け、裂け目のなかが真っ赤に輝いている。


「……な、なん……」


 ひょうはいまのいままで泣いていたことも忘れ、立ち上がった。腰が抜けていたはずなのに、不思議とすっと立てた。


 パチ。さっきも聞こえた音だ。間違いない。確実にあの木から聞こえる。


 一歩、一歩と近づいていく。目を離さない。どう見ても、木の内側が赤く光っているようにしか見えなかった。ただの木じゃない。


 そうしてその木まで、あと四尺ほどというところまで近づいたとき、ひょうは赤い光の正体を知った。


 燃えている。木の、内側だけが燃えているのだった。


 なんという奇妙な光景だろう。表面を見れば枯れた木なのに、割れ目のなかだけが轟々ごうごうと燃えている。まるで血のようだ。


 これは、雷に打たれた木に稀に起こる現象である。表面が雨で濡れてしまっているために乾燥した内部だけが燃えるというもの。


 しかしひょうにとってそんなことはどうでもよく、もちろんなぜこのようなことが起きているのかわかるはずもない。ただ――


「……〝芯〟が……燃えとる……」


 そう思った。

 目の前の木の〝芯〟が燃えている。おっしょうはこの芯というのがいちばんつよいというとったのに、この木はこうして、〝芯〟だけが燃えているではないか。


 ゴロゴロゴロ。遠く、また雷の音。さっきの黒い雲と雨と一緒に、むこうのほうにいってしまったらしい。風だけが木々のあいまにびょうと残っている。


 その雲と一緒に、頭のなかに住んでいた虎までがいってしまったように思えた。もちろん、もう一匹のひょうもいっしょに。


「は、はは」


 ひょうは笑いだした。


「ははははは、なんだ、〝芯〟だって、燃えてしまうでねか!」


 なんだか急に全てがばかばかしく思えてきた。


 虎がいたっていっちまう。

 芯があったって燃えちまう。


 だったらそんなもん、頼ったところでなんだというのだ。いざというときにどっちもいないのであれば、なんの意味もないではないか。


 おっしょうのばかたれ。この世にさっきの雷以上につよいもんがあるかよ。なんてったってあれは、人の芯すら焼いちまう火だ。虎もしょせんは屏風の虎。二匹の獣、なにするものぞ。


 ひょうはその樫の木をばんと蹴ると、もう一度高らかに笑い、悠々と山をくだっていった。


 その後、雷を食らった彼がどうなったかは知らない。

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やがて虎になる 枢 公一 @kanamekoichi

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