第6話 悲しみに降る雪


 十二月ともなると湘南にも冬の寒気が到来し、私たちはまたグレイッシュな空と冴えた空気を思い出す。凍えるような真冬の海でも、サーファーは少なからずいるものだ。私はそう思い身震いした。

 それなのに今朝、カフェの店内から見える眩しい日差しは、ハワイのように美しかった。外国のホテルで朝食を頂くような、開放感のある幸せを一瞬思い出す。ここにだって、そこら中に幸福は転がってるというのに。

 空気がかき混ぜられ神聖さが失われても、私は魔法が解けぬよう気付かないふりを装おう。日差しは、このまま午後まで続くだろうか。もちろん、冬の夕暮れの早さはあっという間だけれども。


 私は、花野はなのふみ。

 湘南にある白い小さなコットンカフェで、パートナーの西宮真綿にしみやまわたとともにウェイトレス兼姓名鑑定士としてのんびりと暮らしている。

 今ここには、銀座の会員制高級クラブで働く私の親友・星野礼美ほしのれいみと、湘南界隈では口コミで人気が拡がりつつあるペット探偵(もしくはペットのお散歩業)・加納伊織かのういおりがいた。

 真綿の作る特製モーニングを満足そうに頬張っているところだ。


 本日のモーニングセットは、のキッシュと鎌倉ソーセージ、もちろん湘南野菜たっぷりのガーデンサラダと珈琲付き。

「真綿くん、この前の紅茶のシフォンケーキ、すっごく美味しかった! また、食べたいなぁ~」

 おねだりの時だけ使用する礼美の甘ったるい声色は確かに成功した。それが野暮ったいスウェットに、スッピン&縦横無尽のナチュラルヘアだったとしても。

 

 礼美は真綿を喜ばせるツボをわかっていた。

 真綿は少し前から焼き菓子作りに凝っている。犬用クッキーに始まり、パウンドケーキ、マドレーヌ、ビスコッティなど。

 それらはお持ち帰り出来、ギフト用として可愛くラッピングされ販売した。

 そして今やクリスマスに向けて、シュトーレンというドイツ伝統の焼き菓子までが店頭に並んでいる。ドライフルーツやナッツがいっぱいの真っ白い粉砂糖で覆われたその伝統菓子は、クリスマスカラーのリボンで飾られ主役の面持ちで焼き菓子コーナーを陣取っていた。


「礼美ちゃんのお友達が来たら、美味しいアップルパイ出してあげるから待っててよ」

 真綿は長野県の林檎農家さんから送ってもらった林檎を使い、アップルパイを昨晩仕込んでいた。

 それはそれは絶品なスイーツ。私の大好物だ。シナモンが香る焼きたてのアップルパイの横には、冷たいバニラアイスがとろける。

 パリパリのパイ生地はバターの香り。シナモン風味のしっとりとしたアップルコンポートに、優しい甘さのバニラアイスのハーモニー。この三位一体をなんと言って表現すれば、皆様に理解して頂けるのか! まさに林檎革命、紅い魅惑の宝石ば……こ。



「ふみちゃん、何ぼーっとしてんの? お皿並べてよ」

「え!? あぁ、ごめん」

 真綿に促され、私は我に返った。手を動かしながら、礼美に話しかける。

「礼美ちゃんのお友達で伊織くんに相談があるっていう人、銀座のお店で一緒なんだっけ?」

「んー、お店は違うんだけど。隣のビルのクラブで働いてる女の子なの。そこもうちと同様の人気店で。でも、何て言うか、どちらかというとマニアに受ける人気店かな……」

 礼美が言い淀んだ。


「マニア受け? どういう意味?」

 私がそう言うと、最後のソーセージを食べ終えた伊織もおとなしく顔を上げる。

「うん……。まぁでも、もうすぐ来るから」

 礼美は手の平を見せ、これ以上はと遮断する素振りをした。

「何それ、意味深。教えてくれたって……」


 ――カランコロン。


 カウベルの音とともにドアが開いた瞬間、小春日和の眩しい日差しを遮る立派な体格に目を奪われた。それは私だけではないようだった。

「い、らっしゃいませ……」

「さゆりちゃん! 待ってたわよ」

 礼美がイスに座ったまま、後ろへ顔を向けた。

 そのさゆりちゃんがパステルカラーで統一された身体をゆさゆさと揺らしながら、笑顔で礼美に歩み寄る。ついでに可愛らしいツインテールも揺れた。


「やっだー、最悪。冬なのに、大汗~」

 かなりフレンドリーな口調の第一声だ。

「さゆりちゃん、こっちに座って。みんなを紹介するわ」

 礼美の隣のイスに何とか身体を押し込むと、さゆりは大げさに息をついた。

 真綿、伊織、私の三名が申し合わせたように凝視する。それは失礼ながら、ありふれた人物ではない何者かに送る興味本位の視線。その存在感に誰も目が離せない。

 まさに、それほど彼女は際だっていた!


 私は基本的に自由を重んじているし、誰の言いなりにもならないつもりだ。それは、ここにいる私の仲間たちもそう。

 真綿などマイペースを通り越して定期的に軌道修正が必要なほど自由奔放だし、礼美にしても伊織にしても自分の根本にある主義は決して曲げない。

 リゾート・ピープルらしくゆるいながらも、自分の生き方を主張する湘南人を私は誇りに思っている。

 そして、そんな私たちを凌駕りょうがするほど、充分なスタイルをお持ちの人物が今ここに現れたのだ。


「初めまして~。私、大目黒おおめぐろさゆりって言います~。『ぽちゃりてぃ&ぽちゃるる』っていうキャバクラで働いてます♪ 礼美ちゃんとは銀座でよく会ってたりして、お世話になってるんです。今日は私の悩みを聞いてくれる探偵さんがいるって聞いて都内からやって来ました。湘南久しぶりだから、テンション上がっちゃって~、やっだぁ、ごめんなさい」

 きめの細かいピンと張ったお肌に、玉のような汗が流れる。それを、ぷっくりとした見るからに柔らかそうな指で拭き取った。

 ちょっぴり大ぶりの顔にえた今年風のバッチリメイク、チェリーブラウンのヘアカラー、モテを意識したパステルカラーのファー付きハーフコート。

 失礼ながら、攻めの体勢をとった女子力最大のを連想してしまった。


「こちら、オーナーの真綿くん。で、こっちがその彼女のふみちゃん。……それからこちらにいるのが、例のペット探偵! 伊織くんだよ」

 礼美が私たちをざっと紹介した。

 さゆりの流れる汗は未だ止まらず、猫の刺繍入りフェイスタオルで顔を押さえながら首を縦に振っている。

「ペット探偵さんでも、大丈夫なんですよね……?」

 さゆりは当然のことを聞いた。一応、そこは誰もが気になるところだろう。

 礼美はさゆりの肩に手を置き「安心して、間違いないわ」と優しく、心配性のひぐまに言い聞かせるように言った。


 そこに、至福の香りが漂ってきた。

 真綿特製焼きたてアップルパイが運ばれてきたのだ。ゴクリと野性的な喉の音がする。もちろん、彼女からだった。

「わぁ! 超美味しそう~。ヤバい~、写真撮ってもいいですか?」

 そう言うやいなや、さゆりは猫のシルエット型ケースに収まった携帯を取り出し、指に釣り合わない細長いネイルで素早く操作し出した。

 礼美が慌てて言う。

「さゆりちゃんね、ブログが趣味なの。美味しいスイーツとか、可愛いお店屋さんとか、毎日の出来事とかね。結構人気のあるブログだから、ここも載せてもらったら宣伝効果あるよ、絶対」


 その効果はありがたく頂戴するとして、さゆりの一連の作業が済んだ頃にはみんなの前にアップルパイと珈琲が揃っていた。

 そして、私と真綿もテーブルに着く。さて、それではさゆりの相談を聞くことにしよう。

「実は、超最悪なんですけど~」

 そういう出だしで、この話は始まった。



「私、今年中に、彼氏を作らなきゃいけなくて~」

「えっ、彼氏とかそういう話なんですか?」

 私が思わず言った。今年中ということは、どう考えてみてもあと二週間たらずしかないし、ていうか探偵に相談する話じゃないじゃん。


「はい~。まずはそこをふまえて」

「いや、でもさ、彼氏作るってそんな簡単じゃなくね? だって、誰でもいいって訳じゃないじゃん? やっぱり好きな人とかさ、実際いないの?」

 真綿が腕を組む。一応、親身になって話を聞くようだ。


「あ、実は最近知り合った三人の方に結婚を前提としたお付き合いを申し込まれているんです~。もう時間がないので、この中の方と…と思っているんですが。でも、誰を選べばいいかわからなくて~」

「えっ、三人? すげぇじゃん!」

 予想外だったのか、真綿がバランスを崩して私にもたれかかった。

「さゆりちゃんはね、今、超絶モテ期なの! ぽっちゃりマニアたちにモテてモテてすごいんだから。で、三人から本格的にプロポーズされたんだけど、最近悩ましいことがあるらしくて誰かに相談したいって。だから、伊織くんを紹介したの」


 礼美は私たちを見回し、一応殊勝なしぐさを見せた。

 伊織は下を向き、まだアップルパイに夢中の様子。

 真綿なんて足を組み、威張り腐ってあくびまでしている。二人とも、人の話を聞く体勢ではない!

 しかし、男の人にこの手の話はつまらないに違いない。だが、都内から湘南くんだりまで来てくれたのだ。仕方ない、私は言った。

「さゆりさん。私、姓名判断の仕事をしてまして、もし私でよかったら相性くらいは観て差し上げますけど……」


 さゆりの顔がふわりと晴れるのがわかった。やっぱり女子は占いが大好きだもの。

「わ~い。嬉しいです~! 礼美ちゃんに、ふみさんの占いの話も聞いてたんです。楽しみすぎる~。だって、殺人の話とかぞっとするでしょ。私、そんな話して嫌われたくないですも~ん」

 ちょ、ちょっと、今、なんて?

「……!? さゆりちゃん、今、殺人って言った?」

 礼美も初耳と言うように、思わず身体を乗り出す。

 真綿もいきなり前屈みになりイスに座り直し、伊織は顔を上げた。



「はい~。礼美ちゃんに言わなかったっけ? ……あのですね、去年から二度も匿名の手紙が届いてて。それには、『俺以外の男と交際したら、おまえを殺す』って脅迫文が書いてあるんです~。怖い~。しかも、一年前初めての手紙が届いたときは、本当に殺されそうになったっていうか、私そっくりの人が間違われて殺されたんです~」

 さゆりは驚くようなことを、語尾長めで言ってのけた。

「それ、れっきとした殺人じゃない! 伊織くんの専門よ!」

 礼美のテンションが急上昇し、腰を浮かし伊織を指差す。

「伊織さんはペット専門では?」

 さゆりは首を傾げ、不思議そうにつぶやいた。


「それって脅迫状よね、しかも殺人の。一度目の手紙の時に間違われて殺された被害者って、さゆりちゃんの知り合いなの? 犯人はもう逮捕されたんでしょうね!?」

 掴みかからんばかりの礼美に、さゆりは驚きを隠せず精いっぱい縮こまる。

「はい~、あ、いいえ。犯人はまだ捕まってないんです~。被害者は私が住んでるマンションの一階上の住人だったんですけど。見た目がすごく似てたみたいで、お仕事の帰り道後ろから刺されて殺されたんです。かわいそう~。彼女、すごい猫好きで、猫プリントのバッグとか猫のキーホルダーとかいろいろ持ってたみたい。私と趣味も似てたんです~」

 さゆりは自分のバッグに付いた猫のチャームを触った。


「……えっと、さゆりさんに脅迫状が届いた後、その彼女は間違って殺されてしまった。それは、警察が実際に公表したことなんですか?」

 伊織が今日初めて、声を発する。

「あぁ、……まさか~。そんな怖い手紙が届いたなんて、警察にも誰にも言ってません! 手紙もすぐに捨てちゃいましたし。だって去年脅迫状が届いて、ある男の人と付き合ったらすぐにその女性が殺されたんですもの~。被害者は同じマンションだし、見た目もそっくり。本当は私が狙われたって思っても不思議じゃないでしょう?」

 なんだ、さゆりの思い込みか……と誰もが思った。話を聞いていると、どうも信憑性に欠ける。

 何でもない話を、本人がメロドラマ調に仕立て上げている感じがした。


「今回の手紙も捨ててしまったのでしょうか。出来れば、実物を見てみたかったのですが」

 伊織が言った。真綿も同調する。

「もちろん、すぐに捨てました。だって、怖いじゃないですか~。そんな手紙が家にあったら。……でも、写真は撮ってます~。前回のも、両方♪」

 さゆりがにんまりと微笑む。

 礼美が感心しながら言った。

「さすがね、さゆりちゃん。証拠になるかもしれない写真がまだ他にもあるかもしれないわ」


 SNSをやっている人の癖とも言える写真。さゆりも例外ではない。

「今、見せて頂けますか。女性が殺された事件に関する写真もあれば、ありがたいのですが……」

 伊織の瞳に好奇の光が宿る。

「写真ならあります~。殺された人の新聞記事も写真を撮ったので見ますか~。顔写真も載ってますよ」

「おお」

 真綿の心の歓声が漏れた。


「こちらが、被害者の山里由実やまざとゆみさんです~」

 さゆりは旅行にでも持って行くようなピンクの大きなボストンバッグからタブレットを取り出し、慣れた仕草で写真一覧を見せた。

 殺人事件の記事とともに、女性の姿がそこにある。

 隣の真綿が思わず珈琲を噴き出し、口を滑らせた。

「全っ然、似てねーし! 別人じゃねーか」

 さゆりが首を傾げ、可愛らしく口をすぼめた。


「はぁ? そうですか~? 私、ちょっぴり太っちゃったからかなぁ。でも、地元の友達にメールで送ったらよく似てるって言ってましたよ~。髪型とか目元のあたりとか、ほら?」

 さゆりが目をまあるく見開き、私たちを見渡す。

「友達だからって、ひいき目にもほどがあるだろ」

 まだブツクサ言う真綿の脇腹を、私が肘で押す。

 写真の被害者女性は標準体型の可愛らしいお嬢さんといった容姿で、さゆりと似てるところと言えば茶色くカラーリングした髪の色くらいか。

 目元など新聞の小さな写真では、とてもじゃないが私たちには判断出来なかった。


 名前は、山里由実。

 縦に割ると左右対称。鏡文字になる。

 ものすごく運勢がいいか、ものすごく悪いか。リスキーな字だ。

 ……そんなことをぼんやり考えてると、伊織と目が合った。

 私は慌ててさゆりに話しかける。

「でも、なぜ年内にこだわるんですか? 十二月ももうすぐ終わりだから、彼氏を作るの来年でもいいと思うんですけど……」

 素朴な疑問をぶつけてみた。恋愛イベントはバレンタインデーだってあるんだし、こういうことは急いだって仕方がない。


「ダメなんです~。今年中に結婚を前提とした彼氏が出来なかったら、私、実家に戻って、意に沿わぬ相手と結婚させられるんですよ~」


「意に沿わぬって何だよ。贅沢言わず、その人と結婚してみればいいじゃん。案外、お見合い相手の方がうまく行くかもしれないぜ」

 面倒くさくなった真綿が適当なことを言い出した。

 だが、確かにお見合いも婚活のひとつに違いないし、合コンだのパーティーだのに行って見つけるより確率はいいかもしれない。


「いやです~。私、恋愛結婚が夢なんです。好きな人と結ばれて、東京で幸せに暮らしたいんですよ。実家に戻ったら家業を継がなくちゃいけなくて、もう自由なんてないんです~」

 大げさな口ぶりで深刻そうに訴える、さゆり。

「さゆりちゃんの実家って確か栃木よね。新幹線に乗ったら、東京なんてあっという間じゃない。今の生活はキラキラしてて毎日楽しいばっかりかもしれないけど、将来のことを考えたら地元で結婚もありかなって思うけど……」

 確かにその通りだが、一番キラキラした職場で派手に働いてる礼美が言うのは説得力が全くない。さゆりにもツッコまれてしまった。

「礼美ちゃん、ズルい~。私も礼美ちゃんみたいに、ウキウキ、ワクワク、安心してこっちで暮らすのが夢なんです~」


「さゆりさん、お兄さんは何をされていらっしゃるんですか」

 唐突に伊織が声を発すると、途端に彼女は怯えたような表情をした。喜怒哀楽が顔に出やすく、表情豊か。


「兄は……一応、母の会社の役員をしてたんですが。すごく引っ込み思案で、人と喋ったりも苦手でした。うちは実家が建築会社で母が社長として全てを取り仕切ってるんですけど、ワンマン過ぎて婿養子の父は逃げ出してしまって……。母は最悪な独裁者なんです! 会社も家族も自分の思い通りにしないと気が済まない性格で、今は社交性のある私を次期社長にしようと必死なんです。だから年内に結婚相手を見つけないと、本当に家に連れ戻されてしまう。今年いっぱいが、母と約束した自由の期限なんです」

 さゆりの顔は切実を物語るように歪み、手にしてるピンクのハンカチを握りしめた。


 そこに、空気を読んでのことか、伊織が恐縮しながら口を挟んだ。

「あの……、すみません。……申し訳ないんですが、午後から散歩の仕事が三件入ってまして、あと少ししか時間が取れません。出来れば要点というか、そろそろ話を進めて頂いてよろしいでしょうか」

「もう、伊織くんったらせっかちなんだから。さゆりちゃん、本気で悩んでるんだよ。理解してあげてね」

 礼美はさゆりにここまで来てもらった手前、肩を持ち気遣うそぶりを見せる。伊織は何も言い返せず、時計をじっと見つめるというわずかな反抗を試みた。


「あぁ、ごめんなさい~。……『俺以外の男と交際したら、おまえを殺す』っていう脅迫状を、誰が出したのかが知りたいんです~。たぶん、今、結婚を申し込んでくれている三人の誰かだとは思うんですが。それがわからなきゃ、誰を結婚相手に選んでいいか困るでしょ? 犯罪者まがいの彼氏なんて、嫌ですも~ん。もしかしたら、そのうちの一人が山里由実さんを殺した犯人かもしれないし」

 さゆりが伊織を悩ましげに見つめる。で、両手を顔の前で組み、ちょこんと首を傾げた。

 伊織がめずらしく、困った顔で愛想笑いをした。女子力を押し付けてくる、この手のタイプが苦手なのだ。


「……なるほど。では、その三人の特徴を教えて頂けますか。そこから何かわかるかもしれません。それから三人以外で、可能性のある人物がいたら教えて下さい」



「はい~。一人目は……、あ、名前はとりあえず仮名でもいいですか? えっとぉ、じゃあ、Aさん。IT系の会社社長さんです。三十五歳で、外車に乗っていてとってもお金持ちなんです~。でも、プライベートのお洋服のセンスが変わっていて、いつも白のレザーの上下なの~。私、彼のセンスが全くわかりません。しかも初めて会った時、私のことを思いっきり罵倒したんです! ありえない~」

 そう言って、彼女は眉をひそめ礼美を見た。聞けば、さゆりが待ち合わせ時間に一分遅刻しただけで、その後三十分間大説教が行われたそうだ。そんな時限爆弾みたいなレザー男をまだ候補に入れているのかと私は不思議に思った。



「次の人は~、Bさん。彼はアメリカ人なんです~。歳は私と同じで二十七歳。Bさんはとっても陽気で情熱的なんです。大手英会話学校の講師をしています~。金髪にブルーの瞳のイケメン講師なんですよ~。でもお国柄なのか、彼の性格なのか積極的過ぎるんです~。もう信じられないくらい、あの手この手でアプローチしてくるんですけど、度が過ぎてちょっと迷惑~」


 イケメンアメリカ人の愛情表現は、ストーカーまがいの行為にまで発展してきてるらしい。

 彼女いわく、新宿駅構内の緑の窓口で、彼が思いあまって抱きつきキスをしてきた。

 拒否したにも関わらず絡みついてくる彼に、さゆりはバッグをぶつけ逃げ帰ってきたそうだ。

「もう~、アイラブユーって、ずっと言っててスゴイんです~。私の体型が彼の母親に似ててそれがたまらないらしいんですけど、私からしてみれば本当の愛なのかわからなくて~」

 それなのにさゆりは、候補のひとりとして彼も残している。今も毎日、電話やメールがひっきりなしのようで彼女は愛される重みを真摯しんしに受け止め、小さくため息をついた。



「そして、最後の彼はCさん。高校の国語の先生をしてる方で、三十七歳です~。先生としてやっていけてるのか心配なほどおとなしい方で、しかもちょっと野暮ったいんです~。今年の私の誕生日、バースデーカードに詩を書いて贈ってくれたんですがさっぱり意味が分からなくて。彼自身は優しくて、いい方なんですよ~。でも……、前の奥さんを病気で亡くされたらしくって、何だかバツイチの闇がある感じがします~」

 バツイチの闇か……。再婚相手は嫌い合って離婚した人のほうが、片方が亡くなって離婚した人よりよっぽどいいと聞く。亡くなった方は、時が経つほど思い出が美化していってしまうから。

 


「どいつもこいつも一癖あるな」

 真綿が足を大きく組みながら言った。真綿ったら、膝のところにアップルパイのくずが散ってるし。全くもう。

「交際を希望してくれている三人以外では、私に脅迫状を送りつける人なんて思い当たりません~」


 伊織は静かに話を聞いていたが、やがて脳内に意識を集中するように目を閉じ、両手を顔の前にあてる仕草を見せた。

「……おっ、始まったぜ、アレ。ねぇ、ふみちゃん、見て見て。伊織のってやつ」

「ゾーンって何?」

 茶色い前髪を揺らし、屈託のない笑顔で心底楽しそうな真綿。

 声を潜めて真綿は続けた。

「この前、アスリートの友達に聞いたんだけどさ、伊織が推理段階に入る前の集中状態のことを言うらしいよ。尋常じゃない没頭の仕方だろ。すべての思考や五感を遮断して、極限の集中に入っている状態なんだと。今の伊織は絶対、俺らの話なんか聞こえてねぇから」


「あっ、私もその話聞いたことある! 前にスポーツ選手がお店に来たときに、選手たちが話してたのよね。その時は意味がわからなかったんだけど。……でも、伊織くん、ペットの探偵業で培われた集中力って言ってなかった?」

 礼美もつられてヒソヒソ声になっている。

 確かに伊織はペットの探偵業(と、お散歩)で毎日体力を酷使しながら、同時に精神力も磨いてきた。犬や猫などのペット捜索は、人捜しより困難な場合がある。

 心ない人間に置き去りにされたり、虐待にあったりするケースも決して少なくないからだ。人の嘘を見抜き、保護にまで到達するには、並大抵の苦労があるに違いなかった。

 

 そう考えれば、並外れた感覚を身につけることが出来たのも納得がいった。

 伊織の思考は、私たちの想像をはるかに超えた高い位置でのシミュレーションを繰り返している。脳から必要のない思考を遮断し、自らの五感や筋肉を極限まで研ぎ澄ます。その際、風、湿度など外部の状況も素早く分析し取り込む。

 伊織の思考は混沌の状態を速やかに脱し、とりとめのない点が、流れるような線として繋がる。ゾーンと呼ばれる脳の感覚は、意識的に伊織を最高の思考回路に変えていた。その時、絶対知性に支配されたペット探偵の指先は、天を見定めるのだ。

 伊織はゆっくりと瞼を開いた。



「……さゆりさん、スカートに黒い虫が付いてますよ」

「えっ嘘!? ぎゃーーー、いやー。虫苦手なの~!!」

 さゆりが素早い動作でさっと立ち上がると、勢いよくスカートを振った。

 こっちに虫が飛んでくるかもしれないと、私たち三人も思わず立ち上がって避ける。

「今、どこかに飛んでいきましたよ。皆さん、落ち着いて下さい。もう大丈夫です」

「伊織さん、ホントですか~。今、小さな黒い虫、ここにいましたよね。やだぁ怖い~、私のスカートにずっと付いてたなんて、もう焦る~」


 さゆりの顔から、また大汗が噴き出した。

 今のとっさの反応は早かったが、あとが大変なようだ。大粒の汗が次から次へと流れ出す。グラスの水をがぶ飲みし始めた。

「ところで、さゆりさん、確認の質問をしたいのですが。……三人の男性は今も同じように結婚を申し込んでいるんですよね? それぞれ待たされている状態で、不満などは出ていないのでしょうか」

 彼女は幼い少女のように首を傾げて考えると、おっとりと喋り出した。


「はい~。それは大丈夫です。年末までお返事を待って頂く約束をしているので。三人の方にも、他に二人から交際を申し込まれているとちゃんと言ってあるんです~。正直に言って、納得して待ってもらってるんですよ~」

「……そうですか。さゆりさん自身は今現在、誰を第一候補としているんでしょうか」

「えー!」

 さゆりはうろたえた。照れたように頬を染め、大きく両手を振る。

「まだ、第一候補とかないです~。もう本当に決めかねていて、超困ってるんです~」

 早口で彼女は続ける。



「Aさんは罵倒した後ちゃんと謝りはしないんですが、最近も箱根の別荘にデートに誘ってきます~。この前は言い過ぎたから、きみに葉山牛をご馳走したいって」



「それからアメリカ人のBさんも、私が機嫌悪くてもいつも変わらずにまめにラブコールをくれるんです。きみは運命の人だからって~」



「高校の先生のCさんは今も時々亡くなった奥さんを思い出すみたいで、感傷的になったりしますが、私が連絡するとすごく嬉しそうにしてます~。きみがいてくれて感謝してるんですって」



 さゆりは候補者のひとりひとりを思い出しながら、のろけ気味に喋った。

 それが何だかとても嬉しそうで、もう誰にも決定しなくていいんじゃないか、このままで構わないんじゃないか――なんて思ってしまう。

 もちろん、そんな訳にはいかないのだけれど。パズルのピースのようにカチリと音が鳴り、当てはまる相手がわかれば幸せなのだろうか。

 でも現実は、運命の相手なんて誰にもわからない。

 ということは、宇宙や深海や未来のように謎の解明出来ない未知の部分に幸福や希望が宿っているのかもしれない。私たちが知ることの出来る幸せは、きっと無限に作り上げることも感じることも自由なのだ。


「さゆりさん、最後の質問です。お母さんとお兄さん、さゆりさんはいつから会っていないのでしょうか。皆さんの仲はいいですか」


 さゆりの幸せそうな顔が急に曇った。

「母と……兄。ふたりは、……前は、仲良くありませんでした。母は家でも暴君のように振るまい、おとなしい兄をさらに萎縮させてました。私はどちらかというと母と対等に言い争うタイプなので、似たもの同士だからうまくいかないなんて母はよく嫌みを言うんです。それから少しして、私は上京しました。三年前です。こっちに来てからは……一年前、一度だけ実家に帰省しました。その時は親戚も大勢いたのと、母は体調を崩してたのでほとんど会話はしませんでした。私と兄は……子供の頃は仲良しでした。あの、今は……よくわかりません」

 さゆりはオドオドしながら目線を泳がせ、伊織の質問に答えた。


「……なるほど、わかりました。ありがとうございます。僕はこれから事件の推理をお伝えします。もちろん単なる推測に過ぎません。ですので、このことは皆さんの胸に秘めて、さゆりさん自身にどうするか決めて頂きたいと思うのですがいかがでしょうか」

 伊織の提案に私たちはのった。

「ねぇ、伊織くん。もしかして、脅迫状の犯人わかっちゃったの?」

 礼美がニヤリと微笑み、さゆりの柔らかそうな腕を掴む。

「あ……そうですね。わかりました。脅迫状を出した人物と、それから……山里由実さんを殺害したが」



 すっと息を吸ったのは、私だったと思う。他の三人は口をあんぐりと開けていたから。

 伊織は瞼を軽く伏せているせいで、表情が読み取れなかった。


「まずは、脅迫状の犯人です。『俺以外の男と交際したら、おまえを殺す』、こんな手紙が去年から二度もさゆりさんに届きました。何のために誰が脅迫状を送りつけたのか。さゆりさんは現在、三人から結婚前提で交際の申し込みをされています。この三人の誰かが脅迫状を送ったと考えるのが一番自然だと思われます。しかし、最初の脅迫状が届いたのはもう一年も前。そしてその時、さゆりさんは脅迫を信じず、どなたかと交際しました。それで殺されそうになったんです。実際はさゆりさん似の山里由実さんという方が、背中を刺されて殺害されましたが……」


 伊織の言葉に、さゆりは小さく頷く。

「となると、脅迫状に三人の候補者が関係したとは思えないんです。一年前と先日の脅迫状の文面は同じものでした。ですが、さゆりさんの人間関係は当時と今とでは違います。候補者の三人は一年前、さゆりさんとまだ知り合っていなかったからです」

 確かにそうだ。

 さゆりは脅迫状の存在を誰にも言ってはいない。そして一年前と今とでは、現実の人間関係も本人の心情も違う。人生の途中、その地点・地点において、自分のまわりにいる人間は同じではないのだ。

 だったら、さゆりに脅迫状を送りつけた犯人は一体誰? 何のために?



「さゆりさん、もしよろしければ上京したばかりの三年前の写真を拝見させて頂けませんか。……先程のタブレットに撮りためている写真があったようですが」

 伊織が言った。礼美も心配そうな表情で、その動向を目で追っている。

 やがて、タブレットをいじる伊織の手が止まった。そして顔を上げた伊織の瞳には、まさにあの光が宿っていた――。

 伊織は無意識なのかもしれない。右手の人差し指がお約束のように、鮮やかにふわりと空を舞う。



「皆さん……謎はすべて解明されました。これは、弱肉強食で魂を殺された悲哀の物語。そして、けだものに変化した魂が犯した、冷酷で追い詰められた人物の犯行です」

 

 弱肉強食……じゃくにくきょうしょく?

 どういうこと。意味はもちろん、強いモノが弱いモノを餌食にするということだけど。

 ヒグマと化したさゆりが誰かを食らう?

 いやいや、それはさすがに怖すぎる。


「この事件は一見複雑化された謎に包まれているようですが、実際はとても閉鎖的な家族間の恨みが発端となっています。一年前の脅迫状、誰が何のためにさゆりさんにそんな手紙を送ったのか。『俺以外の男と交際すれば、おまえを殺す』、嫉妬に駆られた片思いの相手からの文面なのでしょうか。もし、そうでなかったとしたら?」

 伊織の自信に満ちた表情に、さゆみは驚きを隠せないでいた。少し、震えているのかもしれない。

「あの脅迫状は、がさゆりさんに送ったものです」


「母が……?」

「どうして、さゆりちゃんのお母さんがそんなことをするの!?」

 私たちはいつものように一斉にざわつき、交互に目を合わせた。伊織だけは今も自分の世界にいる。

ためです。さゆりさんのお母さんは、自由の期限三年間の後、どうしてもさゆりさんに実家の家業を継いでもらいたかった。ですが母親と似た性格の娘は、口で言っても聞かないことをわかっている。ですから、あんな脅迫状に気持ちを託したのです。さゆりさんが自ら交際する相手を疑い、誰とも結婚を決意させないために」


 そんなことって。母親が娘に脅迫状を送り付けるなんて。

 私は自分の母親との関係を思い返す。ありえない。

 私たち母娘おやこは遠くに離れて暮らしていても、信頼という絆で繋がっている。気持ちに距離は関係ない。

 さゆりの母親は、どうしても娘に家に戻ってきて欲しかったのだ。きっと憎んで離れているのではない。それなのに偽の脅迫状に気持ちを託すなんて。

「……母だったんですね。いつもそうなんです。実行力があって、とても頭のいい人なんですが、私たちの気持ちを考えてはくれないんです。私はそんな母から逃げ出したのかもしれない。……兄をおいて」


 さゆりの目から涙がこぼれ落ちそうになった。だが、彼女はうろたえてはいない。何かを悟ったのか、運命に身を任せたようにも見えた。

「じゃあ、山里由実さんを殺害したのも、さゆりさんの母親ってわけか?」

 真綿がまじめな顔つきで伊織に聞く。

「いいえ、それは違います」

 伊織の全てを知り尽くした声だけが店内に響いた。嫌みでも自慢げでもない。それは淡々としていて、逆に肩すかしな気分さえした。

 私は今、伊織だけが味わっている脳内の快楽状態を否定したかった。それほど残酷な展開がこの先待っている気がしたのだ。



「山里由実さんは、さゆりさんに間違われて殺害されたとおっしゃいましたね」

 さゆりがうなずく。

「確かにその通りでした。山里さんはさゆりさんと間違われて、背中を刺されて殺されたんです。夜、仕事帰り、マンションの近くで。山里さんとさゆりさんは本当によく似ていたんです、……三年前までは」

 三年前までは!?

 真綿も伊織の発言に抗議したがったが、急いで私が止めた。

 タブレットに入っている三年前のさゆりの写真を、伊織が私たちに見せたからだ。そこには、今と比べると驚くほど華奢で頼りなげなさゆりの姿があった。


「今のさゆりさんは……えっと、少しふくよかになられてシルエットも変化しましたが、以前の彼女は今よりずっと痩せていて一般的な体型の女性でした。地元のお友達も山里さんとよく似てると言ってましたね。さゆりさん、一年前、実家に帰省されたのは山里さんが殺害された直後ですよね?」

 伊織がさゆりに視線を向ける。

「……はい」

 さゆりの声は少しかすれていた。伊織に目を合わせることもしなかった。

 無意識に違いないが伊織は魅惑的な表現者のように、タイミングを計り言葉をためて言った。

「山里由実さん殺害の犯人は、……さゆりさんのです」


「そんな……」

 礼美が思わず、両手で口を覆う。

 真綿と私は声すら出なかった。なぜ?

「先程、弱肉強食と僕は言いました。さゆりさんのお兄さんは消極的な性格のため、家庭内ではとても肩身の狭い思いをされていた。会社でも名ばかりの役員をさせられて、まわりからも陰口を叩かれていたと思います。社長はそんな息子を不甲斐ないと感じ、まさに強いものが弱いものを餌食えじきにするかの如く、態度で表していた。頼りにしていた父親もさゆりさんも家を出て行ってしまった。一人で堪え忍んでいたお兄さんは、もう限界だったに違いありません。父親やさゆりさんに裏切られたと感じたのかもしれない。彼は悪魔に魂を売り渡してしまった。小動物がけだものになった瞬間です」


「兄が……山里さんを殺したという証拠はあるんですか?」

 さゆりの反感とも取れる、苦しげな声が響いた。

「伊織さんの推理だと、兄が私を殺そうとして間違って山里さんを殺害したと言ってます。でも、優しかった兄が私を殺そうとするなんて信じられません。兄は母からいつも……モラハラを受けていたんです。どうして、母じゃなくて……私なんですか?」

 家庭内暴力のひとつとも言えるモラルハラスメント。

 精神的な暴力と言われ、水面下で言葉の暴力を受けた側は心身に弊害さえ表れる。

 そして、家庭内での悲鳴はいつも外には聞こえにくいものだ。



「この事件はさゆりさんの人間関係が複雑に絡み合い、そこが一番難解でした。それを解きほぐすために、僕はこの事件で利益を受けられるのは一体誰かとシンプルに考えました。そうすると、自然にいろいろなことが見えてきたんです。もちろんお兄さんは、母親もいずれ殺害するつもりでしたよ。ですが、さゆりさんを先に殺したほうがの面で何かと有利だと思ったのではないでしょうか。さゆりさんが結婚する前に」

 遺産相続。

 そこまで考えて、さゆりの殺害を計画したというのか。

 しかし彼が企んだ稚拙な殺害計画は、人違いの殺人という滑稽な結末で終わりを告げた。



「一年前、お兄さんは、母親がさゆりさんに脅迫状を送ったのを偶然知ってしまった。そして、それを利用しようと考えた。当然、さゆりさんの交際相手に殺害容疑が向けられるでしょうし。ですがさゆりさんが上京した二年の間に、彼女が太ってスタイルが変化したことをお兄さんは知らなかったんです。彼は犯行当日、山里由実さんの後ろ姿を何の疑いもなく刺したんだと思いますよ」

 伊織は感情のない声で、独自の推理を展開してみせた。

 今回、私にはそれが不思議でならなかった。いつもは殺人者にもう少しやるせない気持ちや高ぶる感情をぶつけているのに。

「お兄さんが山里さんを殺害したという証拠は特にありません」

 伊織が投げやりな口調で言う。本当にいつもの伊織らしくない。さらに、さゆりの目を見据えて言い添えた。

「……今さら、証拠など必要ですか?」


 ん? どういうこと。

 さゆりを見ると、僅かに唇を噛みしめている。

「さゆりさん。お兄さんは、……すでに。たぶん、山里さんを間違いで殺害してしまい、その後すぐに」

 ――えっ。

「……伊織さん、兄が亡くなったことをどうして」

 突然さゆりの頬に、大粒の涙が流れ始めた。それは今までせき止められていたダムが崩壊したかのようで、彼女の感情がアンバランスに揺れた。

 肩をふるわせ泣きじゃくるさゆりを、急いで礼美が細い腕で抱きしめる。さゆりは口に出してはいけない気持ち、止められていた感情を放出させながら激しい呼吸で喋り始めた。



「……黙ってて、ごめんなさい。兄は、兄は、……実家の裏山で首を吊って自殺したんです。い、一年前でした。お葬式で実家に帰ったんです。母は憔悴しきっていて、あまり話が出来ませんでしたが、以前の母じゃないみたいでした。……兄を亡くして、わかったんです。母は、兄を愛していて、期待もしてた、だから……。でも、自分の感情を表現するのが苦手だった……。母も、両親に厳しく育てられた……かわいそうな人なんです」

 さゆりは詰まりながら、兄を母を思い、溢れるように言葉にした。

 そして、声をもらし泣きながら礼美の胸元に崩れ込んだ。



「さゆりさん、お兄さんの自殺のこと。つらい告白をさせてしまって、すみませんでした。……皆さん、逆縁ぎゃくえんってご存じでしょうか。親より先に子供が亡くなる不幸のことです。子供に先立たれるつらさを、息子の死によって母親は経験した。今まで自分こそがおきてという生き方をしてきた人間が思い通りにならない悲しみ、胸をかき乱すような苦しみを受ける。その心境は想像するだけでも胸が詰まります」

 伊織は苦しみを共有し、憂鬱ゆううつの顔のまま言った。口で息をすると、また話し始める。



「ここからは僕の想像ですが、……お兄さんのお葬式の日、母親とさゆりさんの中である取り決めが行われたのではないでしょうか。これからふたりが未来へ向かって生きていくための、ちょっとした嘘とも言えます。……すみません。話は変わりますが、ペットの寿命は十年や二十年、大体そのくらいです。悲しいことですが、普通は人間より早くに死んでしまいます。そして、その死から立ち直ることが出来ずに苦しむ人たちがいるんです。僕の知り合いにも愛犬を亡くし、ペットロスになった方がいました。彼女はその死を受け入れることが出来ずに、犬のぬいぐるみをどこにでも持ち歩いてたんです。大人がぬいぐるみを持ち歩いて話しかけていたら、やはり不自然です。……僕はそのことを思い出しました。それで、この謎が解けたと言ってもいい」


 静かな悲しみに満ちた空気が、私たちを取り囲んでいた。共感だけが慰めになるのだろうか。重苦しいこの思いを引きずって、これから生きていく人に。


「僕のペットロスの知り合いは、その時愛犬の死を受け入れることが出来なかった。受け入れたら、自分が壊れそうだと言っていました。だから彼女はぬいぐるみをペットの代わりとした。頭がおかしくなったわけではない。それはれっきとした自分の心を守るための現実逃避。意識的に起こした一つの行為でした。……もう今では、彼女はぬいぐるみを持ち歩いてはいません。無事、その事実を昇華することが出来たから。時間が少しずつ傷を癒やしてくれたんです」

 さゆりは何も言わず、静かに頷いた。


「さゆりさんと母親も、兄の死、息子の死を受けとめることが出来なかった。……だから、兄が亡くなったという事実を認めるのをやめたんじゃないですか」

 伊織がそう言うと、さゆりはゆっくりと顔を上げた。後でメイクを直してあげなきゃと、私はおかしなことをぼんやり思った。


「……母が、兄のこと、まだ生きていることにしていいかと、私に聞いてきました。そんなこという母、初めてだったんです。私はその気持ちが嬉しかった。私も兄がもういないだなんて耐えられなかったんです。いつか兄の死を受け入れられる日が来るまで、私たちは兄が死んだという事実を、……頭のすみへ追いやりました」

 さゆりは消え入りそうな声でぽつりぽつりとつぶやいた。それは法に反していることでもない。事実が昇華するまでの切ない時間稼ぎだった。


「子供に先立たれる不幸は、悲しみの中でもトップクラスの位置にあります。家族の悲しみは、家族でないとわからない。さゆりさんと母親はそうでもしなければ、現実の生活を続けることなど出来なかった」

「悲しみに順位なんかあるんだな」

 真綿が伊織の言葉を聞き、ぽつりと言う。


「……二度目の脅迫状が届いたでしょ。さゆりさんはその時、どう思われたんですか?」

 きっと兄の死を思い出したのではないか、そう思えて私は聞いた。

 脅迫状や山里さんを殺した犯人を知らなかったとはいえ、脅迫状に関連して兄の死を想像出来ると思った。


「……怖くなりました。もちろん、兄のことも思い出しました。でも、リアルではないってまた思い込んで。……ただ、まさか母が脅迫状を送ってきてるなんて思ってもみなかったから。私、きっと、恋人候補の誰かの嫌がらせだと思ってたんです。……あの、どうして、伊織さんは兄がもう亡くなってしまったこと、わかったんですか」

 確かに。

 伊織はなぜ、さゆりの兄の死を言い当てたのだろうか。さゆりはひと言もそのようなことは言わなかった。


「ああ、はい。……あの、うまくは言えないんですが、例のペットロスの彼女を思い出した時に、さゆりさんと似たような雰囲気だと思いました。思考をコントロールしやすい人間っているんです。悪く言えば、騙されやすかったり。でも裏を返せば、意識的に強い自分に持っていけたりもする。で、先程、ちょっとテストさせてもらいました。……すみません」


 ん?? テストって何。

「さっき、僕、さゆりさんの服に黒い虫が付いてるって言いましたよね? すいません、あれ、嘘です!」

「えっ!! そうなんですか~ えー、ひどいっ。信じたじゃないですか~」

 さゆりが我に返ったように、以前の口調に戻り反応した。


「あー、本当にすみません。……存在しないはずの黒い虫を、僕の目線を追って、素直にそこにいたと思い込んでいたさゆりさんがいました。それを見て確信したんです。そこからはさゆりさんの身体的な反応などを観察してました。喋れないペットも体中でサインを出している。脳内で考えていることは必ず外に漏れ出すんです。マジシャンなどもそうですが、訓練で簡単なことなら見抜けるようになりますよ」

 すごい。その洞察力で見抜いちゃったの?


「それで、さゆりさんが家族やお兄さんの話をするときの反応に違和感を持ちました。例えば、家族の話の時だけ語尾を伸ばさなかったり、お兄さんの話の時だけ、必ず過去形だったりだとか……」


「私、全く意識してませんでした。……でも、私たちの家族は崩れる寸前だったんです。兄の遺書がそう物語っていました。――もう消えてしまいたい。誰かの肩に落ち、溶けてなくなる一片ひとひらの雪になりたい――と。兄が人を殺しちゃったなんて……知らなかった。それも私を狙って」


 さゆりはそう言うと、また思い出したように泣き崩れた。礼美が抱きしめる。

「お兄さんはモラハラに苦しみ、異常と正常との境目にいたのだと思います。殺人、それも間違えて見知らぬ人を殺めてしまったと知った時の後悔の念や自己嫌悪が原因で、自殺に走ったのではないでしょうか。メトロノームの針が、ほんの少し異常に傾いた瞬間の残念な事件のように思います……」

 伊織が先細りの小さな声で言った。



「さゆりちゃん、これからどうするの? 三人の候補者の中から誰かに決めて、結婚するの?」

 礼美は、少し落ち着いて顔を上げたさゆりに優しく話しかけた。

「どうしよう、私……。何にも考えられない。どうすればいい? 礼美ちゃん」

 さゆりの問いかけに、礼美が悲しい顔をする。伊織が思い出したように話し出した。

「さゆりさん、あの、僕、こんな話を聞いたことあります。……猫が好きな人は、尽くされるより尽くすのが好きな性格……みたいです」

 さゆりが一瞬間を空けて、ふわりと優しい笑顔を見せた。


 パステルピンクのコートを羽織り、さゆりが外へ向けてドアを開く。

 カランコロン、カウベルのいつもの音。

 冬の冷たい北風がこれからの未来を予測するように、私たちの気持ちを引き締める。

 振り返り、彼女は言った。


「私、たぶん、……母の元へ一度戻ります。先のことはまだわかりません。でも、これからが大変だと思うし、二度目の脅迫状も母だとしたら、それは母からのSOSってことですから」

 私は大きく頷いた。

 礼美が、「それもありだね」と泣き笑いで言ってる。

 真綿も伊織も私の横で、応援するように手を振っていた。



 ――さよなら。

 私たちはずっとここにいるね、あなたが振り返るのをやめるまで。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る