第4話 海辺の十字架
夜空の雲間から、小さな月が覗いた。
私は暗い
常に違う表情を見せる月が、子供の頃から大好きだった。静かな秋の夜風に私は心を解放する。
目を閉じると、
青白く優しい月の光がこの地球上の何かに作用するとしたら、きっと……アレだろう。アレ。えーっと……
「お月見饅頭!」
私はビクッとして振り返る。
「ふみちゃん、あったよ! 秋限定のお月見饅頭! よかったねー」
「ああ……そう、びっくりした。あったんだ?」
「何軒、コンビニ探したと思う? やっぱりここのコンビニはわかってるねー。間違いないわ」
満足そうに白いコンビニ袋を私にちらつかせ、思い残すことはないというような顔しているのは
私の親友である。
ちなみに私は、
パートナーである
そこではテーブルの一角で姓名鑑定士という顔も持つ。『ふみの
最近では少々知名度も出てきたのではと自負している。
今夜はふたりして、夜中のコンビニへ買い出しに来た。今日はこのまま礼美のマンションにお泊まりする。
そして、ダイエットでは御法度と言われる寝る前の儀式。
ダイエット女子禁断の『秋限定お月見饅頭』を食べちゃうのである。お饅頭の中に、ゴロっと輪切りに入ったサツマイモがたまらない。あーん、なんて幸せ。
礼美のマンションは、私と真綿の暮らすコットンカフェの場所からほど近い、歩いて五分の位置にあった。
銀座の会員制高級クラブでホステスをしている関係で普段礼美は夜が遅い。なのでお休みの日を利用して、私はたまに泊まりに行くのだ。
お泊まり恒例の女子トークでは毎度、恋愛、生き方、社会情勢などについて実りも多かった。
昔、外国の寄宿学校にいた女の子たちは、何の経験もないくせに何でも知っていると男たちに言われたらしい。
その通りだと思う。
私たちの情報網はあらゆる方向に散らばり、拡散を繰り返す。真実は見極めるものだけに伝わる。少女の微笑みの奥にそれはあるのだ。
「毎日会ってるのに、よく話すことあるな」
真綿はそう言って、私を見送ってくれた。毎日はさすがに大げさだが、そのくらい私と礼美は仲が良い。もちろん、真綿は何の心配もしていない。逆に私のいない夜ということで何だかいつもより嬉しそうだ。
「明日の午前中にはふたりで戻るから、モーニングよろしくね」
「はいよー」
真綿があくびをしながら気のない返事をした。
さてさて話は戻って、車もまばらな深夜の道路をひょいと路地に入ると、一気に道幅の狭い暗く心細い道となる。
まわりは住宅が立ち並んでいるがどこの家も消灯し、嘘みたいに人の気配がなくなっている。
空気は澄み、眠ることと死ぬことの判断がつきかねるほどの静寂だった。
「ねぇ。こんな日に悲鳴が聞こえて、殺人が起こるんじゃないかな」
礼美がコンビニ袋を揺らしながら、物騒なことを嬉しそうに言う。
「このあたりはいつもこうだよ。毎日、みんな連れ去られた?っていうくらい静かなんだから」
「ふーん。つまんないのー」
そう言って、礼美がコンビニ袋をグルグルと振り回し始めた時だ。
「キャッ」
二階建ての洋風な外観の家からだった。一応悲鳴と言うか、思わず口から出た感じの女性の小さな叫び声である。
一階のキッチンと思われる格子の付いた小窓のある部屋に、照明が付いた瞬間だった。
「何なの、悲鳴? それともまさか殺人事件?」
その後はすぐに静かになり、キッチンの小窓にはうっすらと人影だけ確認出来た。
私は人差し指を天へ向け、にやりと笑みをもらす。礼美に言った。
「……謎が解明されました!」
礼美が「えー」と
「この謎は最も虫的な事件なんだ。犯人は、ゴ・キ・ブ・リに間違いない!」
礼美は噴き出し、思い切り爆笑した。
キッチンに灯りが付いた途端、女性の驚いたような悲鳴に似た声。
まさにゴキブリの仕業に違いない。春から秋へかけて、キッチンで巻き起こる現象の一つと言える。
被害はほぼないが、その後の精神的ダメージは稀にトラウマにさえなる要注意な事件なのである。
「さぁて」
私たちは細く入り組む路地を、またのんびり歩き出した。
ガシャーン。
はぁ!? 次は何!?
私たちが物音に振り返ると、先程の家の高級車横に止めてあった自転車を倒して、走り行く男の人影が見えた。
「あいつ何なの、泥棒!? しかも、さっきの家じゃん」
礼美の声に私も焦る。
「け、警察に電話する?」
「ダメだよ、何したって訳じゃないもの。そこの家の息子かもしれないし。……おばあちゃんが危篤で、猛ダッシュで病院へ向かってるのかもしれないじゃん」
「……それなら、自転車に乗って行くんじゃない?」
「あーそっか」
礼美が続けて言う。
「でも、大丈夫。街灯の下で、ちらっと横顔見えたし体型の特徴も覚えてるから。何かあったら警察に協力くらいは出来る」
「私も服装は覚えてる。赤のキャップに、黒いシャツとたぶんジーンズ」
「それで充分だよ。私たち、近い将来、犯人の似顔絵に協力して感謝状をもらえる日が来るかも。……ああ、待ち遠しい」
礼美の邪魔な妄想は忘れて頂くとして、基本平和な私たちは何事もなかったように改めて歩き出した。
「そんな簡単に殺人事件なんて起こるわけないんだって。ゴキブリの謎は無事解明したし。満足、満足」
礼美は上機嫌にそう言って笑顔を見せた。
歩き出す私たちの背後ではまた闇の世界が広がっていく。
私たちの知り得ない悪の素粒子が衝突し、エラーを起こしたかもしれない。この世にはまだ存在しない事件が息を潜めている。
それは気付かぬだけで静電気のように力を蓄え、今にも悲鳴に似た産声をあげようとしていた。
*
「ただいまー」
翌日の午前。私は準備中の札を裏返し、コットンカフェの扉を開く。
カランコロン。
ドアベルの音色が秋の爽やかな空気を一緒に連れて入った。明け方ザッと降った雨はすでに止み、清々しい香りが漂っていた。
「真綿くん、まだなんだね」
「モーニングお願いしておいたのに、真綿ったら全く……」
真綿は毎朝サイクリングと称して、近所の海岸付近をぶらりと自転車で散歩する。
雨の日、風の日、寒い日、具合の悪い日、機嫌の悪い日、気が乗らない日以外はまあまあ出掛けて行って、さも身体に良いことをした感じでこれ見よがしにため息などつく。
真綿は基本的に日焼けやスポーツクラブで汗を流すのは好きだが、理由なしにブラブラ歩くのは苦手なようだった。
しかし動物全般に言えることだが、季節を感じるのは心身ともに良いことだ。私は自転車散歩を奨励していた。
「礼美ちゃん、座ってて。紅茶入れるから」
私はそう言って、キッチンへ入って行こうとした瞬間だった。
カランコロン。
「真綿?」
長身茶髪に日焼けしたガタイのいい身体。男らしい逞しい筋肉に覆われているのが、サーフブランドのTシャツの上からでもわかる。真綿だ。
そして、その後ろに佇む男性。
あ、以前にもこのような場面があった。デジャヴのような感覚に襲われる。
その時現われたのは、今やもうこの界隈では大人気? 安楽椅子ペット探偵・
だが、今回は違う。
金髪、九頭身ほどのすらりとした姿態。男性にしておくのはもったいないほどのきめの細かなクリーム色の肌。目を伏せてはいるが、その端正な顔つきは隠しようがなかった。
たぶん、初めて見る顔だ。その憂いを含む顔に心当たりはない。……たぶん。
えっ? え、嘘!?
「……
私の肩越しから礼美が甲高い声を上げた。
「琥珀ユウくんだー、すごい! なんでなんで!?」
礼美が私を押しのけ、前へ出てきた。スッピン、スウェット姿だということは、もはや全く頭にないようだ。
琥珀ユウとは三年ほど前に『元少年探偵! 琥珀ユウ』という映画のオーディションに合格し、いきなりトップアイドルに上り詰めた芸能人である。
元少年探偵とは天才少年探偵が成長し、天才青年探偵になってからのお話だった。その映画の主役を務めたのがこの人なのだ!
当時はバラエティ番組に出たり、ドラマの主役に抜擢されたりと華やかに活躍していたが、突然ギターを片手にシンガーソングライターとして全国を回りたいという本人の希望で最近はテレビで観ることもめっきりなくなっていた。
結局今まで歌手として日の目を見ることはなかったが、舞台を中心に役者の仕事をこつこつと続けているらしい。現在は二十七歳くらいか。
しかし久しぶりに見た琥珀ユウは少し大人っぽくなり、前にも増して落ち着いた魅力が備わっている。
「え、有名人なの? きみ?」
真綿がユウの顔を覗き込んだ。さすが、誰だかわからないで連れてきたのが真綿らしい。
「有名人じゃありません。……役者をしてるだけです」
「すげーじゃん。俺もそんなセリフ、一度でいいから言ってみたいよ。……役者をし……て」
私が目の演技だけで真綿を後ろに退場させると、今度は礼美が矢継ぎ早に話しかけた。
「ユウくんって、今役者さんやってるの? だから、最近テレビで観ないんだー 元少年探偵の映画、観ましたよー 格好よかったなぁ。役者さんのお仕事って、どこの舞台でやってるんですかぁ 今はどんなのですか?」
「礼美ちゃん、ほら失礼だから……とりあえず、こちらにどうぞ」
私がユウを奥のソファ席に促す。全くもう、お客様ですよ。
カランコロン。
扉が開くと同時に、みんながいっせいに振り返ったらしい。ペット探偵の加納伊織が、ちょっと引きつった口元をして立ち止まった。
「おー、いらっしゃい。伊織くん、今日は芸能人、紹介するよー」
真綿がまたしてもはしゃぎ出した。
ユウは私たちをぐるりと見渡してから、ソファにゆっくりと腰掛けた。さすが芸能人だ。靴、腕時計、アクセサリーなどカジュアル系だが、高級志向の品を身に付けている。
真綿のような湘南のみ通用するドカジュアルではなく、都会の人かなと思わせるモダンなスタイルのカジュアルさだった。(だから、それってどんなの?)
いわゆる、こなれた感じ。着崩しや重ね着など、おしゃれ上級者のテクを遊び心を持ってして着こなしている。
デザイン性のある白黒の千鳥格子のチェック柄シャツに、細身のジーンズを
伊織はカフェに来たばかりでいきなりの展開に困惑していた。立ち位置さえ分からず、戸惑っている子役のようだ。
「紹介は後にして。伊織くんもこっちに座って。真綿は急いでコーヒーの準備してよね」
私に言われ、やっと伊織も真綿も動き出す。これだから私がいないと本当にダメなんだから。
「今日はお休みなんですか?」
私の質問にユウが、顔を向ける。わぁ、やっぱり、イケメン……。
「あ、はい。近くで昨日まで舞台稽古をやってて。夕べはこっちに泊まったんで、朝、海を散歩してました。そしたら、真綿さんって方が声を掛けてくれて……」
キッチンにいる真綿に顔を向けた。
真綿が手を上げ、嬉しそうに笑顔で答える。
「いや、俺がさ、いつもの道を巡回してたら、もうこの世の終わりみたいな顔したやつが歩いてるんだよ。海辺でそんな顔してると、速攻、宗教団体に狙われちゃうからさぁ」
真綿の言いたいことはこうだ。
物思いに耽り、海を眺めているのは、サーファー以外にもたくさんいる。子供や犬を連れて散歩がてら潮風にあたりに来る人や、水着の女性を見物に来るふざけた若者。
そして、懺悔を海に流しにくる、悩み多き人たち。
迷える人々は、啓示を受けるため海に来る。間違って身を
海岸近くには、慈悲深い団体の人間が危うい人々を救出すべく、常に待ち構えていた。需要と供給の関係が、ここにも発生している。
「ユウくんはぁ、舞台の悩みとかですかぁ」
礼美が割り込んできた。
さっきから何だろう、語尾の上がったしゃべり方にイラッとする。スッピン&スウェット姿の礼美はどうひいき目に見ても微妙だったし、伊織もキョトンとした顔で礼美を見ていた。
そこへ、真綿がコーヒーのトレイを手にテーブルへと到着した。はぁ、この豊かなアロマにはいつも癒やされる。
「何かあるなら、うちの本物の探偵に相談していくといいよ。天才ペット探偵なんだから。守秘義務はお墨付き」
真綿が大ざっぱに伊織を紹介した。
「ペット探偵……?」
ユウがつぶやく。
「そうなの。実は、こちらの加納伊織くんはペット探偵でして。でも、ペットの部分は気にしないで下さいね。飾りみたいなものですので」
私がフォローに入る。飾りとはちょっと言い過ぎたかもしれないが、ほぼ飾りに近いはずだ。だって、収入のほとんどはペットの捜索ではなく、犬のお散歩業なんだから!
伊織が少し不満げになった気もしないでもないが、元来草食系で普段は口数も少ないタイプだから、表情が読み取れない。あとで、ちょっと謝っておこう。
「……実は、警察に行こうかどうか迷っていたんです」
両手を組み合わせ、ユウがぼんやりと言葉を漂わせる。
「え、なんで?」
真綿が聞く。
ユウが伊織を見た。
「……昨晩、人が死んでるのを見たからです」
「ちょっと、ちょっと、それホントの話? マジで?」
まさかの殺人に、真綿だけじゃなく私たち全員がざわついた。
真綿ったら、なんて罪深き子羊を連れて来ちゃったのー
だが、私以外は皆、人が死んでるという言葉に反応し、いきなり分かりやすく前のめりになった。……いや、私もそうですけれど。
「俺の目に狂いはなかったな。さすが、俺」
意味不明なことをつぶやく真綿を背に、ユウが言葉を選びながら話し始めた。
「昨日、……夜十一時半頃だったと思います。僕は知人の女性と、海岸近くのイタリアンレストランで食事をしてました。彼女がそろそろ帰ると言い出したので、家まで送ることにしたんです。彼女珍しく飲めないワインを飲んでちょっと酔っていたので、夜風で酔いを覚まそうと思い歩いて家まで行きました。玄関まで送り届けてから、……昨晩は何だか、僕はおかしかった。普段はそんなことしないのに。……彼女の家の窓から、中を覗いてしまったんです」
「え、どうして!? ……その女性の方とは、お付き合いされていらっしゃるんですか」
私は不思議に思って聞いた。
「いいえ、そんな間柄ではないです」
ユウが急いでかぶりを振る。
「僕が三年前、芸能界デビューしてから、ずっと側で応援して下さっている方です。名前は
ユウは言葉を切った。
「その方が亡くなっていたんですか」
顔を上げると、ユウは重々しく言った。
「いいえ。部屋に男性の死体があったんです」
「ん、ん!? それってどういうことですかぁ」
「そのエステ社長の旦那ってことか?」
礼美と真綿が食いつく。
「いいえ、泰子さんは結婚していません。恋人だと思います。五十代後半の飲食店経営者と長く付き合ってると聞いてました。僕はたぶん一、二度会ってると思いますが、顔まではよく覚えていません。窓から覗いたのは一瞬でしたが、白髪交じりの髪にワイシャツ姿で背中を刺されて倒れていて。……体格や雰囲気的には、泰子さんの恋人で間違いないと思います」
「じゃあ、彼女が家に帰ってから、すぐに恋人を刺したってこと?」
「あ、いや……」
「それは考えられません」
ユウが即座に否定した。
「彼女が家に入るのを確認してから、僕はすぐにキッチン側から覗こうと敷地の通路を進みました。時間的には三十秒もかかっていないと思います。あの、本当に今までそんなストーカーみたいなこと、したことありません。ただ、昨日は泰子さんが珍しく恋人の浮気について愚痴を言っていたので、心配になって……。すみません、えっと。キッチンには格子のはまった窓があって、そこはいつもほんの少しだけ開いているんです。そこの隙間から中を覗くつもりでした」
「どうして、いつも窓を開けてあるって知ってるんですか?」
ここで、初めて伊織がユウに質問した。
「……泰子さんが、猫の鳴き声を聞くためです」
「猫の鳴き声?」
どういうこと?
「あ、はい。彼女は猫が大好きなんですが、昼間は仕事柄家にいないことのほうが多いので、夜だけ家へ戻ってくる外飼いの猫を飼っているんです。その猫が夜になると、帰ったことを知らせるためにキッチンの窓の下で鳴くんです」
なるほど。
猫は夜はエサや寝床をそこで提供してもらい、昼間は何処吹く風でのんびり好きに生活していたのだ。犬は人に付くが、猫は家に付くと聞いたことがある。猫としては、自由奔放で幸せな生き方に違いない。
「僕がキッチンの下で息を潜めていると、照明が付き、一瞬泰子さんの悲鳴らしき声が聞こえました。それで、驚いてそっと覗くと…… 床に男性が倒れていて、見ると背中にナイフのようなものが刺さっていたんです。インクのような真っ赤な血が、床に付いてました」
状況を思い出したのか、ユウは口元を手で覆った。
「混乱してしまって、僕はすぐに走って逃げました。ですが、何もしてないのに逃げてしまって、返って怪しまれるんじゃないかと後で不安になりました。たぶん、逃げるところを人に見られた気もします。玄関先で自転車を倒してしまって、大きな物音も立てたので……」
「ちょっと! 自転車を倒したって、本当!?」
礼美が驚く。私と礼美が昨日、目撃した人物だ。あの家のキッチン辺りで聞こえた一瞬の悲鳴、そして、自転車を倒して逃げる男性。
「私たち昨日、その場面に遭遇してます」
私が言った。
みんなこっちを見る。
「ユウさん、そこって海へ向かう道沿いにある家ですよね。昨日の夜、礼美と歩いてたら、ちょうど微かな悲鳴らしきものが聞こえたんです。その直後、大きな物音がして、男性が走って行くのを見ました。でも、服装が……。昨日、私たちが見た人とは服が違う」
「そうよ。ふみちゃんの言うとおり。私たち、ちゃんと見たんです。昨日の逃げた男は赤いチェックの帽子に黒いシャツ、それからジーンズでした。あ、ジーンズは一緒か。……でも、昨日の悲鳴、ゴキブリじゃなかったんだー。マジで殺人事件だったなんて」
礼美がぞっとした顔で私を見た。
「ゴキブリって何だよ。それより、逃げるのはまずいんじゃないか。見つけた足で、警察へ行くべきだろ。普通」
ユウに向かって、真綿が正論を言う。
「わかってます。ですが、あの時は本当に混乱してしまって、正しい判断が出来なかった。泰子さんが殺したんじゃないかとも考えてしまった」
確かに、そう思っても不思議はない。そんな場面に出会ったことはないが、その状況で冷静でいられる方がたぶん異常だ。
「でも、落ち着いてよく考えると、泰子さんが家に着いたときには彼はすでに殺されていたんです。時間的に殺す余裕などなかったんですから。……ですが、僕は仕事の関係でトラブルには巻き込まれたくないという気持ちが働いてしまった。それでとりあえず服を何とかしようと、たまたまシャツがリバーシブルだったので裏返し、ジーンズの裾を折り返しました。キャップは赤で目立つので、途中のゴミ箱に捨てました。それでもどうすればいいのか分からず、昨日は朝まで海を見ながら砂浜で座っていたんです」
芸能人という職業柄、スキャンダルを回避したいというのが本音だったのかもしれない。無防備な金髪のユウは、重々しい様子で沈み込んだ。
「琥珀さん、その宮田泰子さんの家にこれから行ってみませんか。彼女のことも心配ですし」
伊織が突然、提案した。その表情からは何も読み取れなかった。ただ謎解きには、まだほど遠い気がした。
「俺は行くぜー」
真綿がエプロンを丸める。そういう時だけ、早いな。
「私ももちろん行くわよ」
はいはい、礼美ちゃん。ボサボサ髪のスウェット姿に、レースの日傘は奇妙だけどね。とりあえず、このままでは進展はなさそうだった。私たちは謎を解くべく、全員立ち上がった。
年齢も性別も違う、共通点の欠片も見当たらないような御一行が、海へと続く道路を歩く。
今日の潮風は磯の香りが強い。台風が来るのかもしれなかった。
「あのコインパーキングの隣の家です」
ユウが指差した先の家は、確かに私と礼美が昨日男と遭遇した家だった。
玄関脇の駐車場には紺色のベンツがキラキラと陣取っており、その横にシルバーの自転車が立て掛けられていた。
「誰かが立ててくれたのかな」
礼美が独り言を言った。
私たちはユウを先頭に、鉢植えが邪魔な狭い玄関ポーチに並んだ。
とりあえず、呼び鈴を鳴らす。でも、泰子さんに会って、何て言えばいいんだろう。
「……出ませんね」
三度鳴らした後、ユウが言った。
「キッチンへ回ってみましょう。窓の隙間から、何か見えるでしょうから」
伊織が大胆な提案をし、私たちはぞろぞろと狭い通路を縦に並んで行く。
ユウが先導した。その後ろに伊織が続いた。
「ここです。この段差に足を掛ければ中が見えます。昨日の出来事が夢でなければ、死体があるはずなんです。……ちょっと見てみます」
私たちは大人しく指示に従い、ユウがキッチンの小窓を覗くのを待った。
「……や、泰子さんっ!!」
その時、ユウが叫んだ。
私たちは狭い通路で待機している。ただ、誰もが何かよくないことが起こったとだけ、想像出来た。そんな叫び声だった。
「琥珀さん、落ち着いて! 何があったんですか」
伊織に強い覇気を感じる。私は最悪を覚悟した。
ユウがうわごとのように名前をつぶやき、言った。
「そんなバカな。泰子さんが、泰子、さんが、……死んでる」
ギリシャ彫刻のように真っ白い顔をしたユウを真綿に任せ、伊織は小窓から中を覗く。一度だけ息をのむ音がした。
「……ふみさんと礼美さんは見ないで下さい。彼女が、……泰子さんですね。血痕の様子からすると、だいぶ時間が経っている。すでに亡くなっているようです。頭から血を流したらしい。どす黒い血が、髪を固めています。すぐ横に、血の付いた陶器の人形が転がっています。あれが凶器でしょう。んん……ただ、死体がひとつ足りませんね」
それだけ言うと、伊織はこちらを向いた。不気味に口角が歪んでいる。
死体が、ひとつ足りない……?
「どういうことだ!? ここには、泰子さんの恋人が死んでたんじゃないのか?」
真綿が怒鳴るように言うと、ユウが苦しそうに手を顔にやり、嗚咽の声を漏らした。
体裁など構うものか。
ひとりの人間としての涙に、私も胸が苦しくなった。
だが、不思議にもほどがある。なぜ、死体が入れ替わっているの?
ユウが昨晩見た、泰子さんの恋人の死体というのは見間違いなのだろうか。まさか、女性と男性を見間違えるほどパニックだったの?
「わぁ~ん」
私の隣の日傘から、号泣する声がした。礼美ちゃんは、人の気持ちを汲み取れる才能がある。私は頭が真っ白になり、泣き声を背に立ち尽くすのみだった。
「今、警察に電話を掛けるからっ!」
真綿はそう言うと、慌ててハーフパンツの後ろポケットをまさぐった。
その後、胸元をまさぐるそぶりに入った時、秋の日差しに目を細めながら伊織が小さく声を発した。
「……謎が、解明しました」
「え? なんて?」
真綿が未だ身体をなで回し、携帯を探しながら顔を上げる。
伊織の右手の人差し指が、やわらかく天を見定めていた。静かに真っ直ぐに、伊織の瞳にチカラが宿った。
「皆さん、謎が解明しました……この謎は、この事件は、不確実で愚か過ぎる裏切りの殺人行為だ」
ユウが泣きはらした目を不思議そうにじっと伊織へ向けた。
「この事件は、もともと謎解きの
「それとどう繋がるの?」
伊織はちらりと私を見て、右手で制すると言葉を続けた。
「……そして、二つ目の真実のピースはお酒でした。泰子さんはお酒が飲めないにも関わらず、その日は飲んだ。それ自体は特に驚くことではありません。それよりも、その時に発した言葉が重要なんです。ユウさん、もう一度思い出して下さい。泰子さんはお酒に酔って、なんておっしゃっていたのですか?」
「泰子さんは、……確かあの時、ワインに酔って、愚痴を言い始めました。普段は信心深く、前向きな言葉を心掛けている人だったので意外でした。ただ内容は、……具体的には言いませんでしたが、男女のよくある恋愛のもつれ話です。僕は話半分に聞いてたんです。恋人についての不満というか。あの男が全部悪い、浮気男、今まで尽くしてあげたのに恩知らずとか。まぁ、そんなことです。……それから、僕の演技についてもダメ出しをいくつかして、あ、最後に、舞台でのワンシーンのことを褒めてくれました」
ユウが黙った。私たちも黙っている。秋晴れの強い日差しだけが、照りつけていた。
「琥珀さん、僕の仮説は間違っていないと確信してます。複雑に絡み合った糸を解きほぐした先には、犯人の情念が見えました。そのままにしておくことは出来ません。ですが、これが
伊織の顔はちょうど太陽の光を遮り、影になった。ユウには、伊織の表情が見えているのだろうか。彼は確かに頷いた。
「……わかりました。では、先程の真実のピースの話に戻ります」
伊織はスイッチが切り替わるように、謎解きモードに入った。僅かの不安も見当たらない、実に安定感のある早変わりだった。
「まずは琥珀さんが昨晩覗き見た、泰子さんの恋人の死体です。レストランでの会話で、珍しく酔ってしまった泰子さんが発した言葉を思い出して下さい。男女の恋愛感情の愚痴でした。その言葉が、真実の
私たちの誰もが固唾をのんで、伊織を見つめていた。
「あの日、泰子さんがそろそろ帰ると言ってふたりでレストランを出たあと、夜風にあたりながら歩きましたね。少し酔いを覚ますために」
ユウが頷く。
「そして玄関まで送り届けたあと、琥珀さんは胸騒ぎを感じ、泰子さんの様子を見ようと、外から覗けるキッチンの窓付近へ移動した。ちょうど、この場所です。……家に入った泰子さんは、まずはキッチンへと歩いて行った。ここは対面式のキッチンがある、リビングダイニングです。そして照明を付けた途端、彼女は小さな悲鳴をあげた。そうです、彼女は彼の死体が家のどこに転がっているかを知らなかったからです!」
「えっ? それって、死体が家にあることは知っていたの!?」
私を見て、伊織が嬉しそうに口を歪めた。
「その通りです、ふみさん。泰子さんは自分の家で、その日恋人が殺されることを知っていた。殺人の犯行時刻にアリバイを作るため、泰子さんは琥珀さんと会っていたのです!」
泰子さんは、恋人が殺されることを事前に知っていた?
ユウと会っていたのは、アリバイ工作のためだった。
だったら、恋人を殺した犯人は一体誰なの!!
「はい。……それは、第三の人間です。まだ見ぬ、だが確実に浮かび上がる凄惨な素顔。泰子さんがずっと不満をこぼしていましたね。その人物は、殺された男性のもう一人の浮気相手。三角関係にある女性です!」
「ちょ、ちょっと、待って下さい。泰子さんの恋人は、本当に他にも女性がいたということですか!? その女が恋人の男を殺したと? しかも、泰子さんの家で?」
ユウが目を見開いて言った。
「なあ、伊織。それって、支離滅裂じゃねぇ? 琥珀くんには悪いけど、男の死体はないんだ。実際、ここで死んでるのは泰子さん一人。どう考えても、琥珀くんの見間違いか、あるいは嘘か……」
キッと、ユウが真綿を睨む。
「嘘なんか言うはずないだろっ。確かに僕は、白いシャツ姿の男性が背中にナイフを突き立てられて殺されているのをこの目で見たんです!」
ユウは必死だった。額に汗がにじむ。
「……大人は平気で嘘をつく。男性が殺されているとの情報は、確かに琥珀さん一人の言葉に過ぎません。ですが、この言葉の意味するところに第三のピースが宿っているんです。琥珀さんを信じるに値する要素は何か。それは、動機がないことでした」
殺人の動機。
重々しい響き。伊織は言葉を続けた。
「泰子さんが殺されて一番困るのは、琥珀さんです。泰子さんは琥珀さんにとって、身近な信頼のおけるスポンサーでもある。琥珀さんが芝居を続けていられるのも、泰子さんによる金銭面の援助が大きいでしょう。そして恋人の男性の存在は、何の邪魔でもなかった。なぜなら泰子さんと琥珀さんの間には、もともと恋愛感情はなかったからです」
そうか。ふたりは恋愛で繋がっているのではない。愛情の形には、いろいろなものがある。親子愛、兄弟愛、師弟愛、ペット愛…… いくつもの愛に、私たちは関わって生きている。
「僕はここへ来て、泰子さんの死体を発見しなければ犯人は分からなかったと思います。泰子さんが殺されたことで、第三の人物の存在を確信しました。もし、男性の死体だけだったら、特定出来なかった。しかし、今は
伊織の言葉に、私はぞっとした。
現実で完全犯罪なんて怖すぎる。私は指先で、顔にかかる髪の毛をはらった。
「琥珀さんの言うとおり、昨晩確かに男性の死体は存在したと思います。泰子さんは照明を付けた瞬間、恋人が殺されているのを発見して、小さな悲鳴をあげてしまった。それが、ふみさんや礼美さんも聞いた声です。その後すぐ、琥珀さんは逃げ出して行った。……これから、第三の女性の登場です。恋人の男性を殺害し、泰子さんが帰ってくるのを待っていた加害者の女性は、その後の計画を遂行するためにふたり一緒に動き出しました。それが、男性の死体を移動させることです」
伊織の額から、汗がぽたりと落ちた。
「加害者の女性を、仮にA子さんとしましょう。ある日、泰子さんとA子さんは、ふたりが同じ男性とお付き合いしてることを偶然知ってしまった。それが真実のピース、猫です。猫と化した男性は、二つの我が家を行き来しながら平然と暮らしていたのです。これは男性にとっては都合の良い二重生活でも、女性にとっては絶対に許されない裏切りの行為となりました。そこで、何らかの密談が浮気相手ふたりの間でされたのだと思います」
「どうして、ふたりとも浮気相手だと思うの? A子さんは本妻かもしれないし」
礼美が不思議そうに聞いた。
伊織が礼美を見る。
「それならば、もっと違った展開になっていたと思いますよ。この殺人事件は、パワーバランスが同等の相手だからこそ、結束して共犯になった事件とも言えます。彼女たちは、ふたりとも浮気の対象だった。どちらかが本妻なら、話し合いは違ったものになっていたでしょう。本妻は愛人を
なるほど。
それが、傷つけられた側の心理というものなのか。恨みを晴らすために、自然に共犯意識が芽生えたのだ。
「たぶんA子さんの方が、暴力的な性格なのかもしれません。彼女は実際に手を下す役目を担った。そして泰子さんは、彼女のアリバイを確保するために殺害現場を貸したんです」
A子さんのアリバイを確保するために?
泰子さんはわざと自宅を、殺害現場として提供した。
……そうだ。
そして、死体はどこかの山中にでも隠せばいい。
男性は失踪事件として処理されるだろう。
万が一、男性の死体が見つかったとしても、犯行時刻、泰子さんにはユウとの鉄壁のアリバイがある。そして、A子さんにアリバイはなくとも、殺害現場にいたという事実だけは泰子さんによってもみ消されるのだ。一人暮らしの自宅には誰もおらず、まさか死体などあるはずがないと。
これが守られれば、恐ろしい連携の犯罪だった。
「しかし、手違いが起こった」
伊織がユウを見る。
「あ、僕が男性の死体を覗き見してしまった」
「それもあります。いずれ、その件については露見してしまうでしょうから。……ですがその前に、ふたりの間でトラブルが起こってしまったんだと思います。泰子さんが帰宅してから、ふたりは男性の死体を泰子さんの車へ運び入れました。あ、その時に泰子さんが、琥珀さんが倒した自転車を起こしたのでしょう。他人の自転車はそのままでも、自分の自転車は起こすものですよ。そして夜のうち、車であらかじめ決めていた場所まで行き、一緒に死体を埋めるか何かする。明け方までには、ふたりはまた泰子さんの家へ戻る。本当はこれで、問題なく終わるところだった。しかし、ここで手違い……が生じた。泰子さんが良心の呵責に耐えかねて、警察に自首すると言い出したのではないでしょうか」
「それで、A子さんは泰子さんを殺してしまったのね!」
礼美が叫んだ。
「はい。礼美さん、その通りです。A子さんにしてみれば、恋人の浮気に次いで、二つ目の裏切りと感じた。実際、手を下したのはA子さんですし、ここで泰子さんに自首されたらA子さんの未来はありません。カッとなったに違いない。近場にあった陶器の人形を掴むと、泰子さんの頭めがけ一気に振り下ろしたのです」
沈黙の時間が過ぎた。
「泰子さん……、僕にとっては誰よりも優しい人でした」
ユウが唇を噛みしめる。魂を沈めるために必要な、深い愛情を私たちは知った。
伊織が疲れた顔で口を開く。
「そうだと思います。長年、あなたを支援し、恋人に尽くし、猫の寝床を用意していた。愛情の深い方ですね。そして、たぶん寂しい人だったのかもしれません」
私の心は、もうここにはなかった。物思いに耽るように、私たちは家路を辿ろうとするだろう。
太陽は今も眩しく輝いているが、もう夏ではない。
夏の
「……この世で一番美しい言葉を贈るね」
ユウが、泰子さんに話しかけるように呟く。
――天国への
それは、祈り。
愛するものへ捧げる、心からのメッセージだった。
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