氷の王子様/転生義経は静かに暮らしたい

田井ノエル/角川文庫 キャラクター文芸

氷の王子様

氷の王子様



 銀花ぎんかが空から降ってくる。

 妖精のような淡雪を、牛渕うしぶち和歌子わかこは両手で包むように受け止めた。掌に落ちた雪は、温もりですぐに水へと変わる。

 南関東の鎌倉かまくらは、雪があまり降らない。積もることはないだろうが、空からの贈り物に感じられた。

「ホワイトクリスマスだね」

 隣で手を擦りあわせながら、吉沢よしざわ明日華あすかが笑う。吐く息が白く、頬がほんのり赤い。きっと、和歌子も同じ顔になっているのだろう。

「クリスマスじゃないよ?」

 明日華の言葉を、和歌子はやんわりと訂正した。

 今日はクリスマスではない。

「でも、〝クリスマス会〟なんだから、クリスマスだよ。ねえ、由比ゆい君?」

 明日華に笑いかけられ、由比 静流しずるがふり返る。静流はポケットから手を出しながら、つまらなさそうな表情を作った。

 肩からさげた、大きなスポーツバッグが揺れる。

「僕は和歌子と本当のクリスマスデートがしたかったんだけどね」

「そんなこと言ったって、静流君は大事な大会があるでしょ」

 静流はフィギュアスケート選手だ。シニア大会には出ず引退すると発表していたのだが、今は考えが変わって復帰していた。

 クリスマスの日程は、ちょうど全日本フィギュアスケート選手権が行われる。世界選手権出場の切符を賭けた大事な大会だ。とくに、静流は引退宣言のせいで数ヶ月遅れのシーズンスタートとなっていたので、この大会を勝つ必要があった。

 今日は静流のために、一足早くクリスマスパーティーをしている。と言っても、カフェでお茶をして、これからカラオケに行くところだ。高校生のお小遣いの範囲での贅沢だろう。

「いいや、和歌子とのデートのほうが大切だね。クリスマスイヴにディナークルーズを予約したかったよ」

「ディナークルーズって……そういうの、いいから。明日華ちゃんもいるんだし、もっと高校生らしい遊びが嬉しい」

「わかっているよ、冗談。現役復帰するって決めたんだから、大会はしっかり滑る」

 そもそも、今日だって本当は練習に充てたほうがいい。なのに、静流は和歌子たちに時間を割いて遊んでいた。

 本当に大丈夫なのだろうかと、和歌子は心配になってしまった。

 静流には前世の記憶がある。平安時代末期の世を生きた女性、しずか御前ごぜんだ。稀代の白拍子しらびょうしと評された舞手で、源義経みなもとのよしつねの愛妾だった。

 静流のフィギュアスケートが美しいのは、静御前の記憶と技術を受け継いでいるから。でも、それだけではない。彼の高い技術や表現力は、今世で生まれ変わってから磨いたものにほかならない。

 一度は思い悩んで引退すると言っていたけれど、静流がリンクに戻って好きなことをしているのが、和歌子にとっては嬉しい。

「大丈夫だよ。和歌子が応援してくれているから、全日本は絶対 る」

 静流は微笑みながら、和歌子の手をにぎった。

 冷たくなった和歌子の手と違って、静流の手は驚くほど温かかった。

 ずっと、こうしていたいと思ってしまうほどに。

「あ……和歌子、ちょっと待ってて」

 静流はふと、なにかに気がついたように和歌子から視線を外した。

 和歌子も自然と、静流の視線につられる。

「リンク?」

 そこにあったのは、街中の臨時スケートリンクだった。日が落ちかけているタイミングで、ちょうどライトアップされたところだ。

 鎌倉では珍しい。スケートをしたければ、横浜よこはままで電車で出ていく必要がある。

「和歌子を安心させてあげる」

 静流は軽くウインクして、スケートリンクに向かって走っていった。和歌子と明日華も、静流についていく。

 静流は受付を済ませて、手際よくスケート靴を履きはじめた。

 大きなスポーツバッグには、和歌子たちと別れ たあとすぐに練習へ行けるよう、スケート靴や着替えが入っていたようだ。

「あたしたちも、滑ろうよ」

「え……う、うん!」

 弾んだ声で明日華が誘うので、和歌子も受付をする。スケート靴の貸し出しがあるのはありがたい。

 和歌子たちがモタモタと靴を選んで履いている間に、静流は早々にリンクへ飛び出していく。

「わあ……」

 静流の滑りに、感嘆の息が漏れた。

 なんの技も披露していないのに、彼が滑り出しただけで空気が変わる。氷上を進む速度が明らかに一般人と違い、エッジがリンクを削る音も小気味いい。

 テレビで見る静流は、氷のうえで舞っていると思っていた。

 でも、目の前にすると氷上を泳ぐ魚のようだ。彼がまったく別の生き物になってしまったみたいで、和歌子は目を瞬かせた。

 静流は準備体操と言わんばかりに、リンクを何周かする。そのころには、周囲の視線を大いに集めて、スマホのカメラを向ける人までいた。

 リンク上の人が、次第に静流のために道を開ける。

「静流君のスケート、生で見るの初めてだよー!」

 明日華は黄色い声で手を叩いていた。

 すごいなぁ……。

 和歌子も、ポカンと口を半開きにしていた。

「和歌子」

 不意に、静流が和歌子に視線を送った。

 その瞬間、静流のスケートが助走に入る。

「え、もしかして……」

 前向きに踏み切った静流の身体は、空中で見事に四回転した。

 エッジによって若干の氷が飛び散るけれど、それがライトに照らされてキラキラと光っている。広がったコートの裾が翼みたいで、重力の概念を忘れそうだった。

 雪の中で跳ぶ静流は、王子様……いや、もっと幻想的な……妖精のようだ。氷に愛され、愛しているのが身体中から伝わってくる。

 その姿は、記憶に残る静御前とは重ならない。由比静流としての滑りが、和歌子の目に焼きつけられる。

 本当に綺麗だった。

「…………ッ」

 しかし、着氷が乱れて、静流が軽くリンクに膝をつく。ここまで完璧に見えていたのに、どこか失敗してしまったらしい。

「静流君……!」

 和歌子は慣れないスケート靴で、氷に飛び出した。静流のようには滑れないが、コツをつかめばそれなりに前へ進める。

「大丈夫?」

「うん……まあ」

 和歌子が近寄ると、静流は顔をあげる。

 しかし、こちらを向いてはくれなかった。

「コート脱いでおけばよかったな。和歌子の前なら、やれると思ったんだけど」

 膝についた氷を払いながら、静流は苦笑いしていた。

 悔しいのだと、すぐにわかる。不貞腐ふてくされたように視線をさげていた。

「今の、四回転半でしょ? むずかしい技なんだから、一発勝負じゃ無理だよ」

「いいや、できるね。僕は本番で跳べるって言ってるんだけど、クソコーチが許してくれなくてさ……」

 たしかに、今シーズンのプログラムには組み込まれていないジャンプだ。

 静流はシーズンに出遅れてのスタートだったので、安全策を講じているのだろう。本人は、それが不満らしい。

「よし、もう一回。和歌子、コート持ってて」

「え……でも」

 静流にコートを渡されて、和歌子は戸惑った。

「お客様ー! 氷が傷つきますので、ジャンプはお控えくださいー!」

 スケートリンクの係員が、困った顔で呼びかけていた。野外の臨時スケートリンクなので、メンテナンスの関係でジャンプが禁止されている。受付でも説明されていたはずだが、静流は無視していたのだ。

「堅いこと言わなくていいのに」

「ルールなんだから、守ったほうがいいよ」

「補填ならいくらでも出す用意はあるさ」

「お金持ちの発想……小さい子もいるし、危ないよ」

「和歌子がそう言うなら。気をつけているつもりだけどね」

 静流のボヤきに、和歌子は苦笑いした。

「和歌子」

 ふと、静流が和歌子の耳元に口を寄せる。

 吐息が耳朶じだに触れ、和歌子は動きを固まらせてしまう。

「全日本獲って世界選手権に行けたら、和歌子のために跳んであげる」

 それって、勝手にプログラム変更するってこと? 和歌子は顔が熱くなり、唇をわなわなと開閉させた。

 静流は涼しい顔で笑いながら、和歌子から離れる。

九郎くろう様なら、やってしまえって言いそうじゃない?」

「言うかなぁ……いや……言いそうだけど……」

 数々の奇策で平家を打ち破ってきた源義経なら、たしかに言うだろう。勝てる武器を持っているのに、使わぬ手はない、と。

 だが、和歌子個人は強くお勧めも反対もできないので、あいまいな返事になってしまった。

「きゃあっ!」

 離れたところで、悲鳴があがる。見ると、明日華が氷に尻餅をついていた。

 和歌子は思わず噴き出し、明日華のところへと滑る。

 少し早いクリスマスは寒くて冷たいのに、温かくて美しい。

 歴史になんて残らない些細な日々かもしれないけれど、和歌子は一生忘れないと思う。

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