第10話
「あの日からどれくらい経った?」
「一ヶ月かな」
「そっか、それくらいか」
俺に問いかける彼女の瞳がキラキラと輝いてるのが見えた。
「彼氏さんは?」
「ん? そこらへんに居るんじゃないかな? もしくはそこのカフェでコーヒーでも飲んでると思う」
「結構自由なんだね」
「ま、私と君の会話聞いたところでつまらないでしょ。それに私はもう首輪を着けられてるわけだしね」
カバンからチケットを取り出し、ひらひらとさせるサキさん。薄っすらと笑みを浮かべ、そのチケットを眺めていた。その笑みはこれから向かう先への期待なのか、はたまた諦めの表情なのか。俺には知るよしもなかった。
「で、その後ろにいる女の子はどなた?」
「ああ、俺と同じサークルの……」
「砂尾弓月といいます」
笑みを浮かべながら砂尾さんは、サキさんの顔をジッと見つめている。その視線からは、見ているこちらが少し怖気づくような圧力を感じてしまった。
「はじめまして、伊藤美咲です」
その視線に気がついているはずのサキさんは飄々としていた。全く気にしてないと言ってもいいかもしれない。
「なになに? 又木君の新しい女?」
「違うって、彼女は……」
「先輩とあなたのお別れを見届けに来ただけです」
「それにしては随分圧が強い挨拶だったけど?」
「……言いたい事はありますが、今はひとまず黙ってます」
そう言うと彼女は少し離れた位置のベンチまで歩いていき、そこに腰かけてこちらの方を眺めていた。
「あは、可愛いねあの子」
砂尾さんが座っているベンチの方を眺めながら笑みを浮かべるサキさん。
「仲良くしてるんでしょ、大切にしなよ」
「ありがと……仲良くするよ」
「それじゃ、話そうか、又木君」
そう言って俺の方に向き直る彼女。表情からはなんだか余裕のようなものが見えた。それと同時に、侘しさのような雰囲気を俺は感じるのだった。
「まず、君に謝らなきゃいけないね。君を騙してしまった事、本当に申し訳なく思っています。そしてその後の色んな行動も本当に反省してる。ごめんなさい」
謝罪の言葉を述べると頭を下げるサキさん。その姿を見た俺には、得も言われぬ感情が湧き上がってきていた。そして頭を起こすと、目と目を合わせ俺の顔を見ながら話を続ける。
「全部が全部幼稚……そうとしか言えないって皆に言われたわ。自分で思い返しても、この一連の出来事はどうかしてた。何よりこんな事をしてしまった自分自身に腹が立つ……」
「もういいよ、そういうの」
次々と溢れ出る謝罪と後悔の言葉に対して、俺はストップをかけた。そんな言葉より、今は聞きたいことがある。
「最後に俺と話がしたいって、そのためにこの時間作ったんだろ」
「何を話したかったのか教えてくれよ」
俺の言葉を聞いて、ニコリと笑みを浮かべたサキさん。それは、いつも見ていた彼女の笑みと一緒で、俺はある種の懐かしさを覚えた。
「じゃあ、単刀直入に言うね。私、やっぱりあなたの事が好きみたい」
一瞬の間が空いた後、彼女は笑みを崩さないまま、さらりとそう言いのけた。俺は彼女の言葉に驚きこそすれど、動揺はしなかった。どこか心の中で、そういう事になるのでは無いかと思っていた節があったのかもしれない。
「もちろん、譲司の事も好きよ。そうじゃなきゃフランスまで着いていかないもの」
譲司とは、長岡さんの事を指しているのだろう。彼女は話を続ける。
「彼の事は愛してる、長い付き合いだし、それに分かり合っているから。けどね、又木君はそれとは別の感情があるの。心の底から湧き上がるような感情が。君といると私の中の感情が揺り動かされて、とても堪らなくなるの」
そう言って彼女は一旦顔を伏せた。そしてしばらく沈黙した後、グッと顔を上げて俺の顔を見つめた。
「だからお願い、私とまた一緒になって。いつ帰れるか分からない、けど、君とまた一緒になれるように努力する。だからお願い、私の事を……」
「ダメだ」
俺は懇願するように言葉を捻り出していたサキさんの言葉を遮って、そう答えた。
「ここで別れなきゃダメなんだよ」
「なんで、どうして?」
「サキさん。あなたが欲しがっているのは逃げ場所だ。不安に満たされている自分の安心できる場所が欲しいだけなんだ」
「そんな事ない! 私は本当に君が必要なの、君じゃなきゃダメなの!」
そう言って俺の肩を掴む彼女。その顔は必死さと悲しみが混ざり合う、今まで見たことのないような表情を浮かべていた。俺は更に追い打ちをかけるように彼女に話しかける。
「自分を肯定してくれる人なら誰でもいいんだよ。今回はたまたま俺だっただけ」
「違う!」
「違わないよ、現にあなたはそういう行動をとってる。今もあなたを突き動かしているのは、不安に対する恐怖心と、俺をどうにかしたいという意地だけだ」
徐々に俺の肩を掴んだ手の力が抜けていくのが分かる。目元から涙が一粒こぼれる。もう後はとめどなく流れるがままだった。
「違う……違うの……私はあなたと仲良くしたいの……心の底から繋がったと思える人と、ずっと仲良く……」
「……俺だってね、思ってたよ。けどね、無理なんだ、俺とあなたの関係は最初から終わってたんだよ」
ゆっくりと俺の肩を掴んでいる手を掴んで下ろす。そしてその手を握ったまま俺は彼女に語りかける。
「俺は平々凡々とした大学生活を過ごし始めて。あなたは長岡さんと付き合って、色んな日々を過ごして、そしてフランス行きが決まって。そんな風に全てが動き出してから逃げ場を求めても遅かったんだ」
「そんなのって酷すぎる……出会ってから遅すぎたって気が付くなんて悲しすぎるじゃない……」
「だからそもそも俺達が出会ってしまったのが間違いだったんだ。あんなアプリで偶然とはいえね」
彼女の手を握る力が、少し強くなる。それと同時に、彼女の目からこぼれる涙は増えていた。
「私諦めきれないよ」
「じゃあ、愛に生きるために今ここでチケットを破り捨てる? 暮らしを捨てて、何もかも捨てて、こちらへ来る?」
「……」
「……出来ないでしょう、分かってる。もう、どうしようもないんだ」
俺は彼女の顔を、もうまともに見る事が出来なかった。見てしまったら最後、そのまま取り込まれてしまいそうだったから。
「俺もね、一晩中、あなたに触れる術を考えてた事もあった。自分の事を欺くほどの心は残ってなかったんだ。あなたとの短くても濃い思い出たちが胸を埋めてた」
彼女の手を強く握った。そして意を決して彼女の顔を見つめた。
「けれど、お願いだから、もう俺に触れる術を見出そうとしないでくれ。あなたとの思い出も何もかも、もう全て沈めてしまうから。終わりなんだよ、おしまいなんだ。あなたがいるべき場所は俺じゃない。長岡さんの元が本当にいるべき場所なんだ」
俺の頬を、暖かい水滴が伝って流れ落ちていく。それはとめどなく流れ落ちていき、拭っても拭っても溢れ出てくる。俺はそれを誤魔化しながらサキさんの顔を見つめ続けた。サキさんは、変わらずに俯き加減で涙を静かに流し続けていた。
「よっ、又木君」
その声に反応して顔を向けると、見覚えのある顔の男がこちらに近づいて来ていた。
「そろそろ時間だ」
「お久しぶりです」
俺は目元を拭う。あくまでも自然に。
「あの日以来だね」
そう言うとサキさんの肩を抱き寄せ、いつの間にか取り出していたハンカチで彼女の涙を拭ってあげていた。思わず俺は握っていた彼女の手を離した。
「お別れは出来たかい」
「ええ、僕はもう大丈夫です」
「美咲は? 大丈夫か?」
「……うん、大丈夫」
「そっか、じゃあ行こうか」
そして二人揃って歩き出したかと思った瞬間、サキさんが突然振り返り、こちらを見た。
「今までありがとう。……じゃあね」
彼女は笑った。最後の最後に彼女は今まで見せた事のないような満面の笑みを浮かべた。それはとても綺麗で、とっておきと言われてもおかしくないような笑顔。改めて俺は彼女に惚れてしまいそうになった。
「先輩?」
「うわ! 砂尾さん!」
「何驚いてるんですか」
「いや……突然だったから……」
「?」
心を勝手にときめかせていた俺の事はつゆ知らず。声をかけてきた砂尾さんはきょとんとした顔で俺の顔を見つめていた。
「じゃあ、行くね……バイバイ」
そう言って今度こそ搭乗待合室へと歩いていく二人。サキさんは何度か振り向いて、こちらの方へと手を振ってくれた。それに振り返しているうちに彼女たちの姿はゲートの向こうへと消えていった。
見送った俺達はその場で立ち尽くしていた。別に何があったというわけでも無い。しかしただ見送っただけなのに謎の達成感と満足感を感じてしまっていた。それは隣で立っている彼女も一緒なのかもしれない。
「先輩」
そんな彼女が言葉を発したのはサキさん達が去ってからしばらく経ってからだった。
「なに?」
「屋上の展望デッキへ行きませんか」
「展望デッキ? またどうして」
「最後のお見送りですよ、飛び立つ瞬間を見届けましょう」
そう言うが早く、砂尾さんは俺の手を掴んでエスカレーターへと歩き始めていた。俺は彼女にされるがまま、引きずられながら歩く。屋上までは特に何も無く、止まることなく向かうことが出来た。
「今何時ですか?」
「一〇時二〇分かな」
「じゃあ丁度見れそうですね」
喋っているうちに屋上の展望デッキにたどり着いた俺達。周囲をフェンスでぐるりと囲まれた展望デッキは結構な広さがあった。雨模様な天候も相まって人はいないが、天気の良い日はいいデートスポットになるだろうなと思った。
「あ、先輩、あれっぽくないですか」
砂尾さんが指差した方向には今まさにタラップが切り離され、滑走路へと向かおうとしている白いボディに青色のラインが入った飛行機の姿があった。時間的にも、おそらくあの飛行機だろう。飛行機は地上をゆっくりと走り、メインの滑走路へたどり着く。しばらく停止した後、また動き始めたかと思うと、白い翼が唸りを上げて一気に加速する。そして余韻を残すことなく飛行機は空へと飛び立っていってしまった。
「行っちゃった」
「行ったな」
「なんかもうちょっと、タメみたいなのがあるのかなと思ったけど、案外あっさり飛んでいきましたね」
「そんなもんだよ、何事も」
「そうなんですかね?」
「そうだよ、きっと」
彼女は行ってしまった。様々なものを置き去って。それはあっという間にやってきては過ぎていった夏みたいな、一瞬の記憶。けれどもそれは鮮烈で、鮮やかで、まるで夏の雨上がりの虹のような―。
雨は止んだ。
半開きになっていたカーテンの隙間から差し込む日差しがそれを物語っている。低くたれこめていたうっとうしい雨雲も姿を消していた。俺はそれを見て軽いあくびをした。じっとりと濡らす梅雨の季節はもう終わり、真夏の日差しが俺たちを照らしていく。梅雨の季節はアンニュイな気分だったが、今はうだるような暑さによる気怠さが身体を包んでいる。とりあえずエアコンをつけると、ゴロンとベッドに再び寝転がる。
スマートフォンの時計を見ると、現在午前七時三〇分。昨日眠りについたのはいつだったか覚えていない。泥のように眠った事だけは覚えている。もう最近はずっとこの時間に目が覚めるようになってしまった。以前のごちゃごちゃとした生活習慣とは大違いだ。
今日は日曜日。起きるには早すぎるこの時間。さてどうしたものかと、とりあえずスマートフォンを弄っていると、通話着信のバイブが鳴った。こんな時間に誰からだろうと思って画面を見ると、そこには高良の名前が表示されていた。俺は見ないふりをすることにするか、出るか悩んだ。
「出る、出ない、出る……」
そうしてタップするかどうか迷っている間もスマートフォンは鳴り続ける。悩むことが面倒くさくなった俺は、とりあえず通話に出ることにした。
「もしもし」
「おはよう又木君! 良い朝だねえ!」
「ああ、良い朝だな、最高に晴れてる」
「晴れ渡ってるねえ! BLUE SKY! いいねえ!」
「……高良、またお前酔ってるな?」
やっぱりこいつは酔うと陽気になる。声も上ずっていた。どうせ「さくらや」あたりで閉店まで飲んで、そしてどうせ朝まで公園辺りで飲み明かしたんだろう。
「酔ってない! 酔ってないぞ! 今日は!」
「今どこ」
俺は寝転んだまま上に着ていたTシャツを脱ぐ。じっとりと汗で濡れていたので、洗濯機に放り込まなきゃなと思いながらベッドの上に放り投げた。そして上半身裸のまま、高良の会話を聞き続ける。公園でへべれけになって潰れてしまっている高良の姿が目に浮かぶようだった。
「ん~多分拝成児童公園!」
「多分ってなんだよ、お前。財布とかちゃんとあるか?」
そう言いながらベッドから俺は起き上がり、耳と肩の間にスマホを挟んだまま着替えのTシャツを取り出しに向かう。俺はクローゼットの引き出しから適当に一枚Tシャツを引っ張り出すと、それを急いで着る。
「財布ある! 多分!」
「多分じゃねーよ、ちゃんと確認しとけ」
「あ、代返頼むわ! 今日の文化学概論!」
「バカお前、もう授業ねーよ、この前一緒にレポート出しただろ」
相変わらず部屋の隅に投げ捨てられている、細身のチノパンを拾い上げてはきはじめる。グイッとはくと、少し太ももあたりがキツくなっていて、これは少々マズいかもしれないなんて思った。
「そうだっけ? 概論シリーズ多すぎて忘れたわ!」
「というか今日は日曜だ」
「あはは! そうか!」
こいつは本当にダメかもしれない。チノパンをはき終えてベルトを締めた俺は、耳と肩に挟んでいたスマートフォンをまた手に持ち替え、ベッドに座った。
「迎えに行ってやる、そこで待ってろ」
「え! わざわざ迎えに来なくても大丈夫だよ、平気だから平気!」
「完全に酔っぱらってんのに放置出来るか」
「マジで大丈夫だから! マジで! やっぱり財布見当たらないけどマジで――」
俺は通話をぷつっと切った。朝っぱらから酷い通話だった。俺はスマートフォンをポケットにねじ込むと、ベッドから立ち上がって一つ伸びをした。そしてカーテンを開けた。窓からは既に強烈な夏の日差しが差し込み、俺の身体を包んだ。
「全く、何してんだあいつ」
窓を覗き込んだ。雲一つない青空が一面に広がっている。この中の散歩というのも、気分よく出来そうでいい感じだ。酔っぱらいの介抱へ向かうのでなければ、なおよかった。しかし、しっかり通話しながら着替えていた俺は、もう行く気満々なのだ。相変わらずの真面目さ加減に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「そこまで酒飲むのやめればいいのに」
ベッドから立ち上がり、部屋の隅に立てかけられた姿見鏡で自分の姿を確認する。少しよれた半袖のバンドTシャツに、細身の黒のチノパン姿。うん、やはり量産型だ。
「いい加減、こんな格好も卒業しなきゃダメか?」
時計を見ると、そろそろ八時になろうかというところだった。俺はとりあえずポケットに財布とスマートフォンだけ突っ込み、玄関に転がっていた適当なスニーカーを履く。朝食は後で高良と一緒にでも食べよう。そう決めた。
ドアを開ける。日差しが燦々と身体を照らし、俺を熱する。雨上がりの晴れ間の空気は何だか澄んでいて、心地良い。俺は陽炎でも見えそうな暑さの中へ踏み出していく。そして、その歩みを速めていく。
その瞬間、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前を見て、フッと笑う。俺はその着信を拒否する。そして、その人のアイコンを長押しして、「削除」のダイアログボックスを出す。しばらく画面の上で指を遊ばせていたが、意を決して「OK」を押した。ふう、と一息つく。そのままの流れで俺は最近の着信の欄を見る。そして一番上にあった名前をタップして、電話をかけた。二、三コール鳴った後に眠そうな声をしながら彼女は「もしもし」と答えてくれた。
「ああ、もしもし……ごめんごめん、こんな時間に。起きてた? いや、何てことは無いんだけどさ……ごめんって、本当に何となく声聞きたくなったんだ……ありがとう、俺もだよ」
こんな時間の電話で怒られてもおかしくなかったが、彼女はちゃんと話してくれた。ありがたいし、とにかく嬉しかった。俺の愛情を全て受け止めてくれる、そんな存在が。その喜びを噛みしめながら、俺は二歩、三歩と歩みを進めていく。何気なく空を見上げる。抜けるような青空はどこまでも、高く、高く、続いている。
「じゃあ、今日もまたいつものところで待ってるから」
そう言って通話を切る。
日曜、夏の日。君に会ったらどんな風な話をしよう。雨上がりにそんな事を一寸、考えていた。
Summer Rain 結城倫 @yuuki_rin
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