第9話
「おーい、起きてるか」
「何だよ、気分よく寝てたのに」
高良の隣の席で寝ていた俺は、脇腹を小突かれて起こされる。俺は思わず大げさに反応してしまい、それを見た高良に笑われた。
「大きい教室だからって、必修講義で寝るとかいい度胸してると思うぜ」
「まあまあ、とりあえずレジュメはあるんだから余裕よ、余裕」
「そういう問題かぁ?」
いつものように話しながら教室を出て、廊下を歩きながら窓の外を眺める。やはり雨が降っていた。俺が天気を気にするときは、大体いつも悪天候だ。
「どうする? 三限無いし、四限は休講だし、帰るか?」
同じように窓の外を眺めながら高良が俺に問いかけてきた。
「部室行こうぜ、暇だし」
「オッケー、昼飯はどうする? 買ってく?」
「おう、生協寄って行こう」
行先を決めた俺たちは、お昼時の人混みの波を掻き分け大学生協へたどり着く。そして二四〇円の、のり弁当を買う。今日はいつもほど買う人が多くなかったので、結構余裕をもって買えた。ついでに俺は緑茶を、高良はエナジードリンクを買っていた。
高良はいつも弁当にエナジードリンクという珍妙な組み合わせで食べている。絶対に合わないから止めれば? といつも俺達は言っているのだが、本人曰く「米とエナジードリンクの組み合わせが素晴らしい」らしい。よく分からない味覚に俺達は戸惑いを覚えつつも、『そうか』といって否定せず終わった事は覚えている。
「おっ」
「なんだ、お前らもいたのか」
大学生協を出ると、エントランスで内藤と山根が話していた。レジ袋片手に談笑していたことから、こいつらも俺達と同じような目的だったのだろう。
「そりゃあ飯くらい買いに来ますわ」
高良が大げさに声色を変えて喋る。それを聞いた俺達はニヤニヤしながら鼻で笑った。
「お前らも部室行くんだろ?」
俺がそう聞くと、二人は当然といった感じで頷いた。そりゃそうだよなと俺たちも同じように頷く。それからしばらく適当に喋った後、部室のある学生棟に向かって歩き始めた。
「そういやそろそろ夏合宿の時期だな」
本棟から学生棟へと繋がる連絡通路を歩きながら、山根が呟くように言った。俺は思わず歩きながら手をポンと叩く。
「ああ、もうそんな時期か」
「来週からのテスト期間越えて一週間後には合宿よ」
「あのさあ、毎回思うんだけど『合宿』ってつける意味あるか? 『合宿』してるのなんてほんの一部だし、基本飲み会じゃん」
「馬鹿、『合宿』っていう名目だから遠くに行って酒を飲めるんだぞ」
「そんなもんなの?」
「そうだよ、だから俺は感謝しなきゃいけないんだ」
「楽器弾けなくて、ごめん。そして、ありがとう……ってな」
そう言って山根は歩きながら両手を合わせると、恭しく拝み始めた。すれ違う他の学生たちは「何だこいつは」といった目で眺めながら通り過ぎていく。その光景がひどくシュールだった。
「又木は今年もギター弾かないのか?」
俺の左隣を歩いている内藤が、何の気なしといった感じで俺に問いかけてきた。
「弾くって誰とだよ」
「あれだよ、砂尾さんに誘われてるんでしょ」
ああ、と俺は軽く答えた。ついこの間、何の気に無しに部室でギターを弾いていたら、砂尾さんに「一緒にやりませんか?」と言われた。それだけの話なのだが。
「あんなのその場のノリで言っただけだよ、信じる方がバカだ」
「どちらにせよ、めっちゃモテ期じゃん」
後ろにいたはずの高良が俺の隣に並ぶと、遠い目をしながらそう言った。
「砂尾さんに、あの女……」
「おい」
内藤の言葉にハッとしたのか、俺の方を見ながら気まずそうな顔をする高良。そして俺が何か言う間もなく、すぐに弁解の言葉を述べ始めた。
「ち、違うんだ、そういうつもりは一切無くてさ。ただ単純に羨ましいなって、そう思って言っただけなんだよ。俺とか? もうそういうの最近全くなくて? 本当マジでいいなーっていうか?」
歩きながらずっとそんな調子で弁解を続ける高良。そしてまさしく「やっちまった」と言わんばかりの顔をしているものだから、思わず俺は笑ってしまった。
「何がおかしいんだよ! こっちは必死に謝ってるんだぞ!」
「ごめん、あまりにマジだったもんだからつい」
「そりゃお前、治りかけてた傷口抉るような真似したら申し訳なくなるだろ」
「大丈夫、もう気にしてないよ……なんたってあれから一ヶ月だぜ?」
話している間に、俺達は学生棟の階段を上り切り、四階の部室の前まで来ていた。俺はステッカーだらけの扉を開けながら、ボソリと呟く。
「もう終わった話だ」
部室の中へと入ると、ちょこちょこいた先輩や後輩に軽く挨拶をする。そして、いつもの窓際の席に陣取った俺達は、いそいそと食事の準備をするのだった。
「そういやさあ、内藤最近どうなの? 元気?」
「おっ、僕? 元気だよ?」
そう言って箸を置くと、力こぶを作るようなポーズを取った内藤。俺はそれを見て苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「違う違う、愛さんだよ」
「おっ、愛? 元気だよ、多分」
「多分?」
「最近かまってくれないから、よく分からないんだ」
何でも、最近は互いにテスト期間が近い事もあってか、一旦距離を置こうという話になっているらしい。本人曰く「おあずけ期間」なのだそうだ。その間はずっとおススメされた本を読んだり、ロックバンドの曲を聴いたりしているらしい。
「仕方ないことだけど、やっぱ寂しいね」
「まあ、こればかりはな」
「……そのまま、さようなら何てことにならなきゃいいけど」
本当に、何気なく喋ったのだろう。高良がポロリと溢すように放った言葉。それに内藤は目を剥いた。
「おいこら、縁起でもない事言うんじゃねーよ」
「だって距離取ってるって! それって危なくないか!? 空白期間は何かの過ちを生む可能性があるって、本で読んだことあるぞ!」
言ってる事は分かるが、デリカシーというものがこいつには存在しているのだろうか? それくらい配慮の無い発言を高良は先ほどから連発している。しかも気にしている部分を的確に小突いてくるものだから、当然言われた相手も怒る。
「僕は、彼女を信じてる! つーかそもそもそんな過ちなんて、起こる隙間も時間も無い! これ以上何かヤベー事言ったらぶっ飛ばすぞ!」
「悪かった! 俺が悪うございました!」
そう言ってヘコヘコと頭を下げる高良。普段ここまで怒る事のない内藤がここまで言うのも、不安からくるものなのだろう。今まで聞いた話だと、何だかんだでずっと彼女とベッタリだったし、何もしない期間というものに関して不安を感じているのだ。多分。
「全く信じらんねー、彼女持ちに向かって『お前の彼女ヤバくない?』って……」
「だからゴメンって、マジで何となく口に出しただけなんだよ」
「それがヤベーって話じゃねーの」
怒り心頭の内藤を落ち着かせるべく、俺は二人の間に入って緩衝材になることにした。このままだと内藤はずっと高良に向かって怒り続けるだろう。
「普通そんな事思ってても言わないし、言えない。高良、今日お前何かおかしいぞ」
「……だなあ、何か今日ダメだわ、頭回ってない感じするもん。湧き出た言葉をそのまま吐き出しているだけというか……」
「今日は言葉の濾過が出来てねえな」
「もう黙っておくわ、これ以上人を怒らせたら堪らん」
「そうしとけ」
高良はエナジードリンクを一口飲むと、うつむき加減で肩を縮こませ、小さくなっていた。それを見ると、俺は次に内藤へと視線を移した。
「お前も一旦落ち着け」
「けど、あんな事言われたら黙ってられないよ」
「気持ちは分かるよ、けど愛ちゃんはお前の彼女だろ?」
「……そうだ」
「お前と愛ちゃんはそんな簡単に他の男に取られるような関係か?」
俺は改めて内藤の顔を見る。内藤は、先ほどまでの怒りの表情とは打って変わって、何やら考えこんでいる顔だった。
「……そんな事無い」
「じゃあ尚更、もっと堂々としておけって。あれくらいの戯言、鼻で笑って流せるくらいにならないと」
「ごもっとも」
「じゃあお前ら互いに謝っておけ、それで終わりだ、終わり」
俺がそう言うと、内藤と高良は互いにおずおずと目を合わせながら、「すまん」「ごめん」と謝っていた。それを見てから何気なく視線をそらしたら、いつの間にか山根が別の席へ移っていて、こちらの方を見ながらニヤニヤしていた。俺は立ち上がり移動すると、山根の正面の席へと座る。山根は歓迎の意を表すように両腕を大きく広げ、「やあやあ」と言って俺を迎え入れた。
「ご苦労さん」
「ご苦労さん、じゃねーよ、何遠巻きでニヤニヤしながら見てんだよ」
「いや、巻き込まれたくなかったし。君子危うきに近寄らずって言うだろ」
「誰が君子だ」
「ま、解決したようで何よりだよ」
そう言って自分のパンツのポケットに手を伸ばす山根。またタバコでも取り出す気かと思って俺は思わず止めた。
「だから禁煙だって」
「分かってるよ、飴だ、飴」
ポケットから取り出したのは本当に飴で、袋に包まれた一般的なタイプのそれだった。
「飴とはまた珍しいな」
「吸いたくなったら舐めるって決めてんだ」
「禁煙か? なんでまた?」
俺がそう聞くと、山根は表情を一気に崩し、えっへっへと言いながらにへらと笑った。その顔があまりにとろけていたものだから、俺も少し笑ってしまった。
「何笑ってんの?」
「いや、あまりに緩々な顔してるから、思わずね」
俺は軽く頬を叩くと、自分の顔を整えなおす。そして改まった顔で彼に向き合った。
「で、何があったわけ?」
「実は彼女が出来まして……」
「……? ごめん、もう一回言ってくれる?」
いけない。思わず自分の聞き間違いを信じてしまうところだった。俺は改めて彼の言葉を聞きなおす。
「ですから、ね、私に彼女が出来まして……」
「彼女が出来た」と彼は間違いなくそう言っている。聞き直した今回も間違いなくそう述べている。それを認識した瞬間、俺は思わず彼の顔を二度見した。
「は? え? マジ?」
「いつだったか、お前に会うんだけどどうしようって相談した人だよ」
「お、おう、あの人な」
相談されたことをおぼろげながら記憶している。タバコを出そうとしては、俺に「禁煙」と止められて苦笑いというやり取りを繰り返した、あの時のあの相手。実際に存在していたのか。というより、普通の女性だったのか。
「でもやっぱりお前の心配通り、会話の途中でいちいちタバコ出しちゃってさ。吸ってもいいですかって毎度聞いては吸っててさー、馬鹿だよなー」
「で、そのヤニカスがどうなって禁煙なんてすることになったんだ?」
俺にそう聞かれると、少しうつむき、気恥ずかしそうに頬を掻く山根。そして一呼吸置くと、再び喋り始めた。
「告白したとき彼女に言われてさ、タバコはやめてって」
「どうせそんなことだろうと思ってましたよ」
俺は思わず椅子の背もたれに寄りかかり、のけぞる。同時に顔は上を向くので、天井が視界に入った。普段見ない天井は、あまりに年季が入った色をしていたので、思わず「古いな」と口走ってしまった。
「まあでもいい事じゃないか、止めるきっかけが出来て」
俺はのけぞった姿勢のまま、話し続ける。何か倒れそうな感じもしたが、そのままの状態を保ち続けた。
「しかもそれは彼女がきっかけなんて、素敵じゃない」
「へへ、結構しんどいけどな」
「それにしたって山根に彼女か……」
天井を見上げたまま、俺は吐き出すようにそう言った。煙も無いのに、俺の口から何か立ち昇っているような気がした。
「先越されちまったな俺達」
俺の顔を上から覗き込むようにして話しかけてくる高良。俺はそれを振り払うようにして身体を起こす。
「うるせえ、ほっとけ、お前とは違うんだ俺は」
「変わらんって。お前も現在地は一緒なんだよ」
そう言って俺の背中を勢いよく叩くと内藤が座っているテーブルへ戻っていく。俺は叩かれた場所をさすりながら「痛てぇ」と呟きつつ立ち上がり、元のテーブルに戻って、いつものしょうもない「のり弁」を食べ始めるのだった。
「相変わらずむさ苦しいですねぇ」
適当に話しながら弁当を食べていると、部室のドアが開く音がした。開けた主は誰かと、四人揃ってドアの方を見ると、そこにいたのは砂尾さんだった。彼女は持っていた傘をたたんで傘立てに差し込むと、こちらのテーブルへ真っ直ぐやってきて、椅子を引き寄せてきて俺たちのテーブルの近くに座った。そして持っていた紙袋からパンを取り出して食べ始める。
「こんなね、男同士でずっと絡んでるから彼女もできないんですよ、又木さん」
着席して早々に俺は罵倒された。酷い言いようだ。
「うるせえよ、と言うかピンポイントで俺に言うな」
「そういえば私とギター弾いてくれる件どうなりました?」
彼女は食べかけのパンを片手に持ち、紙パックの紅茶にストローを挿して飲んでいる。俺への問いかけは、食事の片手間といった感じだった。
「あれマジで言ってたの?」
「マジもマジ、大マジですよ」
そう言いながらまた一口パンを食べる砂尾さん。以前、何気なく誘われた時、俺はあまりに唐突な提案だったこともあって、あまり真面目に考えていなかった。何かの冗談だろうと思っていた節もある。
「他の先輩たちも言ってましたよ、『普通に弾けるのにもったいない』って」
「あんまり弾いたとこ見せた事無いんだけど」
俺が弾いたのはそれこそ、去年の秋、他大学との対バンの時に先輩のサポートとして弾いたとか、今年の春の新歓の時にさらっと弾いてみせたとか、記憶の中ではその程度しか出てこない。
「それだけしかやってないのに先輩達に認知されてるって凄いですよ」
「でもマジで全然触ってないから、今弾けるかどうか分かんないよ」
「弾けますって! そのための夏合宿じゃないですか!」
目を爛々と輝かせながら、こちらを見つめてくる砂尾さん。まいった。これは断ることが出来ない。俺は一つ息を吐くと、彼女の顔をしっかりと見つめて答えた。
「分かった、とりあえず合宿は付き合ってあげるよ」
「本当ですか!?」
「けど全然出来なかったら諦めてくれ」
「その時はその時ですよ」
そう言うと砂尾さんはパンの残りを一気に食べきり、「ちゅー」という擬音が付きそうな勢いでストローを吸い、紙パックの紅茶を飲んでいた。
「でも、やる気になってくれたのが嬉しいです」
「やる気、うーん……まあ、やる気か」
「よろしくお願いしますね、先輩」
「あぁ、よろしく」
特に握手とかをするわけでも無く、顔を見合って挨拶を交わした俺達。その直後、何の気なしに同じテーブルに座る奴らの顔を見たら、全員何だか生暖かい目でこちらを眺めていた。
「おい、その目を止めろ」
「仲良きことは素晴らしきかな……いいことだと思うぜ」
恥ずかしいことこの上無かったが、俺はとりあえず「うるせえ」とだけ言った。その後、砂尾さんを加えて四人で喋り続け、そしていつの間にか夕方になり、高良が「さくらや」へと流れ込んでいく、そういう一日を過ごす。そう、これはいつもの、変わらない日常だ。
日常、なのだ。
夜、帰宅した俺は、何もせずにベッドの上に仰向けで寝転んでいた。夏真っ盛りのこの時期は、じっとりとした暑さが身体を包み、汗がジワリと身体から染み出してくる。そして外は雨が降っている。もうとっくに梅雨は明けたのに、ここ最近ずっと降り続いていた。無音の室内にはその雨音が響き渡っていて、俺はまるで雨に包まれているみたいだ。
もうあの日から、一ヶ月が経とうとしている。あの日以来、もう動きは無かった。当然と言えば当然の話なのだが。俺はあの日からそのままだ。それはサキさんのアカウントをブロックしていないのもそうだし、彼女に対する気持ちもそうだった。あの日、長岡に「これで終わりだ」と言われて、本当に全て終わったのだと思った。けれど実際はずっと心の中は燻ぶったままで、延々と堂々巡りをしている。俺はケリなんてつけられなかった。
サキさんに連絡を取ろうと思った事がこの一ヶ月の間に何度かあった。しかし、「もうしばらく経てば海外へ行ってしまう彼女に何を言えばいいのか」とか、「そもそももう関わらないと決めたのにメッセージなんて送っていいのか」とか、そういった事を考えているうちに、いつの間にかメッセージは送れなくなった。それは正解だと思う。けれど心の底では、本当にそれでいいのか? という俺のバカげた考えがヒョコヒョコと顔を出し続けているのだ。
「俺は馬鹿だ」
今の気持ちを口に出してみる。声が静かな部屋に響き渡るようだった、
「大馬鹿野郎だ」
先ほどより少し大きな声で言うと、雨音が更に強くなった。どうやら外はドシャ降りになっているようだ。
夏の雨。
気分屋で、急激で、それでいてその跡を残していく。そしてじっとりとべたついていて、人を不快な気持ちにさせる。けれども雨上がりの虹が架かった空は、綺麗で、人の心を魅了する。そしてその一瞬は、忘れられないものになっていく。
俺はそんな事を考えながら、微睡みの中へと落ちていき、夢を見た。夢の中では、誰かと一緒にずっと空を飛んで、地上を見下ろしていた。それは心地よく、そして綺麗な景色を一緒に見て感じていたことは覚えている。けれども隣で一緒に飛んでいたのが誰なのかは、分からないのであった。
そして昼になり、学校へとやってきていた俺。授業が終わり、教室の一角でスマートフォンをいじっていた俺は、メッセージアプリを開く。そしてサキさんのプロフィールを開き、「ブロック」のボタンを押そうとしていた。俺も新しい朝日を拝む日が来たのだ。これを押せば、もう彼女と繋がるものは何もなくなる。そう、終わらせよう。これで全てにケリをつけるんだ。
さようなら、全ての思い出たち。万感の思いを込めて、「ブロック」をタップ―
「何してんの?」
「あ? ああ、高良か……」
込めた思いはスマートフォンに届かず、宙を舞った。本当にこいつはタイミングが悪い。とりあえず俺はスマートフォンを片手に持ったままバックパックを背負った。
「授業終わったのにずっと座ってるからなんかあったかと思ったぜ」
「いやいや、別に……何てこと無いんだ」
「そうか? それならいいけど」
「結構思いつめた顔してたからよ」
そう言うと出口に向かって高良は歩き始めた。その瞬間、俺の手の中でスマートフォンのバイブが鳴る。俺はスマートフォンの画面を眺めた。メッセージ着信。
差出人は、もう見ないと思っていたあの人。それを見た瞬間、メッセージを開くより先に、一つ息を吐いた。俺はどうしたらいいのか、さっぱり分からなかった。全く、これっぽちもだ。
久しぶり。
元気してた? 私は元気。ずーっとね。まず最初に改めて謝らなくちゃいけないね。君を騙してしまった事、そして振り回してしまった事。そして何より、傷つけてしまった事。全て私の幼稚な考えと行動が起こしたものです。本当にごめんなさい。
あのホテルの一件から私ずっと考えてた。「私はとんでもない事をしてしまったんじゃないか」って。そしてその後彼氏とも話し合って、自分のした事の愚かさ、そして酷さに気が付いたの。許してほしいなんて、とてもじゃないけど言えない。本来なら何かされてもおかしくないような事を私はしていた訳で、そんな人間を許すなんていうのは到底無理だと思う。
だから許さなくていい。謝罪だけでも受け取ってほしいの。
あなたといた時間は、本当に楽しかった。これまで過ごしてきたどんな相手より、凄く心地良かった。これは全て本当の事。嘘偽りのない真実です。だからこそ私は謝りたかった。こんな事自己満だと思うでしょう? けれどね、私もどうしたらいいか分からないのが本音なんだ。だからこんなに間も空いてしまった。本当に自分のしょうもなさに呆れるばかりです。
本来なら直接会って謝りたかったとこだけど、もう私には時間がありません。明日の一〇時二四分発の便で、空港からフランスに向けて旅立ちます。いつ帰ってくるかは分からないし、そもそも君に許してもらえるとも思ってないけど、もう会う事も無いと思う。
だけど、もし、万が一にでも、私を許してくれると言うのなら。君が私に、少しでも心を残してくれているなら。空港で私は、君を待ちます。最後に君と話をして、お別れしたい。
この事は彼氏にも伝えています。結構無理を言いましたが、何とか納得してくれました。待てるのは九時三〇分までです。出発ロビーで、私は待ってます。
いつものところじゃなくて、ゴメンね。じゃあ、またね。
部室の片隅で、俺はこのメッセージを何回も読み返しては頭を抱えていた。飯を食い、高良は三限の講義へと行ってしまった。俺は完全にうわの空だったので、高良との会話もよく覚えていない。どうしたらいいか、それだけをずっと考えていた。何と返すのが正解なのか。そもそも無視するのが最適なのか。それすら分からないまま、小一時間を過ごしていたと思う。
窓からは真夏の日差しが差し込むと同時に、生ぬるい風が吹き込んでくる。その両方を身に受けながら、俺は何となく「夏だな」と、そう思った。
「先輩大丈夫ですか?」
ほとんど人がいなかったはずの部室に、砂尾さんがいた事に気が付いたのは声をかけられてからだった。俺はその言葉に苦笑いで返す。
「あまり大丈夫じゃないな」
「何かあったんですか?」
「まあ、ちょっとね」
「あの女の事ですか」
突然図星を突かれた俺は、目を丸くして砂尾さんの顔を見てしまった。それを見た砂尾さんはウンザリといった様子で隣のパイプ椅子に座った。
「今度は何があったんですか」
何だかやさぐれた雰囲気を醸し出しながら砂尾さんは俺を指さした。今にでもタバコを吸い始めそうな感じだった。もちろん彼女はタバコは吸わないのだが。
「これ、ちょっと読んでみてくれる?」
「何ですか?」
「今の俺が悩んでる原因」
そう言って俺はサキさんから来たメッセージの画面を開いてから、スマートフォンを渡す。砂尾さんは受け取るとその文章をスラスラと眺めていた。そして読み終えたのだろうか、ふうと一息ついたと思ったその瞬間。彼女は手に持っていた俺のスマートフォンを投げ捨てた。ぽーんという効果音が付きそうな程に綺麗な放物線を描いて飛んだスマートフォンは、ガシャリと嫌な音をたててコンクリートの床へと落ちた。あまりに唐突な出来事に、俺はあ然としながら砂尾さんの事を眺める。
「あのね、先輩、もう終わった事なんですよ」
「先輩とその人の彼氏が話し合った時点で、もう終わった話なんです」
彼女は立ち上がると、投げ捨てたスマートフォンの方へ向かって歩いていく。
「それなのにこの女は未練たらしく誘ってるんですよ」
スマートフォンを拾い上げると、軽く手で払いながら俺の方へと戻ってくる。そして正面に立つと俺へそれを差し出した。受け取り、本体を眺める。雑に扱っている事もあって、細かい傷が無数についていた。
「その女が何を望んでいるのか知りませんけど、もう先輩はいいんです。先輩は十分傷つきました、これ以上ないくらいに傷ついたんです。だからもう傷つく必要は無いんですよ」
そのまましゃがみこみ、真面目な顔で俺の事を見上げる砂尾さん。白のサマーニットに花柄のプリーツスカートを着た彼女は、ジッと何かを見つめていた。それは俺の顔かもしれないし、そうじゃない別の何かだったのかもしれない。俺はひとまずスマートフォンをポケットにしまう。そして彼女の顔を見つめながら話し始める。
「砂尾さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「でもね、俺は行こうと思う」
「……何でですか?」
「俺はね、終わらせられていないんだ、何も」
そう言って俺は彼女の顔を見た。彼女は相変わらずの真面目な顔だった。
「終わらせていないって?」
「サキさんとの関係だよ」
そう俺が言った瞬間、砂尾さんは勢いよく立ち上がったかと思うと、俺に向かって「バカ!」と一喝した。そして俺の左頬は彼女の平手打ちによってパーンといい音を鳴らした。思ったより痛くはない。けれど俺は思わず叩かれた場所を抑えてしまった。
「先輩はバカです! 大バカです! 何でもう結末が見えている話を見に行こうとしてるんですか! 傷つくに決まってる、そんな事分かり切ってるのに!」
肩を震わせ、怒りをあらわにしている砂尾さん。俺はそんな彼女の顔を見つめながら、自分でも驚くくらい冷静に喋り始めた。左の頬を抑えながら。
「傷つくためだよ。傷ついて、区切りを付けて、そして本当にさよならするんだ」
「……理解できません」
「出来なくていいよ、俺の中でのケジメの付け方だから」
俺がそう言うと、彼女は俺と顔の高さを合わせて見つめてきた。そして俺の左頬を抑えていた手をゆっくり剥がすと、代わりに彼女は自分の右手を添えた。
「本当に先輩はバカです」
「どーも」
「でも先輩のやりたいことは理解しました」
「それなら何より」
「なので私もついていきます」
「……は?」
そう言って彼女は添えていた右手で俺の左頬を軽く撫でた。そしてぐいっと顔を近づける。
「ちょっと待て、おかしいだろ」
「私の告白、まだ保留なんですよね?」
「そうだけど……」
「だから私が先輩の彼女として立ち会います」
「理由は?」
「相手も彼氏と一緒に来ると思うんです、きっと。だからこっちにも女がいる事を示せば、向こうも改めて変な気を起こさないと思うんです」
「まるで用心棒だな」
その言葉を聞くとニコリと笑って近づけていた手と顔を離す砂尾さん。そしてくるりと一回りしてみせる。スカートの裾がひらりと揺れた。
「先輩にまとわりつく虫を振り払ってあげますよ」
「もう俺がいいって言う前に来る気満々じゃねーか」
「えへへ」
「分かったよ、来たらいい。けどお願いだから話はしっかりさせてくれ、頼む」
俺がそう言うと、彼女は一瞬不満げな顔を浮かべたが、すぐに表情を戻して笑顔を見せた。
「分かりました、その時は黙って見てます」
「ありがとう、そうしてくれ」
そして俺は立ち上がり、一つ大きな伸びをした。思わず漏れた声を聞いて、砂尾さんはクスリと笑った。
「ピピー! ピピー! 男女交際警察です! 今すぐ離れなさい!」
そうこうしているうちに三限の授業を終えた高良が帰ってきた。俺たちのそばに寄ってきて、一通り騒ぐと「で、何をしてたの?」と素に戻って俺に聞くのだ。
「何でもないよ、ただちょっと込み入った話をしてただけ」
「ただの込み入った話であんな距離感が近くなるか! もっと詳しく聞く必要があるな」
「あー、マジで何でも……あるけども、今は話すことじゃないんだ」
「やっぱ何かあるんじゃねえか! ちょっと詳しく……」
「そう言えば高良、車持ってたよな?」
唐突に遮られたことで少しうろたえる高良。しかしすぐに気を取り直したのか、俺の方をしっかりと見る。
「何だよ、俺はまだ仮免だから走れねえぞ」
「貸してくれよ、金は出すからさ」
「どっか行くのか?」
「まあ、そうだな、車が必要な距離だからな」
「ははあ、分かったぞ」
高良はニヤニヤしながら俺たちの間をうろうろと歩く。そして自信満々な顔をしながら俺を指差した。
「砂尾ちゃんとドライブデート! そうだな!」
「まあ、似たようなもんかな」
「……お前さ、少しは否定しろよ」
「なんでよ」
「返してもらってから『ああ、あいつらはここでイチャついてたんだな……』って思うこっちの身にもなってみろって」
力無く差した指を下ろし、うなだれる高良。その姿があまりに可哀想だったものだから、一応弁解をする。
「大丈夫だ、安心しろって」
「何を安心しろってんだよ? あれか? 車の中では何もしねえから安心しろってか?」
「バカ、そういう事ならもっとバレないようにやるわ、お前から車なんて借りねーよ」
「確かに……」
「だろ?」
「逆に考えてみて欲しい、親友のお前に頼むくらい切羽詰まった事情なんだ。ヤバい事だと思わないか?」
俺がそう言うとハッとした表情を浮かべ、俺の方をまじまじと見つめる高良。相変わらずこいつは表情豊かだ。
「お前……そんなに何か追い詰められたことが……」
「そう、だからお前の力が必要なんだよ」
「いや、待て、そんな追い詰められた状態で、なんで砂尾ちゃんが必要なんだよ」
冷静に、極めて冷静に突っ込まれてしまった。俺は思わず心の中で舌を出す。言い訳するのも面倒くさい事この上ない。もうあれだ、こうなれば適当な事を言って流す他無いだろう。
「そりゃあお前……あれだよ」
「切羽詰まった男女がやる事なんて一つだろ」
「なんだよ」
「……心中?」
「心中!?」
この後、相当な勘違いを繰り広げ始めた高良を、上手い事落ち着かせるのに結構な時間をかけた。そして結局流れと事情を説明して、何とか納得してくれた。「また俺に黙ってそういう事を……」と、高良は不満げだったが、こればかりは申し訳ないとしか言えない。けれども、これは俺が解決しなければいけない問題で、あまり人を巻き込むわけにはいかない話でもある。今回砂尾さんが混ざってきたのがおかしな話であって、本来ならば一人で全てケリをつけるべきなのだ。勘違いしては、いけない。
「はい、キーな」
「サンキュ」
翌日朝八時。俺は高良家へとやってきていた。思ったよりも大きな一軒家で、金持ちの風格といったものを感じる佇まい。ガレージ内にあった、黒いレクサスをちらりと横目で眺める。その隣にあるのはN-BOX。今回借りる車だ。
「それじゃあ、借りてくわ」
初心者マークを車の前後に貼り付けた後、運転席に乗り込んだ俺。エンジンをかけて何の気なしにメーターを確認すると、意外に距離を走っていない事に気が付く。
「なあ、これって中古だよな?」
俺は窓を開けて高良に聞いた。
「そうだよ、新古車? とか言うやつらしいけど」
「なるほどね、了解した」
俺は、思わず背筋をピッと伸ばした。これは雑に扱えないぞと、改めて思う。いや、人からの借り物なのだから当たり前といえばそうなのだが。
「……なあ、やっぱり俺も行っちゃダメか?」
「人の恋の終わりを見たい気持ちは分かるが、今回はちょっと我慢してくれ」
「ば、馬鹿! そんなんじゃねーよ! ただ純粋にお前が心配で……」
「ありがと、けど今回は本当に大丈夫だ」
そう言って俺はサイドブレーキを外し、車を発車させる。最初はゆっくりと、そして徐々に加速して、走り始めた。
住宅街の細かい道路を抜け、大通りに出てからはスマートフォンのナビ頼み。まあ、何事も無ければ四〇分程度で着くはずだ。最初はおっかなびっくり走っていたが、砂尾さんの所に着く頃にはすっかり運転にも慣れていた。到着した砂尾さんの家の前で停車し、彼女を乗せる。
「お隣いいですか」
「どうぞ」
改まって聞く砂尾さんに笑みを浮かべながら答える俺。思ったよりも心に余裕はありそうだと、自分自身を観察していた。
「いよいよですね」
助手席に座った彼女は、前を見つめながらボソリと呟いた。
「何が?」
「先輩の恋の終わり」
「あのなあ……」
「本当に終わらせるんですよ?」
「分かってる」
ウインカーを出し、曲がるタイミングを待ちながら答える。
「分かってるよ」
「本当かなぁ? 何か私には若干の未練がまだ見えるんですよね」
「それは昨日も聞いた」
「私は心配なんですよ」
信号が変わったのか対向車線が止まったので、右折する。ここからはしばらく直進するので、道なりに進んでいくだけだ。
「万が一、万が一にでも仮に未練を残すような事があったら、先輩はずっと引きずる事になる。そういうのが怖いんですよ」
「大丈夫、もう言う事は決まってるから」
俺はアクセルを先ほどよりも少し踏み込み、加速する。前方に車は無く、開けた視界に見える景色は先ほどよりも速く過ぎ去っていく。
「終わらせるよ、間違いなく」
「じゃあその言葉を信じます」
「お、素直じゃん?」
「たまには信じてあげないと先輩が可哀想かなって」
「ははっ、ありがとう」
そう言って俺はポケットから取り出したスマートフォンをポイと彼女に手渡した。
「この車、Bluetooth繋げて音楽聴けるらしいんだ」
「設定してあるから適当に流していいよ」
受け取った直後、少し困っていた砂尾さんだったが、それを聞くとニッコリと笑った。
「じゃあ、これで」
手慣れた様子で音楽を流した彼女は、曲を満足気に聴き始める。スピーカーからは曽我部恵一の歌声が流れ始めていた。
それからは他愛もない話を続けて、道のりは進んだ。気が付けば俺は空港に辿り着いていたし、彼女は何故かやる気に満ち満ちた表情をしている。空港の駐車場へ慎重に停めると、俺達は車から降りる。ポツポツと雨が降り始めていた。その瞬間、空気を裂くようなエンジン音が響き、空へと旅立っていく白い飛行機の機体が遠くに見えた。
「先輩、濡れる前に行きましょ」
「ちょっと待ってくれ」
「そろそろ九時ですよ! 急がなきゃ!」
ズンズンと入口の方に向かって突き進んでいく砂尾さん。その彼女に手を引かれて歩く俺。何だか引きずられるような形になり、小恥ずかしい気分になった。
「さて、どこだ……?」
中に入ると到着口の広いフロアがあり、俺はその規模感に少し驚いていた。首都ではない、地方都市の空港でもここまで広いのかと感心した。あまり空港というものに縁が無かった俺にとっては大分新鮮な光景で、来ている目的も忘れてこの光景を眺めてしまう。
「先輩、二階が出発ロビーみたいですよ!」
「えっ、ああ、了解」
「行きましょう、多分いるのは国内線の保安検査場近くだと思います」
「国内線? 行先はフランスだって……」
「拝成空港にフランス直行便はありません」
「え、そうなの?」
「恐らく拝成から成田、そこからフランスです」
「よく調べたね」
「先輩、常識ですよ」
つかつかと歩き、二階へと昇るエスカレーターへと向かう砂尾さん。俺は相変わらず彼女に引っ張られ続けている。
「地方都市からヨーロッパへの直行便が出てたら驚きです」
「俺はてっきりどこからでも行けるもんかと思ってたよ」
「そんなに世の中、どこにでも設備がある訳じゃないんですよ」
エスカレーターにたどり着き、ステップに乗ると砂尾さんはようやく俺の手を離した。そして、俺の方へ顔を向けて口早に喋り始めた。
「いいですか、絶対に雰囲気に呑まれちゃだめですよ。言う事は『さようなら、お元気で』、それだけです」
「うん、分かってる」
「先輩、さっきから分かってるとしか言わないじゃないですか!」
「言う事のネタバレはしたくないんだよ」
「なんですか、もう。言う事のネタバレって訳分かんないですよ」
そうして二階へとたどり着く。砂尾さんの方へ向けていた顔を正面に戻すと、広いフロアの風景が目に飛び込んでくる。朝なのに人は多く、色々な人がチェックインカウンターでの受付だったり、保安検査場へ向かっていた。もちろん見送りであろう人も沢山いて、ポツポツと談笑しているグループの姿があった。そういったフロアを行き交う人々の中で、ガラス張りの壁を背にしてポツンと佇む女性が一人浮いて見えた。
そう、その姿はまるで、あの日のように。いつものところで待っていたあの時のように。刹那の恋人はそこにいた。
「先輩? どうしたんですか?」
「いたよ、彼女」
「え? どこ……?」
俺は真っ直ぐに彼女の方へと向かっていく。彼女も気が付いたようで、こちらを向いてニコリと笑ったのが見えた。その笑顔は相変わらずの彼女の笑みだった。
「おはよ、久しぶり。元気してた?」
「そちらこそ」
「私も元気よ、ずーっとね」
そして俺と彼女は再び出会った。空へと飛び立つ玄関口で。
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