第8話

「女性なんてねえ、所詮そんなもんなんですよ」

 四杯目のジョッキグラスを空にしようとしている俺は、もうダメだった。これまでにない程度には酔いが回っていて、呂律も怪しい。

「うんうん、そうですね、又木さんは大変でしたよ」

 砂尾さんがニコニコしながら俺に相槌を打っている。

 俺にとって救いだったのは、意識はそれほど混濁しておらずハッキリしている事だった。なので色んな受け答えに変な回答をすることはほぼなかったし、前みたいに意識を失って迷惑をかけるという事も無さそうだ。

「だから私はもっと怒っておけって言ったのに」

 前の飲み会で俺に頬を合わせてきた砂尾さんは、何故か今日も参加していた。と言っても高良が部室に行ったときにいたからという、それだけの理由なのだが。今日は一切酒を飲ませないように徹底していて(そもそも未成年なのだから当たり前である)、ソフトドリンクが彼女のお供になっている。

「あのなあ、怒ったところで変わるか? 俺は所詮遊ばれただけの子羊よ。結局なぶられるだけの存在だったわけ」

「そんな悲しい事を……」

「ま、もうどうでもいいんだけどさ」

「……私にはまだ未練たらたらに見えるな」

 頬杖をついて、コップの中に入った氷をストローでくるくる回しながら、砂尾さんはこちらを見つめてきた。

「未練なんてねえよ」

 俺は残ったビールを一気に飲み干すと、ジョッキを軽くテーブルに叩きつけた。

「そうですか? 振り切ったって割には、その女の人のこと喋るとき凄く楽しそうですよ」

「何か? 俺はあの人の事を喋るときは常に苦々しく重い口調で喋らなきゃダメなのか?」

「そういうわけじゃないですけど……」

「いいか、これは供養なんだ。数々の楽しかった思い出を一つ一つ口に出して葬っていく作業なんだよ。俺が喪主で、お前らは参列者だ。生前の楽しい思い出を聞いて、『ああ、そんな事もあったんですねえ』って相槌を打ってはそれを埋めていく。そういう儀式なんだよ、これは」

 俺は近くを通りかかった店員を呼び止め、また生ビールを注文する。止める人間は居なかった。砂尾さんも、特に何も言わず見ていた。

「それが終わるとどうなるんですか?」

「俺は呪縛から解き放たれる。綺麗さっぱりあいつを断ち切れる」

「そういう事をしちゃってる時点で未練の塊じゃないですか? 本当に断ち切りたいなら、そんなお葬式みたいな真似なんてしないですよ。何も言わずに思い出を焼却炉にポイするのが一番じゃないですか」

「うっせーよ! 分かってんだよそんな事は!」

 俺は怒鳴るつもりは全くなかった。けれども思ったより声が出ていたようで、周りの人間が一斉にこっちを振り向いた。酒のせいで声量もリミットが外れたのかもしれない。

「俺だってな、忘れてえよ、綺麗さっぱり」

 言葉が止まらない。

「引きこもってる間も、忘れようと努力してみたよ、ずっとな」

 抑えきれない感情が叫びに変わる。

「けど、どうしても忘れられないんだよ、あの短くても楽しかった日々が」

 俺の情けない心の叫びを聞いた砂尾さんは、頬杖を突くのを止め、身体を起こす。そして自分の手元にあったオレンジジュースを一口飲むと、俺の方へと向き直った。

「それなら上書きしちゃえばいいんですよ、そんな思い出」

 またオレンジジュースに口をつける砂尾さん。俺は運ばれてきた生ビールをジッと見つめていた。琥珀色の液体と白い泡が溢れんばかりに注がれているジョッキの中身を、今すぐにでも飲み干してしまいたかった。そしてさっさと酩酊状態になって、俺は戯言を垂れ流したかった。

「上書きなんて出来ねえよ。そう簡単に『はい出来ました』、なんてなるならこんなに思いつめていないんだ」

「……男の恋と女の恋の違いの話って聞いたことあります。男の恋は『名前を付けて保存』、女の恋は『上書き保存』だって。今の又木さんは今回保存した恋で容量一杯になっちゃっているんですね」

「ああ、そうだよ、情けない事に本当に頭の中が埋まっているんだ」

「じゃあ、それをゆっくり消していきましょうよ」

「……だからどうやって消すんだよ」

 俺はビールをグイッと一口飲む。先ほどから口に残る苦みが更に増した。砂尾さんも同じようにしてオレンジジュースを飲み干すと、コップを静かに置いた。

「先輩、私と付き合いませんか」

 そして、彼女は視線を宙に向けながら、ボソリと呟いた。

「は?」

「私と一緒に色んな思い出を一つ一つ上書きしていきましょう、そしていつか断ち切れるように……」

「ちょ、ちょっと待った、あまりに唐突過ぎる。それに俺のためにそこまでする理由無いでしょ」

 またビールを一口飲んだ。それは喉の渇きを潤すためというより、落ち着きを取り戻すための一口だった。

「そもそも私は先輩の事が好きです。サークルに入った時から、ずっと見てきました」

 そう言うと彼女の頬が少し赤くなる。視線はずっと宙に向けたままだ。

「だからこの前の話の時は正直嫉妬しました、だからあんな事をしたんです。酔いがあった事も否定はしないけど……」

「とは言ってもいきなりすぎる」

「嫌ならそれでいいんです、けど、先輩を助けてあげたいって今の話を聞いて思いました。そのために力になれれば、私はいいかなって思うんです。どうですか、先輩、私とじゃ嫌ですか……」

 俺は頭を抱えた。どうしてこんな時にこういう事になるんだ。そして視線をテーブルの上に落として、一生懸命酔った割には冴えている頭で考えた。騒々しい飲み屋の中で、ここだけが沈黙のオーラに包まれてるみたいに静かだった。

「あのさ砂尾さん、すごく嬉しいよ、俺」

「そこまで考えてくれるっていう人中々いないと思うし、何より俺の事を好いてくれてるのは嬉しい」

「はい……」

 俺はまたビールを飲もうとして、ジョッキの取っ手を持ったが、すぐに置いた。そして先に言葉を続けた。

「けど、この状況で付き合うって凄い失礼だと思うんだ。俺はフラれてしんどい思いをしている、そしてその状況がしんどいから君と付き合う。君が言うとこの、記憶を上書きするためだけに付き合うわけだ。けどそれって自分の穴埋めのために君を使うだけになってしまうんだよ」

「それでも私は構いません」

「君が許しても俺が許せないんだよ」

 視線をジョッキから砂尾さんの目へと移す。彼女もしっかりとこちらを見据えながら話を聞いてくれた。

「こういう事って自分でケリをつけなきゃいけない訳で、それが出来ずに新しい恋を始めるのは違うと思う。だから、自分自身である程度ケリをつけられる状態になったら、その時に付き合おうよ」

 その言葉を聞いた砂尾さんはキュッと口を真一文字に結び、しばらく俺の目を見つめてきた。俺はそんな彼女を見つめ返していた。いつもより潤んだ瞳が俺を突き刺す。しばらくそうしていると、彼女の表情がフッと緩み、そしてクスクスと彼女は笑い始めた。

「私、フラれちゃいましたね」

「……ゴメン」

「結構自信あったんですよ、今までフラれた事ってそうそう無かったから」

「そうだろうな」

「でも、まだ諦めなくていいんですよね? まだ私、戦えますよね?」

「まあね、けど、その時は俺の方から言わせてほしい」

「言ってくれるんですか?」

「一度言わせたのに、また言わせるのは少し酷いかなって」

 俺の言葉を聞くと、彼女は声を出して笑った。その笑い声は飲み屋の喧騒の中に溶けていく。

「又木さんって、少しカッコつけですよね」

「そんな事無いと思うけど」

「こっちが勝手に恋してるんだから、勝手に言わせとけくらいに思わないんですか?」

「思えないな。つーか自分に好意を向けられてるのにそれは失礼っしょ」

「偉いな又木さんは。だから遊ばれちゃうんだろうな」

「止めてくれ、その言葉は俺に効く……」

 そしてお互いに顔を見合わせ、笑う。久々に愉快で、楽しい笑いだった。

「おいおいおい、何仲良くやってんの!」

「内藤が今ぐでんぐでんだから何でも聞けるチャンスだぞ!」

 そうしていると高良と山根が俺達の間に割り込んできた。俺は二人に引きずられ、砂尾さんはその後をついてくる。そして皆で内藤の惚気話を延々と聞き出すのだった。


「いやー楽しい飲み会だった!」

 飲み会を終え、「さくらや」の前で俺達はたむろしていた。上機嫌で、今日は何のための飲み会だったのか忘れていそうな高良が後輩たちに絡んでいる。

「しんどい」

 飲まされすぎた内藤は本当にずっと「しんどい」と連呼していた。トイレとお友達になりそうな雰囲気もあるが、とりあえずは大丈夫だろう。多分。

「電車組は時間平気か?」

 山根もケロッとしていた。こいつもこいつで他人を煽って飲ませるだけ飲ませるという事をやっていたから、結構元気だ。

「そろそろ帰るかぁ」

 俺はそう言ってグッと大きな伸びをした。そばで話していた砂尾さんと目が合って、互いににっこりと笑った。それを見ていた砂尾さんの友人たちが、面白がってやいのやいのと突っ込んでいた。

「高良ぁ、俺帰るわ」

「オッケーオッケー! 気を付けて帰れよ! 少年よ! 大志を抱け! ボーイズビーアンビシャス!」

 最早何を言っているか分からない高良の声を聴き、さて帰ろうと足を帰路に向けようとした瞬間。突然目の前に大柄な男が現れた。正確に言えば、目の前のミニクーパーから突然出てきた。そして、俺はその男の顔に見覚えがあった。とてもじゃないが、忘れる事の出来ない顔だった。

「あー、ごめん、君たち拝成大学の子?」

 男は俺の脇をすり抜け、高良の方へと向かっていった。俺の事は少し集団から離れていたので通行人と判断したのかもしれない。

「はいっ! そうでーす!」

「おっ、マジか、じゃあさ、又木って子知らない?」

「知ってるも何も、居ますよそこに!」

 そう言って俺の方へ向かって無邪気に手を振る高良。男は俺の方をジッと真顔で見つめていた。俺は踵を返し、男の方へと向かって歩いていく。

「君が、又木君?」

「ええ、そうですよ……サキさんは元気ですか」

「……その件に関しては悪かった、あいつは元気だよ」

「そいつは良かった」

 何やら雰囲気がおかしい、その事に気が付き始めた周囲の人々はざわつき始めてきた。そして一番最初に反応したのは、高良だった。

「なんすかお兄さん、又木に何の用があるんすか」

「ちょっと話がしたくてね、ずっと探してたんだ」

「へえ、何の?」

「俺の彼女がちょっとお世話になってね」

「……女を取られかけた復讐っすか? みっともないっすね」

「やめろ高良」

「ちょっと話したいことがあるんだ。どうだい、俺と少しドライブしないか」

「いいっすよ、俺もあんたと話をしたかった」

 そう言った瞬間、俺は肩を掴まれた。掴んだのは高良だった。

「おい馬鹿、お前に他意が無かったとはいえ浮気相手の男だぞ。何されるか分かったもんじゃ……」

「俺は話さなきゃいけない。ケリをつけなきゃいけないんだ」

「ダメだ、俺は一友人としてそれを止めるぞ」

「大丈夫、安心してくれていい」

 肩を掴んだ高良の手の上に手を置くと、男は俺たち二人を見据えながら言った。

「こうしよう、翌朝までに又木君から連絡が来なかったら警察に連絡してもいい。俺の連絡先も、本名も教える。なんなら名刺を渡そうか」

 そう言うと男はポケットから名刺入れを出すと高良へと一枚渡す。そこにはスターモデルエージェンシーという会社名と共に、『長岡 譲司』と名前が書かれていた。

「だから安心してほしい、彼に危害は加えない」

「けど……けど……」

「高良、大丈夫、行ってくるよ」

「む、無理だけはすんなよ! 絶対だぞ!」

 俺はその声に手をひらひらと振って返すと、長岡という男に導かれるまま、彼の車に乗った。静かな学生街に、ミニクーパーのエンジン音が響く。そして助手席に座った俺は、チラリと運転席に座っている長岡の顔を見た。長岡は特に俺の事を気にすることなくアクセルを踏み込み、夜の帳の中へと入り込んでいったのだった。


 しばらくの間、長岡は喋ることも無く、黙って運転していた。俺もフロントガラスから流れる景色をジッと見つめながら座っていた。車内ではFMラジオの音とエンジン音だけが響く、何とも静かな夜のドライブだ。

「あの」

 まずこの沈黙を破ったのは、俺だった。流れるラジオでは芸人がコーナーのタイトルコールをしていた。

「これ、どこに向かってるんですか」

 助手席からずっと眺めていたが、どこへ行こうというハッキリした感じは見え無かった。思いついたかのように車線変更や右折左折を繰り返し、行き当たりばったりという言葉が良く似合う感じの運転を繰り返している。深夜の今だから許されているものの、交通量が多い昼間にやったらクラクションの一つや二つ鳴らされてもおかしくない走りだった。

「いや……特に決めてないんだ」

 片手で頬をポリポリとかきながら長岡は言った。

「まさか一発で見つかるとは思ってなかったからさ」

 他の車のヘッドライトで照らされる長岡の横顔を改めて見ると、彫りが深く、日本人離れした顔をしている事が薄暗い中でも分かる。特徴的な眉も、この顔では一つのアクセントにしかなっていない。

「最近探し始めたんですか」

「そう、あいつから君の事を聞いてね」

『あいつ』と言うのはサキさんの事だろう。長岡は話を続ける。

「色々話してただろ? あいつにさ」

「まあ、それなりには」

「そんでさ、一度会って話しておきたいなと思って」

 そう言いながら長岡は左方向にウィンカーを出した。

「でも、精々二〇歳の拝成大生くらいしか情報なんて無かっただろうに、よく探す気になりましたね」

「俺、OBだからさ、拝成大の。大体学生がどこに集まるかとか分かるし、何なら最悪後輩に聞いても良かった。そして今日、試しに『さくらや』に行ってみたら見事に当たったわけ」

「なるほど」

「ちょっとビックリしたけどね」

 信号が青に変わり、アクセルを踏み込まれた車は心地よく加速する。道路沿いの風景が徐々に工場地帯へと変わっていく。

「それで」

 俺は正面を見据えたまま、話し始める。工場や街灯の光が差し込み、俺達を照らす。

「俺と何を話したいんですか」

「まあ待ちなよ、コンビニ寄るからさ」

 ゆるやかに右折し、駐車場に入るとバックで車を止める。そして長岡は素早くシートベルトを外すと軽快に車から降りた。

「何か飲み物いる?」

 扉を開けたまま、ドアフレームの部分に両手をつきながら車内にいる俺に話しかける。

「……じゃあ、コーヒーを」

「了解、アイスでいいよね?」

 俺がはいと言ったのを聞いたか聞いていないかのタイミングで、ドアを閉めて彼は行ってしまった。取り残された俺は、やる事も無いのでスマートフォンを眺める。時計を見ると飲み終えた時間からいつの間にか結構な時間が過ぎていた。マップを開くと、どうやらもう少し行けば港が見える場所まで来ていて、あれだけ適当に走っていた割には、何だかんだで目的地と言える場所にしっかりと向かっているようだ。

 メッセージを眺めると、高良と砂尾さんからのメッセージが来ていた。二人ともやけに心配している文章だったので、俺はとりあえず今のところ無事だと返信した。話が終わったら、また連絡すると付け加えて。するとすぐさま高良から返信が来た。

『俺、今晩は寝ないでいつでも警察に連絡できるようにしておくからな』

 酒を飲んで眠いだろうに、こう言ってくれるのはありがたい。けれど今のところ長岡からは俺をどうにかしようという意思は感じられない。だからと言って油断しているわけでは無いが、そこまで気を張らなくても良さそうだという事を伝えると、またすぐに着信音が鳴った。

『バカ、そうやって油断させてるだけだ! そのうち獲って食われるぞ』

 俺は苦笑いを浮かべながら高良を落ち着かせようと返信を考えていると、その最中にメッセージを着信した。送り主は砂尾さんからだった。

『ケリ、つけてきてくださいね』

 とても短い文章だった。けれど、これほど響く言葉も無いと思った。

「おまたせ」

 彼と話すことで、俺はそれを見つけることが出来るのだろうか。帰ってきた長岡から受け取ったコーヒーに口をつけながら、思いを巡らせていた。


 コンビニの駐車場で、俺と長岡はどちらから話すことも無く、ただ時間を過ごしていた。気を利かせてLサイズで買ってきてくれたアイスコーヒーを、もう飲み終えようとしている。先ほどからラジオは長岡によって切られてしまっていて、今はエアコンの音だけが車の中に響いていた。

「君には謝らなきゃいけない」

 溶けた氷で薄くなったコーヒーの残りをすすっていた、その時。長岡は持っていたミネラルウォーターをドリンクホルダーへ差し込み、話し始めた。

「あなたが謝る事じゃないでしょ」

「美咲が……いや、君にとってはサキか。あいつがこんな事をしたのは全部俺のせいだからさ」

 深いため息をつき、顔を伏せた長岡。俺も持っていたコーヒーをホルダーへ入れると、長岡の方へ顔を向けた。

「美咲でいいですよ、サキさんの名前知ってますから」

「……俺と美咲は大学時代から付き合ってるんだ」

 俺と付き合っている。分かってはいるが、改めて本人の口から言われると何ともやるせない気分になる。

「結構順調に付き合っててさ、そろそろ結婚しようかなんて話にも……すまん、こんな事どうでもいいよな」

「どうしてそんなに仲が良かったのに、彼女はあんな事を始めたんですか」

「単純な話さ、俺と喧嘩したんだ」

 また一つため息をつく長岡。顔には薄っすらと笑みを浮かべている。恐らく苦笑いだろう。

「俺は元々副業でモデルの仕事をやっててさ、本業の傍ら小遣い稼ぎをしていたんだ。そしたらモデルの仕事の方が思ったより軌道に乗り始めてきて、事務所と契約しないかって言う話になってね。モデルの仕事にやりがいを感じていた俺は、二つ返事でOKした」

「けどサキさんには相談しなかった」

「その通り」

 長岡はホルダーに差し込んでいたペットボトルを手に取ると、グイッと一口飲んだ。

「結構な決断だったんだ、本業の仕事の方もそれなりに収入があったから。だからこそ、そういう事を相談しなかったことを強く責められた」

「でも、それだけじゃないんでしょ?」

「よく分かってるね」

 相変わらずの引きつった苦笑いを浮かべながら、彼はこちらへ顔を向けた。引きつっていても、彼の整った顔は崩れる事を知らないようだった。

「俺はモデル業に専念すると決めてから、結構そちらに力を入れるようになった。おかげで少し美咲とは距離が空いちまってな、放置みたいになるときもしばしばあった。それで少し俺に対して不満とか不信感とか、そういったものが沸いたんだろうな」

 長岡は持っていたミネラルウォーターにまた口をつけた。

「それに加えて、恐らく決定的になったであろう事件が起きた」

「事件?」

 その言葉に長岡は軽く頷くと、ペットボトルをホルダーに差し込み、自分のスマートフォンを取り出した。そして画面を少しいじると画像をこちらへと見せてきた。

「君はこの写真を見て、どう思う?」

 そこに写し出されていたのは、半裸の状態で女性が自撮りしている写真。そこの後ろに写っていたのは、ソファーに深く腰掛けてぐったりしている長岡の姿だった。

「……そりゃあ、何かあったと思います」

「だよな? 美咲も同じ気持ちだったと思う」

「でもなんでこんな写真を?」

「ハメられたんだよ、俺の友人に」

 長岡の話を聞くところによると、つまりこういう事らしい。モデル業が本格的になって、ある程度名が売れ始めたタイミングで、広告業をやっている大学時代の友人からパーティーに誘われた長岡。クラブ形式でのパーティーで、ドリンクを勧められるがままに飲んでいたら酔いが回ってきたのでVIPルームで休ませてもらっていた。そしてグッタリとして意識が朦朧としたタイミングであの写真を撮られて、サキさん宛に送られたという事だった。

「犯人はすぐ分かったんですね」

「ああ、撮られた瞬間に気が付いたから、その女を問い詰めたんだ。そしたら『私は主催に依頼されただけ』とか言いやがってな……。だから主催を捕まえて問い詰めたら、悪びれた様子もなくこう言ったよ。『ちょっとしたジョークだよ、面白かっただろ』……ってな」

 そう言って肩をすくめる長岡。呆れ切っているのが、表情から滲み出ていた。

「そりゃあ学生時代なら笑って済ませた話かもしれない、けど今は本当にシャレにならなかった。多分、これがいいきっかけになったんだろう。ここから俺に反発するように色々と遊び始めたんだ」

 長岡は俺に見せていたスマートフォンをポケットにしまい、俺を見ながら話を続ける。

「最初は友人たちとクラブに行っては遊びまわっていたらしい。その友人から『大丈夫か?』って俺と美咲の関係を心配するメッセージをもらったよ。けど俺は何も言わなかった。言えなかったという方が正しいかもしれない。俺も今まで散々自分勝手にやってきたし、何を言っても聞き入れられないだろうと思った。今思えば、ここで話し合うべきだったんだな」

 そう言い終えると一つ息を吐いた。俺は黙って彼の独白を聞いていた。特に口を挟む事も、物申すことも無く、ジッと聞いていた。そんな俺の様子を見ながら、長岡は話を続けた。

「そのうち、美咲は色んな男と会う事を始めたらしい。最初は知り合いの男達。そしてそれが尽きるとマッチングアプリに手を出した」

「……ここで俺に繋がってくるわけですか?」

「そう、君がそのマッチングアプリで出会った一号になった。そこからは君の知る通りだよ」

 しばらく俺は無言だった。いや、何と言っていいのか分からなかったという方が正しいかもしれない。幼稚な女性の子供っぽい復讐劇。その一部に組み込まれてしまった自分を、まだ受け止めきれないでいた。

「今の話は全部友人からの情報と、美咲本人から聞いた話だ。やったことを言えば言うほど、勝手で迷惑極まりないと感じるね、あいつのやったことは。俺が君の立場だったら、はらわたが煮えくり返っていただろうな。だからこそ、俺が代わりに謝らせてほしい」

 真面目な顔をして頭を下げる長岡。気に入らなかった。これで幕引きを図ろうとしている、この長岡という男の事が。俺は思わず彼に問いかける。

「……そんなに仲の良かった彼女があんな行動をしたのに、今まで言ってきた事、謝罪も、全部他人事みたいだ。まるで関係ない人のことで謝っているような口ぶりじゃないか。あなたは平気なんですか? あんな事があったのに、もっと怒らなくていいんですか?」

 長岡はその言葉に反応するように俺の顔を見つめてきた。彼は無表情だった。表情を浮かべるタイプではないのか、はたまた普通の怒りを通り越しているのか。どちらにせよ、俺はその顔を見て少し背筋がゾッとした。

「平気なわけ、無いだろ」

 カップの中身の氷が、揺れてカラっと鳴った。俺は急に無へと表情を変えた長岡の顔を直視できず、思わず目を伏せる。

「間違いなく俺の彼女だ、あいつは。理由はあれど、あんな事をされたら、怒るに決まってるじゃないか」

 俺は彼の静かな怒りに気圧された。長岡は相変わらず口調を変える事なく話し続ける。

「俺が一番悪いのは分かっている、けど俺はこの期間に美咲と関係を持った全ての男が憎い。特に又木君、君は特にそうだった」

「え?」

「俺は君を本当に憎んでいるよ」

「どういうことですか」顔を上げ、そう聞こうとした瞬間。俺は両肩を掴まれると、その場に抑えつけられる。その力はあまりに強く、俺は身動きが一切取れなかった。

「あいつが俺の元に戻ってから、これまでの出来事を聞いたんだ。もちろん優しく接して聞いたよ、すると色んな男の話が出てきた。その中でもあいつが際立って楽しそうに話していたのが、君の事だったんだよ、又木君」

 長岡は相変わらずの無表情で話を続けていた。俺は彼からひしひしと伝わってくる様々な感情に圧倒され、言葉を発することが出来なかった。

「あのことについて口を開けば、一言目には君の名前が出てきた。そして凄く楽しそうに出来事を話すんだ……俺との思い出より楽しそうに」

 俺の肩を掴む手が更に強くなった。指が俺の肩に喰い込んでいるのが分かる。

「聞けばたかが二ヶ月程度の付き合いだったって言うじゃないか。それがさらに俺の嫉妬心を増幅させた。それと同時にどんな奴か知りたくもなった。俺は美咲から聞き出した断片的な情報を使って探すことに決めて、そして今に至る訳だよ」

 そう言うと、長岡の両肩を掴んでいた手がふっと緩んだ。しかし俺は動けなかった。いや、動くことが出来なかった。ビビってしまっていたのか、はたまた戦おうと腹をくくったのか。自分でもよく分かっていなかった。

「なるほど、俺を探して謝りたかったって言うのは、あくまでも上辺の理由。実際のところは嫉妬むき出しで、俺をどうにかしてやろうという気で探し回ってたってわけか」

「ああ、そうだよ」

「で? 俺をどうするんですか?」

 俺の言葉を聞いた瞬間、無表情で淡々と語っていた長岡の表情がふっと緩む。

「確かに俺は君を相当憎んでいる、というか嫉妬しているのは間違いない。けどね、いざ君を見つけてから車を走らせている間、落ち着いて考えてみたんだ」

 長岡は両手を俺の肩から離し、自分の膝の上に置いた。

「俺がやるべきことは嫉妬をして危害を加える事じゃない。危害を加えたところでどうなるわけでも無い、ただ自分が痛い思いをするだけだ。だからむしろ逆で、被害者である君を救わなきゃいけないんじゃないかって思ったんだ。俺は、君の呪縛を解いてやりたいと思う。そうすれば君も諦めがついて別の道に行ける、俺も安心して過ごすことが出来る」

「そんなの、無理に決まってる」

 俺は思わず言葉を発した、長岡が少し驚いた様子でこちらを見つめてくる。

「無理? どうして?」

「俺は今でもサキさんを愛してる、それはどうなっても変わらない。そんな相手を、諦められる訳無いじゃないですか。それに、あなたがいようが、彼女の気持ちが違えばそんなの関係ない」

「……本当にあいつは罪な女だな、全く」

 そう呟いた長岡は、悲しんでいるとも、同情しているとも取れるような表情を浮かべた。そしてまた俺の両肩を掴んで自分の方を向かせた。

「あいつは、これまでの一連の出来事は全て遊びだと言っている。それは君との事もそうだ。色々出来事はあっただろうけど、全部あいつにとっちゃ、ただのいい思い出なんだよ」

「そんなのあなたが言ってるだけだ」

 その言葉を聞くと一つ大きく息を吐く長岡。少し顔を伏せたあと、ゆっくり顔を起こして俺の方を見る。

「いいか、よく聞けよ」

「又木君、俺は来月フランスへ行く。モデルとしての活動拠点を移して、活動の幅を広げるためだ。そこには美咲もついてくる。それが、どういうことか分かるな? もう、あいつの中で切り替えは済んでいるんだよ」

 俺はその言葉を聞いてジッと長岡の顔を見つめた。長岡もそれに応えるように俺の顔をしっかりと見ていた。そして幾許か時間が経ち、力が抜けたように俺はフッと表情を緩め、笑った。

「……無理な事なんて、男の影が見えた瞬間から分かってましたよ」

 肩に置かれている長岡の両手をゆっくりと外す。長岡も特に力を入れることなく、されるがままだった。

「今だって、彼氏が目の前にいる以上、無理なんて分かってた。それなのに意地を張ったのは、やっぱり諦めたくないっていう気持ちと……何なのかな……もう分かんねぇや」

 自然と笑みがこぼれる。笑いたい状況なんかじゃ決してないのに、何故か俺の表情は緩んだ。

「フランス、気を付けて行ってきてください。そして……」

「……そして?」

「いや……何でもないです。頑張ってください」

 そして俺は長岡と向き合うのを止め正面を向き、両手を膝の上に置いた。その瞬間何だか力が入らなくなって、俺はうなだれた。

「これで終わりだ、今日で全て。もう俺も、君も、今後一切干渉しない。互いに入り込まない。全てを無かった事にしよう。君は君の道にまた戻る、俺達は俺達で歩みを進める。それが互いのためだし、君にとってもいい事じゃないか? ちょっと君は道に迷って冒険を少ししてしまっただけ。あとは日常に戻るんだよ」

「……はい」

 その言葉に頷くと、長岡はシートベルトを締め始めた。俺ものろのろとベルトを締めようとする。

「もう四時過ぎてんのか……又木君さ、時間ある?」

「もうここまで来たら何時でも変わりませんよ」

「それもそうだな」

 そう言って笑うとエンジンをかける長岡。また静かな車内にエンジン音が響き渡る。そしてゆっくりと、コンビニの駐車場から発車した。


 しばらく乗っていると、また駐車場にたどり着いた。そこに車を停めると、長岡はスッと車から降りた。続いて俺も降りる。風が吹く。潮の匂いがする。打ち付ける波の音が響く。ここはどうやら港のようだ。岸壁がズラッと続く景色が見える。そして水平線の向こうからは太陽が少し顔を出していた。俺と長岡は適当な場所まで歩き、その太陽を眺めていた。

「俺が学生の時、嫌な事があるとこうやって夜明けの海に来たんだ」

「なんでまた海に?」

「朝日って必ず昇るだろ、毎日毎日繰り返し……だから明けない夜っていうのは存在しない。俺の人生もきっとそうだって、励まされるためにいつも見てたんだ」

「へぇ」

 しばらく、沈黙が続いた。その間にも太陽は徐々に昇り続けている。

「……こう言うと月並みかもしれないけどさ、又木君」

 沈黙を破り、喋り始めたのは長岡だった。

「君も今、明けるところなんだよ。新しい朝日を見る時なんだ。日はまた昇り繰り返す、君なら大丈夫さ」

「……夜が、明けますね」

 そして太陽は水平線からすっかり顔を出し、まばゆい光で辺りを照らした。俺と長岡は、目を細めながら、その昇っていく太陽を眺めている。

行先不明のドライブは、ここで終わりを迎えた。

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