第7話

 俺はとにかく待ち続けていた。近くの自販機で買ったペットボトルの水をカバンから取り出し、口をつける。冷たい水が熱くなった喉を潤し、胃へと落ちていく。日は完全に昇りきり、熱された空気と地面から照り返す日の熱さが、俺の体力を奪っていくのがよく分かる。俺の肌も日差しによって焼けたのだろう、顔や腕がヒリヒリしてきた。その熱を持った肌の感じが不快で、酷く鬱陶しい。

 俺はずっと待ち続けていた。そんなに飲んでいないはずのペットボトルの中身は半分を切っていた。まだ、待ち人は来ない。メッセージに既読もつかない。昇りきった日は緩やかに西の空へと落ちていく。そして日は暮れ始め、徐々に世界を橙色に染めている。その一連の流れを彫刻の前で感じながら、俺はただ耐えるようにジッと待つ。

「あーちょっといいかな君」

 彫刻の前で耐え忍んでいる俺の前に、人が現れた。正体は服装を見ればすぐに分かった。警官だ。

「はあ、なんでしょう」

「いやね、ずっとここにいるから」

 そう言って手を後ろに組みながら俺に話しかける、おそらく初老くらいの警官。柔和な笑みを浮かべながら、俺の事を眺めている。

「僕がパトロール行って、色々やって戻ってきてもまだジッと立ってる。何してるのかなと思ってね」

 俺は熱さでボーっとした頭を回転させながら、これは職質なのだろうか、はたまたただの雑談なのだろうかと考えていた。

「人を待ってます」

「人を? こんなに暑い中、ずっと待ってるのかい」

「いつ来るかも分からないんで」

「そんなにルーズな友達なの?」

 今の状況をクソ真面目に言ったら、信じてもらえるだろうか。はたまた薬物中毒者かその類として、交番に引きずり込まれるだろうか。

「ええ、まあ、彼女は結構気難しいんで」

「彼女、ははあ、彼女かあ」

 俺は言った後にしまったと思った。俺は単純にサキさんを指す言葉として「彼女」と言ったのだが、この警官は付き合いのある方の「彼女」と捉えたようだ。でも、それでも間違いは無いだろう。多分。

「女性はね、大変だからね」

「はあ」

「僕のね、奥さんもね、若い頃は大変だったよ」

 警官は細い目をさらに細め、少し明後日の方向を見て話し始める。

「散々振り回されたなあ、それでも楽しかったから良かったんだけど」

「そうされても、好きって思えるもんですか」

 俺は馬鹿だと思った。こんなのただうんうんと話を聞いて流しておけば終わる会話なのに、自分から広げにいってどうする。しかし、どうせいつまで待つか分からないのだから、話を聞くのも悪くない。俺はそう思う事にした。

「そりゃあ、自分の好きな女性だからね、多少の事は可愛く思えるもんさ。君もそうだろ? 今も健気に待ってるじゃないか」

「まあ、そうなんですけど」

「それでいいんだ、それが幸せだったと思える日が来るよ」

 そして俺の肩をポンポンと叩くと、「それじゃ」と言って去っていった。結局、俺はあの警官の軽い雑談に付き合わされただけだった。少し警戒したのがアホみたいに思えてくるが、不審がられてしょっ引かれなかっただけマシと思うべきか。俺は警官の後ろ姿を見送りながら、また待ち続ける。風は相変わらず吹いていなかった。


 いくら時間がたっただろう。買った水はとっくに無くなり、身体は完全に日に焼けている。人の往来から少し外れたこの場所で、ずっと人が行き交う姿を眺めていた。けれどもこの時間まで待ち人が現れる事は遂に無かった。スマートフォンで時間を見ると、もう夕方の五時だった。実に八時間、あまりにも長すぎた。俺は大きなため息を吐き、その場にへたりこむ。いい加減、体力も気力も限界がきている。そもそも俺は何でこんな事をしたんだろうか。あの妙な決意に満ち溢れていた朝の俺は、一体何だったのだろう。もう流石に疲れてしまった。こんな馬鹿な事をする前に、せめて既読がついてから来るべきだった。

 俺は「今日は帰ります」というメッセージを送ろうと、その場にしゃがみこんだままスマートフォンを弄り、アプリを開くとサキさんのアイコンをタップする。そして送ったメッセージを見た俺は目を疑った。『既読』の二文字がメッセージ脇に並んでいたからだ。俺は何だかこれだけでも報われたような気がした。会えなかったけど、少なくとも読んでくれた。それだけでもいいような気がしていた。けれども今日は会えなかった。それは間違いない事実だ。

 さあ、改めてメッセージを送ろう。そして色々な事に別れを告げて進もう。そう思って画面をタップし始めた瞬間。日に焼けて熱を帯びていた頬に、冷たい何かが当てられた。俺は反射的に顔を上げる。すると、そこには女性が立っていた。ずっとずっと会うために待ちわびてた、その人がそこにいた。

「あ……」

 最初、俺は声が出なかった。人間は驚きすぎると声が出なくなるという。俺もまさしくそれだった。それでも何かを言おうと、口をパクパクさせている俺を見ながら、サキさんは持っていたペットボトルの水をこちらへ差し出してきた。無言で無表情のまま、突き出されたペットボトルを俺はうやうやしく受け取る。そしてようやく「ありがとう」と言うことが出来た。

「いつから待ってたの」

 彼女は無表情のまま俺に問いかける。さながら尋問のような雰囲気だ。

「朝の九時くらいからかな」

 俺は貰った水を飲みながら答える。酷く日に熱された身体に、この水はよく染みた。

「ずっと待ってたの?」

 彼女は相変わらず表情を変えないまま俺に問いかけてくる。

「そりゃ、待つって言ったから」

 残った水を一気に飲み干す。ペットボトルの中身はものの数秒で空になった。

「この暑い中、馬鹿じゃないの」

 そう言って俺の目の前でしゃがみこみ、俺と目線を合わせるサキさん。俺はその顔をジッと見つめる。

「だって会いたかったから、どうしても」

 キラキラとした彼女の瞳を見つめながら、俺は言った。

「メッセージに既読もつかないのに待つって選択肢を取るの、ちょっとおかしいよ」

 彼女は少し呆れ気味に言うと、頬杖をつきながら首を傾げる。

「ヤバい奴だって自分でも思うよ」

 そう言って苦笑いを浮かべる俺。日焼けで顔がひりついて、頬が動いただけでもピリッと痛みが走った。

「けど衝動を抑えきれなかったんだ」

 俺は立ち上がる。視線の先にある、雲が一つも無く、とても澄んだ空は、昼から夕方に変わる境目で、青と橙が混じり合った色をしていた。

「本当に犬みたいね、君」

 同じく立ち上がるサキさん。表情は先ほどまでの無表情よりかはいくらか柔らかくなっていた。そして俺の頭を優しく撫でる。

「忠犬かな? それとも馬鹿犬かな?」

「どちらかと言えば馬鹿犬かな」

「あはは、自分で言っちゃう? それ?」

 彼女は二、三歩近寄ったと思うと、腕を俺の背中に回して引き寄せる。そして俺を力強く抱きしめた。

「馬鹿犬でも愛を注がないとね」

 彼女の匂いと、柔らかさが身体を包み、俺はある種の安らぎを得た気分になった。このままずっと居たいような、そんな気分。いつもなら、このまま尻尾を振って喜び続けていただろう。けれど今日は違う。俺は彼女に聞かなければいけない。あの男の事を。

 しばらく抱きしめられたままでいた俺は、彼女の両肩に手を置くと、そのまま腕を伸ばしてゆっくりと俺から引き離す。

「どうしたの? 恥ずかしくなった?」

 俺の顔を見ながらくすくすと笑うサキさん。そんな彼女をじっと見つめながら俺は口を開いた。

「あのさ、これだけは聞きたいんだ」

「聞きたい事は大体分かるよ、又木君」

 被せ気味にそう言ったサキさん。特に表情を変えることも無く、相変わらずの感じだったが、言葉は力強かった。

「こんなところで立ち話もなんだから、少し歩こうよ」

 そしてくるりと向きを変えて、どこかへと向かって歩き始めたサキさん。その後を慌てて着いていく俺。歩みの方向は徐々に街中から離れていき、オフィス街の方へとやってきていた。そして歩く事四分ほど。立ち並ぶビルの中、そこだけポカンと空いたように存在している公園が現れる。サキさんは公園に入っていくと、これまたポツンと現れたベンチに腰かけた。俺もその隣に座る。

 しばらく、どちらから話しかける訳でも無く、ただ座っていた。俺は暮れていく夏の空を眺めながら、どう切り込むべきか、沈んでいく夕日に急かされながら考えていた。

「あのさ」

 俺が思考をセットして話しかけようとした、まさにその時。サキさんが先に喋り始めた。

「まず、この前はゴメンね、あんな事しちゃって」

 彼女は続けざまに話す。

「ちょっとあの日、どうかしてたわ」

「君がいるのにあんなに取り乱して、いきなり帰るなんてちょっと馬鹿みたいよね。本当にゴメン」

 サキさんは少しうつむき加減で謝罪の言葉を述べた。違うんだ、俺が話してほしいのはそんな事じゃない。

「もうその事はいいよ、大丈夫」

「本当?」

「本当。全く気にしてないし」

「……ありがとう」

「それより俺が聞かせてほしいのは、あの男の人が誰かってことなんだけど」

 その言葉を聞いた瞬間、サキさんの表情が一瞬、あからさまに固くなる。しかし次の瞬間にはまた元の柔らかい表情に戻っていた。聞きたい事は大体分かると言っていたくらいなのだ。覚悟はしてきていたのだろう。

「そりゃ聞きたいよね」

「ああ、そりゃあね」

 彼女は一瞬視線を宙へと向けると、すぐに俺の顔を見つめ直した。

「あの人は、私の彼氏」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の身体の芯が熱くなった気がした。そしてその熱は一気に昇り、グルグルと頭の中で渦を巻く。火照った脳みそは、思ったより苛烈な言葉を吐き出そうとはしなかった。それよりは、気がつけなかった自分を恥じていた。俺より先に他の人に気が付かれていた事に苛立ちを覚えていた。

 いや、俺はただ単に気が付かないふりをしていただけなのかもしれない。心の中ではずっと理解していて、それを認めたくなかっただけだったのではないか?そう思うと、尚更自分に腹が立ってきた。俺の中でグルグルと渦巻く念を知ってか知らずか、彼女は話し続ける。

「あいつとは大学の頃に付き合い始めたの。見た目は中々いいじゃない、あいつ。当時の私は一目惚れしちゃってね。それこそ、『これは運命の恋だー!』みたいなさ」

 思い出したように彼女はクスクスと笑い出す。そしてそのままニコニコと笑いながら喋り続ける。

「他にアタックする人も沢山いたんだ。けれど何とか親しくなって。そして結構強引な事もしながらだけど、ようやく付き合い始めたんだ」

 サキさんは足をぶらぶらとさせながら、視線はどこか遠くを見つめていた。

「そして付き合い始めて数年経って、色々あいつにも粗が見え始めて。そして私はいよいよ我慢の限界を迎えて、あいつに反旗を翻したわけ」

「それがあのアプリだった?」

俺は溢れだしそうな感情を、なるべく抑えながら話す。今にも漏れだしそうで、抑えるので精一杯になっているが。

「我ながら安直だったと思うわ」

 サキさんは右手で髪の毛をかき上げる。

「適当な男と会って遊んでやれば、それであいつは嫉妬する。そして私の大切さを思い知る……今考えると、とても子供っぽいけど、それしか思いつかなかったの。あと、単純に人との出会いを求めていたのもあった。あいつと付き合い始めてから、私の世界はとても狭かったから……また違った世界を見たいって気になって、沢山の人と出会えそうなアプリを選んだ」

「そして俺が選ばれた」

「あのアプリだから、本当に偶然なんだけどね」

 相変わらずサキさんはニコニコしながら話していたが、俺は笑えなかったし、笑う気にもなれなかった。俺は真顔で、笑う彼女を見つめていたと思う。

「君と出会ってからの日々は、すごい楽しかった。最初はね、ちょっと遊んで終わる予定だったんだ。けど君がとても、とてもいい子過ぎて、のめり込んじゃった」

 彼女は膝をポンと軽く叩いた。

「だけどこれでおしまい」

 しばらく、俺とサキさんは見つめ合ったままで、無言だった。俺は落ち着いて状況を俯瞰できる程度には落ち着いていた。人間は怒りがラインを通り越すと逆に冷静になると言うが、それともなんとなく違う気がしていて、冷静という言葉が正しいのかすら分からない。むしろ、もう既に何となく分かっていた事を本人の口から説かれているような、そんな心境だった。けれども、納得はできない。できるはずがない。

「分かった、なんて言えると思う?」

 俺はサキさんの瞳をジッと見据えたまま、言葉を発した。

「そんな自分勝手な話、通るわけ無いじゃん」

 それを聞いてもサキさんは笑っていた。とても静かな笑みを浮かべ、こちらを見つめていた。

「そうよね、自分の事しか考えてないなって、自分でもそう思うもの。だからね、今日は君に何をされてもいい覚悟できたの」

 そう言うとサキさんはゆっくりと立ち上がり、くるりとこちらへ振り向いた。フワリとスカートの裾が揺れる。

「何でも言う事聞いてあげる」

 座っている俺の鼻先に、人差し指をつき出した彼女は、変わらず笑顔を浮かべている。その笑顔を見た瞬間、急に頭の中が沸騰した。「カッとなってやった」というが、まさしくそれだった。頭の中が瞬間的に真っ白になり、何も考えられなくなる。そして次の瞬間には、俺は言葉を吐き出していた。

「何だよそれ」

 突きつけられた人差し指を払いのけて、勢いよく俺は立ち上がった。

「何なんだよ!」

 そして俺は大声を出した。抑えきれなくなった、自分の中の混沌とした気持ちが、フラットだった俺の気持ちを一〇〇までいきなり押し上げ、それを吐き出すために思わず出てしまった声だった。

「散々俺で遊んで、結局元鞘に戻ります、だから最後に自分の事を好きにしていいよってか?」

「ふざけるのも大概にしろよ、結局最後まで俺は遊ばれてるだけじゃないか!」

 俺はサキさんの両肩を勢いよく掴む。

「俺は一体何なんだ? あんたにとって俺は……」

 必死に、必死に俺は問いかける。けれどもサキさんは曖昧な笑みを浮かべては、俺を見つめてくるだけだった。

「何も言ってくれないんだな」

 俺は押し出すようにサキさんの肩から両手を離した。サキさんは押された勢いで二、三歩後ろへ下がる。

「何でもしてくれるんだっけ?」

「……する、何でも」

「じゃあついてきてよ」

 俺はサキさんの方を見ずにつかつかと歩き始める。何だか、何もかもがどうでもよくなっていた。仮にこれで着いてきていなくても、笑って終われるだろう。街の中は橙色に覆われはじめている。その中を俺はただ歩き、進んでいった。自ら海へと沈んでいくように、俺はその橙に満たされた街の中に溶けていくのだった。


 上蔵寺通りを通り過ぎ、繁華街の近くにあるラブホテルが乱立する一角、そこへと俺は足を踏み入れた俺は、適当なホテルへと入った。そこで部屋に入るまでに苦戦し、サキさんがそれとなく手を貸してくれたのが、大分情けなかったが。

 何はともあれ、俺とサキさんは二人きりになった。この間接照明で照らされただけの薄暗い部屋で、向かいあいながら彼女と俺はベッドの側に立っていた。

「で、どうしたいの、君は」

 俺はその言葉に何も返さず、正面に立つサキさんを抱きしめた。フフッと漏れ出す笑い声が聞こえ、彼女は俺の頭を優しく撫でる。

「君も男の子なんだね」

 撫でていた手を俺の顔に当てると輪郭をなぞるように指を沿わせた。そして俺の頬に軽く口づけをすると、抱きしめている俺をベッドへと引き倒す。俺はなされるがまま、柔らかいベッドの上へ倒れこむ。ギシッと軋む音がした。

「可愛い」

 サキさんは仰向けで倒れこんでいる俺の上に覆いかぶさる。

「可愛いよ、又木君」

 俺の唇に数回軽くキスをする。そして俺の身体をゆっくりと、艶かしく撫で回し始める。鎖骨の周りから俺の胸、そして徐々に手の位置は下がっていき、下腹部へと手を伸ばし始めたその時。俺の目から溢れた熱い雫が頬をつうと流れた。それは一滴や二滴ではなく、とめどなく俺の頬を流れ続けた。

「……どうしたの?」

 サキさんは少しうろたえた様子だった。下へと伸ばした手を俺の顔に持ってくると、溢れている涙を拭った。

「……俺は、仲良くしたかったんだ、サキさんと」

 更に涙が溢れ出す。視界は既に涙でボヤけていた。彼女の輪郭は不安定に揺れている。

「もう十分仲良しだよ、私達」

「だから悲しいんだ」

 サキさんはもう一度俺の涙を拭うと、唇へとキスをした。俺の閉じている唇を舌でこじ開け、口の中で絡める。彼女によって蹂躙される俺の口内。それはとても深く、濃厚な時間だったのだろう。けれども悲しみに溺れてしまっている俺にとっては、ただの空虚な時間でしかなかった。彼女の手が下腹部へと改めて伸ばされる。悲しみの気持ちとは裏腹に、熱を持ったソレは、彼女の白く細長い指に優しく撫でられ、更に硬く形を作っていく。

「ここに来たって事は、君もこうしたかったんでしょう。悪いことなんかじゃ全然無いのよ」

 カチャリとベルトが外される。そして緩められたチノパンと腰の隙間から彼女の手が差し込まれた。下着の上から形をなぞるように触られ、思わず腰を少し浮かせてしまう。快感が高まる。しかしそれと反比例するように、俺の涙は止むことなく次々と流れ落ちていた。

「違うんだ……俺が欲しかったのは……きっと……」

 何も言わずに、サキさんは俺にもう一度口づけをした。先ほどと比べると、いくらか軽い口づけだった。

「きっと、君はただ愛し合える存在が欲しかったのよね。ただ、仲良く毎日を共有しながら過ごす存在が」

 そしてチノパンのボタンが外され、ついに下着の中に手を差し込まれる。優しく握られたソレは、酷く硬くなっていて、ビクビクと跳ねるように反応してしまっていた。

「ゴメンね、期待を裏切っちゃって」

 気持ちいいなんて、一切思わなかった。けれど身体がキッチリと反応している事に、俺はただ虚しさを覚えた。

「けどね、愛してるよ、又木君」

 その言葉から先はよく覚えていない。ただひたすらに粘りついた情念と、満たされない愛がごちゃ混ぜになって、急激に俺の中で膨らんだ。そしてそれが限界を迎えて破裂すると、美しさからは程遠い欲望が俺を覆い尽くした。俺はひたすらに、ただひたすらに、それをぶつける事しか出来なかった。


 雨音が、部屋の中に響き渡っている。俺はベッドの上で寝転がりながら、ただボンヤリと天井を眺めていた。今が何時なのかも分からなかった。鳴り続けているスマートフォンは部屋の隅に転がっている。

 あの一件があった日から、俺は動けないでいた。酷い虚無感が全身を包んでいて、まるで心に大きな空洞が出来てしまったようだった。その穴は時折心に吹く風を笛のように鳴らし、まるで鳴き声のように喚くのだ。

「さよならは言わないでおくね」

 最後に言われたその言葉が、俺にとっては残酷以外の何物でも無かった。いっそあそこで、「じゃあね、もう会うことも無いね」と別れを告げられた方が何倍もマシだった。結局女々しい未練が残り、すっかり不安定な精神状態になってしまっている。また、心に風が吹く。何も抑えずに鳴らした笛のような、甲高い音が頭の中に響く。涙がぽろぽろと零れ落ちる。俺はそれを拭う事もせず、ただ流し続けている。そんな事をここ数日続けていた。

 そうして寝転び続けていると、急に猛烈な喉の渇きが襲い掛かってくる。そう言えば半日くらい水分らしい水分を取っていなかった事を思い出す。俺はフラフラと立ち上がると、冷蔵庫へと向かい、ドアを開けペットボトルのお茶を取り出す。そしてテーブルの上にあった使いっぱなしのコップに適当に注ぐと、それを一気に飲み干した。

 突然玄関のインターフォンが鳴らされたのはその瞬間だった。俺は基本的に来客には出ない。

 一人暮らしの時に来る客なんて、宅配便か、宗教の勧誘か、それともNHKの集金か、はたまた新聞屋だ。けれど今日は何となく気になってしまった。それはきっと、ここ数日ずっと引きこもって、人に会わなかった反動もあるのかもしれない。俺は玄関へ向かうと、のろのろとドアを開ける。するとそこには、見知った顔がいた。

「おっ、生きてた」

 そう言うと内藤は手に持っていたコンビニの袋を俺に向かってずいっと突き出す。一瞬間が空いた後、差し出しているのだという事を理解した俺は、とりあえず「ありがとう」と言ってそれを受け取った。

「全くよお、ここ数日顔も見ねえからどうしたもんかと思ってたんだぜ」

「本当本当、マジで死んだんじゃねーかって」

 内藤の後ろからヒョコっと出てきた高良と山根の二人。ここ数日会わなかっただけなのに、凄く懐かしい顔に思えて仕方ない。

「何しに来たんだよ」

「何って……なあ?」

 高良が他の二人に問いかける。問いかけられた二人は軽く首を捻っていた。俺はその様子を見て苦笑いを浮かべる。

「俺、あまり元気じゃねえんだ、だから今日は……」

 久々、といっても数日ぶりに出会った友人達だが、今のテンションではどうしても話す気力が起きない。俺は三人を帰すためにそう言った。

「まあまあ、ちょっとだけお話するだけだって」

「思ったより顔色も悪くないし、大丈夫そうじゃねーか」

「むしろ俺より血色いいよ」

 三人はいっせいにずらずらと喋ると、制止する俺の言葉も聞かずにそのまま俺の家に乗り込む。そして、俺が「はいどうぞ」と言う前に、三人は各々好きな場所に座り込んだ。

「どうした、座れよ」

 その様子を立ったまま、あっけにとられて見ていた俺に向かって、高良が言った。俺は慌ててベッド側の適当な位置に座り込んだ。俺の家なのに、何故か居心地が悪い。

 しばらくの間は、皆コンビニで買ってきた食品を黙々と食べ続けていた。俺も渡された袋に入っていた、ポテトチップスを開け、二、三枚口へと運ぶ。そういえば、久々に固形物を口にしたな、なんて思う。

「で、何があったんだよ」

 高良が、手に持っていたエナジードリンクの缶を開けると同時に話し始めた。その言葉と同調するように、他の二人もこちらを向いた。

「……別に、何もねえよ」

「何も無い奴が数日も休むわけねえだろ」

 銀と青で彩られた缶に口を付ける高良。そして一飲みすると話を続ける。

「学校には来ねえ、挙句電話もメッセージも出ねえ、かと言って死んでもいねえ。どうしちまったんだよ、一体」

「……何でもねえって」

 そう言って俺は目を伏せた。理由なんて、言いたくなかった。

「きっと」

 視線が床に向いた瞬間、内藤の声が聞こえた。

「サキさんの事だろ? そうだろ?」

 俺はその言葉を聞いた瞬間、静かに目を閉じた。そして両手で顔を覆った。また心の中で風が吹き、音が鳴った。その音色につられるように、俺の目からは涙が流れる。そしてそれは覆った手の隙間から、ポトリポトリと垂れ落ちるのだった。

「おい、泣いてんのか?」

 山根の問いに俺は答えなかった。答えられなかった。何も言えずに、ただ俯いていた。

「やっぱりそうだったか」

「何? 何なんだよサキさんって」

 明らかにうろたえた高良の声が聞こえた。そして俺の肩に手が置かれる。きっと内藤の手だろう。

「こいつの」

「こいつの?」

「とても大事な人だよ」

 そう言うとポンポンと肩を叩いた。その手の温度がやけにしっかりと伝わってくる。俺はそれを感じた瞬間、どうにも堪えが効かなくなってしまった。最初は押し殺してしまおうとしていた声も、徐々に漏れ出し、最終的には部屋中に響く位の声を出して俺は泣いた。

 泣いている間、高良や内藤、そして山根は黙っていた。今年二〇歳になった男の泣きじゃくる姿を、静かに見つめていたのだろう。よくよく考えてみれば、そうするしかなかったのかもしれない。声をかけるのも変だし、何より今は泣かせてやろうという情が湧いた。ただ、それだけの事だ。きっと。

そしてしばらく泣いて落ち着いた俺は、誰からか渡されたティッシュで涙を拭っていた。

「落ち着いたかい?」

 追加でティッシュを数枚渡してくる内藤。俺はそれを受け取って鼻をかむ。

「まあ、なんだ、大変だったんだな、お前も」

「まあな」

 高良がしみじみとした感じで話しかけてきたので、返してやった。強がっているわりには上ずっていて、酷く情けない声だった。

「とりあえず、何があったか言ってみるといいよ。話したくなかったら話さなくてもいいけど」

 そう言いながら内藤は俺の脇に腰掛ける。俺はふぅと、軽く一息つく。そしてぽつりぽつりと、溢すようにこれまでの事を話し始めたのだった。

 一通り話し終えた後、しばらく沈黙が部屋の中を包んでいた。おそらく、皆何と言っていいのか分からなかったのだろう。特に初めて俺とサキさんの関係を知った高良や山根は、相当に面食らったはずだ。

「なあ、なんでこんな事になってんだよ」

 最初に口を開いたのは高良だった。

「俺たちに相談してくれたらまだ何か出来たかもしれなかったのに」

「言うに言えなかったんだよ」

 俺は顔を手で覆いながら答えた。

「色々と苦労してるお前らに仲のいい女の人が出来ましたなんて、言い出せなかったんだ」

「けど、内藤には言ったんだろ」

「内藤にはバレたんだ、遊んでる現場で見つかったんだよ」

「じゃあなんだよ、お前ら二人で隠してたのか」

 高良の口調に少し苛立ちが見える。

「隠すつもりじゃなかった、それが一番いいと思ってたんだ」

「いいってなんだよ、友達だろ、俺達」

「だからこそ怖かったんだよ、俺達の仲を壊す要素になりかねなかった」

「そんなことねえよ」

 ぐしゃりと、何かが潰れる音がした。その音に反応して俺は顔を上げる。俺の正面に座っていた高良がエナジードリンクの缶を握りつぶしていた。

「いくら彼女がいなくて寂しい思いをしていても、惨めな思いをしてても、お前らは別だ。いい方向に向かっているならそれを応援するし、何より嬉しいんだよ」

 潰した缶をテーブルの上に置き、立ち上がった高良はこちらの方へ身体を向けた。

「だからもう少し俺たちを信じてほしかった」

 こちらに向けている高良の顔は、真面目だった。あまりにも真剣な顔だった。

「悪かった」

 そんな顔をしてこちらを見つめる高良に対して、俺はそう答えることしか出来なかった。

「あのな、俺はな」

「まままま、そこまでにしようぜ」

 高良が何か俺に返そうとしたその時。山根が俺と高良の間に割り込んできた。ワザとらしい笑いを浮かべ、両手を広げながら俺と高良の顔を交互に見ている。

「これは又木が悪い! うん、悪い! こんな面白い……いや、大事な事を隠してたわけだからな、それは良くないな」

「それに……僕も共犯だよ、聞いていて黙ってた訳だから。ゴメン」

 山根の言葉に付け加えるように内藤が謝罪の言葉を述べ、頭を下げた。それを見た俺も、同じように黙って頭を下げる。

「ほら高良、二人揃って謝ってる訳だし、な、許してやろうや」

「……別に謝ってほしいわけじゃねえよ。ただ、信じてもらえなかったのが悲しかっただけだ」

 頭を下げたままの俺の目の前に、手が差し出される。それを握り返す。するとグイッと引き上げられて、俺は立ち上がらされた。

「次からは俺達を信じてくれよな」

 差し出した手の主は、高良だった。俺はその言葉に頷くと、手をギュッと握り返した。

「ああ、次はちゃんと言うよ」

「次があればいいな」

「うっせえな、いい話風で締めとけよ」

「俺は結構根に持つタイプなんで」

 高良は握っていた手を離し、代わりに俺の肩を引き寄せる。そして彼は笑った。ゲラゲラと笑った。それを見て、俺も少し笑った。

「なんか笑ってらあ」

 先ほど必死に止めてきた山根が、俺達の様子を見て呆れたような、安心したような、複雑な笑みを浮かべている。

「何事も無くて良かったじゃないか」

 内藤はどちらかと言えばホッとしたような顔だった。喧嘩にならなくて良かったとでも思ってるのだろうか。

 ひとしきり笑い終えると、高良は引き寄せていた俺の肩から手を離す。彼は周りで見ていた内藤と山根の顔を眺めると、一つ大きく伸びをした。

「それじゃあ、そろそろ行くか」

「行くって、どこにだよ」

 内藤が至極当然な疑問を高良に問いかける。

「そりゃあお前、『さくらや』でしょ」

「なんでまた『さくらや』に」

「男同士が和解したらなあ、酒を飲んで更に分かり合うんだ。そんなの常識だろ?」

「常識だろ? と言われましても……」

「あ、部室行って誰か誘うのもいいな、又木の事心配してたやつ結構いるからな」

 ブツブツと呟きながら自分のカバンを拾い上げ、玄関へと向かっていく高良。

「何ぼさっとしてんだよお前ら。さっさと行くぞ」

 そう言うと彼はドアを開けてさっさと出て行ってしまった。あっという間に部屋に取り残された俺たちは、慌てて準備をして後に続く。いつの間にか雨は上がっていた。

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