愛の色を見つけて

惟風

愛の色を見つけて

 家に出入りしてる庭師のゲンさんのところに住み込みのお弟子さんが来て、この秋でかれこれ三年くらいになる。

 その人はある日ひょっこりとこの村に現れて、旅人にしては長逗留をしているなと噂が立ち始めた頃合いに「この村で働かせてください」と言い出した。

 何でも、随分遠くの小さな村の生まれで、御両親を亡くしてからお兄さんと二人で暮らしていたところを、突然の災害に襲われて天涯孤独になってしまったとのことだった。

 身元の怪しい男ということで働き口がなかなか見つからなかったのをゲンさんが引き取ることになったのは、ゲンさんがとにかく短気で気難しくて有名で、これまで三月みつきも続いた人がいなかったからだ。

 ものは試しとその青年を弟子として躾けることにした。

 そらと名乗った彼は、年はもうすぐ三十路が見えてくる頃だとかで、イチから弟子を務めるには年嵩としかさだと素人の私ですら思った。

 でも、空さんはこれまでの若い子とは違って聞き分けが良くて気性も穏やかで、ゲンさんに怒鳴りつけられてもいつも柔らかく笑っている。

 肩口まで伸ばした髪をゆるくまとめ、細身でひょろりとした身体は羽みたいに軽そうで、アレを取ってこいコレじゃねえなんべん言ったらわかるんだア、なんてゲンさんにどやしつけられながらいつも忙しなく動き回っている。

 私は彼が動くたびにサラリと跳ねる黒髪を眺めるのが好きで、家に来た時には「お茶が入りましたよ」「今日はどの木を剪定するのですか」などと口実を見つけては庭に出た。

 空さんは私が周りをうろついても嫌な顔一つせず、ただ口元に笑みを浮かべて作業している。


 頻繁に見ていると気になるもので、ゲンさんの口調があまりにもひどい時、たまらず割って入ったことがある。

 いくらなんでもそんな言い方はないでしょう、と。

 するとゲンさんに、生意気な小娘がと言わんばかりの大きな舌打ちをされ「お嬢さんは口出ししないでください」と言われてしまった。

 それでも食ってかかろうとする私を、空さんはやんわりと制止した。

 ゲンさんがお説教を終えていなくなると、空さんは「お嬢さん」とこっそりと耳打ちしに来た。


「お師匠さんはね、言葉はキツいけど、無理無体なことは言いませんよ。俺を一人の人間として扱ってくれる、優しい方です。でも、お心遣いありがとうございます」


 そう言って深々と頭を下げた。

 嫌味でもなんでもなく心からそう思っているような口ぶりに、私は何も言えなくなってしまった。

 そして、ゲンさんに貧相だと揶揄されている小柄な身体がよく見ると無駄なく引き締まっていると気づいてしまい、ひっそりとどぎまぎした。



 ある日、いつものように茶菓子の用意をしているとゲンさんのボヤき声が聞こえてきた。


「山向こうで獣が出たとかでね、物騒だからってんでしばらく薬が手に入らんのですわ」


 一服しながら縁側で父に話している。


「人通りの多い街道沿いで、ここ数日の間に結構な数の人間が食い荒らされたって話で。そんな凶暴な奴、この年まで生きてて初めてですよ。麓の村の若い衆で山狩りして、退治に行くとかって話で」


 ゲンさんは顔をしかめて腰をさする。

 高齢の身体はあちこち痛み、特にこれからの冷え込みはこたえるらしい。

 山を越えて来る薬売りの痛み止めを重宝していたのに、切らしてしまいそうだといつになく弱気な声を出している。

 家に常備している膏薬こうやくを差し入れようかと思案しながら庭に視線を向けると、空さんの姿が目に入った。

 いつものにこやかな笑みは消え、能面のような表情でたたずんでいる。

 初めて見る様子に思わず茶菓子を運ぶ足を止めた。

 空さんの顔はゲンさんの方を向いているけれど、その視線は何も捉えていない。どこか遠くを、じっと注視しているようだった。


「おい手ェ止めてんじゃねえぞ!」


 ゲンさんの怒号で我に返る。空さんも、いつものように眉尻を下げてペコペコと謝りながら奥に消えていった。背中で尻尾のような黒髪が小さく揺れている。

 何となく見てはいけないものを見てしまった気がして、その日は遅くまで寝つくことができなかった。


 数日後、薬の差し入れをするため夕刻前にゲンさんの家を訪ねた。

 あの時の空さんの不穏な表情が妙に心に引っかかり、様子を確かめたい下心からだった。

 いつもの調子で「お嬢さん」と笑ってくれさえすれば、気持ちが晴れる気がした。

 勢いをつけて玄関を叩いてみたが、ゲンさんははり医者にかかっており不在だった。

 奥さんが言うには、関節痛がひどく仕事にならないとのことで、空さんもどこかに出かけているそうだ。

 どうにも肩透かしを食ってしまった。

 そもそも、私が大げさに考えすぎな気がしてきて、どんどん恥ずかしくなってきた。

 そのまま帰るのが惜しまれ、自然と家とは反対の方向に足が向いた。


 村外れの河川敷まで近づいた時、前方から悲鳴が聞こえた。

 金切り声が一つしたかと思うと、今度は複数の叫び声が上がり、人々が逃げるようにこちらに向かってくる。

 混乱は膨れ上がるばかりで、私は巻き込まれないように道の端に寄るのが精一杯だった。


「何があったんですか!」


 群衆に声を張り上げてみたが、喧騒に押し流される。


「ば、ばけもの」


「お嬢さんも早く逃げえ!」


 血相を変えて逃げ惑う人々がわめく。

 人並みが途切れた所から川の方を見遣みやる。

 生臭い空気が、風に乗って流れてきた。



 血の海が広がっていた。

 肉片と赤い水たまりの中に、異様に背の高い女のようなモノが立っている。

 ソレがこの世のモノではないことは明らかだった。

 腰まで垂れた長い髪は、夕日を反射して煌めいている。

 着物の袖から覗く手首は細く白く、全身は返り血で濡れていた。

 ソレは、左手に何か、持っていた。

 よく見るまでもなく、人間の生首だ。

 ソレはぼたぼたと滴り落ちる血溜まりの中に、生首をぼとりと落とした。


 ソレがゆっくりと顔を上げる。

 その視線の先に、私のよく知る人がいた。


「ぐぼっ……っ、っぜ……ぜろおっ!」


 地面にへたりこんだゲンさんは、それでも気丈に何事かを喚き散らしている。

 固く両目を閉じて、口の端から吐瀉物を垂れ流しソレに向かってめちゃくちゃに腕を振り回していた。

 ゲンさんに庇われるように、うずくまって震えている女性がいた。

 腕に赤ん坊を抱いている。うぎゃあと泣いている。


「ゲンさん!」


 考えるより先に私の身体は動いていて、ソレとゲンさんの間に立ちはだかった。

 でも、私の威勢もそこまでだった。

 ソレの顔を見た途端、何もかもが強張こわばった。

 音もなく近寄ってきたソレの、うろこごったような瞳に覗きこまれ、小さく「ぐう」と声が漏れる。

 白い顔が間近に迫る。

 怖ろしさを感じているのに目を逸らすことができず、気がつくと脚の間から生温かいものが垂れていた。

 滑らかな肌に切り込みが入るように、ソレはゆっくりと口を開いた。

 赤ん坊があぎゃあぎゃと泣いている。


「アナタの――」


 この言葉を聞き終えたら、きっと自分は死んでしまうのだ。


「おおお嬢さん!」

 ゲンさんがしわがれた声で叫ぶけれど、振り向くことができない。


「――を」


 ソレの言葉は何にも掻き消されない。

 はっきりと聞こえているのに、その意味を捉えることができない。


「――えて?」


 頭の中が“死”で塗り潰されていく。

 何だ、何かを問われた。

 答えなければならない。

 さもないと。

 赤ん坊はまだ泣いている。



「ああ」


 何とも間延びした声が、私のすぐ後ろから聞こえてきた。


「ようやっと、会えた」


 その途端、ぷつりと糸が切れるように、身体の力が抜けた。

 倒れそうになった私を抱き止めてくれたのは、いつの間にか背後に立っていた空さんだった。


「久しぶりだなあ」


 まるで旧友に話しかけるように、彼はソレに向かって目を細めていた。

 ソレは何も答えず、黙って彼を見つめている。


「いつぞやは、兄貴が世話になった」


 ソレの視線が自分から外れただけで、明らかに心身が楽になった。

 ばけもの、と口に出すのも恐ろしいソレのことを、彼は知っているようだった。誰もが我を失っている中で、芯を持って立っている。


 ――お兄さんはに襲われて――


 ぼんやりと、空さんの身の上話を思い出した。

 ゲンさんは目を白黒させて目の前の弟子を見上げている。

 赤ん坊はまだ泣いている。


「俺の答えだけ、持って帰ってくれ。今日はそれで、勘弁してくれないか」


 困ったような声で言う。

 いつものように飄々ひょうひょうと笑いながら。

 ソレの口角が、僅かに上がったように見えた。

 ふと、私を支える彼の手に、力が入った。

 抱き寄せられる。触れた胸が温かい。


あかね


 初めて名前を呼ばれて思わず見上げた彼の顔は、夕焼け空を見つめて笑っていた。


 ソレの口が、三日月のような形になった。

 たぶん、笑った。

 瞬きをする間に、ソレは消えた。跡形もなく。


 空さんは涙と鼻水と小便にまみれた私をしっかりと抱きしめて、もう一度名前を呼んでくれた。


「ずっと、お嬢さんにぴったりの綺麗な名前だなあと思ってました」


 私は、赤ん坊よりも大きな声で泣いた。

 しゃくり上げながら、先程の化け物の言葉が、やっと意味を持って思い出された。


 ――アナタの


 ――愛の色を教えて?



 夕日が、私達を照らしていた。

 赤ん坊は、もう泣いていなかった。



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