最寄駅

香久山 ゆみ

最寄駅

 四十年間。割と早い年齢で結婚し所帯を持って、以来ずっとこの町に暮らしている。遠方に転勤することもなく、四十年ほぼ毎日この自宅の最寄駅を利用していることになる。

 若い頃はよく寝坊して発車ベルの鳴り響く駅の階段を駆け上がったものだが、今は普通に上るだけで息が切れる。もっとも、昔のように寝坊することもなくなり、随分早い時間に出勤するようになった。昨年には、古い駅舎に取って付けたようなエレベーターまで設置され、老体には有難い限り。

 この駅舎自体は四十年前から変わらない。いや、四十年も前であればきっともっときれいだったのだろうが、記憶の中の駅舎はなぜだかずっと年季の入ったコンクリート壁をしている。もちろん変化したものも多々ある。振り返れば、当時はまだ自動改札がなく改札で駅員が切符を切っていたし、駅の伝言板もいつの間にか消えてしまった。「パパはやくかえってきてね」、くたびれた体を引きずり最寄駅まで帰ってきて、改札を抜けた伝言板に幼い我が子の白いチョークの文字を見つけた時、どれ程元気をもらえたことか。子供達はもう覚えていないだろう。

 通勤電車を待つホームのあちこちでもくもくと煙草の煙が上がる光景も消えてしまった。時代とともに喫煙者はホームの端へ追いやられ、いつの間にやら全面禁煙。ともに私も禁煙するようになったが、当時はスパスパと一日に何箱吸っていたろう。仕事に向かう男達の最初の一本。お互い通勤で顔を合わせるだけの名前も知らぬ相手だが、立ち込める紫煙に包まれて、そこには戦場へ向かう男達の静かに燃えるような一体感があったように思う。

 そうだ、かつてはこの通勤時間のホームには確かに男が圧倒的に多かった。時代とともに随分女性が増えたものだ。ラッシュ時間だと女性専用車までぎゅうぎゅう詰めになるのだと娘が嘆いていたっけ。

 専業主婦をしていた妻が働きに出るようになったのは、下の子が中学に入った頃だった。妻がパートに出たいと言った時、私は反対した。しかし、バブル崩壊の時期でもあり、反対虚しく妻は近所のスーパーで働き始めた。家の事もしっかりやりますからと宣言していた通りに、妻は十二分にこなした。私はその様子を冷ややかに傍観していたが、今更ながら冷淡だった。小さい男だったと後悔している。妻が働きに出ると言った時、なぜ反対したのか。私の稼ぎに不満があるのかとプライドを傷つけられた訳ではない。ただ、悔しかったのだ。私が毎日毎日同じ日々を繰り返していてそれはきっとこの先も変わらぬというのに、妻は一人で新しい生き方に進みだそうというのだから。結果、家事に仕事にと妻はそれまで以上に忙しくなったわけだが、自分の力で収入を得るようになった彼女はそれまで以上に生き生きと輝くようになった。

 私はというと六十歳定年のつもりが、延長雇用制度であと五年嘱託として働くことになった。一旦六十で正社員としての定年を向かえたのだが引続き勤務継続するため華々しいセレモニーはなく、そして、本日二度目の退職を迎えるが今は嘱託の身分なのでやはり挨拶程度で職場を去ることになる。かつての上司たちの華々しい定年退職の舞台を知る身としては、なんとなく寂しいものがある。明確な区切りなくふわりとこれまでの日常から切り離されてしまうような。もう毎朝この駅のホームに立つことがないと思うと、少し感慨深い。

 四十年、真面目に勤め上げた。特に何もない、平凡な人生だった。四十年の間、この駅のホームから快速電車に身を投げる者も何人かいた。目撃したわけでも、知り合いだったわけでもない。ただ電車が止まって難儀した記憶があるだけだ。しかし、私自身そのようなことがなく恙無く日々を過ごせたというのは幸いなのかもしれない。

 しかし、物足りない。不安なのである。明日からの日々が。

 仕事人間だった私には、四十年住んだ自宅のあるこの地域に友人も知人もいない。いっそ定年を機に田舎暮らしを始めて畑でもしようか。しかし、今更そんな情熱も知識もないし、妻は便利な都会の生活に満足しておりここに友人も多い。子供達が成人した後、勉強して資格を取り、今はケアマネージャーとして働いて充実しているらしい。

 私は。この駅に立てなくなるのが寂しい。ここが私の居場所なのだ。向かいのホームではリクルートスーツの女学生が緊張した面持ちで電車待ちの列に並んでいる。新しい人生に向けて就職活動中なのだろう。そうだ、最寄駅とは。終着駅ではない。発着する。ここからどこかへ進むためのスタートなのだ。小さな会社を興したんだが一緒にやらないか、先日飲んだ時に知己が言った。冗談だろうと一笑したが、名刺はまだあるだろうか。電車がホームに入る。新しい風が吹き抜ける。

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