硝子のカプセル
増田朋美
硝子のカプセル
その日も、何故か暑い日で、秋が来たというのに、なんでこんなに暑いのかなと思われるほど汗ばむ陽気の日だった。こんな日は、流石に、食欲の秋と言っても、なかなか暑くて食事をしようという気になれないのもわかるような気がする。
「よし。栗の渋皮煮完成!今年もたっぷり作ったぞ。それでは、早速食べようぜ。」
杉ちゃんは鍋の中から、栗の渋皮煮を取り出して皿に盛った。
「すごいですね。こんな手間がかかる料理を、一人で作るんですからね。」
ジョチさんは感心して、杉ちゃんに言った。
「いやあ、料理は手をかけて当然だよ。だから、栗の渋皮煮も、丹精込めて作らなきゃ。そうすれば、あれほど嫌がっていた水穂さんだって食べるんじゃないのかな?」
杉ちゃんは、でかい声で言った。
「そうですね。確かに昔の人は、何でも手作りで作ったわけですから、栗の渋皮煮だって、嫌がらないで作りますよね。僕達は、昔の人ほど強くありません。だから、流石に作れませんよ。」
ジョチさんはこんな暑いときに、よく何十分も煮なければならない渋皮煮を作るなと思いながらそういった。
「よし、まあ、これで食わせよう。これであれば、喜んで食べてくれるよ。甘いものが好きな水穂産だからね。さあ食べろ食べろ。今日は、作りたてだよ。」
杉ちゃんが、車椅子のトレーにお皿を乗せて、車椅子を動かして四畳半に行った。
「水穂さん。栗の渋皮煮ができたよ。」
そう言って、ふすまを開けると、聞こえてきたのは返事ではなくて、咳き込む音だった。おい、どうしたんだ?と杉ちゃんが聞くと、水穂さんは布団に横向きになったまま咳き込んでいて、由紀子が水穂さんの背中を擦って居るのだった。そして、畳は、朱肉のような赤い液体で汚れていた。
「あれえ、さっきまで、縁側で座っていたと思ったんだけど?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい、急に咳き込んで倒れてしまったんです。だから私がここへ連れてきたんですけど。」
と、由紀子が言った。どうかしたんですかと言いながらやってきたジョチさんが、
「薬、飲みましょうか?」
と言って、枕元にある水のみを水穂さんに渡した。水穂さんの代わりに由紀子がそれを受け取って、ほら、水穂さん、と口元へそれを持っていく。水穂さんが咳き込みながら中身を飲み干すと、杉ちゃんがそれと同時に、
「あーあ、これでまた寝ちゃうだろ。それでは、栗の渋皮煮は、水の泡か。」
と、でかい声で言った。案の定咳き込む音は次第に静かになってくれたのだが、薬には、眠気を催す成分が入っているのだろう、水穂さんは、スヤスヤ眠り始めてしまった。由紀子は急いで、汚れた口元を拭いてあげた。
「栗の渋皮煮は食べてもらえないし、畳代は高く着いちゃうし、困ったねえ。」
杉ちゃんがジョチさんにいうと、
「そうですね。畳代が困るというより、水穂さんがめったに食事をしないほうが問題だと思います。それでは、栄養が取れなくなって、水穂さんが衰弱していってしまう。」
と、ジョチさんは言った。すると同時に、
「こんにちは。宅急便です。受け取りにサインをお願いします。」
玄関先で声がした。ジョチさんが、ちょっと行ってきますと言って、玄関先に行った。
「あ、お荷物です。まあ、こんな大きなものをお願いするなんて、何に使うのかな。これ、簡易ベッドくらいの大きさですよ。割れ物で取り扱い注意と書いてあるけど、何なんでしょうね。いやあ、重たいなあ。」
と、配達員は、そう言いながら、トラックの中から、大きなダンボール箱を取り出して、玄関先に置いた。確かに、横の長さは2メートル縦の長さは1メートルを超える大きな荷物で、力持ちの配達員でないと一人では運べないくらい大きなものだった。
「お客様、どうされましたか?」
そう言われてジョチさんは、思わずハイと言った。
「こちらに、受け取りサインをお願いしたいんですが?」
配達員から渡された用紙を受け取りながら、ジョチさんは、すぐに、
「こんな大きなもの、誰がお願いしたんでしょうか?」
と言った。
「伊能蘭様からです。磯野水穂様のご住所は、こちらで間違いないですよね?」
配達員がそう言うので、ジョチさんは、
「はい。水穂さんに何が送られてきたんでしょうか?」
すぐにいってみた。
「ええ、よくわかりませんが、大きなものですから、よほど大事な贈り物だと思いますよ。それでは、サインをお願いします。」
配達員に言われてジョチさんは、はあ、わかりましたと言って、急いでサインをした。内容物の欄を見てみると、
「ベッカムカプセル」と、箱に書いてある。
「理事長さんなにか来たんですか?」
由紀子が心配になって、玄関にやってきた。
「ええ、伊能蘭さんから、酸素カプセルが届きました。迷惑な贈り物ですよね。まず第一に、こんな大きなもの、置き場所に困るじゃありませんか?」
とジョチさんは、大きなため息をついた。
「酸素カプセル?それなんですか?とにかく開けてみないことには、何も意味がないと思いますから、とりあえず開けてみないと困るのでは?」
由紀子は、急いでハサミを持ってきて、箱を開けた。大きな箱だから、取り出すのは手間がかかったが、取り出したのは、楕円形の筒型をしたガラスの棺のような箱で、大きさは中に人が入っても全然余裕がある箱だった。それと付属して、操作盤もついていたが、輸入商品だったらしく、全て英語で書かれていた。日本語での説明書は一切なかった。
「とりあえず、縁側に運びましょう。」
とジョチさんは、由紀子と一緒に、縁側にその謎の物体を運んだ。水穂さんは、その音にも気が付かないで、静かに眠っている。それを見ていた杉ちゃんが、
「おい、何だこの物体は?まるで白雪姫のガラスの棺を丸くしたようなもんじゃないか。」
とでかい声で言った。杉ちゃんも驚きを隠せなかったらしい。ジョチさんは、捨てた箱の中から取り扱い説明書を読みながら、
「ええ、これは、酸素カプセルですね。昔、ベッカムとかいうサッカー選手や、野球選手などが使っていたので、ベッカムカプセルという商品名が着いていますが、まあ、人間用の酸素室ですね。よく、犬や猫が、病気になって、使用する事がある透明の箱と同じものです。閉所恐怖症を起こさないために、人間用も、ガラスの箱でできていると。」
と説明した。
「まあ、サッカー選手の事はどうでもいいから、この物体、どういうときに使うかそれを教えてくれ。」
と、杉ちゃんは言った。
「はい、だから、犬が呼吸ができなくなって酸素で充満した酸素室という硝子の箱に入りますよね。それと同じ使い方をするんですよ。人間の場合は、日本では一酸化炭素中毒でもならない限り、使用されることは無いんですけど、最近では、個人輸入ということもあります。おそらく、個人輸入でこれを、入手したんでしょうね。その証拠に、操作盤も、説明書も全て英語で書かれています。」
と、ジョチさんは説明した。
「はあ、で、送り主は誰なんだ?誰にそんな贈り物を贈るつもりだったのかな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、送ったのは伊能蘭さんです。まあ、彼もたいそれたことをしたものですよ。水穂さんに使ってもらいたくて、購入したんだと思いますが、まあ、いい迷惑ですよね。第一、英語でかかれていたら、誰も操作できないじゃないですか。」
と、ジョチさんは苦笑いした。
「それにこれは、単に健康増強器具のベッカムカプセルではありません。西洋では医療機関でも使われるほど高級なものです。」
「はあ、困ったものだなあ蘭も。英語なんて、僕もわからないよ。」
杉ちゃんも、笑いが止まらないようである。
「まあ、おそらく、操作がわからないので、これを使用することはまず無いでしょう。まあ、迷惑な贈り物として、縁側に置いておきましょうか。蘭さん、大金はたいて買ってくれたと思いますから、捨てるわけにも行きませんからね。」
と、ジョチさんは呆れた顔で言った。水穂さんは、相変わらず静かに眠っている。由紀子は、ジョチさんがそういうのを聞きながら、処分はしないで、なにかの役に立つのではないかと考えた。
その日は、とりあえず、杉ちゃんたちは栗の渋皮煮を食べて、それぞれの持場へ戻っていった。それから、数日が経って、杉ちゃんたちは、また何事もないように生活をしていたのだが、水穂さんは、少し食欲が出てくれるかなと思ったら、また咳き込んで吐き出してしまうという日々を繰り返していた。最近は、利用者たちもあまり来ないので、杉ちゃんとジョチさんが世話をしていた。仕事が休みのときは、由紀子も手伝った。由紀子は、咳き込んで居る水穂さんの事を本気で心配していたのであるが、杉ちゃんたちのどうせ病院をたらい回しにされるのが落ちという言葉も本当だと知っていたから、医療機関につれて行きたくても、何も言えなかった。
蘭は、その日、刺青の下絵を描くための絵の具を買いに、文房具屋へ行った。文房具屋の入り口をくぐって見ると、ジョチさんがいた。ジョチさんは、ボールペンとノートブックを買って、そのお代を払っているところだった。
「ああ、こんにちは。蘭さん。おげんきですか?」
ジョチさんは蘭に言った。
「お前こそ、今年は暑いけど、気にしないでいきていられそうだな。やっぱり波布だな。」
蘭は、ジョチさんに言われるとどうしても、この言葉を口にしてしまうのだ。よく自分の母や沼袋さんが、この人物を、美濃の蝮よりも怖い波布だと言っていた記憶があったからだ。
「ええ、なんと言われようとこの顔ですから、気にしませんよ。こないだは、迷惑な贈り物をありがとうございました。あれ、かなり高価なものだったんでしょうけど、どこで入手されたんですか?」
ジョチさんに言われて蘭は、本当にこいつは、どうして自分の腑に落ちない質問をするんだろうと思いながら、
「あれは、母の近所にある治療院さんが、店を改装するって言うんで、新しいのを買うことになったので、格安で譲ってもらったんだよ!」
と、すぐに言った。
「なるほど。それで医療機関で使用するのと同じものが得られたというわけですか。あれは、高気圧酸素治療で使用する酸素カプセルですよね?」
とジョチさんはすぐに言った。
「で、どうだ。水穂のやつ、それを使って、少し楽になってくれているだろうな?」
蘭がそう言うと、
「ええ、お陰様で、縁側で静かに眠っていらっしゃいますよ。蘭さん、あなた変な誤算をしてしまったようですね。僕はある程度英語の知識あるのでなんとなくわかりますが、他の人は全くわからないと言って、誰も操作することができません。蘭さん、どうして日本語の操作ボタンがある機種を購入しなかったんですか?いいですか、酸素カプセルに、患者さんを入れるのは、欧米ではよくあることですけど、操作はほかの誰かがやらないとだめなことは、蘭さんご存じなかったんですか?」
と、ジョチさんはしたり顔で言った。
「何?」
蘭は驚いてそういった。
「使ってないのか?」
「ええ。そのとおりですよ。下手をして、壊してしまったら全く得をしませんからね。いいですか、蘭さん。犬や猫を酸素室へ入れて治療させる事は最近流行っているようですけど、人間を酸素室に入れる治療法というのは、日本ではまださほど普及しておりません。ベッカム選手が、試合前に使用したというのも、その事実だけで、医療的にどうなのかというのは、まだ確定してないんですよ。そのようなものをなぜ蘭さんがこちらに送ってきたのか、不思議でなりませんでした。蘭さん、あなた、本当に、困った事をしましたね。あんな大きなものを縁側に置かれては、利用者たちも困るでしょうし、第一、白雪姫の棺のようで怖いという利用者もいます。」
ジョチさんは、驚いている蘭にできるだけ淡々と言った。
「なんで!あいつが少しでも楽になってくれるようにというつもりで送ったのに!」
「楽になってくれるようにというのなら、もう少しマシなものを送ってくれませんかね。蘭さん、あなた、水穂さんに対して、思いはあるんでしょうけど、その思いが強すぎるために、とんでもないことをしてしまう事を、もう少し自覚してもらわないと。」
「な、なんで、、、。」
蘭はがっかりした様子でそういった。
「犬や猫では無いんですから、それと水穂さんを同じにしないでください。ちなみに水穂さんは、今は一進一退です。もうちょっと、食欲を取り戻してもらいたいんですけど。まあ、もうちょっと、涼しくなれば、またかわってくるでしょう。」
ジョチさんは蘭にそう言うと、
「なんでそうやっていつまでも放置したままでいられるんだ!なにか手を打とうとか、そういう事は、できなかったのか?」
蘭は、すぐに言った。
「ええ、できませんよ。だって水穂さんには、医療機関に行くというのは、無理ですからね。それに医療従事者だって、水穂さんのような人に治療を施しても何も意味がないということは、よく知っているはずですよ。だから、そういうところには手を出さないようにしてるんです。」
「畜生!畜生!お前がそういう事をするから、」
「蘭さん。あなたが、水穂さんの事を思って、彼の世話をしたいのはわかりますけどね。でも、今の日本の事を考えると、そうなるんですよ。今でも銘仙の着物というと、嫌がるひとが多いのはご存知でしょう。それを考えれば、僕達がしていることは間違いではないってわかるはずですよ。しょうがないじゃないですか。いくら、偉い人が、差別をやめろと言っても、現場では、お金になりそうもない人を救おうとする医療従事者なんて、アルベルト・シュバイツァーくらいなもんでしょう。」
「ああ、ああ、、、。」
蘭は、悔し涙を流して、そういったのであるが、ジョチさんは、では御免遊ばせと言って、文房具屋を出ていった。蘭は、どうしてそうなってしまうんだろう、と、車椅子に乗っている自分を見つめた。
その頃、製鉄所と呼ばれている、福祉施設では。由紀子が、ジョチさんが外出している間、水穂さんの世話をしていた。由紀子は、縁側の床を、水拭きしていたところ、また四畳半から咳き込んで居る音が聞こえてきたので、急いで四畳半にいってみた。水穂さんがまた、咳き込んでいた。なんとか止める方法はないかと思ったが、その時由紀子の目にあの、大きなガラスの棺のような、ベッカムカプセルが飛び込んで来た。由紀子は、水穂さんの体をそっと持ち上げた。それは長いことご飯を食べていないせいで、信じられないほど軽かった。由紀子は水穂さんをベッカムカプセルの中に寝かせてあげて、蓋を締めた。見様見真似で、一番大きなボタンを押して見る。すると、ウイーンというモーター音がなり始めて、酸素の投与が開始された。何もわからなかったけど、ベッカムカプセルの中に入った水穂さんは、咳き込む声がだんだん小さくなって、しまいには眠り始めてしまった。しばらく機械に任せていたら、別の音程になって、機械は止まった。水穂さんは、静かに眠っている。由紀子は機械が止まったら、蓋を開けて、水穂さんの体をまた持ち上げて布団に戻してあげた。今回は、薬を使わないで、眠らせて上げることに成功したわけだ。そうなると、迷惑な贈り物も、迷惑ではなくなるのではないか、と思った。
「ただいま戻りました。」
製鉄所の玄関の引き戸がガラッと開いて、杉ちゃんとジョチさんが戻ってきた。
「ああおかえりなさいです。」
由紀子は、杉ちゃんたちを迎えながら言った。
「用事は、終わったんですか?」
と、由紀子が聞くと、
「終わったよ。終わったから帰ってくるもんだし。まあ用事が終わってかえって来れるっのも、幸せなもんだよな。で、水穂さんはどうしている?咳き込んだりしなかった?」
と、杉ちゃんに言われて、由紀子は、先程の事を話そうかと思って、一度迷ってしまった。でも杉ちゃんの前では、嘘が通じないことはわかっていたから、
「ええ、大丈夫でした。少し、咳き込んだりもしましたけど、すぐに良くなりましたから。ほら、ご覧の通り、畳を汚していません。だから、大丈夫です。」
とだけ言っておいた。
「はあ、少しってどれくらいだ?すぐに薬は飲ませたの?」
杉ちゃんが聞くとジョチさんが水のみを確認した。薬は減っていなかった。
「薬を飲ませないで、どうして発作を止めることができたんですか?」
ジョチさんに言われて、由紀子は、
「ごめんなさい。あの、酸素カプセルに入れてあげて。」
と、すぐに言った。
「由紀子さんは、英語できたのか?」
杉ちゃんが言うと、
「ごめんなさい。何もわからないで直感的にやってしまいました。ごめんなさい、あたし、そうなったら薬を飲ませるべきでしたよね。」
と、由紀子は、ジョチさんたちに頭を下げた。
「はあ、由紀子さんは時々、そうやって超自然的なものが働くときがあるんだよな。それは、何なんだろうね。」
「まあ、いずれにしても、水穂さんが、楽になってくれたから良かったですね。今回は、奇跡的なものだったかもしれませんね。」
杉ちゃんとジョチさんは、そう言ってくれたが、これがもしうるさい人だったら、薬を飲ませるべきだったとか言って、由紀子を責めるかもしれなかった。それは杉ちゃんたちが、由紀子をかばってくれたようなものである。
「まあこれにて、一見落着か。」
「そうですね。まず水穂さんに、ご飯を食べさせることから始めましょう。」
杉ちゃんたちは、そういう事を言い合ってくれた。由紀子は、自分が、水穂さんの事を好きなんだと言いたかったけれど、それは言うのはやめておいた。多分杉ちゃんたちのことだから、由紀子の言うことなんて、笑い飛ばしてしまうのだろうから。そういうふうに自分の気持ちを扱ってほしくなかったのである。
水穂さんは、それを無視して、静かに気持ちよさそうに眠っていた。
由紀子は、改めて、水穂さんの体に掛ふとんをかけ直してあげた。そうこうしているうちに、冷たい風が吹いてきた。多分季節は、秋から冬に向かって流れているのだなと由紀子は思った。
硝子のカプセル 増田朋美 @masubuchi4996
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