ばーとる

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 目が覚めて、俺は自分が木漏れ日の下で倒れていることに気づいた。何本もの木々が天に向かって真っすぐに伸びている。ここはどこかの山の中だ。背中が痛くて、とてもひんやりとしている。山肌に織りなす湿った落葉の絨毯が、ところどころ凍っている。低体温症で死ななかったのが奇跡だ。


 どうしてこんなところに居るのかがわからない。昨日のことも、よく思い出すことができない。いや、それどころか自分が何者なのかすらも定かではない。記憶を失ってしまったということなのだろうか。


 何もかもがわからないが、何とかしてここを脱出しないといけないのは確かな事実であった。


 音を聞く。いや、聞こうとしなくても耳を通して頭の中にすぅーっと入ってきた。ガビチョウやらキジバトやらの声だ。そして俺は一つ、気づいた。これらの鳥の鳴き声を聞き分けられる程度の知識を俺は持っている。


 自分が誰なのかはピンとこないが、勤勉な奴なのだろう。ありがとうな、自分。


 と言うわけで、ガビチョウやキジバトがいるということはここはたぶん日本のどこかだろう。俺は自分の腕を見た。日本語で思考をしているからそうだとは思っていたが、俺は自分が日本人であることを確信した。


 体を起こすと、全身の関節がみしみしと痛んだ。そして頭がとても重い。目を閉じる前にかなり悲惨な目にあってしまったのだろう。そしてこの状況の全てがそれを、敵意と一緒に無慈悲に突き付けてきている。


 畜生。やってやろうじゃねえか。


 何もかもが全く以て1ミリもわからないけど、こんな外道なことをした奴を見つけてとっちめてやる。そのために、まずはこの山を脱出しなければならない。


 俺は再び耳を澄ます。そして、水の音を探した。ガビチョウ、シジュウカラ、ウグイスの鳴き声、そして木の葉を揺らす風の音が聞こえる。しかし、肝心な水はこの近くにはなさそうだ。


 仕方がないので、俺は歩くことにした。山の頂に向かって。俺の感が、下に降りてはいけないと言っている。もしかしたら、これも以前の俺の知識がヒントをくれているのかもしれない。いずれにせよ、コの直感には従うべきだと思った。だから俺は上を目指す。


 当然道はない。まるで獣道だという表現があるが、獣道すら存在しない。上に向かうには、覆い茂る草や蔓をかき分けて進む必要がある。俺は気の枝を拾った。これっぽちで道を拓くのは難しいが、蜘蛛の巣を払いのけることはできた。それだけでも不快感を大きく減らすことができているので助かる。


 俺は道なき道を無心で突き進んだ。


 服装が長袖のシャツに長ズボンだったのは不幸中の幸いだ。おかげで擦り傷や切り傷をある程度防ぐことができている。しかし、0にすることはやはり叶わない。どこかで頬を傷つけてしまい、そこがずきずきと痛む。手の甲にも赤い線が付いている。それに、体中土にまみれてしまった。


 蔦を払い、突き進む。


 引っかけないように足を一歩一歩高く上げる。


 顔面で蜘蛛の巣を受けてから、苛立ちに木の棒を振り回す。


 いつの間にか書いた汗が服や肌に着いた土汚れと交じり、自分の体から人間のそれとは思えないような臭いがし始める。


 喉が渇いた。水が欲しい。


 足元で乾いた枝が折れる。


 こんな風にずっと歩き続けているが、ちっとも空が開けてこない。やはり上に行くのは間違いだったのだろうか? しかしここまで来て進路を変えるのは今までの努力の無駄になりそうで怖い。


 蔓を払う。


 足を上げる。


 蜘蛛の巣を払う


 体が臭い。


 枝が折れる。


 苦しい。


 蔓を払う。


 蜘蛛の巣を払う。


 足を上げる。


 苦しい。


 枝が折れる。


 体が臭い。


 蔓を払う。


 苦しい。


 苦しい。


 枝を踏む。


 足を高く上げる。しっかと土を踏む……ことができなかった。積もった葉っぱに足を滑らせ、空がひっくり返る。上下の間隔が狂い、次の瞬間後頭部をどこかにぶつけた。


「痛ーっ」


 反射的に後頭部をさすると、髪の毛がべとべとしていた。気持ち悪い。出血していないだけマシだと考えるべきなのだろうが、そんな前向きな思考を維持できるほどの気力は残っていない。もう既にかなり長い間歩いているはずだ。時計がないからなんとも言えないが体感8時間くらいは歩き続けていると思う。


 暑いし早く家に帰って寝たい。


 その家がどこにあるのかという問題はあるが……。


 だからこそこの山の頂を目指すしかない。もしも辿り着かなかった場合は、それが意味することはすなわち俺の死だ。


 ああ畜生。頭ががんがんする。


 しかし熱を持った頭は、次の瞬間に周囲の異常を感知した。俺以外の何者かが後方のかなり近い位置で草や葉を踏み締めている。その音の主が人間であるという結論に飛びつくのは、あまりにも楽観的すぎるだろう。


 俺は振り返った。視界の端に四足歩行の大きな動物を認める。うん。認めたくないが、あれが猪であると認めざるを得ない。


 猪から逃げる方法を、俺の記憶はなぜか知っていた。都合のいい記憶だなと思う。音を立てずに、猪の視界から隠れてやり過ごせば良い。隠れられそうな木は……。辺りを見渡す。あっちだ。あとはなるべく静かに移動を…………。


 あっ、俺、死ぬわ。


 急に方向転換をしたせいか、蔓に足をとられてしまった。今度は体が前に倒れる。そのせいで、がさがさと大きな音が出てしまう。猪がこっちを向いた気がした。やめろ。こっちに来るな。


 しかし俺の思いは届かず、獣の巨体はこちらに向かって突進してきた。あばよ、世界。


*   *   *


 目が覚めて、俺は自分が木漏れ日の下で倒れていることに気づいた。何本もの木々が天に向かって真っすぐに伸びている。ここはどこかの山の中だ。背中が痛くて、とてもひんやりとしている。山肌に織りなす湿った落葉の絨毯が、ところどころ凍っている。低体温症で死ななかったのが奇跡だ。


 どうしてこんなところに居るのかがわからない。……いや、わかる。俺は猪に跳ね飛ばされたんだ。


 とりあえず、怪我がないかを確認する。脚を軽く打撲しているが、幸いそれ以上のケガはなかった。こういう時の猪って何のために人を攻撃して、どこまで致命傷を負わせることを考えて突進をするのだろう? よくわからあないが、よかったよかった。


 さて、引き続き上を目指そう。手も足も頭も痛いし、お腹が空いて喉も乾いたが、何とか歩くことはできる。この山がどれくらいの大きさなのかはいまだにわからないが、もう前を向くしかないのだ。


 太陽が西に傾き、空を赤く染め、地平線の向こうに沈んだ。空がの色が青黒くなっていき、また一つ、気づいた。空に星が見える。つまり、さっきまで当たり前のように天に向かって伸びていた木々が、どこかに行ったということ。


 山の上の方にまでやってきたのだ。


 さて、あとは俺が行方不明者として捜索をされていたらいい。俺に交友関係がしっかりとあって、一人行動をしていなかったことを祈る。ここは日本なのだ。これだけ視界が開けたところに居たら、ヘリコプターで見つけてくれるのも時間の問題だろう。


 俺は最後の力を振り絞って、上の上の上。つまり山の絶頂にまで這いあがった。


 そして、見てしまった。俺が今いる山の周りには、さらに高い山が聳えている。360度ぐるりと全方位を見る。十六方位の全てに山、山、山だ。まるでこのちっぽけな山を守るための砦として鎮座しているかのようである。こんな絶望的なことがあるだろうか。


 畜生。


 俺は目を閉じた。

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