なかみゅ

 朝のホームルームだった。

 照明が教室を薄黄色に染めて、暖房がぽかぽかと温かい。

 窓の外を見れば薄暗い。粉雪がちらついている。もう一度室内に目を向ける。どこか外の世界から隔絶かくぜつされたような、ふわふわ浮いているような心地がする。ざわざわと騒がしい。先生の声がろくに通らない。


 皆、この空気に酔っているのかもしれない。


 先生がおもむろにチョークを取った。黒板の真ん中に、大きな文字で『人』と書いた。視線が集まるのを待ってから穏やかに語り出した。


「人という字はね、人と人が支え合ってできているんです」


 この言葉を皮切りに、協調性とか、規律の大切さとかを語り出した。要するに、「お前らうるさい黙れ」と言いたいらしい。

 実に便利な文言だ。少女は辟易へきえきとして『人』を見つめる。一旦静かになった教室はすぐに喧騒を取り戻した。

 

 四限の終わりを告げる鐘の音が響く。

 数学の先生が出て行って、半数くらいの生徒が流れるように続く。行先は食堂だ。

 残った生徒らはお弁当片手に席を移動して塊になる。少女は一人取り残される。もくもくと食事に集中する。


須藤すどうさんてさぁ——————」


 後ろの方から小さな声で囁くのが聞こえて、少女は反射的に振り返る。声の主は近くに座る女生徒達に顔を向けていた。少女の視線を受けて不思議そうに首を傾げて見せる。


「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 少女はおどおどと愛想笑いを浮かべながら食事に戻る。後ろですぐにひそひそ話が再開される。

 はっきりとした内容までは分からない。時々耳に入れたくない単語が聞こえる。気付かない振りをする。もう目を向けたりしなかった。


 少女はいつも一人だった。元々口下手だったせいかもしれない。

 入学してから学校に馴染めなくて、ひっそりと過ごしていたらいつの間にかいじめの標的になっていた。


『人』という字は、人と人が支え合ってできている。どこの誰が言い出したのだろう? 余程の皮肉屋に違いない。でなければ、頭の中がお花畑だったのだろう。


『人』という字は、人が人に寄りかかってできている。強者が弱者を踏み台にして世界を回してゆく。力ない者はいつだって上から押さえつけられる。そちらの方がよっぽど『人』らしいと少女は考える。

 だって、どう見ても『人』の左側と右側は対等でない。右の方が小さく、弱く、窮屈そうだ。誰でも右の払いを短く書く。


 賑やかなお喋りの止まらない教室で、少女は一足早く弁当箱を空にする。席を立って廊下に出る。昼の休みは、静かな図書室で読書にふけるのが習慣だった。


 小説を読むことが多い。この日は気になって漢和辞典を引っ張り出してみた。分厚い本の頁をぱらぱら捲る。すぐに見つかった。『人』だ。文字の成立ちに目を通してふっと乾いた笑いがこぼれる。

『人』という字は、人間が立っているのを横から見た姿に由来するらしい。左側の払いが腕と頭、右側の払いが胴に当たるようだ。元の形から大分崩れて面影は薄い。

 なるほど『人』は所詮一人だった訳だ。なんともあっけなくて寂しい答えだと少女は思う。


 ぱたりと本を閉じる。物憂げに窓の外を眺める。雪は大降りになりつつある。数年ぶりに積もるかもしれない。

 気付けば授業の始まる寸前だった。速足で教室に急いだ。


 放課後、帰ろうとしたら傘が見当たらない。最近は時々こんなことがある。雨や雪の降る日の帰りに傘が消える。次の日になると傘立ての中にぽつんと戻っている。ほっとしたらまた傘の必要な時になって同じ目に遭う。

 校内をしばらく探し回った。見つからない。仕方がないから、少女は傘を持たずに雪の降る外へ出ていくことにする。他人の傘を勝手に借りるような度胸はない。犯人はそれを承知で嫌がらせを繰り返しているらしい。誰かの嘲笑あざわらう声が聞こえてくるようだ。


 昇降口を一歩踏み出せば銀世界が広がっている。仄暗ほのぐらい。吐く息が白い。見上げれば蓋をしたような灰色の雲が遥か遠くまで続いている。ひらひらと白い粒々が降りてくる。少女の頬に雪の一欠けらが舞い落ちた。冷たく溶けて肌に沁みる。指先で触れる。首に巻いた桃色のマフラーを握りしめる。


 少女は歩きだした。肩に薄く雪が積もる。肌寒い。


 毎日、学校の行き帰りに夢想むそうすることがある。前から人が歩いてくる。少しずつ距離が縮まって、やがてすれ違う。その人は怖ろしい通り魔で、少女は通り魔の隠し持っていたナイフで刺されてしまう。そうやって短い人生を儚く終える。


 生きるのが辛いからといって、首を吊ったり、学校の屋上から飛び降りたりするような勇気はない。そんな意気地なしだから、暗い妄想で胸の底に淀む闇を満たしながら、日々をやり過ごす。


 校門を抜ける。

 青いチェックの傘が見えた。段々距離が狭まってゆく。すれ違おうとした時、少女は丸い瞳を見開いた。


須藤すどう?」


 目前の人は傘を上向けて話しかけてきた。クラスメイトの少年だった。突然言葉をかけられて狼狽うろたえる。少女は会話をしたことがほとんどない。向こうが名前を覚えてくれていたのに軽い驚きがあった。


「どうしたんだ? 傘も差さずに」


 少年が訝し気な眼差しで少女を見る。思わず目を泳がせる。本当のことを伝えるのは気まずかった。


「傘、失くしたの」

「失くした? 学校の中で? おかしなことを言う奴だなぁ」


 少年はますます不思議そうだった。

「……佐能さのう君は?」

 少女ははぐらかすように聞き返す。男子とあまり話さないけれど、クラスでも存在感のある生徒だったから、名前を憶えていた。

「ああ、俺、生物の教科書忘れて取りに戻って来たんだ。明日小テストだっていうのに、間抜けだよな」

 少年はおかしそうに言って見せる。返す言葉も浮かばないから、少女は別れを告げようとした。足を踏み出しかけた。


 少年が少女の手を取った。


「え」

「傘、入るか?」


 少年が傘を傾ける。

「私、平気だから。佐能さのう君、学校まで戻らないといけないし」

 少女がひかえめに断ると、少年は少女の手に傘の持ち手を握らせた。自信に満ちた顔で、すぐ戻る、と言うが早いかそのまま学校の方に駆けていってしまった。傘を預かっているから黙って帰る訳にもいかない。


 傘を持たない方の手に息を吐きかける。白く染まっては消えてゆく。じんわりと温かくなる。何度か繰り返していたら、少年の足音が聞こえてきた。思ったよりずっと早い。片手に教科書を持って、膝に手をついてぜえぜえと息切れしている。近くにいると熱が伝わるようだった。


「待たせて悪い」

「ううん」

「そうか。帰ろう」


 少年は荒い息で少女の顔を見上げて笑った。

「うん」


 少女は傘を手渡す。少年は背を伸ばして二人の頭上に傘を掲げる。今更少年の好意を無下むげにできる空気ではなかった。少女は愛想よく微笑んで礼を述べた。

 ぽつぽつと街の灯りがともり始めている。家々の窓から零れる淡黄あわき色の光が薄暗い足元を照らす。舞い散る雪の下で二人は歩を進める。


 一つの傘に二人で入るのは窮屈だった。身を寄せないと体がはみ出てしまう。気恥ずかしくて横を向けない。

 少年は黙って足を運ぶばかりで言葉を発さなかった。視線だけで隣に目を向ければ気負っている風でもない。普段から口数が多い方ではないのかもしれない。


 少女は会話のないことに息の詰まる思いがした。誰かに見られるかもしれないのを意識するとひどく居心地が悪い。

 堪えられなくて、何か喋ろうとするのだけど言葉が出てこない。家の外で自分から人に話しかけることなんか滅多にない。頭の中できちんと文言を考えてから、思い切って口を開く。


佐能さのう君」

「ん?」

「人って、どうやってできていると思う?」


 少年は目を丸くした。

「急にどうした? ひょっとして小テストの練習問題か? 確かリンと、炭素と、窒素と、えーっと」

 勘違いしているようだから、少女は掌を出した。少年の視線が向くのを認めてから、掌の上を指でなぞって見せる。始めに片仮名で『ノ』と書いて、その真ん中辺りから右下がりの払いを引く。少年は得心とくしんがおになった。


「そう言えば朝、神田先生が話してたっけ」

「うん。佐能さのう君の目には、人っていう文字は、どうやってできているように見える?」

 少年は顎に手を当てて考え始めた。疑いもなく先生のご高説を繰り返すだけかと思っていたから、少女は意外だった。ややあって考えがまとまったらしい。少年は一つ頷いた。


「地面に手をついてひざまずいている人間の姿、だと思う」

「え?」

「地面に手をついて、ひざまずいている人間の姿」


 少女が唖然として聞き返すと、少年は一言一句違わずに繰り返した。

「ほら、左側の払いを胴に見立てて、右側を両腕としたら、そんな風に見えなくもないだろ?」

 少年は見かけによらず歪んだ思考の持ち主なのかもしれない。自分に言えたことではないと分かっていながら、少女は胸の内で密かに勘ぐる。


ひざまずくときは頭をうつむけるのが自然だと思う。でも、佐能さのう君の言う通りに人の字を見たら、まるで空を見上げているみたい」

「その通りだよ須藤すどう。ただひざまずいている訳じゃない」


 それでは、神様にでもすがっているのだろうか。あるいは命乞いをしているのかもしれない。どちらにしても人間の無力さを象徴しているようで救えない。

「どういうこと?」

 少女が問うと、少年は微笑んだ。


「これから立ち上がろうとしているんだ。今はひざまずいているけれど、迷って、もがいて、苦しんで、必死に立ち上がろうとしている。人は皆、そうやって足掻いているんじゃないかな」


「面白い解釈だね」

 綺麗ごとには変わりないかもしれないけれど、看板みたいな理想論よりずっといい。見当違いの鬱々うつうつとした想像ばかり膨らませている自分が恥ずかしくなる。

 少女は眉を下げて力なく微笑む。ぽつりと呟いた。


「でも、私はきっと、ひざまずいたままで終わっちゃう気がする」

「そんなことはないさ。結末なんて死ぬまで分からない。それに、須藤すどうは頑張ってるじゃないか」


 思いがけない言葉に少女の胸がどきっとする。

「え?」

「いつも合間の休憩時間に、次の授業の予習してるだろ」

「……知ってたの?」

「俺、須藤すどうよりも後ろの席だからな。お前は窓側の席だし、外を見ると丁度視界に入るんだ」

「そっか」


 少女の頬が緩む。わずかに染まる。学ぶ意味なんて考えたことはなかった。他にすることがないから真面目に過ごしているだけだった。頭が良い訳ではないから、成績は平均より少し高いくらいで、人に注目される程でもない。だけど少女には他に何もなくて、誰かが認めてくれたら、なんてささやかな期待がまるでないかというと、そんなことはなかった。


 すっかり陽が暮れている。街を照らす光は人の灯りに取って代わった。街灯がぼんやりと輝いている。ぎしぎしと雪を踏みしめる音が響く。幻の中を揺蕩たゆたうように現実感がなくて、寒さを忘れそうだった。


 窮屈な傘の中で、少女は近くにある少年の顔を真っ直ぐ見る。少年も気付いて視線を返す。

佐能さのう君も、足掻いているの?」

「ああ、足掻いているとも」

 少年は胸を張って堂々と答えた。それから、気恥ずかし気に頭を掻いた。

「実は俺、成績ドベなんだ」

 少女の口から自然と言葉が滑り出てきた。

「勉強、教えようか?」

 少年は顔を綻ばせた。

「本当か? 助かるよ須藤すどう


 降り続く雪が羽毛のように静かな夜を舞った。


 ***


 空を仰げば突き抜けるような快晴だった。清々しい朝の空気が少女の胸を満たす。

 冬の陽射しが眩い。雪に反射してきらきら輝いている。昨日降り積もった雪は歩道からけられていたけれど、わずかに残ったものが凍りついて足を滑らせそうだ。少女は慎重に歩く。緊張に鼓動が速くなる。


 校門を抜ける。昇降口を過ぎて、階段に足をかける。

 少女の高校は、廊下の、教室に接する面にロッカーがある。


 少女が登校してくる時間に、いつもロッカーの前でごそごそと荷物を整理している女生徒がいる。ずっと話しかけてみたかった。でも、冷たく無視されたらどうしよう。答えてくれても心の中では煙たく思っているかもしれない。不安が心を重たくして、一度も言葉をかけられなかった。


 今日こそ話しかけよう。


 少女は朝、家を出る前に胸の中に誓った。うまくできたら少年にも話してみようか。さすがに面倒くさがられるだろうか。昼休みに五限の小テストに向けて一緒に勉強することになっていた。

 二階に上がった。教室に向かう。女生徒は今日もロッカーの前でしゃがみ込んでいる。ロッカーは上下二段になっていて、彼女のロッカーは下の段だった。


 少女は手前にある教室の入り口を通り過ぎて、女生徒の目前で足を止める。どきどきと心臓の音が耳に響く。気付いた女生徒が視線を上げた。


 立ち上がれないかもしれない。何も変えられないかもしれない。くずおれてしまうだけかもしれない。


 それでも、もう少し足掻いてみよう。


 少女は勇気を出して言葉にする。


「おはよう——————」




                                   (完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なかみゅ @yuzunomi89

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ