終 誰も月に来やしない

 正直に明かすと、そのとき少しだけ、躊躇してしまった。

 それを言ってしまえば、もう戻れない。乙羽は今、夜のオフィスで振り返ってしまった時とは比べ物にならないくらい究極の選択を迫られている。

 けれども躊躇いは本当に一瞬のことで、それは結局、最初から出ていた答えを得るのを先延ばしにしていたというだけのことだった。

 初めから天秤はそちらに傾いている。

 ただ、

 ……嗚呼、もっと話したかったなあ。

 両者の間の深い溝など埋められなくてもいいから、もう少し傍にいたかった。それは、愛惜という感情の発露だ。

 しかしそれと同時に、

 ……出会えて良かった。

 本気でそう思うのだ。だから乙羽は、決定的な一言を口にする。

「あんたが俺の〈ペア〉だから」

 言いかえれば、

「愛してるから」


      ◆


「〈ペア〉」

 呆然とした様子で、夜科はその言葉を繰り返した。

「君が、僕の……」

 まるで、幼子がゆっくりと、一つ一つ言葉を覚えていっているかのようだ。

 やがて夜科の脳はじわじわと理解を始めたらしく、何の表情も浮かんでいなかった夜科の顔が、ある感情で歪んでいった。

「そう」

 次の瞬間。夜科の両手が乙羽の首を鷲掴みにした。


      ◆


 痩せぎすだが色白で、中性的な見た目をしている夜科の力は意外にも強かった。勢い余ってソファに引き倒され、左手の薬指にある〈リング〉がちょうど喉仏の位置にあるのも相俟って、気道が的確に絞め上げられる。

「……ッ」

「そうか、君が僕の〈ペア〉」

 真っ黒い闇をそのまま閉じ込めたかのような夜科の瞳は、今や炯々と輝いていた。瞳の奥で燃え盛り、顔を歪ませている感情の正体は、怒りだ。

「なら、殺さないと」

「ょ、……な、さ」

「呼ぶな!」

 短い叫びと共に、更なる力が込められる。酸素を求めて勝手に開閉する口端から唾液が溢れ、夜科の手に滴り落ちた。そんな些事には頓着せず、夜科は熱に浮かされたようにこう続ける。

「僕が愛しているのは日和さんだけだ。僕の運命の人は日和さんだけだ。僕の心を奪っていいのは日和さんだけだ。僕達の間に誰かが入り込むなんて許さない。他の存在が僕達の邪魔をするなんて許さない」

 ポタポタと、雫が滴り落ちた。

「僕の愛を揺らがせるなんて、絶対に許さない」

 雫は、乙羽の顔を濡らす夜科の涙だった。

 明滅しながら狭まる視界の中で、確かに夜科は泣いていた。

 ……泣いてくれるんですか。

 乙羽に剥き出しの憎悪を向ける夜科の涙の、はっきりとした理由は分からない。だから、乙羽は自分に都合の良い解釈をすることにした。

 ……俺の為に、傷ついてくれるんですか。

 泡沫のような現実が、ただ愛おしい。

 誰よりも幸せを感じながら、乙羽は全身から力を抜く。息苦しさだけを明瞭に感じ取ったまま、意識は暗い海に突き落とされたかのように暗転し、

「────」

 かくして夜科鼎が捨てたものを、乙羽知成は永遠に手にすることが叶った。


  終

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Fly you to the moon 文室たまご @EggRoom

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