炊飯器
サエコは、幼い頃から何かにつけて褒められることが多かった。ひらがなの読み書きは4歳になる前にほぼできるようになっていたし、物覚えも良かった。運動はクラスで一番、と言うわけではなかったが、できないわけでもなく、欠点たり得るものではなかった。聞き分けはいい方だったが、自己主張がないわけではない。友好関係を作ることも得意だ。利発的で活発的。両親も、教師も、同年代の友人も。サエコに悪い印象を持っている人物はいなかった。
「サエコってさ、一体何者なの?何でもできるけど、まぁ・・・その、なんて言うか、特徴ないっていうか・・・。あ、ゴメン。マジで悪気ないんだ。表現悪くてホントごめん。ただ、その・・・なんか悩んでるっぽく見えたから、つい・・・」
ことの始まりは、放課後に順次行われている進路指導に遡る。サエコは最近受けた模試の結果から、そこそこ名前の知られた、なんとなく興味がありそうな大学・学部へ進学しようと思っていた。ありのままを話すと、教師は頑張れと言った。その話をケイスケにしたところ。先ほどの会話へと至る。
ケイスケは、高校でサエコと同じクラスの生徒だ。歌が上手く、全国ネットのテレビにも出たことがあるらしいが、サエコは見たことはなかったし、ケイスケが歌っているところを聴いたこともなかった。ケイスケとサエコは高校1年の時に同じクラスになったのをきっかけに出会い、よく話をする仲になっていた。両者とも、恋愛感情も、ライバル意識もなかったが、良き話相手、相談相手ではあった。
「悩んでるように見える?」
サエコが薄ら笑いを浮かべながら、ケイスケに視線を合わせる。その表情に、自分の語彙力の無さに悔いているケイスケは、ゆっくりと頷きながら返事をする。
「あぁ、うん。まぁ・・・いつもはもうちょっと元気があるかなー、とか」
あはは、と空笑いをしたケイスケから、サエコは視線を外し、窓の外を眺めた。秋が近づき、風が心地よい季節になってきた。葉は、まだ青い。
高校に入り、中学の頃とは違って、出会う人の数が増えたが、サエコは相変わらず褒められる一方だった。だが、段々と。その言葉の裏が気になり始めた。誰も、悪意を持ってサエコに話しかけている訳ではない。そんなことはわかっている。しかし。
「そうだよねぇ。元気ないのもそうなんだけどさ。ホント、ケイスケの言う通りなんだよ。私って中身ないなぁって、思って」
何でも平均より少し上くらいにはできる。勉強も運動も。しかし、どれもこれも。一番にはなれない。友人たちの、サエコは何でもできて羨ましい、の裏返し。
「みんなさ、私のこと、いいな、すごいね、羨ましい、って言ってくれるんだよ」
「何それ自慢?」
「いや、最後まで聞けよ」
「あ、わりぃ」
サエコはため息を吐いて、椅子に座り直す。視線を教室の中に戻す。南向きの教室は少しずつ薄暗くなってきた。二人しかいない教室は、やけに広く感じる。歪んだ机が、気になる。
「でもさ、それに続く言葉って、大抵決まってるんだよ、みんな。私なんて、これしかできないからね、って。絵を描くしかできないとか、走ることしかできないとか、数学しかできないとか。みんな、自分が好きなこととか、得意なことを知ってるんだよ。すごくない?ケイスケもだけど。これがいちばんとか、これしかできないって、いつわかったの?いつから知ってたの?」
「そう言われましても・・・」
消沈したケイスケの声を最後に、教室は静まり返った。何も書かれていない黒板を見つめているサエコが、大きなため息を吐いた。
「ごめん。こんなこと、言っても仕方ないの、わかってるんだけど。どれもこれも全部できるって褒められて、それが子供の頃から当たり前で。それがなくなると、私じゃなくなるみたいで。でも、何でもできる私は、何者でもなくて・・・」
「なんかパラドックスみたいだな。混乱してきたわ」
「だよね。私もずっと混乱してる。ごめんね、変なこと言って。帰るわ」
サエコはそう言うと、カバンを掴んで、教室を出た。落ち込んでいるはずなのに、伸びた背筋。ケイスケは黙って見送ることしか、できなかった。サエコは小走りで、家路を急いだ。この感情が、怒りなのか、哀しみなのか。苛立ち。何に対してなのか、整理しようとすると、何かが、邪魔をする。脳内を分断する、分厚い、壁。その前に、立ち尽くしているような、気分だった。
帰宅後、家族の話をやり過ごして、部屋に篭った。漫画や小説をパラパラとめくる。主人公達はどれも、目的、使命を与えられている。
(中途半端で、何をしてもそこそこできるけど、何事も人に勝てないなんて、そんな主人公見たことないな)
ベッドに倒れ込んで、目を閉じる。薄明るい闇の中、そんな主人公のストーリーを考えてみる。
(そっか、つまんないからか、そんな奴)
自嘲。虚しくなって。本を枕の下に隠した。
翌日、寝たら忘れてる、なんてことはなく、落ちた気分そのままで、学校へ向かう。
周りに悟られたくない。いつだって、完璧な。違う、完璧なんかじゃない。
混乱した頭が、気持ちが、整理なんてされているわけもなく、友人との会話にも生返事を返すばかりだった。心配する友人たちに謝りながら、何でもないよ、を繰り返して、放課後までをやり過ごした。サエコを元気付けようと、友人たちが出かけようと誘ってくれるのが、ありがたいはずなのに、しんどい。そう感じてしまう自分に、自己嫌悪。
「ホント、ありがとう。ただ、今日はちょっと図書室に行きたくって、ごめんね」
サエコの拒絶を感じ取ったのか、諦めた友人たちはサエコを置いて教室を後にした。深い息。カバンの中身を、わざとゆっくり整理してから、サエコは図書室に向かった。図書室常連客は、放課後30分でいなくなる。
サエコの読み通り、図書室は自習をする人がまばらにいる程度で、閑散としている。いちばん奥の机にカバンを置いて、興味が薄く普段は近寄らない書架を、ゆっくりと眺める。気分転換、という訳ではなかった。良く知らない言葉を眺めていると、悩み事が頭の中から消えたように感じた。一時的な対処療法。わかっているけれども、そうする以外に、今の不安を取り除く方法を、サエコは知らなかった。
「へぇ、珍しい本を読む子がいるんだね。何か探し物?」
ぼぅっと背表紙を読んでいただけのサエコに、声がかけられる。女性。教師ではない、はずだ。サエコは見たことがなかった。驚きながら、訝しがりながら。いいえ、と短く返事をした。保護者かもしれない。それにしては、若く見える。
「古代ギリシャ文明とか、世界史、専攻してるの?それにしても、ここ、マニアックな本しか置いてないのに」
何故か嬉しそうに話を続ける女性は、すでに何冊か手に取っているようだった。サエコが困っているのを見て取ったのか、慌てて女性が謝る。
「ごめんね、私、忙しなくって。いつも怒られるんだけど、つい、ねー。私、ここの卒業生なの。時々図書室使わせてもらってて。ほら、入館証」
来校者が守衛室で渡してもらえる入館証を差し出して、サエコに見せる。
(入館証とか、そういうことじゃなくって・・・。どうしていきなり話しかけてきたんだろう、この人。そういう人なのかな・・・?)
起きていることを、脳内で整理している間にも、女性は矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「ホント、私、怪しい人じゃなくって。って、こんなこと言ってる方が怪しいか・・・。あ、そうそう、私、作家なの。ほら”エリーの時計”っていう児童文学知ってる?あれ、私が書いたの!って知らないか・・・あんなマニアックな本・・・」
聞き覚えがあるタイトル。サエコも子供の頃に読んだことがあった。面白かったことは覚えているが、内容は朧げだった。また、短く返事だけをする。女性は満足そうに笑っていた。
「ごめんね、世界史の書架に生徒さんがいることって珍しっくて、つい。私も世界史が好きって訳じゃないんだけどね」
女性は笑いながら、またね、と言って本を抱えて去っていった。
(何だったんだろう・・・。嵐みたいな人・・・って比喩、初めて使えた気がする・・・)
しばらく呆然としていたが、サエコはすぐに書架に目を戻した。意味のわからない単語が羅列されている。興味が湧く訳でもない。少しずつ位置を変えながら、背表紙を読み続けた。気づけば、窓の外は暗く、室内には灯りが灯っていた。校内アナウンスが聞こえる。司書の声も、帰れと言っている。
(早いな。もうそんな時間か)
実りがある訳でもない、実に不毛な時間をたっぷりと過ごしたサエコは、疲れただけで、頭が整理された訳でもなく、気分が晴れた訳でもなかった。
(何してんだろ、私・・・)
自分の行いをバカらしく感じながらも、他に何かいい方法が思い浮かぶ訳でもなく。司書に挨拶をして、図書室を出た。薄暗い廊下。差し込む街灯。どれもこれも、サエコの気分を重くする以外の何者でもなかった。
「あ、さっきの図書室の子だ!」
背後から大きな声をかけられて、心臓が跳ねる。図書室にいた、あの謎の、五月蝿い・・・というのは失礼か。闊達な女性、だ。スリッパが追いかけてくる、パカパカという音が、嫌に廊下に響く。振り向くと、すぐ後ろにいた。
「今から帰るの?A駅?」
「あ・・・はい・・・」
「おばさんも一緒に帰ってもいい?私もA駅まで行くんだー」
そこまで老けているようには見えなかったが、自らおばさんと名乗った女性。コンプレックスでもあるのだろうか。多少違和感を持ちながらも、短く頷く。また、女性は笑った。正門で待ち合わせる約束をして、サエコは下足室へ向かった。下足室で靴を履き替えている間に、守衛に入館証を返却していたのだろうか、サエコが正門にたどり着いた時には、女性は守衛と和気藹々と会話をしていた。
時々利用させてもらっている。と言う話は、どうやら嘘ではなかったらしい。守衛は女性のことを「りえちゃん」と呼び、かなり親そうだ。
話しかけるタイミングを失ったサエコが二人から距離をとって待ちぼうけしていると、しばらくして守衛の方がサエコに気づき、声をかけた。「りえちゃん」は慌てた様子で守衛に別れを告げ、サエコに駆け寄る。
「行こうか」
サエコが頷くと、「りえちゃん」は守衛に手を振ってサエコと共に歩き始めた。駅までの道中、互いの自己紹介に始まり、主に「りえちゃん」が高校生の頃の話を、ほぼ一方的に話していた。サエコが寡黙な方、と言うことではない。サエコにはしゃべる隙が見つけられなかったのだ。
駅が近づき、駅前でサエコと別れた。電車に乗る前に用事があるらしい。
(ホント、嵐みたいな人だったな・・・)
話の内容を思い出しながら、電車を待つ。薄暗いホーム。遠くに見える山の尾根だけが、オレンジ色のグラデーションを発している。
(他人の主観と自分の主観か・・・)
当たり前のことなのだが、いざ考えてみると、自分の主観について、説明できることは少なかった。親は、友人は、教師は、どう思うだろう、考えるだろう。そんなことは簡単に出てくるのに。
(私自身が、私の行動をどう考えているか・・・なんだか、哲学的だな。よくわかんないや)
冷たくなり始めた風。絡まった思考を掻き消すように、電車が近づく音が大きくなる。サエコは簡単に出なさそうな問いを、思考の外へ追いやった。
電車の中、乾いたアナウンスが耳に響く。一度思考の外へ追いやったはずの、「りえちゃん」の言葉が再び頭をよぎる。
”私ね、あなたくらいの歳のころ、周りばっかり気にして、自分がどうしたいかなんて考えたことなかったのよ。それも後で気づいたんだけどね。一言で言うと自己認識が低いってことなんだけど。私は私自身の意見を持ってるつもりだったのよ、好きとか嫌いとか、理想像とか。でもね、結局ね、私のそれって、これを好きだと言うと他人からどう思われるから、これを好きだと言う、って感じでさ、全てが他人任せだったの。それでね・・・”
話は、彼女が作家の道へと進んだ経緯につながるのだが。それはさておき。
(私に、似てる)
直感的にそう思った。嫌われたくない、できれば好かれたい、そのために、好印象で優等生な自分を維持したい。
(だから、ケイスケにもあんなこと言われちゃうんだ)
”サエコってさ、一体何者なの?”
(ホント、何者なんだろ?私・・・)
どこから思考を整理すればいいのか、検討がつかないまま。ぼんやりと窓に映り込んだ自分を見ているうちに、降りるはずの駅を通り過ぎていた。
帰宅すると、19時を回っていた。帰宅部のサエコが連絡もなしに帰宅が遅くなったことに両親は心配していたが、図書室で勉強していたと言うと、あっさり理解されてしまった。安堵する反面、理解する。
(これが、私が作り上げてきた、私なんだ)
親の信頼。信頼されたいから、普段からどういう行動をとる。悪いことじゃない。「りえちゃん」もそう言っていた。だけど。
”他人にどう思われたいか、って、信用されたり、信頼されたりするためには、とても重要なことだと思うの。だから、その行い自体が悪いってわけじゃないし、誰もがフツーにやってることだと思うの。だけどね、私の場合、度が過ぎていたのよ、ホント。全ての判断基準が他人。私がどうしたいかなんて、考えたことなかった”
まるで、自分の事を指摘されているようだった。だからと言って、どうすればいいのかなんて、わからなかった。
陰鬱としたまま、着替えて食卓へ向かう。見慣れない料理。骨がついた肉、のようだ。
「これ何?」
母親は、得意げになってスペアリブのオレンジ煮だと教えてくれた。あまり、食卓に並ばない料理だが、スペアリブと言う名前くらいは知っている。まじまじと見つめるサエコに満足したのか、母親は話を続ける。どうやら、最近お気に入りのレシピサイトで見つけたらしい。その上、昨日の会社の帰りに偶然スペアリブが安売りしていて、今日の朝から仕込んでいたらしい。運命だと思って作ったと言う母親に微笑みかけながら、スペアリブを頬張る。美味しかった。
「すごいね。これどうやって作ったの?」
確か今日は定例の出社日とやらで、会社まで行っていたはずだ。煮込み続けるのは不可能なのではと思っていると、母親は誇らしげにキッチンの奥を指差した。炊飯器だ。なんでも、保温機能で放ったらかしにしておくだけでいいらしい。
そのほかにも、お気に入りのレシピサイトで炊飯器を利用したレシピをたくさん見つけたらしく、次はケーキを作るんだと、イメージ画像を見せてくれた。
(そっか・・・炊飯器・・・。なんか、私みたいだな)
サエコは、一見米を炊く以外には何もできないと思っていた炊飯器がいろんなことができると知り、自分と重ね合わせる。でもきっと。
(圧力鍋とかには敵わないとか、そんな感じなんだろうな)
心の中で自嘲する。いろんなことができる。一方で、炊飯器には持って生まれた随一の能力、炊飯機能がある。
(私にも、何か唯一の得意なこととかが、ホントはあるはずで。だけど、炊飯器とは逆に、それを応用する方を先に覚えちゃっただけなのかも・・・。都合良過ぎかな)
答えが出たわけじゃない、それでも。サエコの頭の中は靄が晴れたようにスッキリとしていた。解の方向性は見えた。あとは。
(探すだけなのかも。誰かじゃなくって、私がホントに好きなことを)
スペアリブを頬張った。今は目の前の、美味しい夕食を満喫しよう。悩むのは空腹が満たされてからでもいいはずだ。サエコは、図書室で出会った謎の作家の話を母親にしながら、夕食を楽しんだのだった。
青春のタイトルにはなれそうにないシリーズ @nilcof
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。青春のタイトルにはなれそうにないシリーズの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます