犬と猫と私

 犬派か猫派かと聞かれると、いつも返答に困ってしまう。

 帰宅すると尻尾を振って喜んでくれる。撫でて欲しそうに足下にお座りして、撫でやすい位置に頭を持ってくる。そっと毛並みを整えるように撫でてやって、しばらくして手を離すと寂しそうにこちらを見上げてくる。ボールや散歩紐を見せると飛び跳ねて喜びを表現する。人類のベストパートナーである犬を嫌いになる方が難しい。

 気が向いた時だけすり寄って来て、餌を要求する。ドア越しに入れろと鳴き、入れてやればゴロゴロと甘えてくる。しかし、こちらから触ろうとするとスルリと避けて高いところへと登ってしまう。触らせてくれたとしても、どこか諦めたような表情でなすがままに扱われ、触りすぎると爪を出す。可愛いだけで生き延びた猫を嫌いになる方が難しい。

 もう分かっていただけるのではないかと思うが、私は犬も猫も好きである。犬と猫の間に厳密な採点をしたとしても、そのときの体調次第では犬派にも猫派にも鞍替えする所存だ。

 そのような優柔不断な嗜好になってしまったのには、少々理由がある。

 私の実家では犬を一匹、猫を二匹それぞれ飼っている。

 最初にやって来たのは雑種の犬であった。毛色は柴犬であるが、尻尾や耳は垂れているレトリバーで、その外見が雑種を物語っている。小さい頃はやんちゃ盛りで、うっかり彼女(犬は雌だった)の手の届く範囲に靴を置いておくと、いつの間にか囓って破壊している。

 犬は悪いことをした瞬間に叱らないと、何で叱られたのか理解できないのだという。彼女の破壊行動に気付くのは、たいていの場合、彼女が破壊し尽くして満足した後であって、噛まれた跡がある残骸を、彼女の前に持ってきて「お前がやっただろ!」と恫喝したところで首をかしげるばかりであった。

 靴の破壊程度であれば可愛いもので、飼い主も学習し、靴を出しっぱなしにしないなどの対策を講じる。「悪いのは出した人間が悪い」とまるで自然災害のように扱った。そんな被害を受けることが多かったのは、もっぱら私であった。履く靴がなくなって、サンダルで学校に行ったこともあった。

 当時中学一年生だった自分は、泥だらけの前足でハイタッチならびにタックルを仕掛けてくる彼女により、毎日のように肉球型の泥が服に付着していた。

 そんな犬との生活から約一年後くらいに、家に猫がやって来た。両の手のひらにのるくらいの大きさで、あぐらをかくと脚の隙間に入り込んで丸くなりゴロゴロと鳴いた。ただそんな甘えてくることも極々マレだと知るのに、それほど時間はかからなかった。

 餌をくれるから甘えるという分かりやすい因果関係は、彼(猫はオスだった)をぶくぶくと太らせる。猫に自制心を求めるのは愚の骨頂だが、人間にも自制心を求めるのは誤りである。可愛さの前に人間は無力だ。自制心? 人間にそんな心はない。

 疲れて心が弱った時に限って、ゴロゴロとすり寄ってくる。これで恋するなという方が無理だ。骨を感じられない身体を撫で、鼻を押し当てて呼吸する。ちょっとドスの利いたミャーという掛け声と共に、顔に負傷する。心配げな両親を横目に、一人部屋に帰って笑うのだ。

 犬と猫を相互に可愛がり、歳をとり、いずれは別れの時が来る。先に去って行ったのは犬だった。家に帰り玄関に入ると、犬の死体があった。排泄物が玄関を汚していた。

 犬派か猫派か。私が愛した犬は彼女だけで、愛した猫は彼だけだろう。もうすっかり歳を取った彼の最期も、きっと看取ることになる。好きとはそういうことではないだろうか。

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文章の書き方を忘れた メモ帳 @TO963

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