仏像をめぐる話は以上で終いである。いや、正確に言えば、私は終いだと考えている。短いながらも、呪物と評される仏像と共に過ごしながら、私には何も起こらず仕舞いだった。結局、仏像を入れたゴミ袋は回収され、運ばれていった。ゴミセンターで事故や惨事が起きたという話は聞かないから、仏像は無事、燃やされてしまったのだろう。

 周りで人死にが相次いだことについて、私は大変な精神的ショックを受けた。私の身の裡では仏像の呪いと絡めて色々な悩乱があったが、今思い返してみれば、やはり、それらはすべて別個の悲劇であろう。これを仏像を中心に据えたひと繋ぎの出来事とするのは不謹慎であり、人の死を愚弄するものである。

 だったらなぜ、私は過去の出来事について、わざわざ本稿のようなものを書いたのか。これまでの文章は、明らかに呪物としての仏像を中心に据えて、それの影響で、すべての出来事が生じたかのような記述をしているではないか。読者諸賢はそうお考えだろう。

 白状するが、理性、合理主義的な考えを振りかざす一方、やはり「ひょっとしたら」という気持ちは私の身の裡から消えておらず、それは日を経てるほどに大きくなっている。

 本稿では、仏像に限らず呪いというものへの冷めた意見を書き連ねた。これは、私の漠然とした不安を掻き消すために、あえて露骨な表現を無理矢理ぶち込んだという面がある。本稿が全体として統一性を欠いているのは、そのためだ。歳をとると、若い時分には気にならなかったことが気になるようになり、不安に苛まれやすくなる。

 先日、読書をしていて「遅効性の毒」という一節が目に留まった。その一節から、私は稚気めいた考えを起こした。仏像をめぐって、結局、私には何も起きなかったように思える。だが実は、私も仏像の呪いに掛かっているのではないか。他の死んだ人々のような、即効性の呪いではなく、ジワジワと効いてくる遅効性の呪いに……。

 復、本稿の最初でも述べたが、昔から、私は幽霊見たさに降霊術を試したり、心霊スポット巡りを繰り返したが、何の成果もなかった。併し、それらは""その場では""何もなかっただけではないのか。もしかすると、そういった私の行動の積み重ねが、人生の終わりごろになって、一気に降りかかってくるのではないか。

 仏像の呪いと、それらの怪異、心霊たちが共謀して、この世の終わりのような恐怖と絶望を、いつの日か私に浴びせかけてくるのではないか。そんなことを考えて、私は恐ろしいような、楽しみなような、何とも言えない感情を身の裡に抱く。

 そして同時に、やはりそうした考え方は非合理であり、私は一種の混乱状態にあるのだと、面白味のない冷めた考え方をしている自分もいる。

 私は混乱している。

 いずれにせよ、私はいつか死ぬのだ。年齢から考えて、それも遠い話ではない。その時になれば、答え合わせはされるのである。それに事故死や突然死でもすれば、今すぐにでも、答えは判る。

 我々の心臓が、次の瞬間も動くという保証はない。死は、我々が生まれた時から常に、隣で我々のことを見つめているのだ。

 私や読者諸賢の最期がいつになるか、分かったものではないだろう。


<了>

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呪物殺し ぶざますぎる @buzamasugiru

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