ブラック企業勤務 松本旬




 自分の名前について、突っ込まれることはよくあった。

 似てるね、ならまだいいが。惜しいね、と言われたときの正しい返答の仕方を教えて欲しい。

 明らかに自分の顔を含めて「惜しい」という輩。

 松本 旬まつもと しゅんはいつも思う。口に出さなくていいのに、と。


 自分の人生において話題に上げることがすれば、こんなところだろうか。35年間生きていてなかなかに浅いが、ほかにぱっと出る事柄がないので仕方ない。


 子供の頃はよく空想をしていた気がするが、この歳になるとそれもなくなり、日々を繰り返すことだけの人生だった。


 旬はゲーム会社に勤めている。

 元はプランナー希望で入社を決めたのだが、人材不足と言われてプログラマーとして配属になった。

 入社当初から少し風変わりな会社だとは思っていた。部下がミスをすればすかさず暴言を吐き、オフィスは常に薄暗く、先輩社員の目には光がない。

 ディレクターが逃げたと耳にしたあたりから、まずい会社に来てしまったと悟った。

 就職氷河期世代ではないものの、入社して数ヶ月も経たずに転職することなど旬にはできなかった。

 

「おいマッシュ! まだ終わんねぇのかよ!」

「すみません、もう少しで……」

「口動かすなら手ぇ動かせや、ったく使えねーな」


 理不尽にも程がある。しかも「まつしゅん」は言いづらいからといって入社初期から勝手にマッシュと呼ばれ、旬の本名を知る者はあまりいなかった。普通に松本でいいだろ。


 若い頃は横暴な先輩にしごかれ、入社数年が経つと上と下の両方から板挟み状態となり、気づけばすでに35歳。ゲームを好きだと思う気持ちも、そもそもゲームをプレイした記憶すら薄まり、まさに奴隷のように働いていた。

 起床は5時、就寝はだいたい26時。家に帰れないことも珍しい話ではなく、会社で軽く仮眠をして勤務を再開する流れも多くある。


 魔法という概念が地球で確立されてから、10年ほどが経つ。

 隕石の映像は旬もテレビで観ていた。残念ながら自分には魔才はなかったが、空想上でしかなかったファンタジー要素が現実になったことに、震えたのを覚えている。


 それから世界は色々と変化していったが、ゲーム業界は廃れることなく何とか存続していた。


 ある時、外注先のプログラマーが納期を守らないどころか仕様書をガン無視して提出してきたことがあった。

 尻拭いを旬が強引に受ける形となり、少ない休日の時間を使ってなんとか仕上げたものの、次の日にはすべて同僚の手柄となっていた。別にチヤホヤされたかったわけじゃない。ただ、一言でも「ありがとう」と労いの声を掛けて貰えれば、それでよかったのだ。


「頼むよマッシュ。あの外注先、俺が依頼したとこだったんだ。名誉挽回のためにさ」


 呆然とする旬に、横取りした同僚はそっと耳打ちをした。そんなの知るかと思ったが言い返す気力もなく、結局その場は収まったのだが。

 なぜか同僚のミスが、あたかも旬が起こしたようなものとして話が広まっていた。

 今回の件を旬にバラされることを恐れたのか、同僚があることないこと社員に吹き込んだのである。

 もう、会社の人間すら信じられなくなった。


 淡々と、淡々と。

 タスクをこなす毎日、それに加えて耳障りな中傷。

 旬はぼうっとすることが多くなった。おそらく睡眠不足が影響しているのだろう。しかし、気づけば帰宅しても眠るという行為がうまくできなくなっていた。


 朝日が窓の隙間から差し込み、起き上がる。

 胸の当たりがズンと重い気がしたが、旬はいつも通り家を出た。


 ――俺、なにしてるんだろう。

 ――どこに向かってるんだろう。

 ――ああ、そうだ。会社、会社だった。

 ――早く会社に行かないと。


 立ち止まっていた旬は、ハッとして前に一歩踏み出した。

 その、瞬間。


「……っ!?」


 目の前に風が吹き上げ、我に返った旬は後ずさり、そのまま尻もちをついてしまった。


「大丈夫ですか?」


 そんな声が頭上から降ってきて、旬は振り返る。

 立っていたのは、学校の制服を身に纏う女子高生だった。

 艶やかで少し癖のある黒髪と、ぶ厚い黒縁メガネを掛けている。どんな顔をしているのかわからないが、レンズの奥でこちらを心配そうに見つめているのはわかる。


「あ、ああ……ごめん。少し、ぼうっとしていたみたいで」


 額に手を当てながら旬は答える。

 女子高生は「そうでしたか」と言って、手を差し出してきた。

 若い子に助け起こされることに羞恥を抱きながらも、うまく力が入らないので結局は力を借りた。

 本来ならここでお礼を言って去るはずが、どういうわけか頭がぼうっとして動くことができない。女子高生にじっと視線を送るサラリーマン。周囲に人がいなかったのがせめてもの救いである。


「あの。ここ、ちょっと汚れてます」

「え、汚れ……?」


 不意に、女子高生は距離を詰めて旬の肩に触れてきた。

 片手で優しくぽんと叩かれ、反射的に少しだけ仰け反ってしまう。

 その時、女子高生のメガネの隙間から、わずかに長い睫毛と美しい紫色の瞳が窺えた。

 メガネと髪でわからなかったが、とても綺麗な子だった。

 最近の子はよく目の色を変えているけれど、まるで元からその色かのように凄艶である。


「はい、取れました。──もう、大丈夫です」

「あ、どうもありがとう……」


 職務中もあまり話すことがないので、つい吃ってしまう。

 女子高生はにっこりと口元を笑わせていた。

 そして、大丈夫だと言われれば胸がすいた心地になる。


 重苦しかった胸の違和感も綺麗になくなっていた。


「それじゃあ……」


 ぺこっと軽く会釈をして、旬は踵を返す。

 少し歩いたあと、そういえば自分は電車に乗り込もうとしていたことを思い出した。

 しかし、乗ろうとしていた電車はすでに発車してしまっている。あの一本を逃せばいつも通りの時間につけない。その場合は焦ってタクシー乗り場に直行するのだが、今日は随分と落ち着いていた。


(俺は、いつまでこうしているんだ?)


 不意にやってきた疑問を前に、旬は何気なく空を見上げた。


「会社……やめるか」


 呟いた言葉は、そっと青い空に響いて消えていく。

 もう一度、旬は口にする。


「会社、やめよう」


 仕事に就くなら、べつにあの場所じゃなくてもいいのだから。




 1ヶ月後、旬は無事会社を退社した。

 労働ばかりだったこともありお金を使うだけの余裕がなく貯金だけはあったので、しばらくはのんびりすることに決めた。


 贅沢な無職生活の間は、色んなゲームをプレイして遊んだ。

 コンシューマーからソーシャルゲーム。

 物語終了後に訪れるやりきった達成感と少しの寂しさは、子供の頃と同じで旬の中に宿っていた。


 ──もう、大丈夫です。


 ふと、駅のホームで会った女子高生のことを思い出すときがある。思えばあの日を境に旬の世界は変わった。全身が重くて今にも呑み込まれてしまいそうだった感覚が消えたのだ。


 不思議な経験をしたと思いながら、旬は再びゲームをやり込む。

 やがて一通り気になったゲームを終えると、今度は自主制作に手を出し始めた。


 まるでこれまでの時間を少しずつ取り戻すように、旬はゲーム制作に没頭する。

 そうして完成したのは、一人の少女が主人公のRPGゲーム。


 紫の瞳と長い黒髪は、どこかで見覚えがあるキャラデザだった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現代魔女はひっそり楽しみたい(願望) @natsumino0805

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ