蛇神堂夜話

あきのりんご

蛇神堂夜話<短編>

「シマと申します。生贄にしてください」


 山奥の小さな祠の前で、みすぼらしい姿の少女は跪いた。

 年の頃は十歳。その小さな足で、ヤマザクラが咲き誇る山道を一人で登ってきた。登り始めたのは朝だったのに、既に日は中天を過ぎ西へ向かっている。風がヤマザクラの花を散らす。白い花弁がひらひらと舞い美しい。


 つぎはぎだらけの薄い着物をまとい、四尺半130センチの身長にそぐわぬ短い袖と裾から覗く木の枝のような細い手足。草履はぼろぼろで、今にも擦り切れそうだ。

 山の麓にある村は貧しく子供は労働力として期待もされるが、ごく潰しと呼ばれ間引かれることもある。

 シマは後者であろう。

 右頬に大きな傷痕があることも、捨てられた理由の一つだったのかもしれない。


 白い蛇の神が祀られているという〈蛇神堂〉へ、時折りこうして人間がやってくる。

 豊穣祈願の生贄という名目で村人たちが不要と判断した人間を送り込むのだ。


「帰れ」


 祠の前に立つ男は静かに言い放つ。男とシマは三間半6メートルほどの距離で対峙していた。

 男の声は低く、静かだった。人のものとは思えない、一切の感情を感じさせない声。

 白銀色に輝く長い髪が、血のように赤い瞳が、顔のあちこちに鱗が浮いた青白い皮膚が、男の正体を人間ではないと物語っている。


「ひぃっ」


 シマはその恐ろしさに身震いしたが、捨てられた子供に帰る場所などない。

 シマは腹を括って顔を上げた。そして強い意志を持って男を見る。


「帰れません!」


 シマはそう叫ぶと、自分が何故ここへ送り込まれたのかを話し始めた。

 昨年大雨が続いたせいで食糧が不足していること、末の妹が生まれたこと、要領の悪い自分は労働力として半人前以下であること、女子なのに顔に大きな傷があることから嫁ぐことはおろか売ることすら無理と言われたこと、さまざまな要因から親に「蛇神さまの生贄になれ」と命じられたこと。自分の身の上を一生懸命に話した。


「生贄になるとは、蛇神さまに食べられるということです。それで作物がよく育ち家族が腹いっぱいご飯を食べられるのであれば、無駄死にするよりマシです」


 シマは頭を地にこすりつけて一気にまくし立てた。もちろん死にたいと思ったことなんて一度もない。でも、自分が生贄になることで弟たちが幸せに暮らせるのならと覚悟しているのは本心だった。死にたくないのに、弟たちのために死ななくてはならない。

 死への恐怖で涙が溢れ、身体はガタガタと震える。それでも目の前の男、蛇神に食べてもらわなくてはならない。


「生贄になるまで帰りません!」


 シマはなんとか声を絞り出した。怖くても絶対に引き下がれない。

 土を踏みしめる音が近づいてくる。それはシマの前で止まった。男の草履が視界に入る。その足にはやはり鱗が浮いていた。

 しばらくの沈黙のあと、シマの頭上から「ふーっ」と長いため息のような声が聞こえた。その声が、さきほどと違ってあまりにも人間くさく、あまりにも面倒くさそうなので、シマは思わず笑ってしまいそうになった。


「お前」


 男が口を開くと同時に「ぐうう~」と大きな音が男の声を遮った。

 シマの腹の虫である。なんと間が悪いのか。シマは申し訳なさそうに真っ赤な顔を上げる。

 男は困ったようにワシャワシャと白銀色の頭を掻くと、くるりと踵を返した。


「ついてこい」


 男は祠の後ろ、木が生い茂る先を指差した。

 袖がめくれ、ちらりと見えた腕にも鱗があった。髪も肌も、舞い散るヤマザクラの花のように白い。

 人間に鱗が生えているはずがない。これは蛇神さまに違いない、シマはそう確信すると男の後ろをついていった。

 ヤマザクラの花吹雪の中を進む。幼いシマの足は小さく、ぽてぽてと歩き続けた。時折り走って男についていくが、すぐに置いていかれそうになる。そのたびに男は無言で止まり、シマが追いつくのを待っているようだった。


 しばらく歩くと小さな民家にたどり着いた。茅葺きの民家で、シマが家族と暮らしていた家より広くてきれいだった。

 男はそのまま家の戸を開け、シマに手招きする。


「入れ」

「は、はい」


 シマの頭の中は混乱していた。生贄はそのままパクリと飲まれると思っていたのに、まさか蛇神の家に招かれるとは。


 ――蛇は獲物を丸飲みするけれど、神さまはどうなのだろう。ばあちゃんから聞いた昔話のように、鍋にして食べられるのかもしれない。


 シマはぶるりと震えた。そして土間から続く台所に視線を移す。几帳面に整理されたまな板や包丁、鍋にかまど。どれもごく普通のものばかり。気になったのは、天井の梁からたくさんの草の束が吊るされていたことだ。

 シマは祖母が生きていた頃に作ってくれた兎の汁を思い出した。肉の臭み消しのためにさまざまな草を入れていた。吊るされた束には、青々しているものと乾燥して茶色くなったものが入り混じっている。兎汁と同じように、自分もこの草と一緒に煮て食べられるのだろうか。


「何をしている。上がれ」

「はいぃっ」


 シマは草履を脱ぎ部屋に上がる。部屋の中央にある囲炉裏には鍋がかかっていて、煮えた野菜が入っていた。

 味噌仕立ての美味しそうな匂いにシマの鼻がひくひくと動く。そして「ぐうう」とさっきよりも大きな音が空腹を主張する。シマは朝から何も食べていないことを思い出した。


「食べるといい」


 男は椀に鍋のものをよそうと、シマに渡して座るよう促した。


「あ、あの食べてもいいのでしょうか」

「そう言っている」


 シマが椀の中を見ると、大根や人参、白菜が見えた。少しだが肉も入っている。兎だろうか。シマをかわいがってくれた祖母が死んでから、家でこんな豪華なものを食べたことはなかった。親兄弟がみな食べ終えたあとの残り汁しか食べさせてもらえなかったことを思い出すと、大粒の涙が溢れた。


「ふえっ、えっ、んっ……」


 泣きながら野菜や汁を口の中へ流し込んでいく。美味しい。不思議なことに祖母が作ってくれた兎汁と同じ味がする。あれも味噌仕立てだった。短い生涯だがこんなに美味しいものを最期に食べさせてもらえるなんて、私はなんて幸せ者だろう。そう思えるほどに美味しく、体中に沁みわたるやさしい味がした。

 シマは結局、泣きながら三度おかわりした。男は無言で、シマが食べ終わるのを見ていた。

 腹が膨れて落ち着いたシマは囲炉裏の向かいに座る男に近づくと膝をつき、三つ指ついて深く頭を下げる。


「では、どうぞ」

「なんのつもりだ」


 男の呆れた声が響く。


「た、食べるのでは」

「食べる。鍋のものをな」

「へ?」


 間抜けな声を出すシマをよそに、男は懐から紐を取り出すと、面倒そうに長い髪を後ろでひとつに結んだ。

 不思議なのは見事な白銀の髪なのに、男の顔はシマの父よりも若く見えることだ。銀色に輝く鱗は浮かぶが、皺やたるみは一切ない。

 白い肌、白銀の髪、真っ赤な目。まるで兎のようだなとシマは思う。祖母が絞めて野菜と一緒に鍋に入れた兎。食す前日までシマも兄弟もかわいがっていた兎だった。

 シマが昔を思い出しながら男の顔を見ると、赤い瞳の奥に困惑のようなものが見えた気がした。男は目を逸らし、鍋のものを自分の椀によそう。


「あまり見るな。食べづらい」

「すみません、蛇神さま」


 男は椀を口から離し、シマを横目でじろりと睨む。


「儂は蛇神ではない」


 シマは、目を大きく開いたまま固まった。


「え。でも」


 鱗が生えているし……という言葉は飲み込んだが、男はシマが何を言いたいか察知したようだった。一息つくと、椀を置いて面倒くさそうに己の身の上を話し始めた。



 両親は普通の人間だった。生まれたときから肌の色は異常に白く、白い髪に赤い目をしていたので両親はかわいがってくれたが、まわりからは気味悪がられた。白い肌も赤い目も太陽の光に弱く、外に出るといつも皮膚が爛れてしまった。だからなるべく日の光に当たらぬよう昼は外に出ず、外に出られるのは日がとっぷりと暮れてからだった。ある日、その爛れが剥がれた下から銀色の鱗のようなものが現れた。そのせいで白い蛇のようだ、ひょっとして幸運の精ではないかと言う人間も出てきた。妙な信仰からこいつを食べたらいいことがあるのではないかと、命を狙われることすらあった。そのうちに「蛇の子」と呼ばれ忌み嫌われるようになった。外へ出ることがまったくできなくなったが、少し裕福だったおかげで、父親があちこちから集めた書物を読みふけり退屈とは無縁だった。両親が相次いで亡くなると家にずっと引きこもっているわけにもいかなくなった。特別な思い入れもない村を出て、遠くの山で人目を忍んでひっそり暮らすようになった。そんな暮らしを続けるうちに、山には薬になるような草がたくさんあることに気づいた。読み漁った書物で蓄えた知識と山の薬草を使い、鱗の浮いた肌を治せないかと試行錯誤するようになった。それで薬草を採りに出ると、たまに出くわす麓の村人たちから蛇の神と呼ばれるようになった。気づいたら小さな祠まで作られていた。〈蛇神堂〉と名付けられ、時おり祠の前に団子や果物が供されるのでありがたく頂戴することにした。



「人々が勝手に蛇神と呼ぶだけでこの身に特別な力は何もない。せいぜい薬を作るのが得意なぐらいだ」


 男は疲れたようで、自分の右腕を枕にして横になった。


「で、でもこれまでも何人か生贄が」

「確かに生贄が来たことはあるが、だいたいよその村へ連れていくことが多いな」


 幼い子どもや若者の場合、よその村の子どもを欲しがっている夫婦に引き渡したり、働き手を欲している商人に引き合わせた。

 男はじっとシマを見つめた。


「お前の顔の傷はいつできたものだ?」


 シマは己の右頬をそっと撫でた。


「これは四年ほど前に、父ちゃんと母ちゃんが大喧嘩をしたときにできたものです」


 喧嘩の原因が何だったかまでは幼いシマにはわからない。うっすらと覚えている両親が罵り合う声によると、村一番のべっぴんと言われた母の不貞を父が疑っていたようだった。

 子育てに追われ、畑を耕し祖母と一緒に家事をこなす母にそんなことをする時間があるはずがない。しかし父にはそんな理屈も通らなかった。力では父に勝てるはずのない母が手あたり次第にものを投げつけた。皿、鍋、まな板……あらゆるものが飛び交った。

 シマは部屋の隅で弟と二人、身体を丸くして縮こまっていた。じっと動かずに嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のようだ。

 父親は暴れる母を持ち上げると、力いっぱい投げ飛ばした。不幸なことに投げ飛ばされた母はシマにぶつかり、今度はシマが吹き飛ばされた。六歳の子供の体など簡単に宙を舞う。


 ドシャーン!


 シマがぶつかった衝撃で家の戸がはずれ、バックリと裂けた。シマはちょうど裂け目に顔からつっこむ形で着地した。


「シマやー!」


 祖母が畑から帰ってきていなかったらどうなっていたかわからない。

 村で医者の真似事をしている年寄りに診せたが、傷口を洗って止血するぐらいしかできなかった。そんな大怪我を治療できるような技術もなければ薬もない。

 それまで母と同じように村一番のべっぴんに育つと言われたシマの愛らしい右頬には、大きな傷跡が痛々しく残った。

 怪我をしてすぐの頃は父も母も罪悪感から優しかったが三年前に祖母が病で倒れたあたりから風向きが変わり、末の妹が生まれてからはすっかりぞんざいな扱いをされるようになった。かわいい末娘ができて傷ものになった長女など、どうでもよくなったのだ。

 妹は二歳になり母と同じくべっぴんに育つだろうとちやほやされた。シマから見ても妹は本当にかわいい存在だ。

 そして昨年の大雨による不作。役立たずのシマは生贄になるべく、祠へとやってきた。

 シマはもう一度、男に向かって頭を下げた。


「どうか、今年は豊作になるようにしていただけませんか」


 男はシマをじろりと睨む。


「天候を左右できるような力があったら、こんなところで隠居しておらん」


 言われてみればそのとおりだと思う。はっきりと宣言されてシマは拳を握り、その肩は震えていた。


「じゃあ、私はどうすれば」


 俯く顔から光るものがぽたぽたと膝の上に落ちる。男は起き上がり、シマの目から零れ落ちる涙を指で拭った。


「町で売る薬の仕入れにやってくる者がいる。町が無理でもほかの村へ行けるよう、そいつに頼んでやろう」


 シマは泣きながらコクコクと頷いた。死ななくていい、その事実から張りつめていた心と体から力が抜け、涙が止まらない。

 しゃくり上げながら泣くシマの背中を、男は黙って撫で続けた。

 日はすっかり暮れて、夜の帳が下りていた。



 チュンチュンと囀る鳥の声にシマは目を覚ました。見回しても白銀髪の男はいない。そして自分にかけられている薄い掻巻かいまきに気づく。昨晩は大泣きした自分を男がそっと撫でてくれていたところまでは覚えている。疲れてそのまま眠ってしまったのか。春とはいえ夜はまだ肌寒い。

 蛇神ではないと言っていたが食事を与えてくれて暖かく寝かせてくれるなんて、シマからしたら神様も同然だ。


 ――役に立たなくては。


 シマは決意新たに、起き上がった。

 掻巻やむしろを片付けていると、外に出ていた男が戻ってきた。小枝をいくつも脇に抱えているので柴刈りに出ていたのだろう。


「起きたのか」

「はい! おはようございます、神さま!」


 男は目を丸くし、抱えていた小枝をすべて落とした。シマが慌てて駆け寄り、枝を拾う。


「大丈夫ですか、神さま」


 男は眉間に目頭を指で押さえながら、ふーっと息を吐いた。


「神さまはやめろ。ヤトでいい」

「ヤトさま」

「さまもいらん」

「いいえ! 助けていただきましたから」

「……好きにしろ」


 ヤトは囲炉裏に火を入れると、昨晩の兎汁の残りに穀物の粉を丸めた団子を入れて温めた。シマはその手つきをじっと見る。


「ヤトさまは、ニシキという老婆を知っていますか?」


 ヤトは汁をかき混ぜながら少し考えているようすだ。


「三年ほど前に、そんな名前のばあさんが来たことがあったな」

「そ、そのばあさんはどうしてここへ」

「ときどき食べ物を供えてくれたばあさんだった。病でもうすぐ死ぬが、痛くて苦しいと言うので痛みを取り除く薬を煎じてやった。この兎汁はそのばあさんが作り方を教えてくれたものだ」


 シマの顔がぱあっと明るくなった。


 ――やっぱり、ばあちゃんが神さまに引き合わせてくれたのだ。


 シマの脳裏に祖母の笑顔が浮かぶ。


「ニシキは私のばあちゃんです。おかげさまで最期は苦しまず安らかに逝きました」

「そうか」


 ヤトは静かに答えると腕を組み思案する。そして薬箪笥の抽斗から小さな壺を取り出した。


「これもなにかの縁か」


 ヤトはぽつりと呟くと、静かに涙を流すシマに小さな壺を渡した。


「儂が作った軟膏だ。お前にやる。儂の肌は治らなかったが、お前の顔の傷は目立たなくなるだろう」


 それからシマはヤトと共に暮らし、もらった軟膏を毎日顔に塗り続けた。そしてヤトから山で生きていくために必要な知識と技術、そして薬の調合を教わるようになった。

 春には山菜がよく採れる。雨が降りヤマザクラの実が生ればそれを食べにくる鳥を捕る。夏には川で魚が釣れる。秋の山ではどんぐりや茸が実る。食べられるものとそうでないものをしっかり覚える必要がある。寒くなる前に野菜は干して長期保存できるように加工する。冬は親からはぐれた猪の子を捕えて肉の解体や加工方法を学んだ。

 季節が移り替わってもヤトの見目は変わらないが、シマはどんどん成長した。最初は親子のようで、次第に兄妹のようになり、そして夫婦のようにも見える奇妙な二人暮らしが続いた。




 山向こうにある町に向かって、一組の男女が山道を歩いていた。二人とも頭に傘を被り背中には大きな木箱を背負い、風呂敷を体に巻き付けて固定していた。木箱の中にはさまざまな薬が入っており、町で売るために運んでいるのだ。

 一人はごま塩頭の中年男で、もう一人はうら若い乙女。並ぶと親子のようだ。


「シマちゃんもべっぴんさんになったのう」

「ゲンさんたら上手なんだから。ヤトさまのおかげですよ」

「顔の傷がすっかり消えてよかった。やっぱりヤトさまの薬はよく効くんじゃ」

「本当に」


 しみじみ話しながら歩いていく。ゲンと呼ばれた中年男は、もう二十年以上ヤトの元へ薬を仕入れに通っている。十六歳になったシマはゲンの手伝いをするため、ついてきたのだった。顔の傷はすっかり消え、母によく似た美人になった。


「シマちゃんにもそろそろ縁談を探さないといけないなあ」


 ゲンの言葉にシマは眉根を寄せた。


「いいえ、私はずっとヤトさまのお手伝いをするつもりです」

「ははは。そうじゃのう。神さまみたいなお方じゃからのう」

「はい」


 シマは頬を染めた。シマにとって命の恩人であるヤトは神さまのような存在である。しかし、それだけではない。

「おいらも若い頃からヤトさまのところに通っておるが、年を取るのはおいらばかりでヤトさまはまったく変わらないのう。蛇神ではないとおっしゃるが、神さまじゃなくても神さまに近い何かには違いねえ」

「本当に」


 そうでなければこんなに効く薬を作ることもできない。そんな話をしながら二人は町へと向かった。



 二人が町へ出発して五日後の夕暮れ、ゲンが血相を変えてヤトの元へやってきた。


「ヤトさま! 申し訳ありません!」


 斬りつけられたようで衣服はあちこちが切れて血が滲んでいる。命からがら逃げてきたようすのゲンに、ヤトは水を飲ませた。


「落ち着け。何があった? シマはどうした!」


 息も切れ切れに涙を流しながら、ゲンは二人に起きたことを話し始めた。

 蛇神堂を出て三日後には目的の町へ着いた。

 いつもの業者に薬を卸して宿へ向かっていると何人もの破落戸を引き連れた身なりのいい若い男がシマに目を付けた。

 ゲンにはすぐわかった。その男は二つ向こうの町奉行の末の息子で、あちこちの町で暴れまわり問題を起こす放蕩者で有名だった。父親の膝元では暴れられなくなり離れた町に現れるようになったと噂されていた。


「薬売りか。ちょうどいい、風邪に効く薬を売ってくれ」


 ニヤニヤといやらしい顔で破落戸たちがシマとゲンに近づいてくる。


「すいません、もう薬は店に卸しちゃったんでないんですよ~」


 ゲンがヘラヘラと笑顔を浮かべて彼らから距離と取ろうとすると、シマがゲンを除けて前に出てしまった。


「風邪ならこの薬が効きますよ」


 ゲンはシマに邪悪な人間がいることも教えていたが、山に籠っていたせいかシマはまったく理解していなかったようだ。とくに最近は自分が作った薬の評判がいいので、やっと一人前になったと浮かれているところもあった。

 男たちは薬を開けるとぺろりと舐めて「ぺっ! 苦い! 俺たちに毒を飲ませる気か!」と怒号を浴びせると二人を取り囲んだ。そしてシマをゲンから無理やり引き剥がし、連れ去った。ゲンはできる限り抵抗したが破落戸たちに刃物で斬りつけられて、逃げ帰ることがせいいっぱいだった。


 話しながらゲンは、目の前にいるヤトの顔を見ることができなかった。その場の空気が、まるで真冬の深夜のように冷えている。ガタガタと体が震える。寒さだけではない、恐ろしいのだ。その恐ろしさの正体はきっと、目の前にいる――。


「ゲン、嵐が来る」


 不自然なほど静かなヤトの声に、ゲンは耳を疑った。さっきまで雲ひとつない天気だったはずだ。遠くからゴロゴロと雷の音が近づいている。ゲンの鼻がヒクヒクと動いた。雨のニオイがする。大雨になりそうなニオイ。

 そして、いつの間にか辺りが暗い。夕暮れ時だがまだ灯りをつけなくてはならないような時刻ではなかったはずだ。急激に真っ黒な雲が広がり外は一気に暗くなり、灯りのない室内ではヤトの表情が見えない。


「雨が降る前に家に戻れ。そして、ここへはもう来るな」


 ヤトの静かな声色に言いようのない怒りが感じ取れる。暗闇の中で朧気に見える白銀の髪はひとつひとつが蛇のように波打ち、赤い両目は暗闇で妖しく光る。


 ――神さまじゃなくても、神さまに近い何かには違いねえ。


 町へ向かう途中、シマと呑気に交わしていた会話を思い出す。ゲンの背中に冷たいものが流れた。


 バターン!


 大きな音を立てて戸が外れ、裂けた。そこから家が軋むほどの強風がゴオーッと吹きすさび、家の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。

 強風の中心にはヤトがいた。


「ヤトさま!」


 ゲンは風に飛ばされないよう柱に捕まり叫ぶが、返事はない。風はグルグルと周りながらそのまま上昇し、屋根を突き破って空へと上がっていく。

 完全に破壊された家屋の中心でゲンはヘナヘナと膝をついた。力なく空を見上げる彼の目に映ったのは、風とともに雷雲をまとい遠い空へ向かう巨大な白い蛇の姿だった。




 ――どこかで雷が鳴っている。


 嵐がきているのだろう。ゲンさんは無事に逃げられただろうか。迷惑をかけてしまった。ヤトさまに怒られてしまう。いや、破門されるかもしれない。弟子がこの体たらくで本当に申し訳ない。

 シマは薄暗い牢の床に横たわり、そんなことを考えていた。体は重く、動かない。肩から斜め一文字にばっくりと開いた傷口から、血がとめどなく流れていく。石造りの床は一面赤く染まっていた。


「はっ、はっ……」


 浅い呼吸をなんとか整えようとするが、無駄なあがきに思える。こんなに血を失ってしまってはもう手遅れだ。遠のいていく意識を、理性がなんとか繋ぎとめている。

 破落戸たちに連れてこられた屋敷の牢に閉じ込められ、襲われて抵抗したために斬られてしまった。

 親から生贄になれと言われた幼いあの日、この命はいつ消えても仕方がないと思っていた。ヤトに助けられてからは死んではいけないと思うようになった。ヤトは蛇神ではないと言っていたが、数年一緒にいたからわかる。神でなくとも神に近い存在には違いない。こんなところで無駄死にするぐらいなら、生贄としてヤトに命を捧げておくべきだった。

 そんなことばかり考えてしまう。


「シマ」


 薄れゆく意識の中、ヤトの声が聞こえた。普段より優しい声をしている気がした。


 ――ヤトさまがこんなところにいるはずがない。

 幻覚だろうか。いや、優しく頭を撫でてくれている。この手の感触は幻ではない。


「ヤト、さ……ごめ、なさ……」

「話さなくていい」


 どこかで雷が落ちる音が響く。柱が倒れる音、天井が崩れる音がして、人々が逃げ惑う声が聞こえる。


「雷が落ちたぞ!」

「とにかく避難しろ!」


 遠くでそんな怒声が響いていたが、シマの耳には届かなかった。

 目はもうほとんど見えない。シマは力を振り絞ってヤトの声がする方へ手を伸ばした。

 ヤトはシマの手を掴み、己の頬に当ててやった。その肌は、冷たい鱗の感触しかしない。しかし鱗の肌を温かい水が伝っている。自分のために涙を流してくれているのか。


 ――やっぱり、神さまだ。とても優しい、蛇神さまだ。神さまでなければこんなところまでやって来られるはずがない。

 それならば、出会った頃のとおりに。


「生贄に、して、くださ……」


 もう声を出す力もない。シマはそれだけ言うと、そっと微笑んだ。

 シマの手は力なく床に落ちた。


「ああああああああああッ!」


 ヤトが苦しそうに叫ぶ。鱗に覆われた額の両端がメリメリと音を立てて割れた。内側から大きな角が伸びる。赤い目は左右に引っ張られる形でつり上がり、口の両端はビキビキと裂けて大きく開く。開いた口から覗く赤い舌は先が二つに割れていた。

 赤い瞳が爛! と燃えるように光る。

 ヤトの体はメリメリと形を変えていった。


「うおおああああッ!」


 慟哭が響く。

 崩れる柱。傾いていく天井。凄まじい風が巻き起こり、屋敷は崩壊していく。その中心にいるのは、十六尺5メートルを超えるであろう白くて巨大な蛇。ほんの少し前までヤトだった大蛇は、シマの身体を頭からごぼりと飲み込んだ。

「ひいいいい! 蛇が、蛇があああ」

 牢にやってきた看守と思しき男を、大蛇は振り向きざまにぎろりと睨むと尻尾の一振りで吹き飛ばした。そしてそのまま、崩れた屋敷の壁から外に出て、風とともに空へと舞い上がった。

 その日、かつてないほどの強い嵐で町はたった一晩で壊滅した。とくに被害が大きかったのは町奉行の屋敷だった。

 白い大蛇が舞い上がるのを見たという人間も何人かいたが、すべては嵐が見せた幻覚とも、町奉行の息子が白蛇神の怒りを買ったとも言われた。



 白い大蛇は、住処の山へと戻っていた。シマと暮らしていた家はそのほとんどが嵐で吹き飛ばされて数本の柱しか残っていない。

 その中心へゆっくりと降りていき、寛ぐようにとぐろを巻く。

 遮るものがない家屋の跡地に月光が降り注ぎ、大蛇の白い鱗がキラキラと輝く。その腹は大きく膨れ上がっていた。


〈シマと申します。生贄にしてください〉


 幼い少女との出会いを思い出す。大蛇の目から涙が零れた。腹の中は着々と消化を始めている。数日もすれば骨も残さず大蛇の血となり肉となるだろう。大蛇はゆっくりと目を閉じた。


 ――お前の願いを叶えよう。愛するお前の望みならば。

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