小夜啼き人魚
尾八原ジュージ
小夜啼き人魚
失踪した兄のところから人魚を引き取ってきた。
体長は一メートルほど。乳白色の鱗は、下半身のほか頬や肩にも生えていて、光が当たるときらきら光る。きれいでかわいらしいけれど、この子の水槽を置いたら部屋がひとついっぱいになってしまう。私は家中の不要物を処分し、本を売ってなんとか人魚のためのスペースを拵えた。
さいわい飼いやすい個体である。持病もないし、生き餌でなくてもよく食べる。水槽の中で器用に身体をくねらせ、鱗をきらきら光らせるさまは息が止まるほど美しい。時々水槽の縁に顎を載せて窓の外を見たりするのも愛らしい。味気ないひとり暮らしに潤いが生まれたようで、なるほど人魚を飼うのはよいものだなどと考える。
ひとつ困ったことがあるとすれば、この子はたまに夜啼きをするのだ。辺りが静まり返った午前三時頃、時々笛を吹くような声が部屋の中に響き渡る。透き通って美しいが、とても悲しい。調べてみると人魚の小夜啼きという行動だそうで、自然界ではこうして仲間を探すのだそうだ。
「あんた、うちの兄さんを探しているの?」
小夜啼きをする人魚に話しかけても、彼女は何も答えない。まあるく開いた口の中には、糸の子のような鋭く小さな牙が並んでいる。この人魚は肉食である。
「まさかあんたが食べちゃったんじゃないよね?」
戯れに尋ねると、人魚はほんの少しの間小夜啼きをやめて私を見た。人魚が人間を食う。全くない話ではないけれど、それにしてはこの子の身体は小さすぎる。兄のような成人男性をひとり丸々平らげるのは難しい。
失踪から一月、兄はまだ行方不明のままだ。どうせしょうもない事情で逃げ出したのだろうけど、人魚を放ったらかしていくのはいただけない。
人魚の下腹部が膨らみ始めた。
病気だろうか。一度医者を呼ばなければと思っていたら、ある真夜中、例によって小夜啼きが始まった。
今度は長い。お腹を押さえ、顔を水面に出して、人魚はいかにも切なそうに歌う。ようやく静かになった頃には、もう夜が明けていた。
水槽の中には、今しがた人魚が産み落としたばかりの、人魚の稚魚が揺れていた。産まれたばかりでまだ手のひらサイズだというのに、もう腕を動かして泳ぎ始めている。
「お腹が膨らんだと思ったら、この子が入ってたのね」
私の言葉がわかっているのかいないのか、人魚は上目遣いでじっとこちらを見つめる。
「あんた、まさかそれ兄さんの子どもじゃないでしょうね」
人魚は知らん顔をしている。まぁ種などどうでもいい話かもしれないと思い、私は彼女に「おめでとう」と言った。
乳白色の鱗に朝日を反射しながら、大小の人魚が水槽の中をくるくる回る。
私は嬉しいけれど疲れ果ててしまって、水槽の前でうとうとと眠った。
出産後、人魚は小夜啼きをしなくなった。きっと寂しくなくなったのだろう。よいことだけれど、あの歌が聞けなくなったのは少し寂しい。
稚魚がひとまわりほど育った頃、真夜中にひょっこりと兄が訪ねてきた。どこに行っていたか知らないが、自宅に人魚がいないのに気づいて探しにきたらしい。
「人魚なんて知らないけど」
私はすっとぼけて答える。
「そろそろ出荷の時期だったのに」
兄は悔しそうに言う。
兄はここ数年、人間の男の精液を使って人魚を孕ませ、産ませた稚魚を売っていたのだという。好きな男に顔が似るからというので、一定数の愛好家がいるらしい。
ああ、あの人魚の小夜啼きは取り上げられた我が子を探していたんだな、と私は悟る。
「そんな大事なものなら、何ヶ月もほっとくんじゃないわよ」
「世話なんか半年くらいしなくたって生きてるんだよ、ああいうのは。お前、まさか人魚隠してないだろうな」
そう言うと、兄は土足のまま私の家に上がり込もうとする。私は頭の中で理性の糸が切れる音を聞く。
気がつくと兄が足元に倒れており、私は血塗れの包丁を持って佇んでいた。
死体を浴室に運んで解体したあと、人魚の部屋に向かった。人魚の親子は水槽の中で寄り添って眠っている。カーテンの隙間から差し込み始めた朝日に、乳白色の鱗がきらきらと煌めく。
私はそれをうっとりと見つめる。もう兄の人魚ではない。私のものだ。
小夜啼き人魚 尾八原ジュージ @zi-yon
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