はこゆめ

 まぶたの裏側にうっすらとした光を感じたような気がして、わたしは無意識に顔をしかめた。暗がりの中、這い回っていた手のひらの先が、どこかしらの壁に触れたかのような鈍い感覚だった。

「おねえちゃん、おはよう」

 それに答えるかのように瞳を開くと、前髪の長い女の子がわたしを見下ろしている。目がかすんで、彼女が着ている服もそのほかのことも、わたしにはよく分からなかった。

「驚かせちゃったかな」

 彼女の声を聞きながら、わたしは目だけで辺りを見回す。暗いんだか明るいんだか、そして広いのか狭いのか、とにかくわたしがここで自由に動けるという感じはしなかった。頭の奥が痒い。思わず頭に手を伸ばそうとしたが、それは遮られた。手足は拘束されているのか、ぎし、と音を立てただけで、それ以上何も起こらない。

「ねえ、わたしは、寝かされているの?」

 問うと、女の子は少し考えて、

「そうなるね」

と答えた。

 わたしが黙りこくったので、女の子は可笑しそうに肩を揺らした。一瞬何だかとても腹が立ったが、その感情も直ぐに消えた。どうやらわたしは疲れているらしい。しかしその理由は分からなかった。

「ずっと寝ていたからだよ」

「え?」

「だから身体が動かないのよ」

 そうか、と思わずため息をつくと、女の子は明るく笑った。

「もう目が覚めたから、大丈夫だとは思うんだけど」

 この謎の空間に、この人物は不穏だ。わたしが答えずにいると、女の子は首をかしげ、ああ、と言って頷いた。

「あたし、妹だよ」

 何を言っているのか分からない。いもうと?

「わたしはひとりっ子だけど……」

 またも彼女はけらけら笑って、何言ってるの、とわたしの肩をたたいた。

「忘れちゃったの、おねえちゃん」

「あたしよ、アンよ」

 女の子は自分の名前を繰り返したが、わたしの顔は青ざめるばかりだった。

 わたしに妹はいない。いや、兄弟はいない。それは確か。なら両親は? 親戚は? いとこはいた?

 手足にじんわりと汗をかき始めたのが分かった。この子は誰だ。いや、その前に、わたしは誰だ。ここは?

 様々な疑問が頭の中を埋め尽くす。冷たい金属音のようなものがどこからともなく繰り返し聞こえてくる。触れると指が千切れそうに冷たい銀のさじに鉄球のメトロノームが一定のリズムを保ってボーンボーン、音を出しながらぶつかっては離れている、そんな音だ。

 たまらず目を強くつぶる。こんな場合はどうしたらいい? ああお願い、苦しい嫌な結末にだけはしないで。

「だいじょうぶ?」

 肩を揺さぶられた。わたしは目を瞑ったまま、大きくかぶりを振った。

「まだ目が覚めない?」

 えっ、と思った瞬間、小さな手のひらがわたしの首筋に絡みついた。それは華奢なのに、信じられないほどの力を持っていた。いや、わたしが弱まっているからそう感じるのか。思わず目を開けた。

 女の子、いやアンが、目を見開いたままわたしの首を締め上げる。口角はかすかに上がり、その目は乾き充血しかけている。

「やめ……」

 そう口にするのがやっとだった。一体、何が起きているのだろう。

「おねえちゃんはうちに帰らなくちゃいけないのよ」

「ここにいたってつまらないでしょう?」

 首に伝わる力が強くなり、わたしは思わず自分の両手でアンの手を引き剥がそうとした。拘束されていることも、忘れていた。わたしがばたばたと動くので、寝かされていると思われるベッドだか何かが軋んだ。

 アンが笑った。そして言う。

「まだそんな力が残っていたんだね」

 

 ばたん、と大きな音がして、四角い光が現れる。どたばたとしたそれは幾人かの足音のようだ。

「はい、大丈夫ですからね」

「もう楽になりますよ」

 その何者かはすいとわたしに近寄り、首筋に何か冷たいものを打ち込んだ。何も見えなかった世界が、また闇に飲まれてゆく。アンはどこにもいなかった。


 夢など見ない。夢を見る、それはとても贅沢なことだ。あるのはただ黒と白の闇。明るい闇もある。何も見えない、それはいくら白く光っていても、闇夜と同じだ。

 さっきのようなメトロノームの音もしない。起きているのか、眠ったままなのかも分からない。ただわたしは泣いていた。何か口にした覚えもないのに、涙は出るんだな。

「まだここにいるつもりなの、おねえちゃん」

 アンの声がする。目を開けてみても、姿は見えなかった。

「せっかく出られると思ったのに」

 少しだけ残念そうな声を出したアンに、わたしは訊いた。

「あなたがわたしの妹だって言うなら――」

「言うなら?」

「ここに来てくれてありがとうね」

 アンはしばらく何か考えていたようだった。うーん、と言って、わたしに近づいたのか、彼女の前髪がわたしの鼻に触れたのが分かった。

 出られるならわたしもここを出たい。この箱のような闇から、這い出したい。だけどわたしは怖かった。わたしはちゃんと立てるの? わたしはわたしとして、そこにいられるの?

「あたしたちは一緒にいちゃだめなんだって」

 アンの前髪がくすぐったい。わたしは初めて自分が笑い出しそうになっていることに気がついた。

「みんなあたしたちみたいになりたいはずなのにね」

 わたしは目を閉じたまま、アンを抱き締めた。もう手首は自由になっていた。


 遠くからかすかに声がする。先ほど四角い光の向こうからやってきた、あの冷たいものをわたしに差し込んだ何者かの声だ。

「誠に残念ですが――」

 わたしの胸の中で、アンが笑った。わたしもつられて笑った。アンの頭を撫でる。前髪をかき分けると、その瞳の奥はつぶらな優しい瞳をしていた。

 何が残念なの。わたしたちはこんなにしあわせなのに。

 ねえ、アン?

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そんなに遠くなくても 桐月砂夜 @kirisaya

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