真夜中レモネード

 この街にある図書館の休憩所はこじんまりとしている。皆静かに過ごしているから、此処の自動販売機が飲み物を落とす音でさえ、本館に響くのではないかと思えた。冷たい麦茶のペットボトルを傾けて、このじりじりと暑い日々がいつ落ち着くのだろうと憂鬱になりながら、わたしはキャップを閉めた。


 その時、ふいに声を掛けられた。名前を呼ばれて顔を上げると、有香ちゃんがわたしを見ながらにこにこしている。受けているゼミは違うけれど、去年の学園祭で仲良くなった同じ学年の子だ。

「あれ、有香ちゃんも此処に来てたんだ」

 有香ちゃんは淡いイエローのワンピースを着ていた。それはまるで爽やかなレモンのようで、わたしは頭の中で緑色の葉っぱを彼女の胸元へ置いた。

「家にいても捗らないから、たまに来るの」

「そうだよね、分かる。わたしもそう」

 答えると有香ちゃんは苦笑して、わたしの横に立つと、同じように自動販売機でアイスティーを購入した。ごとん、とそれは先ほどと同じように音をたてたけれど、ふたりでいるせいか不思議とその音は大きくはなかった。ふと、有香ちゃんが分厚い本を抱えているのに気が付いた。

「何を読んでたの」

 ああこれ? とわたしの問いに彼女はまたもにこっと笑った。笑うと少しだけ垂れ目になる彼女のこの笑い方はとても愛嬌があって、わたしはそれが好きだった。

「ひとの死について書かれている本なの」

 彼女はそう言うと手元のそれに目を落とした。

「ひとの死ってなに?」

 物騒なその表現にわたしが眉をひそめると、彼女は慌てたように付け加えた。

「何と言えばいいかな、ひとが亡くなったらどこへ行くかみたいな……そうだなあ、まあ宗教論みたいなものだよ」

 わたしはそう言ったことに興味がないわけではなかったので、ちょっとだけ面白そうだな、とその本の薄紫色のカバーを見つめた。

 すると彼女は不意に右手に持っていたスマートフォンに目をやった。

「あ、あたし電話するために出て来たんだった」

「そうなの?」

 有香ちゃんは頷いて、まだ口も付けていないアイスティーを見つめた。

「お茶なんて飲んでる場合じゃないのに、千紗ちゃんを見てつい……本も持ってきちゃったし」

 どうやら慌てていたようだ。わたしはその言葉に思わず笑ってしまって、そのまま彼女に手を出した。

「それわたし持ってるから、電話して来なよ」

「え、でも」

「良いから。あとお茶は飲んでね。外、暑いからね」

「ああ、千紗ちゃんごめんね、ありがとう」

 彼女はぺこぺこしながらわたしに本を渡すと、ポニーテールを揺らしながら、小走りに出口へ向かっていった。

「ひとの死、かあ……」

 わたしはそう呟くと、何とはなしに手にしていた本を開いてみた。それは図書館に置かれてからだいぶんと年数が経っているのか、ページも黄ばんで薄汚れている。ぺらぺらと適当にめくってその中身を読んでみたが、漠然とした内容が続くその話は、わたしにはさっぱり分からなかった。

 外に目をやると、遠くに電話をしている有香ちゃんが見える。陽射しが強いので、その姿は眩しく、良く見えない気さえする。全くもってほんとうに暑い夏だ。わたしはため息をつくと、麦茶をまた一口飲んだ。

 そのうち戻って来た有香ちゃんは、わたしの目の前で汗だくになっていた。

「日傘を持っていれば良かった」

 困ったようにそう言って、アイスティーをごくごく飲んだ。

 休憩所にはふたつ、小さな寂れた椅子が置かれていたので、わたしたちはそこに並んで座った。本館から距離があるとは言え、互いに小声になってしまう。

「電話、終わったの」

 訊くと、有香ちゃんはまだアイスティーを飲んでいた。相当暑かったようで、彼女のうなじは汗で濡れている。ペットボトルから口を離し、ふう、と大きく息をついた。

「うん、待たせちゃってごめんね。おばあちゃんと話してたの」

「そうなんだ」

「うちのおばあちゃん心配性だから、よく電話かけてくるんだ」

「優しいね」

 そう言って、わたしはまたも麦茶を飲んだ。

「まあねえ。何だか緊迫した声の留守電が入ってたから慌てて折り返したけど、お盆に帰ってくるかって話だった。今思うとそんなに急いでかけることもなかったかも」

 苦笑して、有香ちゃんは手元からハンドタオルを出すと、額をそっと拭った。はあ、とため息をついて有香ちゃんが黙ったので、わたしも倣って口をつぐんだ。

 すると、有香ちゃんはわたしに向き直ると小声で言った。

「ねえ、千紗ちゃん。あたしに付き合ってくれないかな」

「何に?」

「とある廃屋に行きたいの」

 彼女は間髪入れずに答えた。

「廃屋? どうして?」

「ええと、今度書く論文の取材ってところ」


 だから不思議な本を読んでいたんだ。わたしは納得した。しかし廃屋に行くとは、まるで肝試しだ。わたしはいわゆる『怖い話』は嫌いではない。ホラー特集番組は必ず見るし、映画だってミステリーからスプラッタまで何でも観る。わたしはわくわくしてしまって、直ぐに頷いた。

「良いよ」

「ほんとう? 良かった」

 有香ちゃんは心底嬉しそうな顔をする。その声は思ったよりも辺りに響いたので、彼女は慌てて口元をタオルで覆った。

「それっていつ行くの?」

 わたしが問うと、有香ちゃんは我に返ったようにはっとして答えた。

「うんとね、早いほうが良いかな」

 その言葉にわたしはしっかりと有香ちゃんの顔を見た。若干前のめりになってしまう。

「じゃあ今日とか」

「えっ、千紗ちゃん時間大丈夫なの」

「うん、此処に来たのも半分は暇つぶしみたいなものだし」

 やった、と子供っぽく彼女は笑った。

 わたしたちは一度それぞれの家に荷物を置いて、後ほど改めて合流することにした。


「おかえり」

 帰宅すると、弟がキッチンに立って玉ねぎを切っていて、とんとん、と小気味良い音がしている。俊一はわたしと違い料理好きで、良く包丁を握ってくれる。

「あれ、今日は俊一が夜ごはん作ってくれるの」

 そう言うと、うん、と答えて俊一は手を止めるとわたしを見た。

「母さん、急にシフトが入ったって言って、さっき出てった」

「そうなんだ」

 わたしはリュックをリビングのソファに置くと、今まで飲んでいた麦茶のペットボトルをごみ箱に入れた。空にしてから時間が経っていたので、もう水滴すら表面には付いていない。

「お父さんは? 今日も遅いの?」

「また飲み会でしょ。金曜日だし」

「好きだねえ」

「千紗ちゃんもひとのこと言えないよ。お中元に届いたビール、もうほとんど残ってないじゃん」

 あはは、とわたしは乾いた笑いをして、自分のリュックから教科書やらルーズリーフやらを取り出しテーブルに置くと、中身を軽くした。

「わたし少し出かけてくる」

「あれ、またどこか行くの」

「うん、ちょっとね」

 廃屋に向かう、とは流石に言えなかった。

「ねえこれ、自分の部屋に置いて来なよ」

 わたしが置いたそれらを指差し、俊一が呆れたように言った。

「ごめん、時間なくて。あとで片付けるから」

 まったくもう、という俊一の声を背中に、わたしは玄関を飛び出した。

 

 待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた住宅街だった。

 歩いていると、じいじい、と油蝉の鳴き声が辺りから聴こえる。ああやはり今は真夏なんだな、と改めてそんなことを思った。帽子を被っていても汗は止まらなくて、前髪が張り付いてくる。わたしはタオルで額を何度も拭い、ふうふうと言いながら足を進めた。


「場所分かった?」

 寂れた公園の大きな樹の木漏れ日の中、彼女は笑った。

「うん。此処はわたしも時々通るから」

 そっか、と有香ちゃんは安心したような声を出した。

「夜に来ると思った?」

 そして彼女は悪戯めいた瞳でわたしを見た。

「え?」

「ほら、廃屋だから。肝試しみたいでしょ」

「ああ、そういうことか」

 わたしはうーん、と悩んだ。確かに肝試しと考えると日中はふさわしくないのかも知れないが、実際にそういったものを体験したことがないわたしには、それが昼間でも夜中でも未知数のもので、時間帯はあまり関係ないように思えた。

「やっぱり夜のほうが怖いのかな」

 思わず呟くと、有香ちゃんはくすっとした。

「確かにそうかも。でもまあ、あたしの場合、昼間のほうが向いてるかな」

「そっか、夜だと何も見えなくなっちゃうもんね」

「そういうこと」


 そんなことを話していると、大きな草藪の前で有香ちゃんは足を止めた。

「着いたよ」

 そこはわたしの背丈程もある植木の枝や葉がばりばりと立っていて、まるで小さな森のようになっている。それがどれほどの時間かは分からないが、きっと長い間剪定などされていないのだ。

「ほんとうに此処に?」

 有香ちゃんは黙って頷いた。真顔だった。

 奥は良く見えない。辺りは確かに普通の住宅街だ。最初から話を聞いていなければ、廃屋がある、と言われてもぴんと来なかっただろう。


 しかし目の前の草藪を改めて見ると、この場所は周りから何だか浮いているように思えた。とにかく暗いのだ。陽はこうも高く、此処まで歩いて来た時の陽射しは痛いくらいだったのに、この草藪から見えない向こう側は、どんよりと重たい闇を纏っているように感じられる。

「行こう」

 そう言うと、有香ちゃんは草藪を両手でかき分けて奥へと足を踏み入れた。ばきり、と枝を踏みしだく音がする。

「勝手に入って大丈夫なの?」

 わたしが慌ててその背中に問うと、有香ちゃんは前を向いたまま、平気だよ、と言ってずんずんと進んでいく。此処で取り残されても困るので、わたしも彼女に続いた。

 伸び放題の草木が腕に当たって痛い。これは幾つか擦り傷を作るだろう。薄手のパーカーでも羽織ってくるべきだった、とわたしは後悔した。有香ちゃんはと言うと、わたしよりも軽装のワンピースなのに、全く気にしていないようだ。


「着いたよ」

 彼女はそう言って振り返ると、満面の笑みを浮かべた。そこには確かに一軒の家があった。

「ほんとにあった」

 わたしが思わず言うと、有香ちゃんはスマートフォンを取り出す。

「噂どおりだ。ねえ、何か見つけたら教えて。写真撮るから」

「え、やだ。怖いよ」

「大丈夫だって」

 有香ちゃんは一見大人しそうに見えるのに、意外と大胆なところがあるのだな、とわたしは面食らった。

 

 入った先は庭になっていた。縁側が見えるが、廊下の床板は木目に沿って割れていて、所々突き出している。扉は外され、わたしたちの傍に放られたかのように重なっていた。誰か他に此処にやってきた者がいるのかも知れない。

 奥に見えるのは和室だろうか。薄汚れた畳が中央に空いた床の穴に折り込むようにしてへこんでいる。あれに足を取られたらどうなってしまうのだろう。軽い怪我だけでは済まない気がする。今が明るい時間で良かったとわたしは心底安堵した。


 ぎしりという音に気が付くと、有香ちゃんは既に屋内に入り込んでいる。もちろん土足だ。崩壊しかけた廊下を踏み越えて、居間へと進んでいる。わたしは躊躇したが、そろりと縁側に立った。


 空気が違う気がした。掃除がされていない荒れ果てた場所にいるということを除いても、なんだか息が詰まる。緊張から来ているのかも知れない。廊下が開け放たれていることもあり、思ったより埃などのいやな匂いは感じなかったが、何となく息苦しい。こうなったら有香ちゃんに早く〝取材〟とやらを終了してもらうしかない。

「あっ!」

 有香ちゃんの声に、わたしは飛び上がった。見ると有香ちゃんがしゃがみ込んでいる。

「どうしたの? 大丈夫?」

 駆け寄ると、悲しそうにスマートフォンを持ち上げた。何ともひどく大きなひびが画面を横断している。

「落としちゃった。買ったばかりだったのに」

「あらら……」

 わたしはそっと有香ちゃんの手を引いて、彼女を立ち上がらせた。

「駄目だ。カメラが壊れちゃってる」

 そう言ってわたしに画面を見せた。確かにカメラを起動させているようだが、画面は真っ暗で何も映っていない。もっとよく見て確認しようと、わたしが画面をより覗き込んだ時だった。

 どおんという轟音がして、わたしたちは揃ってびくっと肩を揺らした。

「雷?」

 有香ちゃんが言ったか言わないかのうちに、滝のような雨が降り出した。足場に気を付けながら見上げると、空は黒煙のような雲に覆われている。そう言えば今日はにわか雨が降ると、昨日天気予報で見た気がする。すっかり忘れていた。

 雨は大粒で、激しかった。それは縁側を越えてわたしたちの足元まで濡らす。風もあるので、帽子が飛ばされないように頭に手を添えた。

「屋根に穴が空いてなくて良かったよ」

 有香ちゃんは困ったように笑って、割れたスマートフォンを肩から下げていたポシェットに仕舞った。


 これでしばらく外に出ることは出来なくなった。先ほどまでの炎天下が嘘のように空気はひんやりとし、薄暗い。怖いものが嫌いではないと自分では思っていたけれど、実際こうした場所にこのような悪天候の中留まっているのは流石に良い気分ではない。というよりも、光源がなくなったことでわたしは一度に此処に薄気味悪さを感じ始めていた。

「ねえ有香ちゃん、雨が止んだらもう出ようよ」

 言って振り返ると、有香ちゃんの姿がない。

「有香ちゃん?」

 返事もない。わたしは言葉を失ったが、友人を放って帰るわけにもいかない。大丈夫、此処でいなくなったのだ。此処にいるに決まっている。

 わたしは縁側を離れ、部屋の奥へと進んだ。


 入ってきた時よりもこの家が広くなったのを感じる。足元は相変わらずぐにゃぐにゃになった畳で、そうでない板張りのところは不安定に上下に揺れる。自分の足音すら気味が悪い。ぎち、ぎちと床を踏むスニーカーの音が、耳につく。わたしは周りを見ないようにして歩みを進めた。

「ねえ、こっち」

 途端名前を呼ばれたので、わたしは思わず叫び声を上げた。有香ちゃんがこちらを見て、手招きをしている。


 そこは部屋の一番奥にある小さな仏間だった。白檀のような線香の匂いがしていて、わたしはぞっとした。ぽつんと置かれている仏壇は開かれていた。遺影なのだろう、幾つかの写真立てが倒れている。言葉を失っていると、よせば良いのに有香ちゃんはそこにあるひとつの写真立てを裏返した。わたしは息を呑んだ。そこに映っていたのはまだ幼い女の子だったのだ。

 外は相変わらずの土砂降りで、部屋の中も暗い。それなのにその女の子の弱々しい微笑みをたたえた表情はしっかりと見えた。

「有香ちゃんこれって」

「まだ小さいのに」

 わたしたちは同時に言った。

 かわいそう、なんてあまりにも愚直な言葉で言い表すのは気が引けた。けれどもそこに映っていた女の子のことを、そしてその子の家族のことを思うと、何と言えば良いのか分からない。一体この家に何が起きたのだろう。


 ふと、隣にいた有香ちゃんが肩を震わせているのに気が付いた。はじめは泣いているのかと思ったが、そうではなく、どこか遠くを見て胸の辺りで両手を握り締めている。

「どうしたの」

 すると有香ちゃんは自分のワンピースの端を少しだけ持ち上げた。

「これ、レモンいろ」

 有香ちゃんはぼんやりしたまま、言った。

「おきゃくさん」

「えっ」

 まってて、と言うと有香ちゃんは立ち上がり、庭に降りてゆく。ぼうぼうの草むらの向こうにその背中が見えなくなったのをわたしは呆然と見ていたが、我に返って彼女の名前を呼んだ。


 雨風のせいで、自分の声が聞こえない。一体どうしてしまったのだろう。わたしが縁側に足を踏み入れた時だった。有香ちゃんは戻ってきた。両手にふたつのレモンを持って。

「これ、おきゃくさんにってママが」

 半ば押しつけるかのようにそれを渡してくる。俯いたままの彼女の指先は氷のように冷たく、わたしは思わず硬直した。

「ねえ、きょう、さむいね」

 聞いたことのない声だった。それは高いような低いような、それでいて重く、どんよりとしたものだった。触れている指先に、力が込められてゆくのが分かる。

 わたしの意識はそこで、途絶えた。


「千紗ちゃん、ちょっと千紗ちゃんてば」

 肩を揺り動かされ、瞳を開いた。目の前に俊一の顔があった。

「……俊一?」

「しゅんいち? じゃないよ、何で玄関で寝てるのさ」

「えっ」

 わたしはがばりと身体を起こした。確かに此処は自宅の玄関だ。三和土たたきに靴を履いたままの両足を投げ出し、わたしは倒れていたのだという。

「珍しいね、千紗ちゃんがそんなに酔っ払うなんて。飲み会だったの? 父さんも母さんも、もう寝ちゃったよ」

 わたしは足を見た。靴は濡れ、どろをかぶり、とても重たい。俊一が背負っていたままのリュックを降ろしてくれる。それにはかさかさの小さな葉が数枚付いていた。

「いま何時?」

「もう夜中だよ」

 言葉を失っているわたしに、俊一は首を傾げた。

「そうだ、有香ちゃんは」

 あわててスマートフォンをリュックから出そうとした時だった。


 そこにはレモンがあった。あの時有香ちゃんから貰ったふたつのレモンだ。わたしは息を呑んだ。

 そっとそれを取り出す。ひんやりとしていて、柑橘類独特の、青いにおいがする。

「なにそれレモン? なんで」

 しゃがんだ俊一が、わたしの手元を見て不思議そうに言った。

「ええと……とりあえずわたしも水を飲むよ」

 分かった、と言って俊一は立ち上がり、わたしたちはリビングへと向かった。


「俊一」

 ペットボトルから麦茶をコップに注いでいた俊一は、目だけでわたしを見た。

「ちょっと、聞いて欲しいのだけども」

 隠すようなことでもない。と言うよりもはや、隠しきれない気がする。まあ別に、彼は詮索することもないだろうが、わたしが話しておきたかった。

 わたしたちはダイニングのテーブルで向かい合った。

「なに、改まって」

 俊一はわたしの目の前にコップを置いた。わたしはそれを一度に煽って、ふうとため息をつく。


 それからわたしは、弟に一部始終を話した。俊一は眉間にしわを寄せたままわたしの話を黙って聞いていたが、わたしがひとしきり話し終えて黙り込むと、口を開いた。

「それで、レモンを貰って気絶した、と」

「うーん、まあそういうことよ」

 わたしは頷いた。

「てことはつまり、有香さんはその写真の女の子に取り憑かれたってことか」

「いや……どうなんだろう。でも確かにいつもの有香ちゃんじゃなかったのは確かだよ」

 ううん、と俊一は尚も難しい顔をして腕を組んだ。麦茶は少しも減っていない。

「でもさ、千紗ちゃんも変なことになってたんじゃないの」

「えっ」

「だってちゃんと家まで帰ってきたんだから。意識のないまま」

 わたしは目を見開いた。

「確かに……」

 未だ湿り気を帯びた自分の前髪に触れる。

「きっと有香さんもそうなんじゃないかな。今日はもう遅いけど、とりあえず確認してみたら」

「そうねえ」

 わたしは無事に帰宅したが、有香ちゃんはどうなのだろう。不安になった。わたしはすぐさま電話をくれるように、メッセージを送った。ぴこん、と音を立てて、その返事は直ぐに来た。

 その文面を見て、わたしは心から安堵した。彼女も無事だ。話によると、やはりスマートフォンは壊れており通話が不可能で、メッセージしか送れないとのことだった。わたしは納得して、スマートフォンをテーブルに置いた。


「ちょっとそのレモン貸して」

 俊一が目の前に手を出した。傍にあったレモンを手渡す。俊一はそれをくるくると回し、観察した。

「普通のレモンだねえ」

「うん。特に変わったものでもないよね」

 そう言うと、俊一は黙っている。

「なに、急に静かになって」

「千紗ちゃん、これはその家の庭から有香さんが持って来たんだよね」

「そう、多分育ててたんじゃないかなあ」

 俊一はレモンをテーブルに置いて、わたしをじっと見た。そして言いにくそうに口を開いた。

「それはあり得ないんだ」

 麦茶の二杯目を飲もうとしていたわたしは手を止めた。

「あり得ない?」

 うん、と返事をして、俊一はレモンに目を落とす。

「レモンってね、旬は冬で、夏には収穫出来ないんだよ」

「えっ、そうなの」

「うん。夏に市場にあるレモンは全部輸入されてるやつ」

「知らなかった。俊一、詳しいね」

 俊一は神妙に頷いた。

「いや、去年なんだけど夏に良いと思って、レモンで何か作ろうとしてたんだ。何となくのイメージだけどさ、旬だと思っていたし」

 うんうん、とわたしは頷く。自分もレモンの旬は夏だと思っていた。さんさんとした太陽の下で、まるで向日葵のように明るいあの色を、じゅうぶんに実らせている気がしていたからだ。

「調べたら、国内産は冬しか売ってないらしくてね。まあ別に産地は気にしないけど、せっかくなら旬の時期に使いたいじゃん」

「じゃあこのレモンは?」

 俊一はまたも腕を組んだ。

「庭で採れたんだとしたら、それは冬ってこと」

 わたしがテーブルを手のひらで叩いたので、秀一はびくりとした。

「だからか。だからああ言ったんだ」

「え?」

「有香ちゃんが言ったの、今日寒いねって」

「へええ……」

 唸ったあと、いや待ってと俊一はわたしに広げた手をかざした。

「今さらなんだけど、それってどこなの」

「え、それはあの小さい四つ角のコンビニを進んだ、坂の上の」

「俺こないだあそこ自転車で通ったけど」

「うん」

「公道を広げるとかで、幾つかの家が撤去工事してた」

「えっ」

「つまりね、そんなお化け屋敷はいの一番に壊されてると思うんだよ」

 わたしはコップに手を伸ばしたまま、動けなくなった。

「いやでもそんな……」

「明日確認しに行く?」

「いやだよもう」

「だよね、でもほんとうだよ」

 俊一がわざわざ嘘をつく理由もない。わたしは泣きそうになった。


 わたしたちが黙ったので、エアコンが風を送る音だけがリビングに響く。

「とりあえずさ」

 不安げなわたしの様子を気遣ったのか、秀一が穏やかな声で言った。

「このレモン使って、俺なにか作ってみるわ」

「これで?」

 俊一は頷いた。

「貰ったんだから、ちゃんと食べてあげようよ。きっとそっちのほうが供養になるよ」

「供養か……」

 確かにそうかも知れない。仮にレモンをくれたのがあの女の子だったとして、そしてもしわたしがあの子だったら、せっかく渡したレモンを捨てられたりでもしたら悲しい。

「ふたつね……そうだなあ、ぱっと思い付くのはレモネードかなあ」

 俊一は呟くと立ち上がった。そしてすぐにキッチンに立つと、レモンをスライスし始める。


 酸味を含んだ、レモンの香りが辺りに立ち上る。わたしは弟の背中越しにその薄く切られてゆく黄色を見つめていた。

 優しい色だった。果実の部分は更にやわらかい色を帯びて、そして実にみずみずしい。

 俊一は棚からガラス瓶を取り出した。春先まで祖母の手作り梅干しが入っていたものだ。

「グラニュー糖と……」

 言いながら、瓶に入れたレモンの上に手際よくそれを振りかけた。まるでそれは風の中に舞う淡い雪のようで、わたしははっとした。

「たぶんこれで合ってる」

「合ってるってなに?」

「いや良く分からないけど、何だかそんな気がする」

 わたしの台詞に俊一は首を傾げたが、そのままレモネードを完成させた。

「よし、これで一晩寝かせよう」

 俊一の声に顔を上げる。

「今から飲めるわけじゃないのね」

 言うと、俊一は頷いた。

「一晩置いたものがレモンシロップになるから、それを水で割ったのがレモネード」

「そっか、なるほどね」

「レモンスカッシュでも良いよ。炭酸水ないから明日買ってくるか」

「レモネードが良いな」

「そう?」

「うん」

 わたしは砂糖とはちみつ、そしてレモンの果実でぎゅうぎゅうになった瓶を見つめた。

「明日、有香さんと一緒に飲んだら」

「そうねえ」

「俺、どっかでかけるわ」

「なんで、別にいいじゃん」

「そうかな」

「そうよ。作ってくれたんだから。できたてを俊一も飲むべきよ」

「じゃあそうする」

「うん」


 俊一は、それを冷蔵庫の奥まったところにそっと置いた。

「はあ、ねむ」

「そうか、ごめんね。起こしちゃって」

「いや、大丈夫」

「おやすみ」

「おやすみ」

 俊一はひらひらと手を振り、二階へ上がっていった。わたしはもう一度冷蔵庫を開け、瓶に手を添えた。それはもう冷えて来ていて、あの時の有香ちゃんの指先を思い出させた。


 その晩、わたしは夢を見た。

 さらさらとした雪の舞う日に、わたしはあの家の縁側に座っている。とても冷え込んでいるのか、わたしの息は白い。

 そこに、小さな足音がわたしの背後を通り過ぎた。割れてなどいないその廊下に、それはとたとたと響く。

「ママ、レモンとってきたよ」

 あの子だ。わたしは後を追った。

 キッチンに、ふたつの人影が見えた。あの子は母親の手元をじっと見ている。母親の手の動きから、レモンを切っているのが分かった。耳を澄ますと、たんたん、とリズミカルな音が聴こえる。

「もうのめる?」

「これはね、明日になったらできあがり」

「あしたなの?」

「そうよ」

 えー、とむくれた様子の女の子の頭に、ふんわりとした手のひらが乗せられた。そしてそのまま女の子の頭を撫でる。女の子は一度に機嫌を直して、えへへとはにかんだ声を出した。

「たのしみだなあ」

「うん、楽しみね」

 ふたりの顔の造形は良く見えなかったのに、その口角が上がったのが分かった。

 雪は変わらず舞って、耳はきんきんに冷たくなっている。目の端には、しっかり実った、幾つものレモン。雪を纏い、それは白い光を放っている。

「美味しくなると良いね」

 思わず口にした。すると女の子がこちらを向いた。わたしははっとして、自分の口に手を当てる。あの写真に見た女の子だった。

「おねえちゃんのレモネードもね」

 明るいその声に、わたしは涙が出そうになって、小さく頷くことしか出来なかった。

 それは美味しくなる。きっと、どちらのレモネードも。


 次の日、完成したレモネードを三人で飲んだ。思っていたよりだいぶんとそれは酸っぱくて、わたしは驚いてしまったけれど、とても美味しかった。レモンの皮の色も、美しかった。夢に見た、あの色を思い出す。


 有香ちゃんはあの時のことを覚えていなかった。仏壇を確認したあとの記憶がなく、気が付くと自宅の玄関に倒れていたらしい。わたしと同じだ。


「こんなことってあるんだね」

 有香ちゃんはレモネードを口にしながら、感慨深そうに言った。

「取材になった?」

 問うと、彼女は首を振った。

「あの場所のことほとんど覚えてないから、結局何も得られなかった」

「それもそうか……」

「でもこのレモネードは最高。俊一くん、ありがとう」

「いえいえ。大したことないですよ」

 俊一は慌てて首を振った。

「確かに、美味しいね」

 わたしと有香ちゃんは顔を見合わせて笑う。今日もとても暑いけれど、ほてり気味の身体にはその冷たさが心地良い。


 見た夢のことは、ふたりには話さなかった。有香ちゃんと俊一が馬鹿にするようなことは決してないと思っているが、これはわたしだけの物語にしたかったのだ。


 レモネードは、三日も経たず全て飲み切ってしまった。ぴかぴかに洗って乾かされたガラス瓶をわたしが見つめていると、俊一が言った。

「また作ろうか?」

「ううん、良いの」

「簡単だし、自分で作れるか」

「そういうことじゃない」

 わたしは思わずむっとしてしまった。

「次は、冬になってから作ってみようと思って」

「……そうだね。それが良いね」


 わたしは伸びをする。外から油蝉の声がけたたましい。窓の外に目をやり、その明るさに目を細めた。ぎらぎらとしたこの日光は、街中に濃い影を作っているだろう。

 わたしは寒がりだし、冬が得意ではないけれど、今年の冬は雪が降ると良いなあ、と思った。

「楽しみだなあ」

 わたしはあの子のように弾んだ声を出した。

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