夏空

 立ち寄ったその場所は、暑いなんてものではなかった。風もないから、額に当たる日差しに痛みさえ覚える。わたしはしかめ面のまま、ガードレールに身体を傾け、ため息をつく。

「ああ、もう」

 誰に言うわけでもなく、そう口にした。わたしが手にしていたアイスは、プラスチックに覆われているからか、意外にその形を留めている。その保たれたままの冷たさに思わず片手を左右に降った。絞るように握り込むと、指が痺れてくる。しかしそうしないと中身を口にすることは出来ないので、わたしはそれを続ける。

 乱暴に齧りつく。苛立ちを覚える。この冷たさと、肌を焦がすような陽射しに。いや、わたし自身に。


 簡単なことではないか。彼は誰にでも優しいのだ。それは分かっていたじゃないか。初めて出会ったあの日、彼は廊下でほわりと笑って、転校してきたばかりのわたしに名前を告げた。知らない土地で出来た、初めての友人だった。

 

「ねえ、委員長って違う学校に彼女がいるらしいよ」

 先週の昼休み。くりくりした瞳で、隣の席の亜美は楽しそうにそう言った。

「カズから聞いたの。惚気てたってさ」

 カズとは、亜美の恋人だ。隣のクラスにいる。

「……へえ、知らなかったよ」

「だよね、大人しそうに見えるけど、意外にそういう話、友達にするんだね」

 わたしは空になった手元の弁当箱に目を落としながら、なんとか小さく、そうだねと口にして、彼女に同意する。


 そうか、彼女か。あんなに良いひとなのだもの、それも当たり前のことかも知れない。あの日ひとりでおどおどしていたわたしに声をかけてくれたのも、彼がクラスの委員長だったから。たったそれだけの理由なのだ。昼食を終えていて良かった。もしこの話を食べる前に聞いていたら、きっとおかずは何一つ喉を通らなかっただろう。


 泣くことは出来なかった。まだ何も始まっていなかった。わたしが勝手に期待していただけだ。いつか彼に自分の想いを告げることが出来て、もしかしたら隣に立てるのではないかと。もしかしたら、いつか、きっと。


 明日から夏休みが始まる。彼に会うのは約一ヶ月後だ。事実を知るまではとても長く感じたけれど、今はもうどうでも良かった。この夏休み、彼は恋人に会いにゆくのだろうか。


「わーーーっ!」

 目の先に広がる街並みに向かって声をあげた。此処からは見えるだけの近くて遠い街。彼の恋人が住んでいる街。


 届け。届いてしまえ。わたしの何もかもが。ずっと真っ直ぐのその向こう側まで。


「わーーー」

 真横で甲高い声がした。わたしは肩をすくめて、その声の出どころに目をやった。

 小学生くらいか、幼い少女がいつの間にかわたしの傍のガードレールに手を掛け、身を乗り出して声を上げていた。


「えっ、ちょっと、なに?」

 わたしは慌てた。状況が理解出来ずに、更に吹き出す汗を感じながら、その少女の目の前に立った。動揺するわたしを意に返さず、少女はからからと笑う。

「真似した」

「えっ」

「お姉ちゃんの今の、面白いから真似したの」

 少女は今度は声こそ上げなかったが、口元に手を添え、声を出す仕草をした。

「あ、ああー、なるほど」

 わたしはどう答えて良いか分からずに、間抜けな返答をすることしか出来なかった。そしてわたしを見上げてくる少女に尚のこと動揺し、咄嗟に持っていたビニール袋からアイスを取り出した。

「これ食べる? まだ半分残ってるから」

 そう訊ねると、少女は直ぐに首を振った。

「知らないひとから物をもらったらいけないの」

 わたしは思わず目を丸くして、頷いた。

「そうだね。それが良い」


 アイスは一度溶け始めるとそれからは早かった。袋の中に残っていた先ほど少女に渡そうとしたそれはもう、手にするとぐにゃぐにゃになっていて、わたしは口にすることを諦めた。汗だか水だか分からないが、ひどく濡れていた両手をタオルで拭って、ふうとひと息つく。

「落ち着いた?」

 少女が面白そうに言うので、わたしは小さく頷く。

「おかげさまで」


 ふたり並んでガードレールに重心を傾けた。ぼんやりと隣街を眺める。

「あなた、暑くないの? というか、何してるの?」

 我に返ったわたしがその子を見下ろすと、少女は呆れたように口を開いた。

「そんなの、お姉ちゃんも一緒じゃん」

「こんなに暑いのに、此処でひとりで、大声出して」

 わたしは何も言えなくなる。

「何かあったの?」

 見た目にそぐわない大人びたその言い方にわたしは面食らった。

「いや、まあ……」


 わたしはしばらく黙っていた。少女は急かすこともなく、目の前の風景をただ見ていた。その横顔を見つめていたら、何となく静かな気持ちになってきて、わたしは口を開いた。

「まあその、失恋をしてね」

 少女は少しだけ驚いたようにこちらを見た。

「しつれん? 偶然だね、わたしもなんだ」

「えっ」

 ぶうとむくれた表情で、少女は続ける。

「おなじクラスの子とプールに行くんだって。ふたりで」

「あらま」

「こくはくしようと思ってたのに、ばかみたい」

 少女の気持ちが今のわたしには良く分かる。わたしはなるほどね、と大きく頷いた。


 小さく息を吸って、少女が口を開けた。

「わーーーー!」

 先ほどより大きな声を出すものだから、わたしはまたも額の汗を拭う。

「確かにこれ、いいかも」

 にかっと笑って、わたしを見上げた。陽に焼けた肌に、栗色の三つ編みがつやつやとしていた。 

 それからふたりで散々叫んだ。汚い言葉も言ってみた。子供の前で出せる程度のものにはしておいたけれど。


 はあはあと肩で息をしたわたしたちは、同時にタオルで汗を拭う。

「何やってんだかね」

 わたしが言うと、少女は笑った。

「ほんとうだね」

 わたしは伸びをする。今日はとても暑いけれど、心地良い風が時には吹くし、絶え間なく続く蝉の声は実に夏らしかった。

 

「ねえ、ここ暑いよ。コンビニにでも行こうよ」

 そう言って、少女は続けた。

「わたしアイス食べたい。お姉ちゃんがさっき食べてたやつ」

 わたしは少女を見下ろした。

「知らないひとから物をもらったら駄目なんだよ」

 ガードレールから離れながら、少女はにこにこした。

「自分のおこづかいで買うもん」

 それに、とわたしを改めて見て、くるりとその場で一回転した。白いワンピースがふわりとなびく。

「もう知らないひとじゃないよ」

 わたしは笑って、彼女の傍に立つ。

「そうかもね。じゃあ自己紹介しよう。わたしは――」

 すると少女がまって、とわたしの顔面に手をかざした。

「コンビニ行きながら話そ。どうせ此処から遠いんだし」

 そうね、とわたしは頷いた。


「自転車で来れば良かった」

「今さら言ったって仕方ないよ」

「暑い」

「ほんと暑い」


 わたしたちは肩を並べて歩く。目の端に映る入道雲は、優しくその形を青空に浮かべている。

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