さよならに雨

 いつからだろう。太陽の光がわたしの身体をすり抜けて落ちるようになったのは。その足元にわたしの影が地に映らないのは。それなのに、陽のない薄暗い日に限って、わたしのそれは大きく濃くなってゆく気がする。

 街角に立っている。頭上には電灯が灯る。相変わらずわたしの影はぶんぶんと不安定で、濃くなったり淡くなったりを繰り返す。目を細める。自分のつま先は、うまく捉えられない。そこにあるはずのそれは、ぼやぼやと霞み、何の形も成していないように感じる。まるで地面に溶け出しているかのようだ。

「今夜はひどい雨だな」

 気が付くと、わたしの横に男が並んでいる。透明な傘を差しているから、風貌は分かるはずだが、わたしとその男の間には霧が立ちこめているようで、持ち手を握っているごつごつとした指しかよく見えなかった。

 わたしは黙ったまま顔を上げ、空を見上げた。足先から目を離したのは何時ぶりだろう。頭上は黒く広がっている雲らしきもので覆われており、確かに雨が降っていてもおかしくはないようだ。

「傘が不要ってのは、ある意味便利かもな」

 またも隣の男が声を出した。わたしは不思議に思って、視線を手元に落とす。何も手にしていなかった。続いて頬に触れてみる。頬も、肩まで伸ばした髪も、全く濡れてなどいない。わたしは男を見上げた。

「雨なんか降ってないって顔だな」

「まあしっかり見えねえけどよ」

 男の話している意味が、よく分からない。わたしは首を傾げると、また前を向いた。耳をすませてみると、かすかに雨音が聴こえてくる気もする。しかしそれはおかしい。この男が言うように、今がひどい雨なのだとしたら。それはもっとずっと傍で、音を立てていることだろう。

 再度、男を見上げてみる。彼は自分の傘を差していて、自分だけを水から守っているように見える。

 ならどうしてわたしは濡れていないのだろう。どうして傘を手にしておらず、いや、そもそもなぜ此処に立っているのだろう。

「何か考えが生まれたか?」

 男は静かにそう言った。わたしは何と答えて良いのか分からずに、小さく首を振ると、俯いた。

「まあ、仕方ないわな」

 そう口にしながら、おもむろに銀色のライターを取り出し、煙草に火を点けた。すう、と一度吸い込んでから、ゆっくりと煙を吐き出す。鼻からは一切出ていない。少しだけ開いた、彼の唇からそれはするすると溢れている。

 不思議と、彼の煙はわたしから良く見えた。匂いも何も、感じない。ただゆらゆらとそれは目の前を揺蕩たゆたい、わたしの視線はそればかりを追ってしまう。

 煙がふわり、広がり散ってゆく。その煙の幕の向こう、公園が見えた。確かにそこは土砂降りで、木製のベンチは少し離れた此処からでも分かるほどに濡れそぼり、背もたれを濡らした雨水はぴたぴたと音を立てながら座席を伝い、地面へと流れてゆく。

 煙草の煙はしばらく続いて、わたしはもう一度彼を見上げた。するとはっきりと目が合った。その男は長い前髪を斜めに流してそして眼鏡をかけている。その奥の瞳はどこまでも冷たく、そして陰りがなく、わたしを真っ直ぐに見据えている。

「美人さんだねえ」

 そう言って、ふっと笑った。彼の指にあった煙草は、もうだいぶんと短くなっていた。

「まあ訳わかんないとは思うが……」

「悪いことは言わんから、此処にはいないほうが良い」

 そう言ったか言わないかのうち、男は自分の傘を閉じるとばさりと放り投げて、わたしの真正面に立った。彼の髪はもちろんのこと、革で出来ているジャケットが雨水により濡れ、てらてらと光り出す。

 男は目を閉じて、わたしの額に左手の人差し指をそっと当てた。煙草はもう手になかった。煙も消えている。わたしにははっきりと、目の前の男の閉じた瞳が見える。雨は眼鏡の硝子がらすと共に長いまつげをも濡らす。眼鏡は男の体温なのか湿度なのか徐々に曇ってそれを隠した。

 反して、わたしの頭の中が段々と明瞭になってくる。ゆらゆらと曖昧にこの胸にあったものが、何か形になって現れてくるような気持ちになる。

 ああ、そう言えば、そうだった。わたしは此処で待ち合わせをしていて……誰と? それから、何をしたっけ……

「思い出さなくて良い」

 男の声にはっとした。気が付くと雨はやんでいて、辺りは静けさに包まれている。

「もう良いんだ」

 何のことか分からなかったが、男はどこか悲しそうな顔をしている。わたしは静かに彼に一歩だけ近付いた。

「風邪を、ひきますよ」

 すると彼は驚いたようにわたしを見た。そして笑った。

「大丈夫だ。こういうのには慣れてるんでね」

 男はそう言って、先ほど自分で投げ捨てた傘を拾い上げた。それはびしょびしょだったが、全く気にしていないように強く握り締めたのが、ぼたぼたと傘から落ちる水滴の量から分かった。

「あんた、生まれ変わったら今度はきっと、良いことあるぜ」

 何の話か分からず、わたしはまたも首を傾げる。そして気が付く。わたしの髪が、雨に濡れている。しとり、水を含んだその重さを毛先に感じて、わたしは思わずそれに触れた。

「俺がそう願っといてやるからよ」

 男の声が遙か下の方から聴こえて、わたしは我に返った。雨に濡れた公園の片隅に彼が立ってこちらを見上げていた。

「さよなら」

 思わず口にした。わたしの声が届くはずもないのに、彼は傘を一度だけ降って頷くと、どこかへと歩いてゆく。

 目を閉じる。もう何も恐ろしくはないと思えた。たとえ生まれ変わることがなくても、誰かに別れを告げることが出来て良かった。

 わたしは心からそう思って、やっと微笑む。

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